第6話 嫌な予感

 とおはレクリエーションルームに帰ってきた。

 白亜の壁に、ワックスが塗られて光沢を帯びた木目調のフローリング。個人、グループといった様々な人の利用が想定されているため、置かれている机の形状の種類も豊富だ。お洒落な図書館のような室内を進み、一年A組の面々が占領している丸テーブルへと向かう。


「(……平常心、平常心)」


 そう、自分に言い聞かせる。

 甲板デッキでキャットに言われた事や、迫りつつある『裏側』のせいもあって、依然としてテンションは低いまま。それでも、不安な気持ちは可能な限り心のうちに押し隠す。せっかくの旅行なのだ。自分のせいで雰囲気を悪くする訳にはいかない。


「あ、マキちゃん! おかえりー」

「ただいま翔子。何してるの?」


 この動画を見てるの、と紫縁の眼鏡を掛けたかたばねしょうは、テーブルの上に置かれたかみやなぎたかすみの携帯端末を指した。先ほどSNS上で見つけた不毛な争いではなく、狭いスタジオの中でグランドピアノを弾く少女の映像。ロックバンドの楽曲をアレンジしたと思われるアップテンポなリズムが聞こえてくる。


「これって……もしかして翔子!? すごい上手じゃない!」

「えへへ、ありがと」


 椅子に腰を下ろした遠江が目を丸くすると、片羽は身を捩るようにして含羞はにかんだ。


「翔子、ピアノ弾けたんだ」

「うん、小学校の時に本土で習ってたから。今は下宿にある電子ピアノを趣味で弾いてるくらいで、たまに商業地区マーケットのスタジオを借りてグランドピアノに触ってるの」

「んで、俺が聞き役としていつも呼ばれてるって訳だよ」


 テーブルの上で腕を伸ばして携帯端末を支えている上柳が付け加える。


「別に毎回呼ばなくてもいいって言ってるんだけどな」

「だって一人で弾いてても面白くないんだもん。せっかくスタジオを借りてるんだし、感想を言ってくれる人がいないとつまんないよ。小説とか絵と一緒で、音楽も誰かに聴いてらう事で初めて意味が生まれるんだから」

「そうか? まあ、俺は退屈しないし良いんだけどさ」


 それはもうデートなのでは? と思ったが、本人達が気付いていないようなので黙っておいた。


 動画では丁度演奏が終わったようで、『ど、どうだったタカ君?』『さすが翔子だな、やっぱすごいよ』『本当!? 良かった、じゃあ次も聴いてね!』と大変に仲睦まじい会話が繰り広げられている。ぐぬぬ、拙者の知らぬ所で平然とイチャ付きおってからに……、と何やら黒い呟きが聞こえた気がしたが無視する事にした。


「……あれ、マキちゃん?」

「なに?」

「うーん、上手く言えないけど、?」

「っ」


 友人におもんぱかるような眼差しを向けられて、思わず息を飲みそうになる。完全なる図星。気を付けていた事もあり、何が原因でそう思われたのか分からない。内心の動揺を悟られないために、無理やり顔に笑顔を貼り付けた。


「ううん、何もないよ」

「そう? なら良いんだけど」


 降り積もった新雪みたいに純粋な顔付きを柔らかく和ませて、上柳が持つ携帯端末の画面へと視線を戻した。一呼吸置いてから次の曲が始まる。またもや流行歌をピアノ用にアレンジしたような感じだ。


「(……あれ、この曲)」


 聞き覚えがあった。

 音楽プレイヤーに入れて何度も聞いた訳ではなく、CMソングと同じで意図せず何度も聞いている内に耳がリズムを記憶してしまった感覚に似ている。


「こ、ここここの曲はっ!!」


 贅肉を蓄えた体を震わせながら、陣馬じんばが太い手で口許を覆う。


「『バインド』の新曲っ!? 仕事が早すぎるぞ片羽殿、まだアップされてから二週間も経っていないと言うのに!!」

「陣馬君、バインドを知ってるんだ」

「知ってるも何も大ファンでござるよ! SNS時代も含めて全ての動画は視聴&保管済! ホームページに公開された音源だって速攻で全部ダウンロードした! ブログだって更新されれば毎回コメントしている!!」


 ネットの歌姫『バインド』。

 半年前くらいに彗星の如くSNSに現れたネット上の歌手である。本名や年齢は不明。ただ歌声から少女である事だけが分かっていた。始めはSNSに投稿しているだけだったが、最近では動画サイトにも活動の幅を広げている。遠江も同級生クラスメイトに薦められて動画を視聴した事があった。


「すごいね片羽さん、完璧だよ」


 身を乗り出して携帯端末を覗き込んだ実国みくにが、オリンピック選手の規格外のプレーを目の当たりにしたような口調で、


「リズムや音程を原曲通りに模倣トレースしているだけじゃない、ピアノならではのアレンジが加わってる。こんな短期間で完成できるレベルじゃないよ、一体どうやって編曲アレンジを考えているの?」

