2-13【キラキラの2年生 6:~不公平かつ理不尽な試験~】
森の中を、受験生の少年の1人が目を血走らせながら進んでいた。
その足取りは疲れたように覚束なく、顔からはたった一晩寝てないだけだというのに生気がない。
「・・・あっ!?」
突然、悲鳴を上げて首の後を押さえる。
するとそこには2cm程の虫が噛み付いており、少年は慌ててそれを毟り取って潰す。
この小さな虫が、今では怖い。
最初は羽虫程度にしか考えておらず、実際に気を抜かなければダメージを受けることは無いはずだった。
だが少年の首や腕には、虫に噛み切られた小さな傷が無数に付いているではないか。
僅かな気の緩みや、長時間の身体強化で弱くなった箇所を虫達は逃さず噛み切ってくのだ。
これのせいで寝る事すらままならない。
また別の場所では、受験生の少女が大型のネズミと死闘を繰り広げていた。
ネズミといっても体長1mを優に超え、一回のジャンプで20mは飛ぶ大物だ。
そのクセ数だけは普通と一緒で、殺しても殺しても後から湧いてくる。
むしろ仲間の死体と少女の汗や垂れ流しの糞尿、飛び散った血の臭いに興奮して、どんどん強烈になっていた。
もう長くはない。
既に鋭い牙によって制服はボロボロになり、骨が見えている右腕はダランと垂れ下がっている。
今はただ残された左手で杖を握りしめ、攻撃魔法を乱射するのみ。
それも、遂に間に合わなくなる。
いつの間にか後ろに回り込んでいた一匹が少女の背中に飛びかかり、首筋に噛み付いて引き倒してしまった。
一気に崩れた所にネズミ達が殺到するが、もう少女には悲鳴を上げる余裕もない。
そして、数時間前からその様子を見ていた教師の1人が、”続行不能”の判断を下し助けに入り、彼女の今年の免許試験は終わりを迎えたのだ。
他にも誤って毒草を食べようとした者、ストレスに耐えきれず辞退を申し出た者、大蛇に絡みつかれ破れかぶれに放った魔法が”保護動物”に当たりかけた者など、
様々な理由で”失格”となった者が、この1日の間に続出していた。
継続行動能力に不安のある者にとって、この山岳地帯の環境は厳しい。
だが、同時にそれもあくまで”一面”に過ぎないのも事実だった。
所と人が変われば、まったく印象の異なる光景が広がっていたのだ。
ある者は早々に探知不能の結界を張って閉じこもり、試験終了まで石のように過ごす事を決め込んでいる。
またある者は、己の血に染み込んだ”魅了”の力を魔法でブーストし、その力で周囲の動植物全てを味方につけながら事態を有利に進めていた。
他にも、能力に余裕のある者たちの多くは、それぞれの方法で有利な環境を作り出し、さながら”パラダイス”的な空気感の中で、全ての困難を乗り切っている。
「およそ、半分といったところですかね」
2日目の夕暮れが近づいた頃、試験本部のテントに座る校長は、受験者のリストを眺めて呟いた。
つい先程までは、隣の医務室に次々担ぎ込まれる”失格者”達を慰め、”また来年があるよ”と励ますので忙しかったが、その流れもここ1時間程でパタリと止み、怪我した生徒も治療して帰したので暇になっていたのだ。
「あらかた、”最初の選別”は済んだというところでしょうな」
隣に座るグリフィスが唸る様にそう答える。
事務方寄りの者ばかりの中に大柄の戦闘教師がいるためなんとも不格好だが、彼はいざという時の緊急戦力としてここに残っているので仕方ない。
といっても会場内では一瞬で動き回れるスリードが目を光らせているので、彼の出番が回ってくることはないのだけれど。
ちなみに”最初の選別”とは、最初の1日目でサバイバル能力について”明らかな欠陥”がある者が弾かれる現象の事だ。
もちろん、彼らだって戦闘系教師の選別は受けているので戦闘力は申し分ない。
単純な実力なら、今残っている者よりも強い者もいるくらいである。
きっと
それでも弱点をカバーできなければ、この山岳地帯で1日過ごす事だって儘ならない。
