夫婦のトラウマ

「うちのあれねえ、そそっかしいでしょう。お客さんが来ると張り切っちゃって張り切っちゃって、すみませんですねえ」

「え、あの人犬さんが……ですか? 張り切る、っていうか。元気、なさそうですけど」

「――ああ、いえいえ、うちの家内のことですよ。来栖くんはおもしろい勘違いをするんだねえ」


 あっはっは、と冬樹さんは大きな声を上げて笑う。

 ガシャン、と音がする。檻のなかの南美川さんが、笑い声に反応して怯えて身体を柵にぶつけてしまった音だった。

 ……隣の黒い人犬は、ほんとうに、反応しない。まるで――生きたまま、死んでいるみたいに。



「いきなり、なんですけど。僕は、冬樹さんが、ヒューマン・アニマルとの再会をしたかただと聞いて、お邪魔しました。……こんなお願いを聴いてくださり、ありがとうございます」

「いいんですよお。来栖くんから豪華な手土産もいただいたし。いやあ、田舎暮らしだとねえ、ああいう都会のお菓子は子どもたちに大人気なんですよ。助かります。それに、……ほら、これも社会貢献のひとつですから。なに、気にしないでください。うちはこの積極的情報共有でさらに評価ポイントをもらえる、うちを訪ねてくる客人は有益な情報を得られる……ほらね、双方にメリットがあるのですから」

「……それでは、そのおはなしをしても、よい、ということですよね」

「もちろん。気を悪くしたりなどしませんよ、こちらもこれは積極的社会的行為としておこなってますからね」

「……冬樹さんが、再会したのは、そこの檻で、人犬になってるひとですか」

「ええ、大昔に、僕の知人だった人間ですよ。素材はね」


 素材――。



「失礼ですが、どういったご関係だったのですか」

「フィアンセでしたよ。結婚を前提に、恋愛的交際をしていました」



 僕は息を呑んだ。――フィアンセ。



「……愛し合ってた、ってことですか」

「ははは、なにせもう大昔のことだからなあ。けど、そのときはそれなりに、愛やら情やら、あったんじゃないですか。もうよく覚えてませんけど。素材のことなんかは。……おや。なにか言いたいことがおありかな?」

「それなら、……もうすこし、身なりとか、きれいにしてあげようと、思わないんですか」

「衛生面でしたら、天気のいい日は子どもたちが外に連れ出して、ホースで洗ってやってますよ。充分じゃないですか。それに汚れれば自分で毛づくろいくらいしますよ。犬なんですから」

「だって、フィアンセってことは……だいじなひとだったんじゃないですか……?」


 お菓子の盛り合わせを持ってきてくれた奥さんが、しみじみと言う。


「それだからこそ、なんですよ」


 ただ優しく、柔らかく、僕を諭すように、奥さんは目を逆半月のかたちに細めてひっそりと微笑んでいる。ひとつうなずくと、また台所へ消えていった。吸い込まれるかのように。


 冬樹さんが言う。


「仲介役のソーシャル・プロフェッサーさんから聞いていますよ。……来栖くんも知人が人犬になって、再会したのだと。……そこの金色の毛並みの仔ですよね。……たしかにずいぶん、毛ヅヤが良いようだ」

「はい、そうなんです、このごろ僕が一生懸命手入れして――」

「しかしね、来栖くん。そりゃやりすぎというものだ」

「……やりすぎ、ですか?」

「うん。来栖くんはあの犬のことがまだちょっと人間に見えてるんじゃないかな」

「……彼女は、人間です。僕の高校の同級生で――」

「だがいまは犬だ。素材が、その人間だっただけだ」


 冬樹さんは――ぴしゃり、と言い切った。会ってからはじめて、その顔から笑顔を消して。


「……来栖くん、あのね。僕たち夫婦が積極的に人犬が知人だったエピソードを社会共有しているのは、ヒューマン・アニマルは人間ではなくあくまでも動物なんだ、ってことを広めるためにやっているんだ。来栖くんが来る前の晩にも、夫婦で、今回の客人はなにを求めているのだろうと話し合った。なにせ特殊なケースだったからね。僕たちは最大に月に二度まで情報共有を受け入れているけれど、やってくるのはたいてい、ノンフィクション作家やマスメディア関連、個人的にやってくるひとにかんしてはヒューマン・アニマルが人間に見えはじめてつらい、というひとが多いね。……僕たちはそういうひとの手助けをしている。……来栖くん。ひとつ訊いてもいいかな。……なぜ、その人犬が、来栖くんは人間に見えてしまうんだい?」