「うーん、どうやってって言われても……」


 細い腕を組んだ片羽が、まだ授業で習っていない問題を先生に出されたような顔になって、


「聴いた歌を、こう……何となくピアノで表現しようとしてるだけだよ。そうしたら勝手に指が動いて、曲になっていっていくの。弾いてる途中で楽しくなってリズムとか音を付け加えちゃうこともあるけどね」

「悪いなウィンター、その辺の事を翔子に訊いても無駄だぞ」

「?」

「翔子の場合、音楽に限らず芸術関連は全て『感覚』なんだ。理屈も理論も一切存在しない。ただ受け取った情報を翔子なりに吸収して、自分が思ったままに出力しているだけ。多分この曲だって、今もう一回弾いても全く同じアレンジにはならないと思うぞ。頭の中にさえ明確な楽譜がある訳じゃないからな」


 そもそも翔子が楽譜を見てピアノを弾いてる姿なんて何年も見てないし、と上柳は付け加えた。


「(つまり、感覚だけで編曲作業を行ってるってこと?)」


 編曲アレンジとは、非常に難しくて繊細な作業だ。

 ただボーカルの声を音階に変換するだけではない。大前提として、聴衆オーディエンスが抱いている、あるいは曲自体が持っているイメージを崩してはいけない。その上で楽器の特性を活かせるように工夫し、演奏者の特色や想いまで音に込める必要がある。


 言うまでもなく、『音』には明確な理論が存在する。

 普通の人は、この科学と呼んでも差し支えのない体系を基礎から学び、莫大な経験を積むことで、ようやく一人のクリエイターとして人々に認められるだけの作品を生み出せるようになる。


 だが、片羽翔子にはその基礎が存在しない。

 超天才なホームランバッターと同じだ。誰にも教わらず、構え方すら知らないままでも、バットを持って打席に立てば『何となく』ホームランを打ててしまう。地道に努力を積んできた常人の数年間を、たった数秒に縮めてしまう暴挙。野球に詳しくない人からすれば、一体何が凄いのかすら分からないだろう。


 おそらく、片羽翔子は常人の何倍も感受性が豊かなのだ。


 そこに知識の有無は関係ない。常人なら知覚すらできない情報を全て受け止めて、それらを自分だけが理解可能な書式フォーマットに変換できる。それもバインドの大ファンだと豪語する陣馬に違和感を覚えさせない程の高精度で。これはもう、努力では到達できない領域に踏み込んでいるとしか思えなかった。


 演奏が終わったタイミングで、実国がぽつりと呟いた。


「確か、バインドはラクニルの生徒だって噂されてるんだよね? 本人は何もコメントしてなかったはずだけど」

「だけど、実際にそのバインド? って女の子が界術師だとして、どうして公表しないんだ?」


 ネット文化に疎いのか、上柳はいまいち実感を掴めていないような声音で、


「漫画やドラマで舞台になるほど本土じゃラクニルって人気があるんだろ? 界術師だって人口の0.25%しかいないって話だし、それだけで注目を集めそうなモンだけどな」

「そんなに簡単な話じゃないのよ、本土には『界術師排斥派ナチュラリスト』なんて呼ばれる連中もいるくらいなんだから」


 声を潜めた遠江が、真剣な顔で首を横に振った。


「いくら六家連盟が界術師の印象を向上させようとした所で、異能者と一般人が違うという事実は変わらない。界術師とは抜き身の刃物を持った隣人である、なんて排斥派ナチュラリストの主張だって理解できない訳じゃないし。賢明な判断だと思うわよ、悪目立ちするリスクを回避したんだから」


 そういうモンか? と、どこか腑に落ちない様子で上柳は引き下がった。


「……っ、」


 不意に。

 片羽が華奢な腕で、こめかみの辺りを抑えて顔を伏せる。


「どうした、翔子?」

「ううん、大した事ないよ。ちょっと頭痛が……」


 すぐに痛みから回復したのか、片羽はぎこちなく笑ってみせる。しかし眼鏡の位置を元に戻すその顔には深い陰翳が落ちていた。何かを口にしようとして、それを躊躇って唇を閉じる。不安そうに眉根を寄せて、判断を求めるような視線を上柳に向けた。


「タカ君、その……何だか嫌な予感がするの。多分これ、いつもの『アレ』だと思う」

「……マジで」


 額に手を当てた上柳が、長く息を吐き出しながら天を仰いだ。隣では片羽も悄然と肩を落としている。和気藹々とした空気は霧散して、梅雨の曇り空を思い出させる重たい雰囲気が周囲に停滞していた。


「……どうしたのよ二人共、まるでこの世の終わりみたいな顔をして」

「お告げだよ……マキは知らないかもだけど、翔子の『嫌な予感』は当たるんだ。天気予報みたいに中途半端な精度じゃなくて、百発百中で、確実に」

「信じられない。だってそれはもう、予感じゃなくて予言じゃない」


 話の流れが見えてこないせいで、自分でも分かる程に表情が怪訝なものになっていく。


「でもタカ、僕達には片羽さんの言葉が本当だとは思えないんだ。なんでタカはそこまで信じられるの?」

「昔に色々とあったんだよ。あれは俺がまだ子どもの頃だ……翔子と俺の家族で山に遊びに出掛けた事があった。有名な心霊スポットが近くにあって、度胸試しで皆で行ってみようって話になったんだ」