そして残念ながら、そんな生徒には本人の命だって預ける訳にはいかないのだ。
「でも今年は少し脱落者が多いですね。 もう半分になっている」
「誤差の範囲でしょう。 手合わせした限りでは平均的に強く感じたくらいですよ」
校長の言葉にグリフィスは肩をすくめながらそう答える。
だが、それを聞いて校長の額の皺はむしろ深くなった。
「はあ・・・単純な戦闘力に寄っているのでしょうか。
もうちょっと、生存能力に関するカリキュラムを増やした方がいいかしらね」
「ああ、それはあるかもしれませんね。 ガブリエラ・・・様、の影響で、どうもここ数年”跳ねっ返り”が多い。 血の気が多いのは悪くはないが、それでも単純な強さに惹かれすぎてるきらいが有る」
そう言いながらポリポリと顎を掻くグリフィス。
「そうですか、やはり強烈過ぎましたからね彼女は」
強烈な強さというのはどうしたって眩しく、どうしても人を引き付けてしまう。
だが向上心があるのはいいが、全てを疎かにしてまで強さを求めるのは問題だろう。
「特に、あの”モニカ”は気をつけた方がいい」
「モニカですか?」
グリフィスの口から出た意外な名前に、校長の目が少し開かれる。
「ガブリエラの卒業以来、どうも様子がおかしい。
この前なんて、俺に”自分が嫌いか”なんて聞いてきました。
前はそんな、”危険な質問”をするような軽薄な生徒じゃなかったのに。
明らかに、無理に自分を強く見せようとしている」
「無理にですか?」
「ええ。 将来を考えれば、”勇者の小僧”に勝ったのは不味かったでしょうな。
ただでさえ”焦り”の多い子だ。
負けるべき相手に、ちゃんと負けておくべきだった」
グリフィスはそう言いながら、”試験会場”の方を睨んだ。
その目は真剣なもので、いかにも生徒の事をちゃんと見ている彼らしい。
「でも、モニカはまだ残ってますよ?」
それでも、リストを見ながら校長はそう呟く。
いつの間にか失格を示すバツマークの増えたリストの中で、モニカの名前にはまだ印はない。
「そういう話じゃないですよ、校長」
「でしたら、今は試験に集中してくださいね」
今は”試験”の真っ最中、気になる生徒の今後の方針は後において取り組まなければならぬ”職務”がある。
「・・・分かってますよ」
校長の言葉にグリフィスが姿勢を正す。
「まあ、今は平気でも”ここから”が本当の試験だ」
「グリフィス先生は、モニカが落ちると考えて?」
「どうでしょう」
グリフィスがニヤリと山岳地帯を見つめた。
「”獲物”のが減った分、これからは魔獣共の狙いが定まりやすくなる。
その中をどこまで逃げられるか、見てやろうじゃないか」
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
グリフィスの言葉通り、サバイバル試験の様相は大きく変わり始めていた。
現在、この地域に存在する8体の”魔獣”。
その”狩り”が本格的に始まったのだ。
すると、それに呼応する様にこれまで隠れていた受験者達が動き始めた。
”受験生”という異物が多く、半混乱状態で索敵能力が分散していた序盤と違い、これからは一つ一つの目標に対して確実に処理してく余裕が生まれる。
そうなると、唯でさえ強力な魔獣の探知能力を超えて隠れるのは困難になる。
目星がつけられた場所からは、できるだけ早く移動しなければ探知されてしまうのだ。
だが、だからといって動けばいいという訳ではない。
”動く”という行為は、それ自体が暴露のリスクを持っているからだ。
自分の隠蔽能力をどこまで信じるか、どの時点で動けばいいかをどう見極められるか、”引きこもり組”の静かな駆け引きは、その熱を増していた。
今も新たな”脱落者”が出た。
”隠蔽”自体は完璧だった。
だが魔獣化した狼の嗅覚は、僅かな魔力の揺らぎすらあぶり出し、周囲の状況から受験生を見つけ出したのだ。
