一八. うき世の楽園⑧



 たっぷり躰じゅうに口づけられて焦らされて、朝から乱れに乱された冬乃が、その余韻を引いたまま仕事に集中できるはずもなく。

 

 

 近藤はいま沖田の護衛の元、黒谷へ行っている。冬乃はその間の近藤の部屋の掃除を任されているものの。

 

 いまなお、沖田に背後から横抱きにされていた今朝の体感が、強く深く、残っていて、

 うしろの首筋に散るであろう口づけの痕を想像して指になぞってみながら、ひとつひとつ記憶を辿ってしまっては。

 勝手に零れてしまう吐息はもう、数えきれず。

 

 (・・どうしたらいいの)

 

 いっそ沖田に訴えてしまいたいほど。

 

 こんなにも、冬乃を“好色” にして、心だけでなく体まで夢中にさせて。そうして冬乃の覚悟をどんどん弱くしてしまう彼に。

 

 (おねがい・・もう)

 

 これ以上、

 

 貴方なしでは生きていけなくしてしまわないで

 

 

 (・・・そんなこと。実際言ってしまえば、)

 

 当然、冬乃からの新たな『大好き』の告白としてしか、伝わらないのに。沖田が笑って抱き締めてくれるような、そんな類いの。

 

 本当のところは、もっと切実なことなど。

 伝えようもないのだから。

 

 

 もし、

 このとめどなく満ち溢れる幸せの、そのぶんだけ背中合わせに増してゆく恐怖を、

 この先の避けられない未来を、

 

 こうして想い出してしまわずに、一瞬さえ許さず忘れたままでいられる方法があるとすれば。

 それは、

 

 (ひとつだけ・・)

 

 ずっと。今朝のような時間を永遠に繋ぐこと、でしかない。

 

 

 

 冬乃は自嘲に追いやられた溜息を吐き落とし、遂に頬を伝った涙を払った。

 

 

 (そんなことが叶ったとしてさえ、いつかは終わってしまう)

 沖田の命の刻限は、日を重ねるたびに着実に迫ってくるのだから。

 

 

 (総司さん・・)

 

 此処へ来て沖田に出逢えたあの頃から、

 すでに胸奥へ刺し込んで抜けないその感情の名を冬乃は呟く。

 

 “苦しい”

 

 人は必ずいつかは死ぬ。

 それがいつなのかを、冬乃の場合は、知っている。せいで。

 

 

 (・・だけど)

 それだけ。

 

 (そう、ただ)

 

 それだけのことなのに。

 

 

 知らなければ知らないで。冬乃はきっと、

 毎日危険な仕事にでてゆく、明日をも知れない彼の背を、身を切る想いでそのつど送り出すのだ。

 

 ならいったい、どちらがましなのだろう。

 

 これが最後かもしれないと、

 常に怯えながら傍にいる、そんな日々と。

 今とで。

 

 

 

 (・・・だけど、これって)


 本来、なにも沖田との間に限ったことではないのではないかと。

 

 つと冬乃は息を呑んだ。

 

 

 いまこうしている矢先にも、平成の世で冬乃の母の身に何が起きたって決しておかしくはない。千秋や真弓にだって。

 だけどこれまで冬乃は、そんなことを想像し惧れながら過ごしたことが、あっただろうか。

 

 (私は・・)

 

 これが最後だともしも知っていれば。その大切な人と、その日、仲違いしている場合ではないのに、

 冬乃はこれまで、また明日もその人が生きていることを、あたりまえのようにして過ごしてきた。

 

 少しばかり、母と親友たちの生き方なら、沖田たちのそれよりもあからさまな危険に曝されてはいないだけだ。

 

 (何が起こるかなんて分からないことには、変わりないのに)

 

 

 いつ“今生の別れ” になっても少しの悔いも無いように過ごす、なんてことは。きっと不可能だろう。

 

 それでも。ふりかえって、

 あのときが最後になるなんてと嘆くような別れを、冬乃は耐えられるか分からない。

 

 

 そう思い至れば冬乃は、母と未だ僅かな一片でも、ふたたび心を通わせられたことに、

 押し寄せるような安堵をおぼえ。

 

 同時に、そうして導いてくれた沖田へ今あらためて、伝えきれそうになくても感謝を伝えたくなって。

 

 

 (総司さん・・・)

 

 冬乃は、震える息を静かに圧し出した。

 

 

 彼の、この先の短い命を、冬乃は到底受け止める事などできそうにない。

 けれど、そのときまでは彼が生きていることを、知っていることで。一方で、深い安息をも感じている。

 

 

 (貴方がまだ生きていてくれること・・・明日も明後日も、確かにまだ貴方を喪わないでいられること)

 

 それだけで幸せなのだと。もう幾度も胸に懐いてきたその想いを冬乃は、今一度噛み締めた。



 (・・そのうえ今は)

 

