一七. 解けゆく時⑦



 「冬乃が、どうしたいか・・を聞かせて。何を心配するか、ではなく」

 

 黙って聞いていた沖田が。ややあって、その穏やかな声にのせて返してきた問いは、

 冬乃をひとときの困惑に包んだ。

 

 「まあ、いきなりそれを聞くのも酷か」


 問いの意味が掴めない冬乃の沈黙を破り、沖田はさっさと乱れたままだった冬乃の前を整え、

 そのまま冬乃の手を引くと、足元の畳へと胡坐をかいて座ったその上に冬乃を座らせ。

 

 横向きに抱き寄せられながら冬乃が、なお困惑のままに沖田を見上げるのへ。

 

 「この仮定の話、まだ覚えてる?魂が、産まれる世で生きるための器として、肉体を要するという」

 

 冬乃にすれば唐突に。そんな前置きを置いた沖田に、

 

 目を瞬かせた冬乃は、そして慌てて頷いた。

 

 

 「今、冬乃の肉体が此処の世に存在している事にも」

 

 沖田が、冬乃の体を確かめるようにして腕に抱き締め。


 「ならば当然、確固たる理由がある。・・少なくとも、器としての役割は成し得ている」

 

 (あ・・)

 温かな沖田の腕のなかで冬乃は、とくとくと刻む、体の心臓の鼓動に耳を澄ませ。目を閉じた。

 

 冬乃が恐らくこの魂の課した使命のために此処へ来ている事など、もちろん沖田が知るはずもない。

 だが沖田の言葉は、さながら、その事をも示すかのようで。

 

 冬乃はおもわず震えた息を小さく吐き出して。沖田の次の言葉を待った。

 

 

 「仏教的な観方になるが・・魂が人の世を生きる理由が、解脱のための修行であるならば、」

 

 沖田の柔らかな眼差しが、そうして今の台詞に顔を上げた冬乃を迎えた。

 

 「俺達が今感じているこの肉体そのものも、あらゆる修行の内のひとつとして与えられたものだろうね」

 

 

 (修行・・・)


 

 人はなぜ生きるのか。

 冬乃も聞いたことならある。仏教の導くその答えは、『魂』が修行するためだと。

 

 もう生まれ変わらなくても済む浄土へと、向かえるように。

 

 人、または他の生物として、繰り返し生き続ける永劫の苦しみ――輪廻から、抜け出すため。

 

 

 “解脱”

 

 沖田が、以前にも口にしたその言葉の意味は。そんな輪廻から抜け出すという事だったのだと。冬乃は思い至った。

 

 

 「魂の修行の場である人の世を存続させるべく、その成り行きが働いている間は、」

 沖田が淡々と続ける。

 「肉体の存在理由は、人の世に子孫を生す事でもある。ただし、全員に課された理由ではないだろう。ある程度の秩序は維持するために、制限がかかるはずだ」

 

 「子孫を生す任を負う人の“抽出” にも、そして或いは何らかの大まかな法則の上での、無作為な選択が起こっているのだろう。前に話した、親子の縁が生じる事象の・・前段階として、ね」

 

 

 (任を負う人の、抽出)

 

 子をつくるつくらない、人のそんな自由意思も本当は、人智を超えたその “ある法則の上での無作為な選択” が為された結果なのか。冬乃には勿論、想像もつかない。

 

 ただ十八年前、母のそんな決意によって冬乃は産まれたのだ、

 いや、沖田の話に沿って正確にいうならば、冬乃の魂を受け入れる肉体が。

 

 

 「要は、子を授かるのならば、授かる。授からないこともある。そこに感情や人の世の小さな価値観を差し挟むすべは無い。

 冬乃の肉体が此の世に存在する理由が、魂の器や修行としての他に、子を生すことも含むのかどうか、俺達にいま知る手立ても無いが、」

 

 「いいかえれば、もし時代を超えた存在の俺達の間で子を授かるのならば、それは成るべくして成る事であり、ならばその未来に対し、恐れる必要など無い。要るのは、そのさだめに対する魂の“覚悟” のみ」

 

 

 

 冬乃は、茫然と沖田を見返した。

 

 まるで。冬乃の内にあれほど深く刺し込まれていた不安が、するりと解けて。溶けゆくかの感に。

 

 

 (総司、さん・・・)

 

 さだめを

 

 “ 恐れる必要など無い ”

 

 

 沖田は冬乃がいつか永久に帰る事を、前提には話していないにもかかわらず。沖田の今の話は、それをも包括して。

 