他にも”積極的な逃走”を選んだ者達も、次々に魔獣に捕まっていた。
そもそも身体能力で圧倒する魔獣相手の追いかけっこは、基本的には分が悪い戦いになる。
この厳しい環境の中で昼も夜も関係なく追い回されては、いくら継続戦闘力に優れる者でも身が持たない。
中にはここ2日間、ずっと追われっぱなしだった者もいる。
2日目も終わる頃には、一旦止まっていた失格者の続出は、徐々にではあるが増えつつあった。
◯
疾風の如く駆け抜ける、炎を纏った狐の魔獣。
その目は爛々と輝き、その鼻はまっすぐに”獲物”を捉えていた。
しかもそれは只の”獲物”ではない。
この2日ほど、彼がずっと追い求めていた”大物”だ。
そして既にその傍ら、3人ほど”獲物”を仕留めていた彼はすっかり自信に満ちていた。
いずれも彼でも勝てぬ”強者”たち。
だが、この”狩り”の勝利条件は戦いでの決着ではない。
一発でも回避不能の攻撃を放つか、もしくは攻撃をもらうか・・・
とにかく”戦い”そのものに持ち込んでしまえれば、その瞬間、獲物の敗北が決するのだ。
そうなってしまえば、魔獣である火狐はかなり有利だ。
たとえ勝てなくても、相手よりも速く動け、正確に居場所を知れる魔獣であれば追い詰めるのは容易い。
安易に飛行魔法で逃げよう物なら、一瞬にしてその直下に移動し詰みとなる。
だが、”この獲物”に関してはそう上手くはいってなかった。
予想した通りかなりのやり手で、臭いや気配を紛らわす事に長けており、しかも向こうの方が気配察知が上手らしく、こちらが近づく前に逃げられていたのだ。
だが遂に今回、相手は大きな”ミス”を犯した。
全力で気配を潜めていた火狐に近づかれているにもかかわらず、狩りをして血の臭いをバラ撒いたのだ。
2日の間追い回し続けたので食事を取る暇がなかったか、それとこちらの気配を察知できずに今のうちに補給にと走ったか。
とにかく、その”獲物”は強烈な血と汗の臭いをバラ撒きながら、しかも呑気に立ち止まってた。
距離を詰めるには今しかない。
火狐は己の巨大な燃える体を起用に拗じらせ、彼にとっては小枝ほどのサイズの木々の隙間を飛んでいく。
脚の一掻きで鳥よりも速く加速し、ネズミが振り向くよりも早く過ぎ去った。
この森の住人ですら、彼を止められる者はそうはいない。
それでも、どんどん近づいてくるその”存在感”に火狐の身は震えるようだった。
明らかに規格外の上位者の存在感。
普通の獣ならば、感知した瞬間逃げるのが正解だろう。
だからこそ、この”バイト”は楽しい。
絶対に勝てぬ相手を追い詰める爽快感と、そこに向かうのを止めようとする本能を意思の力で捻じ伏せるスリルは何物にも変え難かった。
だが何故逃げぬ?
火狐は突然、薄ら寒い不安に襲われた。
この痺れるような”感覚”。
まるで山の様な大きさの目で見られているような錯覚を起こす存在感。
明らかにこちらを察知した事を示す、火狐の”第六感”が反応していた。
つまり”獲物”は確実に火狐の存在に気づき、なのに逃げなかったのだ。
不審に思った火狐は最後の一歩を緩め、その手前で止まることを選択した。
そこは、木々の間にある小さな平地の様な空間だった。
居心地がいいように草が整理され、虫や獣を寄せ付けないように結界が張ってある。
火狐はアクリラの生徒でもあったので、その結界が単なる虫除け程度の効果しか持ってないことはすぐに見抜いた。
だからこそ、怖いのだが・・・
火狐は、小さく生唾を飲み込みながら、その結界の中心に居座る”獲物”を見つめた。
それは唯でさえ火狐から見れば矮小な”人”の、更に小柄な部類に入る少女だった。
当然、火狐からすれば、撫でる加減を間違えただけで潰してしまうような大きさである。
だが、にもかかわらず、火狐はあと一歩の距離を詰めることができなかった。
”獲物”の真っ黒な目が、じっとこちらを見つめている。
