023 / 出会い

 記憶に焼き付いているのは、憎い父親――とうごうかげふみの怒りに満ちた顔だった。


 株式会社みつたにしょう

 化成品、環境、物流など様々な事業を展開する大企業。国際的にも有名で、日本人なら名前くらいは耳にした事があるだろう。中でも藤郷影史は化成品事業の統括者にまで昇り詰めた正真正銘の成功者。水を飲むために使うプラスチックのコップや、コンビニで貰える使い捨てのフォークなど、日常の中で何気なく使う製品の多くが彼の手腕によって市場に供給されている。年間約2兆円の売上を生み出している責任者と聞けば、如何に彼が破格の存在か少しは想像が付くだろうか。


 ――綺麗事だけじゃ世界は回らない。


 それが藤郷影史の口癖だった。謀略渦巻く大企業の出世戦争に勝ち残ってきた男らしい言葉である。


 藤郷影史にとって、社会的な地位こそが人生の全てだったのだ。画家として一生を終えた人間が、作品こそ人生だと思うようなものだろう。複数の銀行に貯金してある現金も、データで管理する有価証券も、権利を保有する土地の坪数も、結婚相手の家柄も、そして息子も、全て藤郷影史の人生の栄華を証明する道具でしかなかった。自分の人生は底辺に暮らす凡人とは違うのだと見せつけるための武器だったのだ。


 だから、息子――とうごうしょうじゅんには一流になってもらう必要があった。


 物心が付く前から始まった異常なまでの英才教育。語学、芸術、礼儀作法、武道、ユーモアまで……およそ人生において藤郷影史が必要だと考えるものが、一流と呼ばれる講師の手によって藤郷将潤に刻み込まれていった。


 そこに、藤郷将潤の意志や感情は含まれない。

 自由な時間など一切与えられなかった。音楽や映画などを鑑賞する自由はあったが、内容は藤郷影史が許可したものだけ。流行りの歌やゲームなど、同年代の子ども達が触れてきたであろう娯楽には一切触れる事を許されなかった。友人を作ったこともなく、父親の紹介以外で誰かと面識を持つ事すらなかった。


 ――いいかしょうじゅん、孤独こそ人間が最も力を発揮できる条件なんだ。信頼できる仲間も、偽りない自分をさらけ出せる居場所も必要ない。人生における無駄。自分以外を信じるな、孤独こそ最強の武器だと認識しろ。それが社会で戦うための絶対条件だ。


 きっとそれは、大企業という過酷な戦場で昇り詰めた男が辿り着いた一つの境地なのだろう。だが、幼かった藤郷将潤には到底理解できるものではなかった。嫌いな食べ物を無理やり口に詰め込まれるように、納得できない他人の価値観を受け入れざるを得なかったのだ。


 睡眠時間、食事の時間、休憩の時間、全てが藤郷影史に管理される生活。何不自由なく育ったはずなのに、感覚としては牢獄で苦役を強いられる囚人と同じだった。少しでも反抗すれば容赦なく殴られて、酷い時は食事を抜きにされた。睡眠時間を削って勉強させられた事もあるし、狭い部屋に長時間閉じ込められた事もあった。物理的にも、関係的にも、敵わないと理解していたため、どのような横暴にも大人しく従うしかなかったのだ。


 殺してやる。

 いつしか、藤郷将潤はどれだけ残酷に父親を殺すかを考えるようになっていた。


 ただ命を奪うだけでは足りない。地位も、名誉も、資産も、何もかもをぶっ壊して底辺に叩き落とした後でなければ、十年に亘って心に蓄積されてきたドス黒い感情が晴れる事はない。この憎い男を踏み付けて、命乞いさせた後で殺してやる。それだけを生きる糧に、藤郷将潤は辛い日々を耐えてきた。


