025 / 悪魔の生まれた日

※ 前回のあらすじ


 とうごうしょうじゅんは裏側への手掛かりを見つけるため、しろあきらと共に投棄地区ゲットーで活動を始めた。なかなか成果が得られず焦りを感じ始めた頃、神隠しの噂を聞きつける。

 情報の真偽を確かめるために訪れた投棄地区ゲットーの端で、何者かによって打ち破られた金網フェンスを発見した。この先に何かあるという確信に従い、第二校区との緩衝地帯である森の中へ入って行ったのだった。


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 深夜の森は、布擦れの音すら遠くまで響き渡りそうなほど静かだった。


 業務用の巨大な冷凍庫を想起させる気温の中、とうごうしょうじゅんしろあきらと共に穴の開いた金網フェンスを通り抜けて、壁のような暗闇を進んでいく。

 さっきまで燦々と月明かりが降り注ぐ草原にいたせいか、辺りを埋め尽くす暗闇を半端なく濃く感じた。一寸先すら見通せないため、ゴツゴツした樹皮に触れて手探りで進んでいくしかない。何も見えないという状況が閉塞感となって息が詰まる。まるで墨汁が満ちたプールに溺れたようだと感じた。


「お、おいショージュン、大丈夫か……?」

「……ああ、問題ない」


 湿った腐葉土から盛り上がった樹の根に足を取られながらも、何とかバランスを保つ。

 一度でも人間の手で整備された投棄地区ゲットーの森とは違い、この辺りは最初から放置されていたのかもしれない。分厚い自然の天井を形成するのは鬱蒼と生い茂る梢や葉。隙間から差し込む月明かりはほぼ皆無だ。暗闇に目が慣れない現状は、たいまつを持たずに洞窟を進んでいるのと変わりなかった。


 ゆっくり進んでいると、ツンとした異臭が鼻孔を刺激した。饐えた鉄臭さを嗅いだ瞬間、脳裏には鮮烈な赤色が浮かび上がる。途端、猛烈な吐き気が喉元へ込み上げた。

 

「お、おいショージュン……あれって、まさか!?」


 御代が指した先。

 薄く差し込んだ月明かりに照らされた樹の幹は真っ赤に濡れていた。よく見れば一箇所だけではない。ここで水風船が破裂したように辺りに赤色が飛び散っている。


「なんだよ、これ……血? 嘘だろ、ふざけんな」


 わなわなと唇を震わせた御代が後ずさる。


「ここは、本当にラクニルなのか? こんなモン、俺が生きてる世界とは違――うおっ!!」


 ドスン! と何かに躓いて盛大に尻餅をついた。無事を確認しようとそちらに視線を向けてみて――絶句した。


『人』がいたから。


 いや、正確には真っ赤な池に浮かんだ人型の肉塊。苦痛から逃れようとしてか両目は限界まで見開かれている。魂が抜けて石膏のように白く硬くなった肌。顔が鮮烈な表情に彩られているはずなのに、藤郷にはそれが精巧な人形にしか見えなかった。

 着ている服も妙だ。黒で統一されたどこかの国の民族衣装のようなデザイン。体のラインが浮き出すインナーには金属のような光沢があり、どんな素材を使っているのか解らない。羽織っているのは大きく胸元の開いた造りのローブで、両肘の内側から切れ目が入って流線型に開いていた。所々に施された金刺繍は幾何学的な模様を描いており、日本人とは別の感性が見て取れる。


 ようやく暗闇に目が慣れてきたのか、辺りの光景をはっきり認識できるようになってきた。まぶたを閉じて今すぐ逃げ出せ、と理性が叫ぶ。鼻の粘膜にこびりついた異臭のせいか、異常事態に感覚が冴え渡っているせいか、その予感には妙な確信があった。


「……はは、なんだこれ」


 その光景――を確認した後、乾燥した口からは渇いた笑いが漏れ出した。テラテラと不自然な光沢を帯びた赤い粘液に彩られた夜の森。どうしたらここまでおびただしい景色を生み出せるのか想像もできない。CGをフル活用したファンタジー映画に登場する怪物が人間を食い散らかした跡だと言われて信じられそうだ。


