一八. うき世の楽園⑲




 ついに梅雨が来たようだ。

 

 

 土方は今しがた開け放った障子の向こう、無音におちる水の、幾すじもの線をぼんやりと眺めた。

 けだるい気分なのは、べつに梅雨のせいではない。

 

 

 (・・あいつらだったら、毎日たのしくて仕方なさそうだな)

 

 ふとそんな想いが浮かんで。土方は苦笑した。

 勿論、沖田と冬乃のことである。

 

 先日に遭遇したあの二人のやりとりから察するに、女の介在によって冬乃の側が嫉妬に駆られるような出来事でも起こったのだろうが、

 みるからに溺愛し合っている二人には、それも雨降って地固まる結果にしかならなかったようだ。

 


 (にしても)

 女のほうは、後で聞けば江戸の豪商の娘だったというではないか。

 

 これまでも期せずして、新選組が町で豪商の人間を助けたことならばある。その時は組への献金にこぎつけた。


 (・・今回だって、女が総司に惚れてさえいなきゃな・・)


 沖田がどこまで女の側の気持ちに気づいたのかは知らないが、土方に今回の件で何ら組としての対応を確認してこなかったということは、女に関わりすぎると面倒な事になりそうな勘がはたらいたのだろう。

 

 (ああ、もったいねえ)

 

 女を助けたのが沖田ではなく、組の他の人間であったならよかったのにと。

 土方は、どうしようもない溜息をついた。

 

 

 昔からどうも、あの男はもてる。

 

 しかもどっぷり惚れられて、面倒事になったのは一度や二度ではない。

 女が交際を断られた嘆きで、自刃しかけたことさえある。一命をとりとめたから良かったものの、あの一件以来、沖田が女との関わり方に、より慎重になったのは言うまでもなく。

 

 それまでにも、たとえば互いに軽いつきあいだったはずの男持ちの女が、結局は沖田に惚れこんで別れを受け入れず、次の女と白昼とっくみ合いの喧嘩になりしょっぴかれる、なんて事ならば茶飯事で、

 

 ある女は、沖田と歩いていただけの女をつけまわして濁流の川へ突き落したり、呑み屋で一夜話しただけの女が、家財を売り払ってこの金で一緒に暮らしたいと沖田の元へ飛び込んできたりと、


 土方が知っているだけでも、これまで沖田に惚れこんで狂った女の数は、同じ惚れこみ様でも引き際のよかった良い女達と同じ数ほどもあり、こうして思い出してゆけばきりがない。

 

 

 優しいからでは説明のつかない、何かとんでもなく女を惹きつけるものをあの男は持っているのだろう。

 

 

 (ま、俺ほどじゃねえけどな)


 土方は継ぎ足しつつ、回想を続ける。

 

 そう。さらなる昔を思い返せば、

 初めて廓へ連れていった先で奮発してあてがってやった太夫に、いたく気に入られ、身銭をきって呼ばれていたこともあった。

 あのころ未だ元服前の、図体だけ一人前の少年が、百戦錬磨の太夫に身銭をきらせる珍事はいやでも目立ち、いっとき界隈じゃ有名になったものだ。

 

 あの時だって、本気になった太夫と後々手切れさせるのが大変だったなと、土方はそこまで思い出し。

 ふっと今一度、溜息をついた。

 

 

 玄人の女でさえ、こうなのだ。自刃の一件以来、もはや玄人の女でなければ尚さら相当な距離を保って接するようになっていた沖田を、

 変えたのは。唯一、あの冬乃なのだと。

 

 

 (・・・ったく、世の中うまくいかねえな)

 

 利用できるものは利用する。そういう割り切りのある土方からすれば、むしろ豪商の女のほうにこそ、縁があってもよかったものだと思ってしまう。

 

 

 今、組は喉から手が出るほど金を要している。

 

 尤も、組だけの話ではない。京阪に滞在を続ける幕府軍の、どの家中でも財政は傾き、ますます戦どころではなくなっている。

 

 今は打ち出の小槌となる存在が、いくらあっても足りないほどなのだ。

 

 

 これで本当に開戦にでもなれば、近藤が心配しているように幕府側が敗北しかねないというのに、

 今さら引くに引けない幕閣の、万策尽きて期限が迫るを唯待つのみの救いようのなさに、土方はもう長く不安を拭えずにいる。

 

 

 (この世情、取り返しのつかねえことにならなきゃいいが)

 

 

 

 (・・って、)

 土方は、ふと。

 

 (あいつだって、一応使えるじゃねえか)

 

 

 思い出した。

 

 

 

 

 

 

 

 え?

