36話 ジャンル・ホラー
アンとビスは、リーリー、ホーホーと鳴く虫と鳥の声で同時に目を覚ました。
二人が横たわっていた草の大地は、むせ返るような春の萌える香りと土の臭いとで、森の溢れんばかりの生命力を伝えてくる。
辺りの草木は艶かしいほどの青々しさで満ちており、どれも夜気に結露していた。
双子は、どうやら深い森の奥でうたた寝してしまっていたようだ。
そこへ漂い流れてきたのは、幼い二人の女児の鼻腔をくすぐり、腹を鳴らせる魅惑的な料理の香りであった。
姉のビスは女児にしては高い鼻をヒクヒクとさせ、その芳しき香りに浸っていた。
不意に。白いフリルに金の縁取りのスカート、その小さな膝上に、ポタッと滴が落ちて来た。
思わずハッとして頭上を仰いだ。
だが、そこには樹林の影に囲われた昏(くら)い星空があるだけ。
一羽の鳥も飛んではいない。
雨かと思い、他の者の意見を聞こうと
「アン。あのね……」
向かいに声を掛けた。
丁度、真横を向いていた小さな妹のアンがこちらを向いた。
その顔は月光に光っていた。
そこはブルーグレイの双眸から、こんこんと涌き出る湧水のように溢れる涙、そして水鼻で蹂躙されており、ひどい顔をしているな、と思った。
だが、ふと自分の顔を撫でると手が濡れたので、きっと同じ顔をしているんだろうな、とも思った。
森の青臭い微風が吹いて、涙顔がヒンヤリと冷たかった。
「アン。あなた……なんで……泣いてるの?」
聞いてから、自分も泣いているクセにそれを妹に尋ねるのも変だな、と思った。
月明かりに朧に輝く白い肌の妹は、その白い手で両の目を覆っている。
「だ……」
その声は震えていた。
ビスは立って、短い足を緑の大地に投げ出した、アンの白いブラウスの肘を引いた。
「泣いてちゃ分からないでしょう?何を……何を……」
顎が震えて、喉が詰まり、そこから先の言葉を紡ぐことが出来なかった。
アンは小さな肩を振って、姉の手を振りほどいて声を上げて泣いた。
しばらく二人で泣いて、漸くアンが答えた。
「だって……この料理の香り、香りは……ママのシチューの……ママのシチューの香り……なんだもん!!」
ビスはアンが答える前から、最初に腹が鳴ったときから分かっていた。
もう一度妹を立たせようとしたが、この度のアンもやはりいうことを聞かなかった。
困り果てていると森の奥から
「アーン!ビスー?ご飯出来たからいらっしゃーい!!」
アンはあっさりと、その柔らかな女の声で弾けるように立った。
「ママだ!!」
ビスは「うん!!」とうなずいて、アンの冷たい白い手をとって、声の方へと夢中で走った。
草の低い所など目もくれず、回り道なしの最短距離を倒れるような前傾姿勢で駆けた。
草や樹木の葉が褐色の顔に、むき出しの手に当たる。
遂にシュッと鋭い葉が顔をかすめ、頬の切れる痛みがしたが、ビスは目玉でもなんでも切れてしまえ!と、とにかく声の方へと翔ぶように駆けた。
突然、暗い森が明るくなった。
それは焚き火のもたらす、まあるい柔らかな灯りだった。
眼前の藪の茂みから、バサッ!と矢のように飛び出した女児を見た、顔が前に出た印象的な美しい褐色の若い女は
「キャッ!!」
と小さく叫んで、傍らの男の肘に飛び付く。
男はプラチナカラーの毛に被われた、やはり顔が前に出たライカン面の優しそうな痩躯の若者であった。
「わっ!」
男も突然の、正しく藪からの棒に声を出した。
が、直ぐに銛のように懐に飛んできた者を受け止め
「ハハハ!スゴい体当たりだな!ビス!」
黒いおかっぱの女児を抱き
「やられたー」と、わざとらしく仰け反って見せた。
アンの方は、若い女へ飛び込んでいた。
「ママの匂いだ!!これ!ママの匂いだ!!」
容赦なくグリグリと白いおかっぱをそこへとめり込ませるので、褐色の女はちょっと驚いて
「あ痛たたた!どうしたのアン!?
