僕はなにひとつ変われていない
バタン、と後ろで役員室の扉が閉まる。
その瞬間、橘さんは僕の背中からパッと手を離すと、背中さえも曲げて深い深いため息をついた。
「どうしたのよ、ほんと、来栖くん。あんなとんでもないミス」
「……あの。すみません。ちょっと、ぼんやりしてて、きょう、寝不足なもんで」
「だったらちゃんと寝てください。まったく、役員からの呼び出し案件なんてひさしぶりだわ。しかも緊急呼び出し案件。それもソーシャル担当の私まで……」
橘さんはこんどは僕への当てつけみたいにため息を吐くと、ずんずん歩き出してしまう。僕は後ろからのろのろとついていってやろうかと思う。けどもそれは社会人として失格なことも知っている。僕は、自分より身長も歩幅も小さな異性の上司の歩みを追いかけるような雰囲気をちゃんと出して、合わせて歩いていった。
「……すみませんでした、あの、ほんとうに」
「ほんとうね。AIの潜在的危険性くらい、学校でだって教わったでしょう。AIが人間の論理を理解してくれなくなったら、最悪核事故なのよ? AIとの意図しない対立は人類の滅亡にまでつながりうる! そんな失敗をしたら、あなたの上司の私だってクビがつながっちゃないわ。それだけじゃない、社会評価ポイントが大量にマイナスされて――人間でいられなくなるかもしれないのよ? ねえ、学校でやったでしょう?」
「……あの、大学ではそこまで真面目じゃなくって……」
「小中高でもそのくらいのことはやってるはずです!」
「……すみません」
僕はきっと橘さんより優秀ではないから、反論も許されない。
橘さんがエレベーターに乗る。僕はいっしょに乗るべきなのかどうか悩んだが、橘さんに「早く!」と怒鳴られたので、首をすくめていっしょに乗った。せめてと僕はエレベーターのボタンを押そうとするが、「そういう旧時代的な気遣いは、いいから」と、またしても怒られてしまった。
橘さんは食堂のフロアのボタンを押す。……まあ、僕もごいっしょせざるをえないだろう。杉田先輩との三人のグループメッセンジャーで、杉田先輩はなんども心配のメッセージを暑苦しく送ってきて、とにかく終わったらいつも通り食堂で待ってると言っていたのだから。
下っていくエレベーターに無言で乗っているうちに、昼休みを知らせるチャイムが響いた。
僕はさきほどの長くて恐ろしくてなにかをどんどんえぐられるお説教タイムの最後に、そのまま昼休みに入って業務復帰は午後からでいいと言われていた。それは社員に対する恩情なのか、はたまた最後はいよいよほとんどなにも言えなくなってしまって上司にほとんどすべてをかばってもらった僕が、単純にあまりにも惨めで哀れだったのか。
橘さんは役員室ではハキハキとした明るい声とぴったり張りついた笑顔で謝罪と僕のフォローとを交互に繰り返し、何十回と「おっしゃる通りです」と言い、なんどもなんども頭を下げ、「うちの期待のルーキーですから、私のほうからもよくよく言っておきますので、どうかチャンスをもういちど与えてやってくださればと」と、それも五回ほど言っていた。
けど、いまは、なにも言わない。
僕はそっと視線を斜め下のエレベーターのつるつるした床のあたり、なにもない虚ろな空間に、やった。……まあ、人間なんて、そんなもん。
そんなふうに括って割り切ろうとする自分が、じつにじつに、情けがない、……僕はやっぱり根っこはなにひとつ変われてなどいないのだ。ずっと。もう、ずっと……。
追いつめられると押し黙る癖。
思えば、高校時代においても、それが僕のいじめのもっとも直接的な原因であったようにも、思う。
僕の通っていた高校では、三年間で一回だけクラス替えがある。二年生に上がるタイミングで、成績や進路希望を基準としてクラスが分けられるのだ。
都内の公立の高校で、全体として見ればそこそこ優秀な学校だった。だが、僕はすこし背伸びしすぎてそこに入ってしまったのだと思う。