その手にはこの”血の臭い”の正体である、狸のような小動物の死体が握られており、その首はない。
そして”獲物”の口元は、つい今しがたまで血を啜っていたかのように赤かった。
いや、”よう”ではない。
”獲物の少女”は火狐の事など脅威とも感じてないかのように”食事”を再開し、小動物の首の断面に口を当てて血を啜りだした。
「モニカ殿・・・貴殿の種族を考えると、吸血はあまりオススメしないでござるよ」
火狐がそう忠告する。
この”
同級生ということもあり、授業で何度も手合わせしたことがある。
当然、勝ったことはない。
いや、本気を出してもらったこともなかったか。
だが、モニカはそんな火狐に答えることなく、たた興味深そうな目を向けながら血をすすっているだけ。
「・・・感染症にかかると聞きますぞ」
火狐は続けてそう言う。
なんでそんな事をするのか、今は試験中で、自分は試験官だというのに。
するとモニカは、口から小動物を離し、その断面をこちらに見せた。
「大丈夫、ちゃんと”処理”してる」
その言葉を示すように断面には殺菌消毒用の魔法陣が。
かなり繊細な構成だが、器用なものだ。
残念ながら火狐の魔力操作能力ではこれほど細かい魔法陣は組めない。
炎を操作する魔法ならば息を吸うように上手くいくのだが・・・
「でも、思ったよりも美味しくないんだよね・・・はっむ」
モニカが少し不満そうにそう言うと、今度はその断面に噛み付いて肉を引きちぎる。
火狐は、モニカが生肉を少々不満げに咀嚼するのを眺めているしかできなかった。
その姿が、あまりに不釣り合いかつ似合いすぎていて、火狐の”本能”が全力で逃亡を指示していたのだ。
普段、モニカと何気なく接している者たちは怖くはないのか?
彼女はこんな姿をしているが、”中身”は正真正銘の”真なる獣”だ。
それも魔獣すら飲み込んでしまうほどの・・・
魔力に通じるこの街の住人でさえ、それに気づいているのは多くはない。
この辺りに住んでいる魔獣達ですら、彼女の気配から”その部分”を見抜けるものはほぼ居なかった。
火狐の知る限りスリード女史とアラン様を除いては、非常に恐ろしいことにモニカ自身も含めて、内包している”おぞましい恐怖”の表面しか理解していない。
ガブリエラの時も薄ら寒く思ったものだが、モニカのそれは遥かに”純度”の高い、より”危険性”の高い代物だ。
もう、殆ど”死”が闊歩し笑っているのと変わらない。
そんなモニカは、火狐をただじっと観察するように見つめていた。
「・・・なぜ逃げぬのですか?」
火狐が問う。
するとモニカは首を傾げて不思議そうな表情になる。
「なんで逃げるの?」
まるで、火狐に逃げるほどの価値があるのか理解できないと言った風な口ぶりだ。
「それは・・・これが、試験で、我輩がモニカ殿の”敵役”だからでござる」
そう言いながら火狐は右前足を上げる。
これを振り下ろしぶつけるだけで”失格”になるということを、モニカは本当に理解しているのだろうか?
そうすれば、たとえ火狐にそれを強制する力はなくとも、先程から一定の距離を開けてじっとこちらを窺う戦闘系教師がモニカを失格させるだろう。
なんの動きもない無表情で真っ黒な瞳からは、そんなことすら分かっているのかどうかも読み取れなかった。
するとモニカがニヤリと笑い、血で真っ赤に染まった口が大きく歪んだ。
「ためしてみる?」
次の瞬間、モニカが持っていた小動物の死体の尻尾を握りしめ、頭の上で振り回した。
遠心力で断面から飛び散る血の飛沫。
それが確かな臭いを放ちながら辺り一帯に広がっていく。
流石にこれには固まっていた火狐も反応し、既に振り上げていた右前足を振り下ろした。
だがその気合の入っていない攻撃は、ものの見事にモニカの姿を捉えそこねる。
モニカが高速で後ろに飛んだだけで、避けことに成功したのだ。
タタラを踏む形になった火狐だが、持ち前の魔獣の反射神経でもって崩れかけた姿勢を無理やり戻し、モニカに向かって追撃を入れようと身構えた。