 だが、その地獄は唐突に終わるを迎えることになった。

 藤郷将潤に界術師としての適性が確認されたのだ。



        ×   ×   ×



 ラクニル第一校区にある中等部一年の生徒寮。

 大勢の生徒が一度に通れるようにフロントは少し大きめに造られている。床には鏡のように景色を反射する石材のタイルが敷き詰められており、壁や天井も白を貴重とした現代的なデザインで統一されていた。絵画や彫刻といった豪華な装飾品がないのに、清潔な空間が十分な光量で照らされているだけで高級そうに見えるから不思議だ。


 自動ドアの近くに置かれたソファに座って、とうごうしょうじゅんは寮の管理人から手渡された手紙に目を通す。差出人の名前はとうごうかげふみ。いつか殺すと心に決めた憎き男である。


「……なるほど、アイツならやりそうな事だな」


 手紙と一億円の手切れ金が入った自分名義の通帳を交互に見て、藤郷は湧き上がる怒りを抑えられずグシャリと手紙を握り潰していた。実の息子に対して、まるでビジネスの相手に送るような事務的な言葉遣いで記された内容はそれだけ常軌を逸していたのだ。


 勘当――親子の縁を切るという一方的な宣告。

 だが法律的に勘当された訳ではない。本当の意味で縁を切るためには、虐待や育児放棄などの異常を家庭裁判所が認めなければならないからだ。この勘当宣告は精神的な枷でしかないが、父親を憎んでいる藤郷からすれば法律以上の強制力があった。


 勘当を宣告された理由は明白。藤郷に界術師の適性が見つかったからだ。


「……カイじゅつはいせき


 界力という異能が常識となって約七十年が経過し、ろっカイじゅつれんめいの努力の甲斐あって差別意識が消えつつあるこんにちにおいても、界術師を過剰に嫌悪する人間は存在する。中でも過剰に差別する人々は『界術師排斥派』と呼ばれていた。

 藤郷影史は界術師排斥派の中でも過激な主張を持つ一派に属していた。穢れた悪魔の血は排除するべきだと真顔で告げるような連中。息子に界術師の適性が見つかったとなれば、一方的な勘当宣告くらいしてもおかしくはない。


「これで、俺も自由になった訳か」


 握り潰した手紙をゴミ箱へと投じる。観葉植物の隣に置かれたゴミ箱へ綺麗な放物線を描いて吸い込まれる様子を、紫水晶アメジストの瞳でただ無感動に眺めた。


 不思議な感覚だった。

 ふわふわと落ち着かない。嬉しい……とは違う。胸中に去来しているのは前向きな感情だけではなかった。無数の針をやした感情の奔流。積もり積もった父親への怒りが、夜闇よりも真っ黒な復讐の炎として胸の奥でおこる。明るい光の中に生まれた濃い影の存在を認識して、藤郷の表情がはっきりと曇った。


「だけど、このまま終わるのは釈然としないか」


 ふと、一つの未来が浮かんだ。

 自分を捨てた父親の前に、界術師として成功して現れてやるのはどうだろうか。誰の力も借りることなく父親が悪魔と罵る存在として栄華を極め、父親よりも高い地位と名声を獲得した上で、高みから見下して踏み付けてやるのだ。悔しさで唇を噛んで首をむしる男の姿が目に浮かぶ。それはとても愉快な想像だった。


「さあ、反逆を始めよう」


 とうごうしょうじゅんは立ち上がる。

 こうして、少年の復讐劇が幕を開けたのだった。



        ×   ×   ×



 そして、一年半が経過した九月下旬。

 中等部二年生の前期が終了して、担任教師から貰った成績表を眺めたとうごう将潤じゅんは誰も居ない放課後の教室で眉間に深い皺を寄せていた。


「……解ってはいたが、やっぱりこのままじゃ駄目だ」


 学業の成績は申し分ない。芸術関連の科目も全てが最高評価。更には生活態度まで完璧ともなれば、誰もが認める優等生である。成績表の担任教師コメント欄にも、藤郷を称賛する言葉が何行にも亘って記されていた。幼い頃から英才教育を叩き込まれてきた結果、すでに彼は他の同級生よりも人間として遙かに高みに至っていたのだ。


