2-14【ヴァロアの”血” 3:~初めて見る祖国の空~】
飛竜の腹に乗せられて、はや2時間。
離陸時はあれ程揺れた客室の中は、ヘクター隊長の言うとおり、すっかり平静を取り戻していた。
今はちょうど雲の上に出たところだ。
こうして、眼下に綿菓子の様な雲が流れる景色を見たのはいつ以来か。
モニカは魅入られたように客室の小さな窓に張り付いて下を眺めている。
既に国境は超えて、眼下に見えるのは俺達の”
といっても、まだまだこの辺は”トルアルム経済圏”の常である、草の多い平原にポツポツと丘が見え、時々思い出したように山岳地帯と大森林がある見慣れた景色。
アクリラ郊外といって見せても差し支えない景色なので面白みはない。
飛竜の速度は思っていたよりも速く、巡航のため軽く流しているだけだというのに平均して160km近く出ている。
それでも飛竜の全速力を考えれば低く感じるが、腹に自分と同じくらいの大きさの荷物を抱えて長時間飛ぶことを考えたら破格の飛翔能力だ。
このペースなら、上昇と下降や諸々の手間を考慮しても、夕方には余裕を持って今日の目的地に着けるだろう。
だが俺が飛竜に乗って一番驚いているのはこの”快適性”。
全く揺れない。
本当に、全く、揺れないのだ。
普通、空を飛べば上昇や下降によるGの変化はもちろんのこと、風に煽られてガタガタと揺れたりもするもんだが、それすら無い。
Gの変化は非常にゆったりとしていて、しかも上手い具合に打ち消されているので、注意して観察しなければ地面にいると錯覚してしまいそうになる。
だがそうでないことは、意外と激しく動く飛竜の翼が証明していた。
巡航モードに入ってから殆ど羽ばたきこそしてないが、その翼面は周囲の空気の変化に合わせて絶えず変化している。
つまりこの客室の揺れが少ないのは、この飛竜が揺らさないように頑張ってくれているおかげなのだ。
横風を受けると、翼全体が大きくしなって胴体が急激に変化しないように気を配り、極稀に再加速のために羽ばたくときにも、わざと前後の向きを変化させてGを打ち消している。
単なる”反応”ではない、飛竜自身が周囲の様子を確認して”先読み”しているからこその対応力。
飛竜の本能か、動物の勘か、それともこの飛竜の経験か、あるいはその全てか。
きっと、この飛竜は”快適な空の旅”を提供することに誇りを感じて生きているに違いない。
下の景色に目を奪われるモニカと違って飛竜の翼に興味を持った俺は、後部視界に映るその姿を注視してみることにした。
飛竜の翼はコウモリなどのように細長く発達した骨組みに薄い被膜が張る形で出来ている。
だがその印象は大きく違う。
腕が発達して翼になったコウモリや鳥と違い、図鑑の骨格標本を見る限り、肩の骨が分割しながら発達した飛竜の翼は非常に滑らかで、ゾッとするほど機能美に満ち溢れている。
全体が鱗にびっしりと覆われ、その内側にはおそらく筋肉と思われる薄い層がある。
そして、その筋肉に制御された三又槍の刃を思わせる鱗が後ろに向かって伸び、その僅かな動きで空気の流れを制御していた。
1番大きな鱗などは1mを超え、その役割は鳥の羽根に似ている・・・いやそれ以上に飛行に関わっていると思われる。
なるほど、この飛竜の全身を覆う特徴的な鱗が飛行制御の”肝”というわけか。
それと姿勢制御を”補助翼”に任せる鳥や飛行機と違い、飛竜の尻尾は頭共々、姿勢を維持するための”バラスト”に徹し、空力制御の能力は”主翼”に集約させていた。
だが機能的には全く劣らない、いや、むしろ全ての機動を主翼全体で行うため圧倒的に機動性は上だろう。
こんな”羽”がほしい。
気づけば俺はそんな感情を抱きながら、その実現性について脳内でシミュレーションを始めていた。
これならば、俺達の飛行方法との相性もいい。
エンジンの使用率を減らせば、”音量問題”だって解決の糸口が見えてくる。
これまでエンジンにばかり気を取られ、翼の改良には目が行っていなかった。
いや、俺達の翼はもうこれ以上改良の余地はないと驕っていたのだ。
だが、ここまで空気を効率よく使えたか? 否。
”百聞は一見に如かず”
図鑑や噂で飛竜の飛行能力は最強だと聞かされていても、こうして目にして打ちのめされなければ気づきもしなかっただろう。
これは、本格的に飛竜の飛行に関する資料を漁る必要がありそうだな。
だが、もしなくても構わない、この4日間、徹底的に観察して俺が作るまでだ。