じっさい僕は、けっこう一生懸命勉強して高校に入った。中学では、いじめられこそしなかったけれど、三年間ずっと孤独だった。周囲で騒ぐ猿のようなクラスメイトたちを内心で見下して、自分のレベルに合った学校に行けばきっともっとなにかがどうにかなると思っていた。だから背伸びをしてでもいちおう進学校と呼ばれるその高校に入学したのだ。
けど、どうにかなるわけもなかった。
高校一年生の一年間も、僕はずっとひとりぼっちだった。しかも、中学時代よりも状況がもっとずっと悪くなった。中学では学年百人中三十位くらいだった僕の順位は、高校の三百人中、二百五十位以上になったことはなかった。
前時代の反動で、現代は実力主義だ。全国学力偏差値基準において五十以上の高校では、学力テストの順位はすべて詳細に公表される。新学校教育法でそう定められているのだ。いくらインテリぶっても無駄だし、明るくておバカにふるまっているようでもじつは勉強ができる、みたいなものも丸わかりだ。
僕はクラス基準で言えば、ほんとのほんとにいちばん下の成績だった。
だが、僕はまだ自分を、なにかを諦めきれていなかった。――そのときは。
僕の人生で最初の、そしておそらく最大の、あやまち。
僕は高二のクラス替えにおいて、研究者志望クラスを希望してしまったのだ。
研究者志望クラスとは、前の時代で言う大学進学の特別進学コースみたいなものだという説明を受けていた。
大学というのは、いまの時代では前の時代で言う総合学校や専門学校的な役割も担っている。純粋な学問としての場は残されていたが、そこはごく一部の学力エリートたちだけが行く象牙の塔みたいになっていた。そして、そこに進んだエリートたちは学問を究め、新しい開発をして、社会をどんどんよくしていって、より優秀な存在になっていくのだ。
純粋に学問をやりたい、かつやっていけるであろう優秀な人間は、そういった旧式の大学に、研究者志望ということで大学受験をすることになっていた。そのためには当然、高校時代に努力をせねばいけないし、そもそも研究者志望クラスに所属せねばその道はほとんど閉ざされる。いわば、エリートコースのスタート地点といった感じだ。
自由意思の人権は、高校生であっても最大限に尊重される。僕の成績がもちろん研究者志望クラスにふさわしくない酷いものであっても、僕の進路希望のほうが、新学校教育法上でも優先される。
もちろん、高一のときの担任の先生からは、考え直したほうがいいとなんども面談をしてもらった。新卒で就職したばかりだという若い女性の先生で、僕はその先生のことがわりと好きだった、……見た目とか、声とか、短い髪からほんのり香るフレグランスとか。先生は僕のことを真剣に考えてくれていた。それは、あの時代を通り過ぎたいまであれば、あきらかにわかる。……僕はもうあのときの先生の年齢も追い越してしまった。
けど、当時の僕は、先生が僕の道を阻害しているようにしか思えなかった。
研究者になる。そうすればきっと、僕のこのどうしようもない薄ぼんやりとした人生は、どうにかなんとかして一発逆転してくれる。研究者というのは社会評価ポイントもべらぼうに高く、相対的上位者だ。
僕はひとりでコツコツやることには向いている性格だと思う。そう言ったら、先生は、いちどだけ、……たったいちどだけ、僕を馬鹿にするみたいな角度で見てきてふっと息をつくように笑った、のだ。
『来栖くん、あの、ね。……人生には、わきまえというのもだいじなのよ。自分の領分を知るのだって、それ。いいじゃない。こんな時代だからこそ、平穏な暮らしというのも悪くないのよ?』
けれど、僕は最終的に、研究者志望クラスを希望した。
僕の意思が最優先される。僕は、二年に上がるときのクラス替えで、研究者志望クラスに配置された。
僕は、そこで、南美川幸奈と――出会った。
金髪ギャルで明るくて笑い声のうるさい彼女は、しかし研究者志望クラスで次席――つまり、この学校全体においても、トップツーの成績を誇っていた。
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