「……彼女が、人間だったこと、知ってる、から、」

「では重ねてもうひとつお尋ねする。――来栖くんは、道ゆくヒューマン・アニマルとすれ違って、いちいち振り返ったりしていたか。散歩している最中の人犬や、荷物を運搬する人馬や、水族館でショーをする人魚たちを、いちいち人間だと見ていたか」

「それ、は……」

「ほら見たことか、そんなことはないだろう。……つまり僕にとってはあの金色の毛並みの人犬は、どこまでも犬なんですよ。あの犬が人間に見える来栖くんのほうが、おかしいんです」



 僕は考えようとした――けど、なにも反論できずに、長い髪の毛の下で、うつむいた。



 奥さんが、エプロンを外してやって来た。「お邪魔しますね」と丁寧に言って、冬樹さんの隣に座る。



「……主人から、いくらかのお話は聞かれましたでしょうか。そうなのですね、来栖さんは、人犬が人間に見えてしまう症候群のかただったのですね。問題ありませんよ。人間ですから、おかしくなることもあります。ただそれを放置しておくと、倒錯的とみなされますから、人間としての資格を守るためにはあまりよろしくありませんわ。……それに、ここだけのお話なのですが」


 奥さんは笑顔のかたちを微動だにさせないまま、すこしだけ首を俯けて、――その陰だけを深くした。




「そこにいるうちのポチは、人間として生まれながら人間としての役割をなにも果たせなかった、人間未満なのですよ。……私どもは、ソレのせいで人生が台無しになるところだった。ヒューマン・アニマル制度に私たち夫婦は、救われたのです――」

「そう、そう。そういうことです。人間未満だから、姿もそれにふさわしくなっただけというわけですな」



 ……僕は、もういちど、檻のなかの、黒い人犬を、見る。

 話は、理解できているのだろうか。聞こえているのだろうか。いや。そもそも人間の言葉を覚えてはいるのか――。

 それほどまでに、反応がなかった。



 ……それでも、僕は。

 そう言いたくなる気持ちをぐっとこらえて――僕はあくまでも、あくまでも冷静にことを運ぼうとする。




「……僕の連れてきた子は、悪意によって、人間基準法に引っかかったんです。それでも――」

「それだったらなおさらですわ」


 奥さんが、愛想のいい顔と声で、ぴしゃりと、遮った。


「ねえ、あなた。ポチの話をして差し上げましょう。……私たちみたいに被害に遭う人間はもうこれ以上いてはいけませんわ。でしょう?」

「ああ、そうだな、おまえ。……来栖さん。せっかく来ていただいたのです。……とびきりのとっておきのお話を、いたしましょう。ただし、夕食の後にでも。お酒でもいかがですか、飲めますか。ちょうどいい赤ワインがあるんですよ。子どもがおなじ空間にいるとどうにもやりづらくってね……本日は幸い泊まっていただけるのですよね? お手伝いしていただけるのだとしたら、子どもたちの相手をしてもらえると大変、助かります」


 姉妹の声がキッチンから聞こえてくる。なにか料理を一生懸命しているようだ。

 さきほどまでずっと静かに勉強したいた男の子の兄弟たちは、だんだん雑談が増えてきている。


 両親がいて、五人きょうだいで、犬がいて。……ふつうの、家庭だ。

 ただ犬が人犬という犬種であるだけなのだ――。


「……あの。失礼ですが、あのお子さんたちは、みな奥さまの子――」

「ええ、もちろんです、もちろんですとも。そんなことは当たり前じゃないですか」


 ぴしゃり、と。

 今度は、冬樹さんのほうが、……笑顔を強張らせてとても強い声で、遮った。



 ……戦いは、夕食後に、引き継がれるようだ。

 南美川さん、ごめん、――もうちょっと待たせてしまいそうだよ。

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