 だが、界術師としては別だった。


実力カラーが緑じゃあ、何をどうしても限界がある……っ!」


 青、緑、黄、橙、赤、紫、黒、の順で上昇していくすいたい実力カラー

 一般的に界術師として仕事に就くためには橙色の実力カラーが必要とされている。学校側は努力次第で紫色まで上昇すると言っているが、それがやる気を引き出すための嘘だという事にはすでに気付いていた。このまま真面目に努力を続けて成功する保証はどこにもない。


「(仮に実力カラーが橙色まで上昇して、スタートラインに立ったとして、その後はどうなる? 本家や分家関係者の連中を差し置いて一般生徒である俺が成り上がれるとは思えない。界術師の閉じた世界じゃ、外様の俺がどれだけ頑張ったところで限界が見えているからな。目立てば連中の踏み台にされて終わるだけだ。正攻法に頼るのは無駄でしかないぞ)」


 誰かの力を借りれば話は変わってくるかもしれないが、ここまで一人で戦ってきた苦しみを否定するような気がして二の足を踏んでいた。それに孤独な成功者として昇り詰めた父親を見返すためには、自分も一人で成功しなければ本当の意味で見下す事ができない。


「(でも、希望は残っている)」


 藤郷将潤に発現した界力術――妖精の悪戯フェアリー・ウィズパー

 相手の意志を無理やり捻じ曲げるこの最低の界力術ならば、上手く使えば望むように世界を改変できるのではないか?


 日常生活で使ったとしても意味はない。学校生活を円滑に進めるために上っ面の関係を維持しているクラスメイトや教師に使っても高が知れている。せいぜい退屈な青春に彩りを与えるくらいの事しかできないだろう。


 踏み込むべきは、もっと深い場所。

 一般生徒が絶対に関わらないような世界の裏側。


 幸いな事にきな臭い噂ならいくつも知っていた。『リスト』や不良生徒ストリーデント、本土の裏社会と繋がりがあるとされる商業地区マーケットの裏側など様々。あとはそれらを組み合わせて、妖精の悪戯フェアリー・ウィズパーを活用してやればいい。


 藤郷は黒板の上に掛けられた時計に目をやる。窓から差し込む西日に照らされた針が示す時刻は午後四時五十分。もう少しで約束の時間だ。制服のスラックスのポケットに隠したカッターナイフの存在を確かめてから、藤郷は教室から出た。

 茜色に染まったリノリウムの床や白い壁。どこかで吹奏楽の練習をしているのかトランペットを吹く音が聞こえてきた。掃除ロッカーが伸ばす長い影を踏み締め、夏の名残のような蒸し暑さに満ちた廊下を進んでいく。


「(まずは情報収集からだ。いくら妖精の悪戯フェアリー・ウィズパーを持っているからと言っても、油断すれば足下を掬われて人生が終わる。俺が足を踏み入れようとしているのはそういう世界なんだから)」


 一階の校長室前に辿り着いた。

 第一校区中等部を管理する校長ならば、一般生徒や教職員には知らされていない情報を持っているはずだ。本当に公にできない情報は『統括議会セントラル』から漏れ出さないため、校長クラスが知っているのは『一般生徒でも関われてしまう程度の裏側』に限定される。最初の入り口としては最適な危険度だろう。


 ワックスが塗られて光沢を帯びたダークブラウンの扉。ノックしようと手を掲げた瞬間、全身を痺れされる緊張によって喉から水分が蒸発した。


「……我ながら、細い神経だな」


 これからしようとする事を思えば当然なのかもしれない。自虐的に唇の端を吊り上げた藤郷は控えめにノックする。すぐに返事があった。平常心という仮面を被ってから扉を開ける。