 

 成るべくして成るさだめ。授かるならば授かる、ならその逆は、

 

 ふたりが子を生すことがもしも、この奇跡に許されていないのならば。そもそも授かることは無いと。

 

 

 

 「魂の覚悟、と言ったが」

 

 黙り込んだ冬乃の、頬を沖田の温かな手が常のようにそっと包み込み。

 

 「平たく言えば、俺達、人が」

 

 “結ばれる” 事を前にして

 冬乃の言葉で、沖田は継ぐ。

 

 「気にすべき事は、親になる覚悟があるかどうか。それだけでいい」

 

 

 それ以上の、

 人智など超えたこの奇跡の中で、

 

 (どうなるかなんて。・・私が心配してみても仕方なかったんだ・・・)

 

 

 「それから、俺はいつ死んでもおかしくはない。そうなった時に冬乃に遺してあげられるものはもう用意してある」

 

 「・・え?」

 「この後、近藤先生の所へ行って、その話をする」

 

 瞠目する冬乃の頬に添えたままの手を流し、

 

 「そして、さだめがそうあって、冬乃さえ望むなら、」

 

 沖田が冬乃の顎を持ち上げる。

 

 

 「俺達の子を冬乃に遺したい」

 

 

 (総司・・さん・・・)

 

 「これも覚えてる?貴女には、孫に囲まれて往生する最期を祈っていると、言った事」

 

 「はい・・」

 その時のことを想い出した冬乃は、涙が溢れそうになって。咄嗟に目を瞬かせた。

 

 「あの時は、俺達の孫など望めるはずもないと思った。あれは、貴女が未来へ帰った後、誰か然るべき人と家庭を築いて貴女が幸せになることを願った言葉だったが、」

 

 逸らせない冬乃の視界で、沖田が穏やかに微笑んだ。

 

 「今は。それが俺であればいいと、・・貴女を最期に看取るのは、俺達の孫であったらと。思っているよ」

 

 

 言葉が、出なかった。

 声を詰まらせて、冬乃はついに抑えきれない涙にきつく目を瞑って。

 

 「冬乃」

 ・・どうして泣くの

 頬を伝った涙に驚いたような声が追い。冬乃は締め付けられた胸内で呟く。

 

 (ごめんなさい・・)

 

 沖田のその想いは、やはり叶わないだろう。

 沖田との孫に囲まれる最期が、冬乃に来ることはない。

 

 それでも、

 沖田が同じように、望んでくれるだけで。

 

 (それだけで・・・)

 

 

 「嬉しくて・・、涙はそのせいです・・」

 

 瞼を擡げた冬乃の瞳に、冬乃を慈しむ綺麗な瞳が映る。

 

 

 此の世に決して迎え入れられてはいないような、強い疎外感に怯えてきた。

 

 (私は・・いったい何を、ずっと悩んでいたの)



 目の前の彼から、こんなにも迎え入れられている事。

 その事に、長く気づきもしないままに。

 

 

 「私も・・・同じ想いです」

 

 

 貴方との人生をずっと、歩んでいけたならよかった。

 

 

 「総司さん・・」


 だけどどんなに、それが叶わなくても。

 

 今、この時を。

 振り返って、後悔したくない。

 まだ、傍に居られる、この時だけは。

 

 

 貴方の近くに居させて。

 

 

 「抱いて・・ください」

 

 

 今度こそふたりの、此の世での限界まで、

 

 近くに。


 

 







 冬乃の顎に添えられていた沖田の指先に、一瞬、僅かに力がこめられたのを感じて。

 

 冬乃は、近づく沖田の、熱を帯びたその眼を涙に滲んだ視界で見つめ。

 

 頬を伝う涙はひとすじ唇に落ちて、

 次には涙ごと、口づけを受けた。

 

 

 目を閉じて圧された涙がさらに溢れ落ち、顎に伝って沖田の指を濡らす。

 

 徐々に深くなる口づけは、冬乃の息があがってしまうまで続いて、

 

 唇が離された時、冬乃は喘いで胸を上下させながら、いつのまにか掴んでいた沖田の前襟を握り締めた。

 

 漸う瞼を擡げれば、そんな冬乃を迎える、驚くほど愛しげな眼ざしと。

 「冬乃」

 甘く囁かれる、熱に掠れた低い声。

 