そうと決まれば話は早い。
俺は次元収納から高性能フロウを取り出して感覚器に変えると、モニカに頼んで窓に据え付けてもらった。
こうしておけば、飛竜の翼の動作について多角的なデータが得られるだろう。
あとは、街についたら客室の外にも何機か付けておくか。
そんな風にちょうどいい”暇つぶし”を見つけた俺と同様、飛竜の乗客たちは各々がそれぞれ何かしらの過ごし方を見つけていた。
モニカは暫くの間下を眺めていたが、そのうち一向に景色が変わらないと気づいたのか、朝食を食べてから更に1時間ほど進んだ辺りで座席に座り直すと、魔法陣から今読んでいる参考資料を取り出して読み始めていた。
座っているのは最後列なので、後ろから顔を出したロメオに鼻を擦り付けられているが、それはいつものことなので気にもとめていない。
ヘクター隊長は2,3列前の席で寝ていた。
世界最高クラスの怪物2人のお伴で、別の国の上空を飛んでいるというのに呑気なものである。
イリーナは御者台で飛竜に指示を出していた。
偶に客室の中に入ってくることもあるが、基本的には吹きっ晒しの環境の中に身を置いている。
今更ながら、勇者に御者をさせるというのは随分と贅沢なもので、ちょっと気が引けてしまうな。
”じゃあ、お前やれよ”と言われても困るので仕方がないが、いくら快適魔法完備とはいえ寒いことには寒いはずなので頭が下がる思いである。
だが、そんな事を気にしていたのは最初の1,2時間くらいで、そこからはひたすらなんともいえない”なにもない時間”が流れていった。
快適な空の旅というのは聞こえはいいが、言い換えれば、この狭い客席の中でなんのイベントもなく過ごさねばならないのだ。
高速馬車の旅はまだ楽しかった。
不整地を高速で爆走するので適度に揺れるし、景色も変わるので見るものにも困らない。
それにあの時は、気軽に話せるルシエラという存在も居たからな。
だがヘクター隊長もイリーナも俺が喋るほど打ち解けては居ないし、モニカはモニカで資料を真剣に読んでいるので声がかけづらいし・・・
飛竜の羽の動きって言っても、データ取りの設定さえしてしまえば特に面白いものではないからなー。
うーん、暇だなー。
これがまだモニカが寝てくれていたら、色々とやる事も有るのだが、それもないし。
それでも、そんな俺を天が見かねたのか、それとも単なる偶然か。
ある時、小さな”イベント”が発生した。
といっても、とても良いものではないが。
昼過ぎ、もうそろそろ最初の街に降りるために飛竜が降下を始めた頃。
それまで資料を見つめていたモニカが、僅かな違和感に眉を寄せた。
『・・・保つ?』
『いや、微妙』
バイタルを見る限り今はそうでもないが、あと30分もすれば
何かって?
そりゃ、”あれ”だよ。
とりあえずモニカは資料を次元収納に片してから、客室の中を見回し始めた。
客室の装備はそれなりだ。
2人掛けの乗り物のものとしては必要十分のベンチが通路を挟んで両側に並び、それが4列。
後ろに荷物スペースが有り、前の方には食料や備品などを入れておく棚まである。
だが、
肝心なものがここにはないのだ。
「ねえ」
「・・あ? うん?」
モニカがヘクター隊長に声を掛けると、予想通りすぐに起きて返事を返してきた。
その呂律は正常だ。
やはり寝ているといっても、目を瞑っているだけで意識は起きていたのか。
「ちょっと・・・聞いていい?」
「ん? なんだ?」
妙にモジモジしながら聞いてきたモニカに、ヘクター隊長が怪訝な顔で答える。
それを”質問可能”のサインと受け取ったモニカは、聞きたい事を口にした。
「この馬車って・・・”トイレ”って付いてる?」
そう、現在俺達は
もちろん、”それ用の装備”は持っているが、あくまでそれは緊急用。
もしこの客室に専用装備があるのなら、それを使うに越した事はない。
「なんだそんな事か、ちょっとこっちに来てみな」
ヘクター隊長がそう言って起き上がり、俺達を手招くと側面の一番後ろの扉へと案内してくれた。
だがそこには何もない。
ただ、外へと続く扉があるだけだ。
モニカが”どういう事だ?” といった視線をヘクター隊長に送る。
すると彼は何やら扉の上部を弄り回し、そこからベルトのような物を引っ張り出した。
「あったあった、これだこれ、ほら」
そう言って、ベルトをこちらに差し出すヘクター隊長。
だがこんな物渡されて、どうしろというのか?