「待っていたよ、藤郷君。でも驚いた、相談したい事があるから二人きりで会いたいなんて。そんな事を生徒から言われたのは初めてだ」


 革張りの椅子に腰を掛けた校長先生は、柔和な笑みを浮かべて藤郷を迎え入れた。感じるのは優しい親戚のお祖父ちゃんのような親しみやすさで、微塵も生徒の言葉を疑っていないのがよく解る。


「それで、相談ってなんだい?」

「はい、実は校長先生に訊きたい事があるんです」


 何も知らない無垢な生徒を演じながら、藤郷は木目調の仕事机デスク越しに校長と対面する。


 シュッ、と。

 目にも止まらぬ速さでポケットからカッターナイフを取り出して、優しげな笑みの浮かぶ顔面に切っ先を突き付けた。レースのカーテンから染み込む夕焼けに照らされて、銀色が鋭い光を帯びる。


「……藤郷、君?」


 カチカチ、と軽い音を立てて刃が伸びていく。


 校長は言葉を失って固まっていた。まさか優等生である藤郷将潤がこのような凶行に走るとは考えもしなかったのだろう。驚愕に見開かれた両眼からは、内心のが容易に見て取れる。


命令コード――】


 カラン、とカッターナイフをその場に落とした藤郷は左手を片目に添えて、空いた右手を真っ直ぐに伸ばした。全身からは五月の新緑を思わせる界力光ラスクが溢れ出す。


【――俺の質問に答えろ】


 パチン、と。

 指を鳴らす渇いた音が室内に響く。



        ×   ×   ×



 とある休日の午後。

 とうごうしょうじゅんは第一校区の中央通りを歩いていた。


 第一校区のモノレールの駅から始まり、大きな学校行事の際に使われる『寺嶋メモリアルホール』まで伸びる一本道。各校舎を経由している関係で、山肌に広がる森を切り拓いて造られた道路はのたうち回る蛇のように曲がりくねっている。途中に分かれ道があり、全校図書館ライブラリー闘技場コロッセオのような主要施設に繋がっていた。


「……ここか」


 妖精の悪戯フェアリー・ウィズパーを使って不良生徒ストリーデントから聞き出した情報を頼りに、藤郷は中央通りから外れて森の中へと伸びる細い道路を進んでいく。左右に立ち並ぶ木立から落ちる木漏れ日が風に揺れて、商業地区マーケットのビル群の中では感じられない緑の香りが鼻孔にまとわりついてきた。陽が遮られているからか、日光に晒された中央通りよりも涼しいように感じる。


 細い道路を外れて森の中へと入って行く。歩いているのは何者かが頻繁に行き来した形跡のある獣道。薄らと湿った腐葉土を踏み付ける感触が足裏に貼り付く。顔の高さまで伸びた葉や茎が鬱陶しい。濃い緑の香りに包まれたまま、残暑を忘れてひんやりとした森を進んでいく。


 少し進むと、雨風で茶色く錆び付いた金網フェンスが見えてきた。何年も前に設置されたのだろう。土で汚れた木看板からは『立入禁止』の赤い文字が剥げ落ちている。いかに偉い大人達が関わりたくないかよく解る放置具合だった。

 しばし逡巡するように立ち止まってから、藤郷は身体強化マスクルを発動させた。鮮やかな緑色の界力光ラスクが周囲の影を塗り潰す。膝を折り、反動を使って金網フェンスを飛び越えた。ガサガザッ!! と草木が折れる音が静寂を引き裂く。


「……、」


 しゃがみ込んだまま周囲を警戒する。数分間は息を殺していたが、特に誰かに気付かれた気配はない。中等部に夏服に付着した葉や汚れを払い落として立ち上がり、再び森の中を進んでいく。少し歩けば何年も放置されて劣化したアスファルトの道路に出た。