 冬乃の涙で濡れた沖田の指は、冬乃の顎を離れて、首すじをつうとなぞり下る。

 まだ少し乱れたままの冬乃の前を開いて、胸の谷間へと、まっすぐに。

 

 指を追って沖田の唇が、首すじから鎖骨、胸元へと這わされ。

 

 横抱きに包まれていた冬乃の体は、ゆっくりと背後の畳へ倒されてゆく。

 

 

 「総司…さん……」

 見下ろす沖田の影の中、冬乃は高まり続ける鼓動に押されるように再び目を瞑った。

 

 「沖田、まだ居るかあ?!」

 

 同時に襖の向こうから鳴り響いた原田の声に、驚いた冬乃はすぐまた目を開けた。

 

 (あ・・)

 静かに、と。沖田が微笑って口の動きだけで言い、そのまま冬乃の胸元へ再び顔をうずめ。

 「ン…」

 冬乃は漏れかけた声を慌てて抑えて、息を殺す。

 

 「沖田ー?」

 

 原田の呼びかけが続く中、胸の頂へと口づけられ、

 肌をまさぐる沖田の手は少しずつ下って。

 「っ…」

 

 (総司さ・・)

 「道場でも行っちまったか」

 襖の向こうからついに諦めた声がした。

 

 冬乃がほっと息をついたのも束の間、

 

 「あ、おい藤堂!」

 廊下に藤堂まで出てきたのか、原田のさらなる掛け声。

 

 「そういやおまえにも黄表紙、貸しっぱなしだぞ!そろそろ返せやいっ」

 「え?ああ、忘れてた!」

 藤堂の返事が続き。

 

 「でも俺が貸したほうだって、原田さんからまだ返ってきてないよ、そういえば」

 「あれはいいの!俺まだ読んでる」

 「え。貸したの相当に前じゃない?」

 「そうだっけか」

 「まあいいけど・・あ、今度は落書きするの禁止だからね!」

 「なに!?俺様の崇高なへのへのもへじを落書き呼ばわりたぁ貴様っ」

 「へのへのもへじの、どのへんが崇高なのさ?!」

 

 「・・・」

 

 わーわー言い合う原田達の声が遠ざかる頃には。

 

 冬乃はくすくす笑い出してしまっていた。

 

 同じく笑うしかない様子で沖田が、冬乃からやおら身を起こす。

 

 「・・真っ昼間の屯所でどこまでいけるか、やってみようと思ったが・・これは玉砕だな」

 

 残念そうな声で呟く沖田に、冬乃は胸元を押さえて起き上がりながら目を丸くする。

 冬乃の表情に、沖田がにっこり微笑んだ。

 

 「そりゃ冬乃の口からあんな“おねだり” されたら、挑戦しなけりゃ男がすたるだろ」

 

 (あ・・)

 

 『抱いて・・ください』

 冬乃は、そう言ったのだ。

 

 「それも泣きながら頼まれたらね」

 

 「・・っ」

 いまさら大胆な発言をした己を認識して赤面する冬乃を、からかう愛おしげな眼が見返す。

 冬乃は感情が高まって想いを告白してしまったとはいえ、もちろん今すぐこの場で・・のつもりだったわけではなく。

 

 沖田とて、それは分かっている上で、高まるふたりの感情に、敢えて任せたのだろう。

 

 (それでも総司さんは、こんなに余裕なまま)

 

 どれほど感情が高ぶろうと、決して我を忘れることが無い。

 自若として、常に心の奥が冷静な沖田の。その心にいつかは、火を点けてみたい、

 

 そんな想いに冬乃はつと駆られ。

 

 自嘲に目を伏せた。

 

 (いつも)

 冬乃ばかりが乱されて

 

 だから彼にも心乱れてほしいだなんて。

 こんなにもう愛されているのに、

 

 (どこまで私は貪欲なんだろう・・・)

 

 

 「冬乃」

 沖田の呼びかけに、冬乃ははっと彼を見上げた。

 

 「俺の服を貸すから庭から部屋へ戻って、着替えておいで。それから一緒に先生に挨拶に行こう」

 

 「はい」

 前を整えながら冬乃は頷く。

 

 「で、」

 沖田が立ち上がった。


 「さっきの“おねだり” については・・」

 冬乃の手を取り優しく引き上げながら、そして、

 

 「今夜にでも」

 

 そう言い、穏やかに目を細める沖田に。

 

 (こ)

 引き上げられた冬乃は、


 (今夜・・・!?)

 

 一瞬で乱された息を。震わせた。

 

 

     






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