あっ!茂みの向こうの何かいたんでしょ?」
小さな白ブラウスの背を撫でながら、細い首を伸ばして茂みの先を窺(うかが)い見た。
ビスは若い男の懐で
「パパ!パパ!私のパパー!」
と号泣していた。
ママと呼ばれた若い女は、夫と前に伸びた顔同士を見合わせ、小さなアンを引き剥がそうとするが、白い肌の娘は子供らしからぬ力で強くしがみついている。
褐色の美しい女性は「もう……」と微笑んで降参し、困り顔でタメ息を吐き、温かい手でプラチナ色の甘い香りのする小さな頭を撫でてやる。
「アン!?そんなに掴まないで。ママ痛いわ。それにお腹の弟か妹も痛いって言ってるわよ?
そんなにしなくてもママはどこにも逃げません。
さぁ、シチューが出来たから、冷めないうちにお上がんなさい。
あら。あなた、薪がもうないみたい」
確かに焚き火の灯りは小さくなって来ていた。
アンはゆっくりと、その身重の母親から頭を離して
「うん!シチュー食べる!私シチュー食べるよ!」
炎に照り輝く泣き顔で喚いた。
プラチナ色の真ん中分けの夫は、手の細長い枝で火をかき回しながら、それを見て幸せそうに笑った。
ビスは頑固に父親に抱きついていたが、男の力であえなく引き剥がされた。
褐色の姉は頬を膨らませると、仕方なく
「私もシチュー食べる!アンより食べる!!」
と小さな顔を拭いながら喚いた。
細長い父親は、さも愛しそうに娘を眼を細めて見下ろし、スッと立ち上がり
「まだ春だけど、夜の森は火がないと寒いだろうな。ちょっと薪を取ってくるよ。ん?」
固形燃料を求めて歩こうとしたが、その足元へ
「パパ!行っちゃダメ!!」
アンとビスがしがみついている。
その脛からは、グルルルルと小さな唸り声さえ聞こえた。
「アン、ビス、どうしたんだい?ちょっとそこの原っぱで枯れ木を幾らか見繕って来るだけだよ?
こら、放しなさい。ママはお腹を冷やしちゃ駄目なんだ。いい子だからシチューとチーズパンを食べて待っていなさい。ね?」
再び歩こうとするが、女児等は白黒のレッグウォーマーと化し、その膝から離れない。
ビスがそのズボンに必死に組付きながら、妹に指示する。
「アン!!絶っ対に放しちゃ駄目なんだからね!?この森は恐ろしい魔物の隠れ住む森だったの!ここで放したら……ここで放したらパパが死んじゃうんだからね!?」
ビスは夢中でうなずき、父親の脚を抱き締め、爪だけでなく、その小さな牙さえもそこに立てた。
若い父親は眼を丸くして
「うわっ!痛たたたたた!コラッ!アン!!噛んじゃダメじゃないか!パパ痛いよ!!」
母親はスレンダーな体の丸い腹を撫でながら、それを指差して笑っている。
確かにここには、家族というものの理想の画、温かで幸せな光景があった。
その時、母親が小さな悲鳴を上げた。
少し離れた、焚き火の灯の暗くなった大樹の影から、蒼い月明かりに照され、鍔の短い帽子の髭面の男が二人、ニョッキリと頭を出し、無表情でこちらを覗き込んでいる。
その四つの目は虚ろであり、離れた焚き火の光をドロンとした焦点の定まらない瞳に写していた。
若い夫婦は思わず身構えた。
夫はアンとビスを後ろへやろうと白と黒の小さなおかっぱを押しながら
「こ、今晩は。月の綺麗な夜ですね。この森の近くの方ですか?」
魔王に与するモンスターではなさそうだが、自然と樫の杖へと手が伸びた。
妻は敵意のない事をニコッと微笑んで伝え
「今晩は。宜しければパンと鶏のシチューがあります。ご一緒にいかがですか?」
夫も自分も狼犬のライカンスロープだ、並の人間なら脅威ではない。
だが、この夫婦は争いを嫌って戦闘種族の村を出てきていた。
アンとビスも皮のスボンを抱き締めながら人間二人を睨む。
ビスの黒い耳が警戒のサインに根元から震えた。
「アン。もしかして、この人達が……パンとママを、」
次の瞬間。
ドサ、ゴロン。
その男達が揃って前のめりに草の地に落ちた。
途中で白い頸骨の断面を見せながら。
今度こそ、ライカンの女は絶叫した。
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