 もぞり……、と視界の端で何かが動く。

 見てみると、黒い衣装を着た男が樹の幹に背を預けて四肢を投げ出していた。光が弱く明滅を繰り返す瞳。苦しそうな呻き声は聞こえるが、周囲の地面は流れ出した血で赤く染まっている。風に吹かれた蝋燭の炎のように、命そのものが薄まっているように見えた。


「(まだ、息がある)」


 感情が思考に追い付いていないのか、自分でも驚く程に冷静だった。

 地面に縫い止められていた両足を無理やり動かして瀕死の男に近づいていく。


「アキラ、妖精の悪戯フェアリー・ウィズパーを使って情報を聞き出すから離れてくれ」

「あ、ああ……解った」


 呆然とした表情のまま、御代は立ち上がって離れて行く。充分に時間が経ってから、藤郷は眉間の奥にあるすいたいに意識を集中させて界力術を発動させた。左手を片目に添えた藤郷の全身から淡い緑光が溢れ出す。粘度の高い暗闇を少しだけ遠ざけ、ぐったりとした男に右手を向けた。


命令コード――】

 

 妖精の悪戯フェアリー・ウィズパーの発動に必要な条件は『動揺』。実力カラーに差があったり動揺の度合いが弱かったりすると抵抗される事もあるが、死に瀕した男の精神状態にそこまでの余裕があるとは思えない。意識さえ残っているのなら妖精の悪戯フェアリー・ウィズパーの効果が及ぶはずだ。


【――俺の質問に全て答えろ】


 パチン、と右手を鳴らす。

 ビクッと黒い衣装を着た男の肩が小さく震えた。すぐさましゃがみ込んで問い掛ける。


「お前らは何者だ? どういう目的があってラクニルに来た?」

「……、」


 しかし、男は答えない。薄い呼吸を繰り返すだけで何も反応を示さない。


「どうして……? 妖精の悪戯フェアリー・ウィズパーは効いているはずなのに」

「……もうそんな余裕が残ってねぇ、とか?」


 歩み寄って来た御代が自信なさげに言った。尻餅をついていた時よりは幾分か顔色が戻っている。異常に慣れたというよりは、余りにも大きすぎるショックで感覚が麻痺したと言った方が正しそうだ。


「ショージュン、もうここまでにしよう……これ以上は俺達の踏み入っていい領域じゃねぇよ。引き際を見誤れば泥沼に嵌まっ――」

「……我々は、ひいらぎ……『グランマ』の直属部隊……」


 今にも消え入りそうな声が弱々しく暗闇を揺らした。藤郷は片手を上げて黙るように御代に伝え、瀕死の男へと耳を傾ける。


「……本作戦の目的は、寺嶋家が隠匿する秘密……通称『第一校区の秘密』の正体を突き止め、交渉材料を手に入れること……それはひいらぎにおける最大優先目標である……と判断されて、いるためであり……」


 声が聞こえなくなった。薄く開いていた両目からは完全に光が失われている。全身から生命の気配が消失し、景色の一部に溶け込んだように存在感が希薄になっていた。


「第一校区の、秘密だと……?」


 唖然とした御代が、血の気の引いた顔で言った。


「有り得ねぇよ、そんなのSNSの中だけに存在する噂話でしかねぇんだぞ。それにこいつは柊って言ったか? 都市伝説の『柊グループ』が絡んでるって言ってるのか……? はは、意味が解らねぇ。素人の描いた漫画の方がまだ現実味があるぜ」

「アキラ、俺達はこの先に進むべきだ」

「……ショージュン、頼むから冷静になってくれ。自分が何を言っているのか解ってんのか?」

「冷静になるのはアキラだ。よく考えてみろ、俺達は情報を聞いてしまったんだぞ。それも明らかに関係者以外の耳に入ったら駄目な類いの秘密さ。すでに死地に踏み込んでしまっているんだよ、法律も常識も庇ってくれない戦争の最前線と同じだ。ここから先は自分で自分を守るしかない。正確な情報を手に入れて、敵よりも先手を打つしか生き残る方法はないぞ」