「そこは事故の多いトンネルでね、近くに新しい国道ができたから何年も前に封鎖されてたの。その日も『嫌な予感』がしたから、私は行かない方が良いって言ったのに……」

「その時は誰も翔子の言葉を信じなくて、せっかくだから帰る前の夕方に向かう事になった。でも車で行ってみても何もなかったんだ。拍子抜けして帰ろうってなった時に事件は起こった……車のエンジンが掛からなくなったんだ」


 しん、と。

 いつの間にか、テーブルに座った全員が上柳と片羽の怪談に聞き入っていた。


「携帯で助けを求めようにも何故か圏外、気付いたら辺りは暗くなってきた。まだ十歳になってなかった俺達を連れて閉鎖された山道を歩いて下りるなんて現実的じゃない。いよいよ本格的にヤバいってなった時、急に翔子が車から飛び出してトンネルに向かって頭を下げたんだ」


 ごめんなさい、ごめんなさい、って何度も謝りながらな、と上柳が静かに言う。


「そうしたらエンジンが掛かったんだ。だけど、なかなか翔子が車に戻って来ない。何をしてるのかって見てみて驚いた。トンネルの方じゃない、まるで自分のすぐ隣に何かが居るみたいに微笑んで、ありがとうって呟いたんだ」

「……、」

「年末や夏休みにテレビで放映される心霊特集なんてレベルじゃない。翔子には本当にえるし、聞こえるんだ……そう言うオカルトの類いが」


 誰も、何も言えなかった。

 上柳の話を鵜呑みにした訳ではない。それでも真剣に語るその言葉を、真っ赤な嘘だと割り切る事ができなかったのだ。


「(本当に、そんな非科学的な事が……?)」


 幽霊や心霊スポットは界力術でも再現可能だ。

 明峰家の『儀式術式』にはそういう神話や伝承を利用した術式を操る死霊使いネクロマンサーがいる。辰岡家の『精神術式』を使えば相手に幻覚を見せる事だってできるし、鎮西家の『結界術式』なら意図的に機械だけを不調にする空間を生み出せるだろう。


 だが、いくら理屈と知識を総動員しても超自然現象オカルトを完全に否定できなかった。


「(翔子の感受性は人の何倍も強い……それに、嫌な予感の事もある)」


『ラプラスの悪魔』という有名な物理学のエピソードがある。

 世界に存在する全物質の位置と運動量を把握して、それを正確に解析することができれば、未来を見透すことができるという考え方だ。残念ながら、完全なる机上の空論。全物質を把握なんてできないし、仮にできたとしても正確に解析できるスパコンは存在しない。一秒先の未来を導くために一秒以上掛かってしまえば本末転倒である。


 だが、極めて限られた範囲に絞ってみたらどうだろう。


 もし、本当に。

 片羽翔子がオカルトを認識できるとしてだ。


 常人には知覚すらできない情報を受け止めて、それを自分だけが理解可能な書式フォーマットに変換する。蓄積された情報を脳が無意識の内に解析してしまえば、それは『嫌な予感』という形で表面化するのではないか? 受け取る情報量が常人とは段違いであるため、殆ど『予言』と変わらない精度を持って。


「別に、私が特別な訳じゃないよ」


 真面目な顔で、片羽は付け加える。


「知らない事も、分からない物も、この世界には沢山ある。私にえているモノだって、広い世界の中の限られた一部分でしかないの。だから、私もみんなと同じ。


 それは、人より多くの物がえるがゆえの悟りなのか。

 純粋無垢だと思っていた友人の口から語られた言葉は、背筋を冷たくするだけの説得力を持っているように感じた。


 頭を抱えた上柳が、思い詰めたような表情になって、


「分かってもらえたか? これが翔子の『嫌な予感』を信じる理由だよ」

「た、たたたたタカ殿、拙者そういう怖い系の話は苦手なんでござるが!?」

「こんな話もあったな……あれは中等部一年の時だったか? 俺が夏休みに本土の実家に帰ったら――」

「ひぃぃぃ! やめて、お願いだから続きを話すのをやめるでござる!! 夜中にトイレに行けなくなったらどうしてくれるのだっ!!」

「大丈夫だバカ、そんな話し方をしてるヤツの神経がそこまで細い訳がない」

「それとこれとは心臓の強度が変わってくるのだ!! この歳で漏らしたとでも周りに知られれば自殺レベルの恥になるぞ!! タカ殿は拙者に一度しかない青春を棒に振れと言うのか!?」


 ぎゃーぎゃーと割と真面目な顔で上柳に詰め寄る陣馬を見て、遠江は難しい顔のまま頬杖を付く。やっぱり高澄君が引いたのは貧乏クジだったんじゃ……、と溜息をかざる得なかった。

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