相手は身の丈1ブル半にも満たぬ小人、こちらは尻尾を除いて10ブルを有に超える魔獣。
飛びかからずとも、首を伸ばすだけで・・・
「それで届けば苦労はせぬことくらい、知っておるでござるよ!」
直感を理性で捻じ伏せた火狐は、あえてモニカを飛び越すような勢いで地面を蹴った。
これでぶつかれば儲けもの。
だが、モニカは火狐の予想通り後ろに向かってものすごい速度で飛んでいる。
彼女の背中から、”つちくれに魔力を混ぜたもの”で出来た真っ黒な翼が飛び出した。
そして予想通り、間髪入れずにその中腹辺りから炎が吹き出し、その熱が火狐の鼻面を舐める。
だが、炎や熱は火狐にとってはどうというものではない。
その爆炎の中に躊躇なく鼻面を突っ込み、牙の先がモニカの足に届く・・・・
その時、火狐は本能的に自分が”罠”に掛かったことを悟った。
気づけばここは、つい一瞬前までモニカが”食事”をしていたところではないか。
当然、その温もりや臭い・・・さらには一部の魔力までもがその場に留まっていた。
自由落下速度よりも速く動いたので、モニカがバラ撒いた小動物の血すらも、まだ地面に落ちてない。
ちょうど円形に・・・そう、ちょうど火狐を中心にして空中に浮かんでいた。
・・・これではまるで、”魔法陣”のような形ではないか。
”血飛沫の輪”を、真っ黒な魔力が一瞬で駆け抜ける。
その反動で弾け飛んだ血液が、真っ赤な霧となって薄く広がった。
火狐の鼻腔の中を、大量の薄い血の臭いが全てを塗りつぶしながら駆け抜けていく。
全ての方向が血の臭いだ。
当然、モニカの臭いなど潰れてしまって判断できない。
これを逃せばマズイ!
そう直感した火狐は、口を大きく伸ばしてモニカの足を咥えんと勢いよく噛み付きにかかる。
だがそんな破れかぶれが通じるわけもなく、魔獣以上の反射神経でもってひらりと躱されてしまう。
そのまま、今度は逆方向に”爆炎による加速”を繰り出したモニカは、その小ささを最大限活かして火狐の脇の下をスルリと抜けて、一瞬にして火狐の視界から消えてしまった。
そして悪いことに、なぜか”臭い”までも感じることが出来ないではない。
火狐は体勢を立て直すために周囲の木をなぎ倒して転がりながら向きを変え、モニカの抜けていった方向をすぐに向いた。
だが、当たり前のようにそこに姿はない。
火狐は必死に臭いを嗅いで、辺りを探る。
残念ながら、あまりに一瞬すぎて、この場に充満している”モニカの臭い”に鼻を取られ、何処にいるのか判別できなかった。
いったい、どんな魔法がかけられたのか。
監視していた教師に動きが無いことを見るに攻撃魔法ではないのだろうが、あまりに一瞬すぎて、なんの魔法か判別できていなかった。
少なくとも火狐の知る限り、あれはモニカが普段よく使うような類の物ではなかった事は確かだ。
いや、今はモニカを追うべきだ。
だが、この辺一体にモニカの臭いが残っていて、これでは判然とするまでにかなり遠くに逃げられてしまう。
そう考えた火狐は、モニカの去った方向に適当に当たりをつけ、モニカが食事していたこの空間自体から飛び出した。
と、同時に、火狐の老獪な部分が適切な対処方法を思い至らせ。
モニカは今、口元に小動物の血をベットリと付けている。
つまりモニカの臭いに血が混じっているのを追うのが”正解”だ。
それに気付いて
”それ”は、すぐに見つかった。
だが恐ろしい事に、もう数百ブルは進んでいる。
慌てた火狐は、弾かれた様にそちらに向かって飛び出した。
臭いが近づく。
だがその時、更に奇妙なことが起こった。
別の方向からもモニカの臭いがしたのだ。
「どういうことでござるか・・・」
火狐が立ち止まり、より詳しく探るために臭いをかぐ。
だが、そうやって息を吸い込むたびに、モニカの数はどんどん増えていった。
右も、左も、上も、下にも!?
