一. 平成十二年夏、東京②
「またこんな遅くまで起きてるの?!」
冬乃は読んでいた歴史の本を下ろした。
隙間から廊下へ漏れていた光を押し広げるように、声の主によって乱暴に戸が開けられる。
「早くそんな本しまって寝なさい!あんたは養ってもらっている身なのに、どうしていつも私の言う事を聞けないの?」
そんな本、という言い方にカチンときた冬乃は、戸口で腰に手を当てて立っている母親を睨んだ。
「何時に寝たっていいでしょ、なんであなたの命令すべて聞かなきゃなんないの?だいたい稼いでるくせに、養ってるとかお金のこと何度も言わないで!」
「また、親に向かって、なんて口のきき方するの?そういうことは全て自分で働いてから言ってみなさい!」
「もううるさい、出てって!」
「冬乃!!」
「私のこと娘とも思ってないくせに、そうやって母親ぶって命令して、ストレスこっちにぶつけないでくれる?!」
何度も口にしてきた台詞を冬乃は繰り返していた。
「・・ほんと、よくも育ててくれた親にそういうこと言えるわね、あんた産んで一つ手で苦労してきたのに、今になってこういう仕打ちうけるなんてね!」
「だから産んでなんて頼んだことないって言ってるでしょ!」
叫んでから冬乃はさすがにはっとして母を見た。
「そうね・・頼まれてなんかいない。でもね、私こそあんたを産みたいなんて願っちゃいなかったよ・・!」
「・・・」
幾度となく投げつけられてきた台詞を耳に、急速に覆い出す虚無感で冬乃の胸内がすっと冷えてゆく。
「悪かったね、産んでしまって!・・ほんと、あんたみたいな子、産まなきゃよかったよ!」
叩きつけるように扉を閉めた母の、階下へと駆け下りてゆくスリッパの音をそして冬乃はぼんやりと聞いた。
「どうした、また何か言われたのか!」
一昨年、母が再婚した義父のその声を次には耳にして。
(来る)
急いで扉に自作の鍵を取り付けた時。
はたして、階段を勢いよく駆け上がってくる義父の乱暴な足音と、「いいの!」と叫びながら追いかける母の足音が、隔てた扉の向こうから聞こえてきた。
冬乃は再び机に向かうと、引き出しから耳栓を取り出し、着けたその上から常のようにヘッドホンを重ねた。
(・・ずっと互いに助け合ってきたと思ってたのに)
「冬乃!ここを開けろ!!」
冬乃は音楽の再生ボタンを押した。
(なのに私の気持ちなんか聞いてもくれず再婚するなんて)
本当の父親がどんなに酷い人だったか知らないけど、
それでも自分にとっては実の父親だったから。
────会いにいってもいい?
以前そう口にした時、だが母は泣いて冬乃に怒鳴った。
あんな男のことを口にするな、と。
それからすぐに、母はまるで当てつけのように再婚した。
(それからだ。前のような私たちじゃなくなったのは)
今は、もう。口にしただけで母を泣かすような人に会ってみたいとも思わない。
今はただ、叶うなら、
あの頃のように『お母さん』ともう一度呼びたい、それだけ・・・
でも母は、自分より義父を選んだ。
だからもうあの人をそう呼ぶことなんて無い。
「開けろと言ってるだろう!!!」
大音量にした音楽の隙間をぬって義父の大声が聞こえた。
戸を叩く音が響きわたり、冬乃は眉をひそめた。
(なにを我がもの顔に・・私のほうがずっと一緒にいたのに、妻の味方って顔して、父親らしい態度なんか何一つできないで)
義父の怒号と母の叫び声は、塞いだ両耳になお響き渡り、容赦なく嵐のように降り注ぐ。
(自分達だって子供の頃があったくせに、なんでわからないの)
親との不和は、親の想像するよりも遥かに深く、子を傷つける。
衣食住だけではない、子が精神面で頼れる存在もまた親であるべきはずが。その頼る先を長く失った子の気持ちなど、想像もできない二人。
(もういや、こんな世界・・)
母と心の通わない年月。気性の荒い義父の、度重なる言葉の暴力。
いっそ早く死んでしまいたいと、何度願っただろう。
そのたびに想うのは、愛する人だった。
どれほど苦しくても、
彼のように、与えられた寿命を最期まで生きなくてはいけないと、
それが彼を愛する資格だと。思って。
耐えてきた。
「冬乃!!!」
「あなた、もういいから!!」
沖田様。
もうこんな世界、捨てたい。
私の寿命を貴方にあげれたなら。
私の分を貴方がもっと生きられたなら。
貴方が早くに亡くなって、
死にたいと思ってるこんな私がいつまでも生きてるなんて、
なんて不公平なのですか。
ごめんなさい。
わがままだって、わかってる。
でも、もう。
ときどき限界になるんです。
パーン!