 冬乃の内に秘めた苦しみを、いっとき忘れさせてくれる彼との時間、

 

 そんな奇跡にさえ、恵まれた。

 

 

 その幸せのぶんだけ、迎えるこの先がいっそう辛くなってゆくとしても、

 

 

 結局。冬乃の答えは、以前と変わることはないのだと。

 

 

 (そう・・)

 幾度、そんな苦しみで身を切られる想いに苛まれても。

 

 もういちど出逢えるのなら、何度生まれ変わってでも、

 

 彼の腕のなかへ、また戻ってきたい。






 玄関のほうから聞こえてきた近藤と沖田の声に、冬乃は顔を上げた。

 

 慌てて雑巾を手に立ち上がる。まだ拭き残している部屋の隅へ移りながら、近藤が入ってきたら一度挨拶をするべく入口の襖へと向き直った。


 「冬乃さん、ただいま。掃除を有難う」

 まもなく入ってきた近藤と、

 

 「ただいま冬乃」

 その隣の沖田が。

 穏やかな笑みをそして見せてくれるのへ、

 

 冬乃は込み上げた情感で。胸が一杯になりながら、微笑み返した。

 

 

 「おかえりなさいませ」






 

 

 

 

 





 今夜は夜番があるから遅くなると。

 

 昼餉の席で沖田に、だから今夜は屯所の自室に寝泊まるように告げられた冬乃は、

 近藤の部屋に戻って書簡の手伝いをしながら、ひどくがっかりしている心の内をこっそり抑えていた。

 

 

 ほんとうは、遅くなってもいいから沖田の部屋で待っていたい。夜もずっとそばにいたい。ふたりの家に帰れなくても、隣で沖田の体温を感じながら眠りたい。

 

 なんてことは、気恥ずかしさもさることながら遠慮の想いに圧されて、とても冬乃には口にできなかった。

 

 

 わがままをもっと言っていいと、昨夜もあんなに愛されながら促されて、それなのにまだ冬乃は留まってしまう。

 

 以前のように、嫌われたりしないかと心配しているわけでは無しに。今の冬乃の自制の最大の原因は、遠慮で。

 

 もしかしたら冬乃がそばにいたら、遅くに疲れて帰ってくる沖田の邪魔になってしまうのではないかと。

 

 

 夜の巡察は、血をみることになる機会が最も多く。

 隊士達を率いる長として当然、誰よりも気を研ぎ澄ませ、たとえ何も起こらなくてさえ疲れることだろう。

 斬り合いなどになってしまえば、尚の事。

 

 帰ってきたらさっさと風呂に入って、疲れを癒すべく寝てしまいたいはずで。

 だがそこに冬乃がいれば、一人でいる時とはどうしても勝手が違ってしまうだろう。

 

 

 (だから・・我慢しなきゃ)

 

 

 一方で、

 もしかしたら、沖田からすればそんな遠慮は要らないのかもしれない。

 

 冬乃の、この手の遠慮が、

 今なお沖田に対してついつい構築してしまう最大の壁であることも、沖田は分かっているからこそ、

 

 だいぶ想いを素直に口にするようになっているはずの冬乃に、未だに『わがままを言っていいよ』と促してくれるのではないかと。

 

 そんなふうにも、冬乃は感じていて。

 

 

 そもそも沖田なら、冬乃のわがままに応えられない時は応えられないと、断るだけだろう。

 冬乃の側で先に勝手に遠慮して控えてしまう必要など、だから無いのかもしれない。

 

 (でも・・)

 大抵において冬乃が口にしなくても、想いの機微を汲み取ってくれる沖田だからこそ、

 あえて冬乃の想いを汲まない時には、沖田側にそうしない理由がある為なのではとさえ、冬乃は勘ぐってしまうというのに、

 

 それでも冬乃のわがままな希望を、そこへ押し出すのは。

 いくら彼が嫌なら断ってくれるだろうとしても、やはり気が引けてしまう。

 

 

 (・・・やっぱり、言えない。)

 


 

 「冬乃さん、総司にこれを借りていたんだが、今ちょっと行って返してきてくれないだろうか」

 

 不意に掛けられた言葉に、冬乃ははっと書簡から顔を上げた。

 

 「はい」

 見れば、それは時々沖田が使っている根付の中で、冬乃が一番好きなもので。

 

 煌めく黒曜石に彫刻が施され、青紫色の絹紐が通されたその洒落た根付は、持ち主によく似合っていて、冬乃は彼の帯から覗くさまをよくドキドキと見つめた。

 

 骨董品について冬乃は分からないものの、これが平成の世に残っていれば相当に値が張ったのではないか。

 

 

 「ではちょっと行ってまいります」

 

 食後に仮眠すると言っていたから沖田はまだ寝ているかもしれない。その場合、起こしてしまわないか不安なものの、


 冬乃は近藤へ目礼をして、ひとまず廊下へ出た。














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