 

 冬乃は顔を上げた。

 

 あまりにも珍しい来客に、いまの名乗り声を聞き間違えかと疑う。

 

 

 (ほんとうに・・土方様?)

 

 冬乃は怖々と、障子のほうへ歩み寄った。

 

 

 「近藤さんから休憩中だと聞いてな。そんなところ悪いが、おまえに聞きたい事がある」

 

 冬乃が障子を開けるやいなや、確かにそこに居る土方が早口に用件を述べた。

 

 

 「・・・」

 冬乃が近藤の部屋に戻るまで待たなかったということは、近藤にはできれば聞かせたくないような話なのか。

 冬乃は強張った。

 

 (総司さん・・との事?)

 

 何を言われても、抗う勇気を奮い立たせようと。冬乃は身構える。

 

 

 「この先、開戦しちまうのか?」

 

 

 だから、飛び出てきたその言葉に。

 冬乃は一瞬、思考が止まった。

 

 

 

 音もなく。しっとりと降りつづける雨のなか、

 傘を手に、その白皙を陰に、部屋内の冬乃を見上げる眼は、冬乃の表情の動きひとつとして逃さぬように構えているかのようで。

 

 「・・はい」

 

 だから嘘など、きっと見破られてしまう。そんな緊張に圧されて冬乃は、答えるより他なかった。

 

 

 すでにその返答など予測していたかのように。土方は、ふっと諦めた眼をした。

 

 「結果はどうなる」

 

 

 だがそれでも、今の追ってきた問いにばかりは。

 

 冬乃は、

 「忘れてしまいました」

 

 どんなに嘘と見破られるかもしれずとも、

 

 口奔っていた。

 

 「“この時期の歴史” の勉学を怠っておりましたので。ごめんなさい」

 

 

 幕府側が事実上の敗戦

 

 

 それを、はっきり伝えたところで、土方が知ったところで。

 

 

 (誰にも。どうにもならない)

 

 

 

 強張った冬乃の表情など、よまれていることは感じた。それでも、

 冬乃は前で握りしめた両手に、視線を落とし。頑なに口を噤み。

 

 

 

 「・・・」

 

 

 良い結果じゃなさそうだな

 

 とは土方は言わなかった。

 

 

 

 「・・歴史は、変えられるか?」

 

 

 代わりに投げかけられた言葉に、冬乃ははっと顔を上げた。

 

 

 

 「・・・いいえ」

 

 

 冬乃の答えに、土方は薄く目を細め。「そうか」と呟いた。

 

 

 

 

 横を向いた土方の、傘がやけに大きいと、そんなことをふと思いながら冬乃はまもなく土方が縁側の角を曲がって去っても、まだぼんやり佇んでいた。

 

 

 人がつくるものが歴史なら。

 

 人の命の刻限を変えられない、この世界で、

 変えられる歴史も、また無いということ。

 

 

 初めて此処に来たときの、あの問いの答えは。

 

 冬乃が何をどうしようと。

 歴史の流れは変わらないほうだったのだ。

 

 

 (ううん、・・でも少し違う)

 

 死を迎える原因ならば変えられるということは、

 

 それを変えるという事が、ときに、生き様そのものを変える事になるのなら。

 その日その時までのすべての人々が、違う道を生きることもできるはず。

 

 そして、それができるのなら。歴史も変えられるはずなのだ。

 

 

 (だけど、)

 そんな簡単にいくはずがないことを。もう冬乃はわかっている。

 

 その者がいま進んでいるその道が、望み選んできた道であることもあれば、

 他に確たる選択肢がないがゆえにその道を進みながらも、決して現状を否定的に捉えているわけではないこともあり。

 