するとヘクター隊長は、ベルトをもう一組取り出し自分の肩から腰に掛けると、そのまま扉に手を掛けて開け放ったではないか。
客室の中に吹き込む風、見開かれる俺達の目。
それが落ち着くと、今度は内側から吸い出される様に風が吹き出す。
そして最後にヘクター隊長はズボンを下ろすと、その風に乗せるように外に向かって”液体”をバラ撒いたのだ。
「こうするんだよ!」
「・・・・・」
眼の前に広がる、”あまりにもあんまり”な光景に俺達は絶句する他ないが、オッサンの股下から飛び出した”内容物”は空中に飛び出るやいなや、凄まじい風圧と低音で粉々の塵になって霧散していた。
確かに、これならば後は残らない。
だけど・・・・
「おっと、
そう言うなりヘクター隊長が体勢を反対向きに変え、今度はベルトにしがみつく形になりながらお尻だけを外に突き出した。
「こうすれば、ちゃんと
「・・・・・」
『・・・・・』
あ、うん、そりゃできるだろう。
本当に
何度も言うけど正直
取り敢えずの”実演”を終えたヘクター隊長がベルトから身を起こし、
「それじゃ俺は前に行くよ。
安心しろ覗きゃしねえ。 安全の為に”音”は聞くけどな」
「・・・・」
そうやって、軽口を叩きながら下ネタを打ち込むヘクター隊長を、モニカが”絶句”という表情で見つめる。
するとヘクター隊長の表情が心外だとばかりに歪んだ。
「そんな恐い顔するな。 これが”空の作法”だ、すぐに慣れるさ。 それより狭いところに一緒に居るんだ、せめて仲良くしよう」
そう言いながら、俺達の手を無理やり握って握手するヘクター隊長。
彼は少しの間上下に動かしてしっかりと握手したことをアピールすると、そのまま前の席の方に移動していった。
どうやら本当に使い方を説明してくれただけらしい。
残されたモニカがその手をじっと見つめる。
ヘクター隊長が握ったその手には、まだその時の熱と感触が残っていた。
『・・・手・・・洗ってた?』
『あ、・・・・ああ・・・』
ああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!????
・・・その後、結局俺達は予め用意していた携帯トイレを使うことになった。
モニカの方は問題なかったのだが、俺の神経の方が大空での”大放出”に耐えられず拒否したからだ。
世の中には、許容できぬことも有る。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
俺達の最初の目的地、デジャンの街の姿が見えてきたのは、太陽が傾いてはいるもののまだ夕焼けには程遠い頃だった。
やはり1日700kmと少しというのは飛竜にとっては短い距離らしい。
ゆっくり目に行ったというのに、まだまだ余裕があるからな。
デジャンの街は、”街”といってもアクリラやピスキアに匹敵するような都市ではなく、本当に人の集まる部分が1つあるだけの小さな”街”であった。
空から見ると、直径4km程の円形の城壁で覆われた範囲に街の全ての機能が詰まっている感じか。
大型生物の生活を考慮していないのか、建物や道幅も小さめなのも詰まっている印象を強めている。
街の外には農地が続いているが、それ程広くはない。
本当に街道の結節点に自然発生した街という感じである。
強いて見慣れない物を上げるとすれば、街の中心部に高さ400mを超す細長い鉄塔が建ち、その上部から周囲に指向性の強い光が放たれていることくらいか。
これはトルバなんかで盛んに導入されている、”街間光通信”の中継塔で、魔力で増幅したレーザー光の点滅で信号のやり取りを行う通信システムだ。
近年、魔力波通信を補う形で
そのうちアクリラにも建つのかな。
非常に背の高い塔は、質のいい魔鉱素材がふんだんに使われている証拠だ。
値が張るというのにそういう素材を使っているからには、アルバレスはこのシステムをかなり重要視しているのだろう。
この塔を折れば、デバステーターが何機作れるか・・・
いいや、そんな事は考えるなロンよ。
あれはアルバレス国民の貴重な血税でできてるんだ。
そんな簡単に壊していいものじゃない。
・・・あれ? でもそう考えるとデバステーターの素材ってアルバレスに請求したら良くないか?
