第20話 投げられた賽

《高等部一年生 六月》


※ 前回のあらすじ


 もし、とうごうしょうじゅん投棄地区ゲットーを変えるために、かどみやきょうすけの理想と反する選択を強いられているとしたら? それが何か『理不尽』によるものだとしたら? 藤郷将潤を救うことで、取り戻したかったあの頃が手に入るはずだ。

 そう確信したしろあきら――アキラは、藤郷将潤――ショージュンが一人で待つ小屋跡の二階へと向かう。ここが正念場、アイオライトの未来を決める『対話』が幕を開けようとしていた。


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 重たい鉛色の空からは、黒い雨が落ちてきていた。

 アキラは赤く塗装された金属製の階段を上り切った。カンカンと甲高い音が連続し、にびいろに錆び付いたトタンの外壁で反響している。サウナのような湿度で不快な汗が染み出してきて、左右に分けた前髪が頬に貼り付いた。


「……、」


 しばしの間、ささくれた木材が剥き出しになった古い扉を見詰めて立ち止まる。築何十年のボロアパートを思わせる佇まい。今までは自宅に帰るのと同じ気持ちで開けていたのだが、今ばかりは石の壁を押せと言われた気分になった。

 取手に手を掛けたまま何度か躊躇った後、意を決して『事務所』の扉を開けた。


 狭い部屋の中は、薄暗かった。


 中央に置かれた長テーブルと人数分のパイプ椅子。電灯は付いておらず、窓から差し込む灰色が調度品をモノクロに染めている。クーラーが付いているおかげで不快な湿度や熱気とは無縁だった。机の上には拡大印刷された投棄地区ゲットーの地図が敷かれ、将棋やチェスの駒が先週の会議を飛び出した時のまま配置されている。


「何をしに来た、アキラ?」


 パイプ椅子に座ってチェスの黒い騎士ナイトを持ったショージュンが、紫水晶アメジストの瞳で入口で立ち尽くすアキラを一瞥する。突き放すような眼差しに体が強張りそうになるが、無理やり唇を動かした。


「話をしに来た……大切な話だ」

「……、」

「回り道はしない。単刀直入に聞くぜ、だから正直に答えてくれ――ショージュン、どうしてお前はこんな事をしたんだ?」

「……こんな事、とは?」

「全部だ……アイオライトが風紀委員会と繋がっていると噂されていることも、アイオライトの分裂も、冷戦状態の維持も、全部含めてだよ!」


 表情から色を消したショージュンは、騎士ナイトの駒を持ったままアキラから視線を逸らさなかった。アキラは室内に踏み入り、長机の上に展開された投棄地区ゲットーの拡大地図の表面を指の先でなぞって、


投棄地区ゲットーは変わっちまった、きょうすけさんがいた頃とは完全に別モンだよ。俺は、この変化が藤郷将潤によって意図的に引き起こされたものだと考えている。それを確かめるためにここに来た!」

「買い被りだ、俺にそんな力はないよ」


 ショージュンは小馬鹿にするように小さく肩を震わせた。


妖精の悪戯フェアリー・ウィズパーを疑ってるなら見当違いだ。アキラには言ったはずだぞ、仲間には絶対に使わないって。それに実際に使っていないからこそ、俺がリーダーになってすぐアイオライトは分裂したんだ。あの流れはコントロールできるようなものじゃなかった、あの場にいたアキラなら解るだろ?」

「そうか? 分裂する流れを止められねぇにしても、加速させる事はできるはずだ。意図的に対立を煽ってやればいいだけだからな」


 拡大地図の上で倒れていた黒い兵士ポーンを摘み上げて、親指と中指で軽く挟む。


「だけど、仮にショージュンが俺に黙って裏で何かをしているとしても、そこに悪意があるとは思いたくねぇ。失いたくない、なくしてしまうのが怖い……そうやって言ったお前の想いを嘘になんかしてやらねぇぞ。お前は投棄地区ゲットーを変えるために戦っている。その一点だけは疑わずに信じてやれる。だったら導き出される結論は一つだ」