「面あり!!」
弾かれたように勢いよく上がった赤旗が、冬乃の視界の端に映り、冬乃は湧き起こる歓声のなか竹刀を引いた。
”女子個人戦の部、全日本二年連続優勝”
この広い大会場において、冬乃の名とその肩書きを知らない者はいない。
そして今回、
「やったあ冬乃!!三年連続優勝!すごすぎ!!」
応援に駆けつけていた千秋が抱きついた。
「行ってきな」
真弓が表彰台を指して、冬乃の肩を叩いた。
盛大な拍手の波にひかれるように、冬乃はトロフィを抱えて台をゆっくりと降りてゆく。
───初めて竹刀を握った幼い日のことを思い出していた。
(あの頃は、まだ信じてたんだよね・・)
いつか彼に逢えることを。本気で。
その時のために、始めた剣道。
それから九年間、冬乃は着実に上達した。
上達とともに、冬乃は大人になってゆき、現実を知った。
所詮叶わぬ願い。
想いは、だが、憧憬から恋へと。つのるばかりだった。
「これで閉会式を終了します。一同、礼」
一瞬のち、会場内は俄かに湧いた。
「冬乃!!」
千秋と真弓が駆け寄る。そのなかに母と義父の姿は勿論、無い。
「改めておめでと!!」
今いちばん逢いたい人も、勿論いるわけがなく。
「・・逢いたい」
「イタイって、どっか打ったの?!」
周りが騒がしいせいでよく聞き取れなかった千秋が、驚いて冬乃の肩を掴んだ。
「え?」
当惑した面持ちで覗き込む千秋と真弓を、ふと冬乃は、我に返って見つめ、
「うん、・・」
(そういえば、確かに)
「痛い・・」
「どこ?!」
冬乃は首を振ると押し黙った。
(なんだろう、この痛み・・)
「冬乃、マジ大丈夫なの?」
再び首を振る。
「誰か呼ぶ?」
「頭が・・・」
「頭?どのへん?!」
真弓が瞬時に反応して、冬乃の頭に手をやった。
「何かに引っぱられてるような、カンジなんだけど、」
(ぼうっとする・・)
「引っぱられてる?」
千秋と真弓は顔を見合わせた。
「医務室に行こう。歩ける?」
「うん、・・」
(よく前が見えない・・・これは何?・・
・・・霧?)
「冬乃?冬乃、大丈夫?!」
「冬乃!!」
遠くで、千秋たちの叫ぶ声が聞こえる。
薄れてゆく意識のなかで、その声もやがて深い霧の壁に徐々に閉ざされていった。
「・・何も持ってませんでしたよ」
(─────畳のにおい)
その独特な香に、冬乃は、すん、と小鼻を動かした。
(ここは・・)
「と、気がついたようですよ」
ゆっくりと目を開けた冬乃を驚くほど間近で、色黒の顔がのぞきこんでいる。
(きれいな瞳・・・)
冬乃は幻でも見るようにぼんやりと眺めながら、
ふと彼の服装に目がいった。
自分と同じく稽古着らしき服を着ているところをみると、会場内の付属部屋がどこか・・。
そういえばもう痛みも、変な霧もない。
ふらり、と身を起した冬乃は。だが開け放たれた障子の向こうを、思わず凝視した。
そこには会場前の大路はなく、限りない一面の田畑が青々と広がっている。
「こ、ここはどこ?」
「・・壬生、ですが」
目の前の彼の低い穏やかな声が、冬乃を瞠目させた。
(いま、壬生、って言った?)
聞き間違いだよね?
冬乃は恐る恐る自分の身の回りを見渡す。
特に何もない四畳半程の部屋に、先程から冬乃を興味深そうに覗き込んでいる色黒の男と、綺麗な顔をした色白の男が並んで自分の傍に座っている。
(刀・・なんだけど・・・)
目に入った、稽古着を着ていない色白の男のほうの腰に差される脇差と、横の大刀に、冬乃はあんぐりと見入った。
「おい、女」
刀を凝視した冬乃を不審気たっぷりに、色白の男が睨みつけてくる。
(あれ?)
この顔、どこかで・・
「土方さん、この人、頭打って記憶なくしているんじゃないですかね」
え?今、
「土方さんって言いました?!」
「は?」
・・て、たしかに似てる、土方様の写真に!
「おめえ、何者だ?」
ここが本当に壬生で。
時代劇みたいな格好で、
土方と名乗る、平成に遺る“土方歳三”の写真に似てる人がいて。
だとしたら、
この色黒の人は・・・
まさか。
「沖田総司様・・ですか?」
「そうですが。如何してそれを」
答えるよりも先に冬乃の目には涙が溢れて。
男達はそれからしばらく返答を待たなければならなかった。
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