 言いながら、ローブを結ぶ革製のベルトを押しのけて息絶えた男の衣装を物色していく。墓場を荒らしているような気分になって良心が痛んだが手は止めない。すると胸の内ポケットから何やらシリコン製のカバーに覆われた黒い物体が出てきた。片手に収まる程度の直方体。おそらく通信用の界力武装カイドアーツだろう。


「強制はしない、どうするかはアキラが決めてくれ」


 コートのポケットに入れてから立ち上がり、試すような眼差しを御代に向けた。


「ああもう、解ったよ! そんな目で見るな! 巻き込まれたのは癪だが、結局ここまでついて来たのは俺の意志なんだ! いいぜ、最後まで付き合ってやる!! それに俺だって先が気になってるんだ、ここまで来たら結末まで見届けてやるよっ!!」

「よし、なら進むぞ」


 物音を立てないよう慎重に歩き始める。

 ぐちゃり……、と何か柔らかい物を踏んだ。地面がぬかるんでいる理由を考えたくはない。羽虫が密集するゴミ捨て場を想起させる最悪な臭気に全身が冒されるが、浮ついた思考を鋭利にするには適した刺激だった。


「な、なあショージュン、これって……」

「絶対に下を見るな、前だけを見て進め。一度でも緊張が途切れれば平常心を保てなくなるぞ。崖っぷちに立った俺達の背中には、常に恐怖という死神の手が添えられていると思え」


 木の幹や地面に飛び散った赤色を手掛かりに、地獄の奥へと進んでいく。しばらくすると辺りが少し明るくなった。森が途切れているのか、乱立する木立の隙間から差し込む月明かりが暗闇を細く裂いている。

 二人は森から抜けて、ぽっかりと開けた場所に踏み入った。教室程度の面積しかない狭い空間。切り立った山肌に面しているため、視界に開放感はない。地面を覆うのは下草であり、歩く度にサクサクと音がした。


「……なんだ、あれは?」


 洞窟の入口、だろうか?

 人が通れそうな大きさの穴が岩壁に開いていた。暗くて中まで見通せないが、人の手が加わっているようには見えない。少しだけ躊躇ったが、御代と視線を交してから進み始める。洞窟へと近づき、穴の中を覗き込むために懐中電灯を取り出して――


「――へぇ、これは意外なお客様だ」


 ビクッ!! と痛い程に心臓が収縮する。慌てて声の主へと視線を向けた。


 月明かりに照らされていたのは、長い銀髪の男子生徒。

 左右に分けた前髪の隙間に覗くのは、全てを見透しているような切れ長の両眼。中性的な顔付きに貼り付いた笑みは曖昧で、容易に胸の裡を読ませてくれない。すらりとした長身。雰囲気は大人びているが声の調子はまだ幼い。年齢自体は殆ど変わらないのではないだろうか。下草に長い影を落として静かに佇むその姿はひどく異質で、景色から浮いて見えた。

 だが、何よりも異常なのは着ている第一校区中等部の冬服ブレザーだった。剥き出しの両手や頬を含めて、飛散した血液が少年を赤く彩っている。その凄惨な姿は巨大な斧を携えた処刑執行人をイメージさせた。


「あれは、返り血……なら、あいつがこれを……!?」


 後ずさりする御代を見て、銀髪の少年はふっと唇の端を綻ばす。そのまま何事もなかったかのようにこちらへ歩いてきた。


「君達、一般生徒かい? 困ったな、こういう場合の対処は想定してないのに。だけど、まあ迷う事はないか。守るべきは有象無象の命よりも、大局を左右する情報なんだから。無断で立入り禁止区域に入った君達が悪いんだ、自らの行いと不運を悔いながら死んでくれ」