 いったいどれだけの人が、違う道を欲するものか、

 

 そして、いったいどれだけの人が違う道を歩めば。歴史の大流までも変えることが叶うのか。

 

 

 

 歴史には、

 歴史を動かす、引き金となる人達がいる。

 

 おそらくはその多くが、後の世に名を残されている人々で、そしてそれには勝者も敗者も問わない。

 結果的に勝者としての働きかけもあれば、結果的に敗者としての働きかけもあり、

 そのどちらもが、作用し合うことで、

 

 そして、そんな彼らの進む道を、共に歩む者が、増えてゆくことで。歴史がつくられてゆく。

 

 その波を、変えることなど到底、できないだろう。

 

 たとえ最初の引き金の存在たちが仮に違う道を欲し、違う死を選び、そうして引き金と成りえなくなったとしても。

 

 元から。その存在たちに賛同する者たちがいたということは、

 

 代わりとなる他の者が必ず現れ、やはり引き金となり、その道を進むのだから。

 

 

 (・・・もし、)

 

 その時期に、ずれがあるなら、或いは、

 同じ結果をもたらさずに。

 

 勝者が敗者となり、敗者が勝者となることもあるのだろうか。

 

 

 

 (だとしても)

 

 

 もう遅い。

 土方のきっと望むような歴史へ、変えることは。

 

 

 この幕末の大流のみなもとは、すでに遥か昔に発していて。

 

 引き金の存在たちだけではない、もう彼らに賛同する者たちもまた、この大波をかたちづくって久しい。

 

 

 

 第一次長州征伐の頃、冬乃は、もしも別の結果がこのとき起こっていれば、と考えたことがあった。

 

 だが、そののちに山南の、人ひとりの歴史さえ。彼の意志は、それを変えることを許さなかった。

 

 

 (別の結果なんて)

 どんな働きかけがあっても。起こりえなかったのではないか。

 

 唯、遅らせるだけ。山南のときのように。

 

 遅かれ早かれ、きっと同じような結果へと収束しただろうほどに、

 

 そして今やこの先の勝者側と敗者側そのどちらをも、またはどちらか一方だけでもその勢いを鎮めるほど多くの者を、違う道へと導くことなど到底不可能なほどに、

 

 この大流は力強く。

 

 止めることなど叶わない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 冬乃の隠しているこの先の歴史が、どんなものなのか、

 土方は問いただせなかった。

 聞きたくなかった、といったほうが正しかった。

 

 

 己で聞きにいっておいて、結局、聞きたくなかったとは笑える。土方は、小さく自嘲に息をついた。

 

 

 (なんにせよ、よほどの結果になるってことか)

 

 土方は、歪めたままの唇を噛みしめ。雨の続く空を睨みつけた。

 

 

 どこかで、覚悟し始めていたことだ。

 

 いつか本当に覚悟ができた日には。己は、冬乃を問いただすだろうか。

 

 

 (だが、その時はすでに・・・・)

 

 

 

 そんな歴史なぞ。

 変えられるものならば、変えてやりたい。

 

 

 だが、冬乃は、変えられないと答えた、

 

 思い詰めた顔をして。

 すでに、試みそして敗れたことがあったのだろうと土方は気づいた。

 

 

 

 (・・・なら俺ひとりでも、抗ってやればいい。最後の一人になるまで)

 

 

 『この身を武士として』

 

 

 思い出すのは山南の最期の言葉だった。

 

 

 『志も、人の世の希望も見失った身で生き永らえるより

 

 決して自棄になるのではなく、私は、私の散り方を選びたく思う』



 山南がもしも生きる道を選んでいれば、今頃、その先見による眼でこの先を同じく見据え、それでいて、この流れに抗い、散る道を。やはり同じように選んだだろう。


 己の信念にのみ従い。

 

 

 この先、どんな運命が待ち受けていようとも。

 

 

 己の生き様を決めるのは、己だと。

 

 

 

 (・・山南さん。案外、あんたにまた会う日は思った以上に近いかもな)



 

         




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