アルバレスにとっての”俺達の価値”がどの程度かは分からんけど、この塔より安いとも思えんから案外・・・・
飛竜は一通り街を1周してから、街から何かの合図があったのか、最後の数百mをゆっくりと高度を落としていった。
だが流石に街の中への着陸は無理なのか、飛竜は街の外にゆっくりと着陸する。
飛び立つときは結構バタついていたが、着陸は滑空するだけで可能らしい。
着地の瞬間、一気に前方に強烈な力が掛かったのを除けば、滑るようだったと言ってもいいくらいだ。
そして地面にたどり着くなり、すぐにイリーナが御者台から飛び降り、下で見ていた街の衛兵と思われる軍装の者に大声で何かを伝えている。
その言葉はいつも聞いている物とは少し違う。
『アルバレス語かな?』
『ああ、飛竜の扱いと補給の指示、それから俺達の今日泊まる宿の指示をしているな』
『分かるの?』
『簡単なところはな』
これまで使っていた、所謂”マグヌス語”とアルバレスで一般的に使われる”オルドビス語”は方言の違いと言ってもいいくらい近しい言語だ。
もちろん単語などは半分くらい違うけど、それは辞書を引けばいい。
初めモニカの読書から文法や単語の意味まで割り出したのを思えば、簡単にも程がある。
今後は、この言葉もちゃんと翻訳されて表示されるだろう。
因みにこれから向かう、ヴァロア領は更にマグヌス語に近い”
こちらは全く問題ない。
というか、実は元々モニカが使っていたのが北方語のマグヌス訛りで、それがマグヌス語圏のアクリラで殆ど問題なく使えていたことからして、この大陸の言語は非常に強い互換性を持っているといってもいいだろう。
人の交流範囲が広い事が影響しているのか。
するとヘクター隊長が客室の側面扉を開けて外へと躍り出た。
「思ったよりもまともな街だな」
そしてそう言うと、こちらに向き直り手招きする。
「ほら、来いよ」
一方の俺達は荷物スペースでロメオの固定を解いている。
だが空で動いたせいか結びが硬い。
それでもなんとか固定を外すと、そのまま手綱を引いて客室から地面へと降りた。
足に感じる、なんてことのない土の感覚。
だがそれを少しの間モニカは感慨深い表情で見つめた後、感触を確かめるように何度か踏みしめた。
横ではヘクター隊長が飛竜に何やら話しかけ、飛竜がそれに唸りで返している。
イリーナはイリーナで、近くに居た者たちに一通り指示を出し終えた後は、また出発前に見せたのと同じ”紙の鳥”を作り出し、それを空へと放っていた。
相変わらず自由で緊張感のない面々だ。
まあ、旅って案外こんなもんなのかもしれないが。
予想通りというか、上から見ていた通りというか、まだまだ”トルアルム経済圏”の端っこに位置するデジャンの街の辺りの風景はアクリラ郊外とさして変わりはしない。
だが、実際にはここはもう”外国”でアクリラまで直線で700km以上あると思うと、なんだか心細い思いに駆られてしまう。
見た限り、ここはアクリラほど騒がしい街でもなさそうだし、いつの間にか俺はあの商人の街に”里心”のようなものを持っていたらしい。
◇
イリーナがしかるべき場所に飛竜を預けた後、俺達はとりあえず日が落ちるまでデジャンの街を観光することになった。
といっても土産物屋など碌になく、食料品にしたってアクリラでも見かけた内容を貧相にした感じなので、それ程面白いものはない。
まさに”見るところがない”とはこういう事を言うのだな。
しかも数少ない”見どころ”である”光通信塔”は軍事機密ということで、特別な許可がないと見学不能ときている。
一応、勇者であるイリーナが無理を言えば見れそうだったが、勇者クラスですら無理を言わなきゃいけないという厳戒態勢に、俺達の方がお断りしたのだ。
どうせそこまでやっても専門的な内容は説明されないだろうし、一朝一夕で理解できるものでもないだろう。
それならば、こうして街の中から見上げて動作を確認した方がまだ建設的。
『光るのと光らないのがあるね』
『片方は送信用で、もう片方が受信用のセットって感じだな』
それが様々な方向を向いて合計26セット用意されている。
あの一つ一つの先に隣の街があるのだろう。
点滅のやり取りで信号を送っているとのことだが、どういう仕組だろうか?