「ここが、投棄地区ゲットーか」


 様々な理由から学校が管理を放棄して、書類上は存在していない事になっている施設や土地。責任を負いたくない大人達が誰も触れようとしないため、存在が黙認されてしまっている無法地帯だ。


 第一校区の中等部校長を皮切りに、藤郷は妖精の悪戯フェアリー・ウィズパーを使って多くの情報を集めてきた。裏側を利用すると言っても、そんなに簡単な話ではない。迂闊に手を出せば火傷するだけでは済まないだろうし、そもそも関わりを持つ事すら難しい。

 調査の結果を総合的に判断して選択したのが投棄地区ゲットーである。『リスト』や商業地区マーケットの裏側という選択肢も考えたが、どちらも危険過ぎると判断した。発現した界力術が解りやすい武力だったら話は別だが、直接的な暴力を持たない今の藤郷では上の人間に利用されるだけという結果が目に見えている。


「(だけど投棄地区ゲットーは違う。ここには複数の勢力が激突することで生み出された独自の『社会』がある。妖精の悪戯フェアリー・ウィズパーを上手く利用できれば俺だって上にいけるはずだ。組織の中核に入り込んでいけば自然と『裏側』への手掛かりが手に入る。そのためにも、まずは登場人物キャラクターとして舞台に上げてもらわないと話にならない)」


 劣化して表面が岩肌のようにボコボコしたアスファルトの道路の先で、高等部の夏服を着た男子生徒が立っていた。他に誰か人を連れている様子はない。どうやら計画通り一人でおびき出す事に成功したらしい。妖精の悪戯フェアリー・ウィズパーで思い込ませた別の不良生徒ストリーデントに連絡役になってもらったのだ。後はあの上級生を自分の命令に従う奴隷にしてしまえば足がかりの完成である。


「(さて、どういう風に投棄地区ゲットーを変えてやろうか。人間関係を滅茶苦茶にして組織を内部崩壊させてもいい、勢力同士の抗争に持ち込んでもいい。今ある仕組みをぶっ壊しさえすれば今度は俺が王になれる。情報だって手に入り放題だ)」


 上級生がこちらの存在に気が付いたらしい。訝しむように眉を曇らせつつ体を向け直してきた。


「なんだ、てめぇ……?」

「初めまして、予定通りですね」


 笑い出しそうになるのを堪えながら、藤郷は携帯端末にメモしてきた上級生の情報を読み上げる。この上級生は別の勢力から送り込まれてきたスパイである事は調べが付いている。上級生からすれば絶対に露見してはいけない情報だ。どこからか漏れていると知って動揺してくれれば、それだけで妖精の悪戯フェアリー・ウィズパーの発動条件は満たされる。


「……それが、どうした?」


 しかし、上級生の反応は淡泊なものだった。


「どうしたって……貴方の秘密が露見しているんですよ。この情報を俺が広めれば、貴方の立場はなくなってしまう。それでもいいんですか!?」

「そいつは困るけどさ、言い換えればここでてめぇをぶっ殺せば問題がない訳だろ? 人間の口を閉じさせる方法なんていくらでもあるよ。俺を追い詰めるために一人で投棄地区ゲットーに来てるのを見れば、他に仲間がいるとも思えないしな」

「……っ」


 狼狽して顔から血の気が引いていく藤郷とは対照的に、上級生は全身から橙色の界力光ラスクを迸らせた。身体強化マスクルを発動させたのだろう、鋭い眼光には獰猛な殺意が滲んでいる。


「(油断した、見込みが甘かった! ここは投棄地区ゲットーなんだ、まともな人間なんか一人もいない! 俺が想像しているよりも遙かに常識がぶっ壊れている!!)」


 舌打ちをした藤郷は、強張る体を無理やり動かして隠してある鞘付きの果物ナイフを取りだそうと制服の内側に手を伸ばす。

 相手を動揺させるための最後の手段。路上の喧嘩から殺し合いへと相手の認識のステージを上げさせる。投棄地区ゲットーにいる不良生徒ストリーデントとは言え、相手は裏側の存在を知らない一般生徒だ。本気で刺すつもりはないが、一瞬の動揺を生み出せるくらいのハッタリにはなるはず――だった。