混乱した火狐がその場でグルグルと周り出す。
だがどこを向いてもモニカの臭いでいっぱいだ。
おまけに近くにも感じるし、遠くからも匂う。
気づけば、森中がモニカに変わってしまったかのようである。
嗅覚にかなりの感覚を依存している火狐にとって、それは視界を奪われたに等しい状態だった。
いや、もっと悪い。
嗅覚に引っ張られる体と、視覚に引っ張られる頭がぶつかり合い、どこにも行けずに回りだしたのだ。
◯
『思いの外、うまく行ったみたいだな』
『ね? 言ったとおりだったでしょ?』
モニカがしたり顔で、次元収納の中に今回使った道具などを入れていく。
だそれはいつも使っているのとはだいぶ毛色の違う魔道具達で、草や動物の毛を燃やした灰がこびりつく香炉のようなものや、他にも木の枝などに偽装した魔力回路の部品等もある。
『ああ、これで少なくともアイツは追ってこなくなるな』
俺はホッとしながらそう言うと、その言葉に間違いないかを確かめるように、向こうの方でグルグル回ったままの火狐君の動きに注意を向けた。
試験開始早々、この”親愛なる同級生君”に悟られた俺達は、なかなか振り切れずにいた。
最初は簡単かなと思っていたのだが、彼から隠れるのは思ったよりも困難な事だったのだ。
俺達は持てる物を総動員して逃げ続けた。
だが足の速さこそ互角だが、他の魔獣に気づかれる恐れがあるので派手には動けない。
穴や岩に隙間に隠れてみても、臭いを探知されているので効果は薄い。
じゃあ臭いを消せばいいじゃないかと、以前偶然手に入れた【体臭強化】を分解して、違う臭いや、そもそも無臭になるように改造してみたのだが、魔獣の鼻には効かなかった。
モニカによると、獣が嗅いでいる”臭い”ってのは様々な臭いの複合で、それらを総合的に判断しているのだという。
このスキルでは、体臭の中でも操作しやすい、汗に分泌される臭い成分を操作して打ち消したり増幅したりしているので、皮脂や毛の臭いは消せないらしい。
そればかりか、”魔力の臭い”を識別できる魔獣相手では悪手でしかなかった。
そこからはもう地獄だ。
泥にまみれ、香りのキツイ草を擦り込んでも効果はなし。
結局、糞山に突っ込んでも効果がなかった事を見て、沢山の臭いの中から特定の臭いを炙り出すのはワケないと判断してこの方法は諦めた。
なら臭いを消してやろうと、再び素っ裸で川に飛び込み水で洗い流しながら移動する事にしたが、これも駄目だった。
相手が犬とかなら効果あったのだろうが、相手は論述大会に出るような規格外の狐だ。
僅かな手がかりから、あっという間に行動を特定され、川に沿って先回りされたのだ。
リアルタイムで把握はされないが、むしろこちらの索敵能力が減る分、マイナスの方が大きい。
なので付いていた糞が流れたところで、この作戦は切り上げた。
次に使ったのは【転送】スキルと【体臭強化】スキルを組み合わせた攪乱作戦。
内容は、スキルで体臭の強化された汗を無理やり絞り出し、そこに色んな所の垢やら何やらを混ぜ込んだ物を【転送】スキルでそこら中にバラ撒いたのだ。
おかげで、この周囲10km程の範囲に俺達の臭いが大量発生する事になる。
だが結論を言えば、これは火狐には効果がなかった。
一応、他の魔獣には効果があるみたいで、追いかけてくる事は無くなったのだが、何度も近くで接して俺達の”本当”の臭いを知っている火狐君は、インスタントな囮には興味すら示さなかったのだ。
まったく、不条理にも程がある。
こちとら、乙女の恥じらいを全て投げ捨ててまで臭いをバラ撒いたというのに。
まさか、こんな厄介な相手がいるとは思いもしなかった。
いや、もし苦手なのがいた時の対応を見るための試験だ。
文句はいえない。
じゃあ、どうすんのかとモニカと半日ほど逃げながら、ああでもないこうでもないと対応を検討した結果、全く別のアプローチを試すことにした。