 一歩、また一歩。

 酷薄な笑みを浮かべた銀の殺戮者が、ゆっくり死を運んでくる。


「――ッ!!」


 それは、刹那の閃き。

 藤郷は黒いロングコートの内ポケットに入れておいた球状の物体に触れて、ごとっと足下に落とした。


 閃光手榴弾フラッシュ・ボム

 カチッ、とプラスチック同士が擦れる軽い音が漏れ出した瞬間。


「伏せろ!!」


 手榴弾のような見た目の界力武装カイドアーツを思いっきり蹴り上げた。


 途端。

 カッッッ!! と莫大な閃光が世界を白く埋め尽くした。


「逃げるぞアキラ、全力で走れ!!」

「あ、ああ!」


 二人して慌てて走り出す。途中で振り返って煙幕弾スモークグレネードも投擲した。球状の物体が下草の上で白煙を吐き出しながら勢い良く回転している。岩肌と森に囲まれた狭い空間はすぐに白に染まった。


「(あいつは……っ!?)」


 振り返ってみるも、もくもくと立ち込める白煙の向こうから追ってくる気配はない。森へと飛び込み、息を切らしながら来た道を戻っていった。



        ×   ×   ×



 劣化したアスファルトの道路を蹴り飛ばし、とうごうしょうじゅんは暗闇の中を疾走する。

 視線の先に見えてきたのは手作り感満載の木造の小屋だ。二人が拠点にしている工房ラボ。乱暴に引き戸を開けて、狭い室内へと転がり込む。すぐ後ろからはしろあきらも入ってきた。二人で慌てて扉を閉めて、真っ暗な室内で崩れ落ちた。


「……何とか、逃げ切れたか?」


 仰向けに倒れた御代が荒い呼吸の合間に言った。


「みたいだな……走っている最中も気にしていたが、追ってくる気配はなかった。見失ったんだよ、きっと。これでもう大丈夫だ」


 引き戸に背中を預けながら言葉を紡ぐ。真冬の深夜だと言うのに額からは汗が止まらなかった。俯いていると鼻の先から床に落ちていく。胸の中では安堵と興奮が渦潮のように混ざり合い、しばらく落ち着いてくれそうになかった。


「ショージュン、大丈夫か? あの程度の運動で動けなくなってたらこれから大変だぜ?」

「……これから?」


 先に起き上がった御代の手を借りて起き上がりながら、藤郷は怪訝そうに眉を寄せた。


「アキラ、まさかお前まだこの件に関わるつもりなのか? きな臭い事には関わらないって言ってたのに」

「当たり前だろ、ここまで来たら最後までお前に付き合うよ。裏側に関わるのは反対だったけど、すでに関わっちまったんなら話は別さ。結末を知らないまま舞台を下りるれるかっての。それに優秀な技術者エンジニアは必要だと思うぜ?」


 興奮気味に告げた御代は、うきうきとした足取りで工房ラボの作業場へと入って行った。電池式の電気スタンドのスイッチを入れる。余りに現実離れした光景を見て冷静な判断力を欠いているのかもしれない。机に向かって何やら細かい作業を始めた御代は、母親に黙って夕飯を摘み食いする子どものように楽しげだった。


「(……多分、俺達は逃げ切れていない。あの場から逃がされたと考えるべきだ。瀕死の男の言葉を信じるなら、敵は第一校区を管理する寺嶋家。今夜は大丈夫でも、少し時間を掛ければあの場にいた生徒が俺達だと突き止めてくる。『第一校区の秘密』の正体を知った訳じゃないけど、このまま何もないなんて生温い展開はならない)」


 藤郷は作業台の下から背もたれのない円椅子を取り出して腰を下ろした。


「(だが、いくら秘密を知ったとしてもすぐには処分されないはず。俺達は表側の一般生徒なんだ、殺すにしろ拉致するにしろ手順やお膳立てが必要になる。いや、大人しくしていれば案外監視されるだけで済むんじゃないか? 下手に事を大きくすれば困るのは寺嶋家なんだから)」


 寺嶋家として最も困るのは、第一校区の秘密が外に漏れる事だ。下手に事を大きくして藤郷と御代を目立たたせれば、敵対勢力に二人が重要参考人であると知らせる事になる。今晩の目撃者が『銀髪の生徒』だけと仮定すれば、寺嶋家としても大人しく嵐が過ぎるのを待った方が賢明だろう。


「(監視が付くなら好都合だ。俺には妖精の悪戯フェアリー・ウィズパーがある、裏を掻いて情報を聞き出すチャンスが生まれるぞ。それに瀕死の男から通信用の界力武装カイドアーツも奪い取ってきたんだ。こいつを利用すれば連中の親玉に連絡ができるかもしれない)」