幾つもの街をネットワーク状に繋いでいるからには、何らかの通信プロトコルあるとは思うのだが。
まあ、その辺は最重要機密なんだろうな。
そうやって少しの間、通信塔に目を奪われた後は、イリーナとヘクター隊長を引き連れて職人街を見て回った。
といってもアクリラにあるような、専門的な職人が軒を連ねるようなのではなくて、色んなジャンルの職人がとりあえず一箇所に集まっているといった感じだが。
鍛冶屋ですら4軒しかなく、その他の職人は基本的に一軒しかない。
当然ながら技術レベルは及第点が良いところ。
質実剛健なアルバレス製の特徴は備えているが、それがなければ好んで使いたいとは思わないだろう。
だがその代わり、一軒の職人がいくつもの仕事を掛け持ちしているらしく、そこからもたらされる斬新な発想がそこかしこに見て取れた。
「そんな物を見て楽しいですか?」
モニカが、板金職人が飾りの木工細工を組んでいるところを食い入るように見ていると、横からイリーナにそんな声をかけられた。
だがモニカは返事もせずに、ずっと職人の手の動きを見ている。
できた製品の質が並でも、職人の手捌きは確かなモノがあり、それを嗅ぎ取ったモニカが真剣な面持ちで観察していたのだ。
そんな訳でイリーナに答えることはできない。
イリーナも鬼気迫るモニカの視線に何かを感じ取ったのか、それ以上声をかけようとはしてこなかった。
もっとも彼女の場合、すぐにそれどころではなくなるのだが。
「・・・も、もしかしてイリーナ様ですか?」
とある職人が、イリーナの正体に感づいたのだ。
まあ、街に着いてからずっと衛兵や偉いさんと思われる役人が、凄い勢いでイリーナに寄ってきては媚びを売るのでバレるのは時間の問題だったのだが・・・
そこから先は凄かった。
「イリーナ様! イリーナ様!」
「勇者様!」
人々が口々にイリーナの名前を叫び、その正体を流布してまわるので、職人街はあっという間に人だかりで埋め尽くされたのだ。
でも、さすが自国の英雄の知名度と人気は凄まじい。
いったい、この小さな町の何処にこんなに人が居たというのか、というほど人が湧いてきた。
さっきまでは閑散としていたというのに。
この騒ぎである意味で初めて、俺達は勇者というものが偉いもんだなという印象を持った。
これまではどちらかといえば、どこか遠くの存在といった印象が強く、実際にその1人と戦って勝ってしまったこともあってか、それほど大層な印象もなかった。
だが、1歩アクリラを飛び出して、アルバレスの街に住んでいる者にしてみれば、”勇者”という存在は、自分たちを守ってくれる”最強の存在”であり、”最後の存在”だ。
彼らがイリーナに向ける視線や声に含まれる様々な”感情”は、そのどれもが凄まじい信頼と熱を感じさせるものだった。
そして俺達はこれから、勇者以上にこの信頼と熱を向けられなければならない”立場”に収まってしまっていたことに、俺は静かな恐怖に近い愕然とした気持ちを抱え込んだ。
結局、俺達の”ブラリ街歩き”は直ぐに終了と相成ってしまった。
職人街に勇者が現れたことによる混乱もそうだが、その混乱を受けて、モニカが見ていた職人が手を止めてしまったのだ。
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