「――ごがぁッ!!」


 一瞬だった。

 果物ナイフを取り出す暇すらなかった。

 

 身体強化マスクルを発動した上級生の姿を見失った直後、脇腹に鋭い衝撃を受けて体が吹っ飛ぶ。くの字になって岩肌のようなアスファルトに激突した。体を走り回る激痛に意識が遠のく。辛うじて体を起こすものの、ただ相手を睨み付けることしかできない。


 単純な暴力の差。

 戦術や頭脳では埋められない原始的な側面が、容赦なく藤郷を死地へと追い詰める。


 苦しそうに咳き込む藤郷を見て、上級生は勝ち誇ったように唇の端を震わせた。


「馬鹿なヤツもいたもんだ、何も考えなしに俺に喧嘩を売るなんてよ。丁度良い、テメェを次の風紀委員会様へのエサにしてや――痛ぁっ!?」


 ゴンッ!! と。

 飛んできた硬い物体が上級生の後頭部に直撃した。


「(……なんだ、これ?)」


 突然の衝撃に何やら大声で喚く上級生を尻目に、藤郷は困惑しつつ足下に転がった重たい球体に視線を落とす。戦争映画でしか見た事のない手榴弾にそっくりだった。パイナップルのようにぼこぼことした表面に、ナマズのひげを思わせる金属製の発火レバー。カチ、と何かスイッチの入ったような音が聞こえた。


 直後。

 プッッシュゥッッッ!! と猛烈な勢いで回転しながら白煙を吐き出し始める。一瞬にして視界が真っ白に染まり、自分の手を見る事すら困難になった。


「こっちだ!!」


 誰かに手を引かれる。咄嗟のことで反応ができず、されるがままに足を縺れさせながらも白煙から抜け出した。そのままの勢いで森の中へと突っ込み、体勢を低くしながら膝上まで伸びる茂木を掻き分けて進んでいく。


「お、お前は……?」


 中等部の夏服を着た男子生徒だった。

 手足の長い颯爽とした長身。男にしては少し長めの髪を後ろで一本に結っている。鼻の高い整った顔立ち。飄々とした物腰は歳不相応の落ち着きがあり、自分と同じ中等部の生徒には見えなかった。


「走れ!」


 長身の男子生徒の背中を必死に追い掛けていく。人の手が入っていない森はとにかく進みにくい。乱立する木々にぶよぶよとした感触の腐葉土。通学用の革靴がどのような惨状になっているか見たくなかった。

 迷いない足取りで先に進んでいく長身の生徒を追い掛けていくと、古びたアスファルトの道路へと抜け出た。背後の森を見てみても上級生が追ってくる気配は感じない。どうやら完全に逃げ切れたようだ。


「ここまで来たら安心だろう。大丈夫か、お前」

「あ、ああ……」


 ぎこちなく頷く藤郷を見て、長身の男子生徒はニカッと人懐っこい笑みを浮かべた。


「俺はしろあきら。お前は?」

「……とうごうしょうじゅん

「ショージュンか。オーケー、覚えたよ」


 そう言うと、御代僚は少し進んだ場所にある建物へと向かっていく。木材を積んで固定しただけの手作り感満載の納屋。立て付けの悪い引き戸を開けると、振り返って手招きをしてきた。中に入れということだろう。


「(敵意は感じない……だけど、こいつを信用する理由もない。あまり深入りするべきじゃないが、こいつの持っている情報には価値があるか)」


 制服の内ポケットに隠してある果物ナイフの存在を意識する。それにいざとなれば妖精の悪戯フェアリー・ウィズパーもあるのだ。ここはできるだけ情報を引き出しておくべきだろう。そう判断して、藤郷は納屋の中へと入って行った。

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