やっとのことで帰宅をしてみたら、

 午後の業務は、どうにかなった。

 ただし僕は、午後六時のあとに一時間、午後七時まで、はじめての残業をすることになった。


 午後業務が始まるときに、午前の一時間業務にかかわれなかったぶんの一時間の残業をしろとフロア長に命じられた。残業なんて、この会社に入ってそろそろ二年めのいままでで、はじめてのことだった。びっくりした。

 よりにもよって、きょう。ほかの日ならともかく、……南美川さんが僕の部屋で鎖につながれて待っているのに。

 助けを求めるようにして橘さんに確認を取ったが、それはサービス残業廃止条例には引っかからないから、従ったほうがベターだとアドバイスされてしまった。

 僕のミスによる役員呼び出しのごたごたがあって、本日の僕のタイムカードは変則的になっているらしい。ここで僕に残業をさせないと、僕は一時間の欠勤扱いとなり、年度末に会社から与えられる社会評価ポイントに悪影響が出る可能性があるという。


『来栖くんは、ルーキーなの。それはきっと役員もそう思ってる。だって、この私が人事としても来栖くんをプレゼンしたんだからね? だからこそ会社としても、年度末の評価に悪影響を出したくないんだと思う。……これはむしろ苦肉の策、かつ最善策。一時間このままくるちゃんが残業をすれば、今日のミスは――なかったことにする、という上層部からのメッセージ。……Necoに関わるミスだなんていうほんとうにマズいミスを、うやむやに揉み消すために、杉田くんだってどれだけ午後に動き回ったことか』


 あちこちのフロアで、杉田先輩があのへらへらした笑顔とくねくねした腰つきで、両手を合わせて、すんませんたのんますっ、と言ってへらへらくねくねと――プロフェッショナルの営業職として、根回しというプロフェッショナルな仕事を、完璧にこなしているさまが容易に浮かんできた。あのひとは、いつもそうやって仕事をしてる。……僕の勝手な行動をカバーするためだけに――きっと、いろんなところで、へらへらくねくねしていたのだ。


 いくら僕でも、橘さんと杉田先輩が、僕のためにやってくれたということが、わかった。

 だから、残業をせざるをえなかった。……僕のためだなんて、いまだに、信じられないけれども。



 そして――橘さんはお先にと言って退社する前に、……南美川さんについて、僕のブースに来てこっそりとこう言っていた。


『くるちゃんの事情はある程度理解した。感情面の問題として、同情はする。私のほうでも、ヒューマン・アニマルのこと、いろいろ調べてみる。私の知るかぎりでは、……たとえ本人がヒューマン・アニマルの条件を満たしても、家族や知人が望まなければそれは阻止できるはず。ヒューマン・アニマルに加工されるのは、本人の自由意思として人間を辞めたい場合、家族全員の同意があった場合、あるいは人間未満基準法に抵触した場合。……知人とヒューマン・アニマルとして再会したケースというのは……あまり聞かないけれど、たしかなくもなかった、はず。……なにかわかったら、ガイドラインの解釈をぎりぎりのところまでどうにか広げて――くるちゃんにも、教えてあげるから』


 なんで、そこまでしてくれるんですか、とごにょごにょとどもりながら言ったら、ぱしん、とファイルケースで頭を軽くはたかれた。……杉田先輩に対してはよくそうしているみたいに。


『決まってる。会社の、部下だから。……それに私は来栖くんを採用した人事なのよ? 期待して採用したの、ルーキーなの。はい、理由なんていうのは以上』




 午後六時に会社を出るときよりも、午後七時に会社を出るときのほうが、電車の密度がもっとえぐいことになっている。

 僕は帰りの地下鉄の満員電車で吊革につかまったままうつらうつらして、なんどもバランスを崩して迷惑そうな視線を向けられるたび謝ることさえできずうつむいて、目を開けていられるときには窓に映る眠たそうな顔の自分というおもしろくもないものを見るともなしに見つめて、……そのあいだずっと、断片的に南美川さんのことを考えていた。

 寝不足だし、Necoにがんばってコマンドを入力したのにそれがとんでもないミスになるし、役員室に呼ばれるわ橘さんには説教されるわ杉田先輩には説教も詰問もされるわ、残業もするわで……もう、ふらふらだ。なんという日だ。


 けど、……なんでだろうか、そう嫌な気のしていない自分も、いるのは。



 ……きっと、南美川さんがいまもなにかにとても怯えている。

 けれども、そこは僕の部屋だ。

 きょうはこのあと飼育キットも送料無料で届くはずだ――時間指定をもっとも遅い時間帯にしておいて、よかった。どうにかこうにか、受け取りは間に合うはずだ。


 ……やっていこう。生活を。

 しばらくは南美川さんにはすこし不自由な思いをさせると思うけど――



 ごはん、なに、つくってあげよう。

 固形物はまだ厳しいだろうか……半流動食とか、ああ、あと離乳食とかってこういうときにも使えたり、するかな?

 おいしいものを、……あったかいものを、食べさせてあげよう、南美川さん、……遅くなって、ごめんね、でも僕、帰るから、ちゃんと、南美川さんのところに帰る、から……




 そんなことを思っているうちに、僕は完全に吊革につかまったまま眠ってしまった。

 たった、十数分のことではあったけど、……なんだかしろい夢を見ていた。





 部屋の鍵を、開ける。

 ガチャリ。……せめて残酷に響きませんようにと出かけるときには思ったこの、音。

 南美川さんには――いま、どのように聞こえているだろうか、……犬の耳にされたその耳、で。


 部屋は暗い。そして、物音もしない。

 帰宅が一時間遅いだけで、こうまで暗くなってしまうのだ……僕はパチリと電気をつけた。



 僕は、おそる、おそると、でも口もとでちょっとだけ微笑んで、


「……ただい、」



 ま、と発音することが、できなかった。



 パソコンデスクの下の、暫定的な南美川さんの居場所、檻のようなスペース。

 酷い――ありさまだった。ぐちゃぐちゃに汚れている……と言っても、まだ足りないくらいに。


 そこに置いてあった僕のプログラミングの書籍はすべて歯型のかたちにかじりとられて破かれている。

 水とエサの皿はひっくり返され、ほんとうは南美川さんに飢えないように食べてほしかったはずのそれらは散乱している。……それと、トイレもちゃんとペットシーツにしてくれていなかった、……シーツにしようという意思さえも読み取れないくらいにあちこちがびしゃびしゃぐにゃぐにゃと、汚れていた。

 僕のプログラミングの書籍だったはずの紙が、それらを吸って黄ばんでいた。



 南美川さんはそんな非人間的な汚物的な悲惨ななかで、そのまんなかで、……小さくまるまってがたがたがたがた震えていた。

 ……まるで、ペットショップの透明なケースのなかでそうしていたのとおんなじように。



 バサン。

 僕のビジネスバッグと、南美川さんに作ってあげようと思って食材を買い込んできたスーパーの袋が、手から滑り落ちた音だった。


「……あ。あの」


 僕は、なにも言えない。

 ……なにを言おうとしているのかさえ自分でわからない。



 ほんとうは、ほんとうは、……ただいま南美川さん、って、名前までちゃんと呼んであげたかったのに。



 なんだか、そこにいる金髪の子は、――まるでほんとうにしつけのできていない犬みたいじゃないか。

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