そもそもの問題は、火狐君の中に”モニカの臭い”という標本データがある事に集約される。
これの精度が高いせいで、いくら臭い対策をしても意味がない。
じゃあ、いっそその標本データを狂わせてやれと、モニカが提案したのがこの作戦。
使うのは門外漢もいいところの”呪術系魔法”。
といっても、こんな事もあろうかと・・・というよりかは、偶然取ってた”魔法概論”の授業で紹介されていた例をそのまま使っただけなのだが。
なので呪術といっても大した事はしていない。
今回使ったのは、思い込みや刷り込みの類に近いだろう。
”催眠術”といった方がいいかもしれない。
時間がかかるのが欠点だが、既にずっと追いかけられているので関係ない。
やったのは火狐君が持ってる”モニカの臭い”の情報を、別の物に置き換えるという事。
そのためにゆっくりと火狐君を撒きながら、”儀式場”を整えていった。
今回収した即席の香炉には、燃やすと幻覚を起こす成分の含まれた草や動物の毛などが入っている。
といっても、これだけだと効果はないほど少量しかないのだが、適切な配置に適切な魔力、それと適切な演出があれば大きな効果を発揮する。
長時間この臭いを吸い続けた火狐君は、無意識に不安を募らせていたはずだ。
そして全ての準備が整ったところで、俺達の”儀式”は始まった。
まずモニカが、近くにいた小型犬程の大きさの狸の仲間を狩り、その首を落として魔法陣の”アンカー”とした。
次にその血を浴びるのだが、どうせならとモニカの要望を聞く形で、久々の”生き血ストレート”とあいなったわけである。
ところがこれが予想外に不味かった。
俺だけじゃなくモニカまで不味いというのだから本当に不味い。
吐いたけど一応美味かったプロクロスとは大違いだ。
まあ、それでも飲んだんだけど。
そうして、なんとか口元をベッタリと血で汚した俺達の臭いは当然、かなり血生臭くなっている。
もちろんそれだけじゃ意味はない。
こっからが勝負だ。
予想通り、血の臭いという分かりやすい”鼻印”を得たことでこちらを認識した火狐君は、物凄い速度で近寄ってきた。
初めて見たとき、ここ数日ずっと認識し合っていた事もあってか、その凛とした佇まいになんだかキュンとしたのは内緒である。
それからモニカには、ひたすらありとあらゆる方法で”得体のしれない感”を演出してもらった。
すると元々、不安にさせていた事もあるが、火狐君の顔色はわかり易いほど真っ青にかわり、意味もないのにこちらを警戒して攻撃の手を止めてくれた。
もし臆せず突っ込まれていたら、台無しだったはずなのに。
ここでやる事は1つ。
火狐君にハッキリと、モニカの”存在”を認識してもらう事。
そうやって火狐君の中で無意識に俺達の臭いが単純な”モニカ”から、”モニカ+血”に置き換えるのだ。
別に長時間話す必要はない。
実際、ほんの少しで必要十分に足りたので、すぐに”実行”へと移ることができた。
実行した魔法には、相手の精神に僅かな酩酊を起こす作用がある。
こうすると、先程刷り込ませた”モニカ+血”という臭い情報脳に焼き付けられ、火狐君の中の単なるモニカの臭いの情報が消え去ってしまう。
しかも魔法起動時に飛散させた薄い血の霧のせいで、その割合は時間と共に”血”の配分が多くなるという寸法である。
濃い臭いなら意識して分別するが、意識にも残らぬほど薄いせいで情報が刷り込まれていても気がつけないのだ。
それと、ガチガチの魔道具専門の姿しか見ていない・・・いや、むしろそれを見すぎたせいで、火狐君は俺達がまさかこんな”怪しい技”を使うとは思ってもいなかったのも大きい。
想像以上に綺麗に決まった呪術の効果で、俺達を認識できなくなり、今では血の臭いを俺達と勘違いしてグルグルとその場を回っている。
血の判別ができてないのは、与えたのが曖昧な情報だからだろうか?