 藤郷は計画した犯罪が順調に進んでいる事を確認した強盗犯のように薄く笑った。


 裏側への手掛かりが、この手の中にある。

 最低限の能力しか授からなかった自分が界術師と成功するために、ようやくスタートラインに立つことができたのだ。込み上げるのは熱い高揚感。大声を上げて笑い出しそうになるのを必死に抑えた。


「……それで、アキラはさっきから何をやっているんだ?」


 はんごてのような専用器具を使って、細かい手作業を続けている御代へと訊ねた。刻印術式を使っているのか、尖った先端には黄色い界力光ラスクが灯り、蝋燭の炎のように揺れている。


界力武装カイドアーツの調整だよ、これからいつ必要になるか解んねぇだろ? 準備しておくに越したことはねぇと思ってさ。それとあの場所の情報も残しておいたぜ、他のヤツには絶対に解んねぇ方法でな」


 ニカッと御代は人懐っこい笑みを浮かべる。その浮かれた様子はまるで遠足の準備をしている子どものようだった。少なくとも藤郷が認識している危機感を抱いている様子はない。


「……、」


 ふと、頭を過ぎった疑問。

 


 これから始まるのは寺嶋家という巨大な闇を相手にした騙し合いだ。一度でも選択を誤れば即終了。直感という検知器を頼りに地雷原を歩き続けるようなもの。不良生徒ストリーデント同士の喧嘩とは訳が違う。

 天秤に掛けるべきはしろあきらの感覚だ。他の一般生徒と同じく無垢な思考回路しか持たないため、襲い来る裏側の悪意に対処できるとは思えない。いざという場面で取り返しの付かない失敗をする可能性は十分にある。そうなれば二人三脚で進んでいる藤郷まで地雷の爆発に巻き込まれかねない。


 二人で進むよりも、一人で戦った方が確実性が高い。

 万全を期するのならば、ここで御代を切り捨てるべきだろう。


「(……でも、本当にいいのか?)」


 何度も危ない場面を助けてもらったし、投棄地区ゲットーで短くない時間を共に過ごした。何より、すでに御代との繋がりは簡単に切りたくないと感じるほど強固なものになっている。利害関係だけで割り切りたくはないと感情が叫んでいた。


 友達。

 そんな間抜けで、それでも暖かい響きの言葉が胸の中に浮かび上がる。


 孤独こそが最大の武器だと認識しろ――そう告げた父親の言葉の意味を再認識した。何かを選択する時に、合理性や効率ではなく、感情という曖昧な要素で未来を決める。確かにこれでは到底他の誰よりも高みになんて至れない。こんなにも胸が詰まる想いになるとは思ってもみなかった。


「……綺麗事だけじゃ世界は回らない、か」


 不意に、藤郷の口許が愚者を見下すように歪んだ。

 この場面で思い出すのが、あの憎い男の言葉とはなかなかに皮肉が利いている。それでも納得している自分がいて吐き気が込み上げてきた。血は争えないという事か。


 藤郷は立ち上がると、今もまだ界力武装カイドアーツの調整を続けている御代に近づいて行った。


「……、」


 刹那の逡巡。

 チクリと痛んだ心を置き去りに、左手を片目に添えて右手を御代へ差し向ける。


命令コード――】


 淡い界力光ラスクが室内にわだかまった夜闇を追い払い、周囲を鮮やかな緑色に染め上げる。


「……ショー、ジュン?」


 言葉を失った御代が、呆然と藤郷を見上げる。ぼとり、と右手からはんごてのような専用器具がこぼれ落ちた。限界まで見開かれた両眼に浮かぶ瞳は、内心の動揺を映すように小刻みに揺れている。


「(悪いなアキラ、これが最善の選択なんだ)」


 迷いも、痛みも、後悔も。

 全て、奥歯で噛み潰す。


 そして、藤郷将潤はたった一人の友達に告げた。

 その顔に、悪魔のように冷たい笑みを湛えながら。


【――お前が投棄地区ゲットーで経験した全ての事を、忘れろ】

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