まさか、嗅覚惑わすだけで狐がこんなふうになるとは。
あとは見られないようにそっと移動してやれば、もう彼に見つかる事は無いだろう。
そしてそれは俺達のお手の物だった。
※※※※※※※※※※※※※※※※
目の前で夜の帳が晴れ、眩しい太陽が登るのが見える。
『夜明けだ』
結局、一晩中かけて俺達は火狐君のいた辺りから移動してきた。
他の魔獣に気付かれないようにこっそり移動したので、山を3つ程越えただけだが、それでももう火狐君の探知に引っかかる心配がないだろう。
モニカが地面にピタリと耳をつけて、周囲の状況を探る。
カッチカチに凍っているおかげで地平線の彼方まで足音が聞こえた氷の大地と違い、湿気て柔らかいこの辺の地面ではせいぜい数kmがやっとだが、それでも結構な範囲の事が手に取るように分かった。
『モニカ、北の方にいるデカイ反応は魔獣か?』
『ううん、違うよ、たぶん猪系、かなり大っきいけど魔獣じゃない』
『なるほど』
モニカの答えを聞いた俺は、早速その反応に”大猪”とマーキングを振る。
こういう細かい判断は経験とセンスが物を言うので俺は従うのみである。
こうして反応をマークしておけば足から入ってくだる振動情報で追尾できるし、時折しっかりと判別してやれば見失う事もない。
マメに索敵をしていれば、敵と出会うことすら稀なのだ。
この辺の塩梅は、さすが”凄腕ハンターモニカ”と言わざるを得ない。
決して抜かる事が無いので、”先の懸案事項”が片付いた今、もう俺達を追える存在はこの山岳地帯には存在してないと言っても過言じゃないだろう。
・・・いや、例外として試験官の戦闘系教師が時折近くに寄ってくるが、これは”制服のバッジ”の信号を頼りにしているのでどうしようもない。
とにかく晴れて俺たちは、追ってくる存在から開放された。
あとは今日一日過ぎてしまえば、明日の夕方には試験終了になって免許が無事に発行されるのを待つだけ。
今なら、なんだったら寝る余裕すらある。
『これからどうする?』
『うーん、しばらくはここで”様子見”かなぁ。
この近くは魔獣も居ないみたいだし』
よっしゃ、休憩だ!
いくら可能だといっても、3日連続昼夜関係なく山の中を走り続けるのはキツイからな。
『これも食べないといけないしね・・・』
そう言ってモニカが次元収納から取り出したのは、表面が少し干からびた狸の死骸。
火狐君を煙に巻く時につかったアレだが、持ってきていたのだ。
ただ次元収納にナマモノを入れると、どうしても水分が飛んでしまうんだよなー。
『食べるのか?』
俺は若干不満げにそう聞く。
実際、食べたくない。
この”狸のような何か”だが、たとえ干からびてなくても大変美味しくない。
それはモニカの基準でそうなのだから、俺の方は”
臭いのもそうだし、食感も悪い、何より単純に味が不味い。
モニカもそう思ったのか、ちょっと困ったようにその”首無し狸”を見つめている。
『うーん、でも狩っちゃったし・・・』
『まあ、せめて焼いてみようぜ、ちょっとはマシになるだろうさ』
『うーん、そうだね』
モニカはそう答え、とりあえず調理用の熱魔法の準備に移った。
その時だった。
『・・・・!?』
『何だこりゃ!!』
突如、頭の中で警告音が鳴り響き、俺達の感覚が大型の物体が高速で近づくのを感知する。
しかも、明らかにこちらを目指しているではないか。
『見つかってる!?』
『それどころじゃねえ!!』
魔獣達に見つからないからと気を抜いてしまった。
だが、何事にも例外があるように、俺達の”粗末な足掻き”など物ともしない存在が
だが、いくらなんでもそりゃないだろう。
確かにこの試験は、”不平等かつ理不尽な、落とすための試験”と聞いていたけれど・・・
だが、それにだって限度はある。
その、全てを一蹴してしまうような圧倒的存在感は、こちらの動くスピードを遥かに凌駕しており、逃げるとか、隠れるとか、そういう”小細工”が通用する次元ではなかった。
俺もモニカも、ただ”その存在”が迫ってくる方向見つめながら、目の前の木々がマジックのように消えて無くなるのを黙って見ている他なかった。 そして魔力を吸って鋼鉄より硬いはずの木々を飴細工よりも軽いノリで吹き飛ばした”そいつ”は、巨大な蜘蛛の体を大きく広げ、土を巻き上げながら俺達のほんのすぐ手前で止まる。
モニカの視線が、ゆっくりと上に上がっていく。
それにつれ、視界に映るものが巨大な大蜘蛛から、その上部に付いた裸の美女へと移っていった。
そしてお互いの目が合うと、裸の美女の顔がニヤリと笑う。
「やあやあ、
その”理不尽の化身”こと、スリード先生はそう言って笑みを浮かべていた。
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