 かんっ!! と。

 兵士ポーンの駒をショージュンの目の前に叩きつけた。


「何かあったんだろ……俺達の居場所を壊すような選択をしなくちゃいけねぇ出来事が! お前の行動の軸を変えざるを得ないような理由が! ショージュン、お前は一体何に巻き込まれたんだ? どんな理不尽に苦しめられている? そいつは、?」


 バタバタと窓ガラスを叩く雨音だけが無言の空間を埋める。銃口を向け合うように、二人の視線だけが正面から激突した。


「いい加減、踏み込ませてもらうぞ」


 観客として見ているだけというのは性に合わない。

 舞台に上がって、登場人物キャラクターとして台本に干渉する。


「ショージュンが何を抱えてるのかは知らねぇよ……でも、それでも訊くぞ。本当にこうするしかなかったのか? もっと他の選択肢が、何も失わないような方法が、みんなが笑顔のままいられる未来だってあったんじゃねぇかよ! 俺は蚊帳の外だ、どれだけ目を凝らしても核心が見えねぇ。だからって意味も解らず巻き込まれるだけってのはスマートじゃねぇよなあ!!」

「お前に、何ができる……?」

「問題を解決してやるよ、ショージュンを苦しめているモンを全部俺がぶっ壊してやる! あの頃みたいに投棄地区ゲットーを本当に居場所に戻してやる!! お前が本当に欲しいモンはなんだ、少なくともこんな灰色の居場所じゃねぇはずだ! だったら戦えばいいだろうが、恭介さんがバラバラだった投棄地区ゲットーを青く染め上げたようにっ!!」


 アキラは青いリストバンド——アイオライトの魂の証を嵌めた右手をショージュンの目の前へと突き出す。


「こうなった今でもお前は俺の掛け替えのねぇ仲間だ! 困ってるんなら助けてやる、苦しいなら支えてやる! 勝手に諦めて、妥協して……それで大人になったつもりかよ! そんな後悔の残る選択だけは認めねぇ! 立ち上がれよショージュン、俺達が手を組めば変えられるはずなんだ! お前にその気があるならリストバンドを重ねてくれ、それで俺達はまた始められる!! ——だからっ!!」


 沸き上がってきた感情の全てを視線に込めて、アキラはショージュンを見詰めた。


「……、」


 しばしの沈黙。

 ショージュンは掲げられたリストバンドから目を離し、真顔のまま騎士ナイトの駒を黒い王キングの隣に置いた。


「なあアキラ。俺はさ、常に最善の一手を打ってきたつもりなんだ。相手の何手、何十手先まで読み切って、ようやくここまで漕ぎ着けた。色んなものを失ったよ、守りたいと願ったものを手に入れるために俺は傷付く道を選んだから」

「……?」

「その選択に後悔はないし、この先『計画シナリオ』を変えるつもりも一切ない。俺は自分が描いた『計画シナリオ』を完成させる。思い描く未来を手に入れるために必要なものは全て捨ててやる、その結果として誰と戦うことになっても」

「だったら、やっぱりお前が……!?」

「ああ、この状況は全て俺が創り出した。アイオライトの分裂による冷戦状態の継続も、風紀委員会との噂も、正体不明の何者かの暗躍も、全て俺の計画シナリオ通りだ」


 軽く両手を広げたショージュンは、投棄地区ゲットーの拡大地図を見下ろして歪に嗤った。


「簡単だったよ、わざわざ妖精の悪戯フェアリー・ウィズパーを使うまでもなかった。元々、投棄地区ゲットーは角宮先輩がいたからこそ繋がっていたからな。精神的な柱がいなったんだ、俺が何かするまでもなく勝手に崩壊していただろう。ほんの少し背中を押すだけで良かったよ」

「どうして、そんな当たり前みたいな口調で言えるんだよ……っ!」


 ギリッ、とアキラは歯軋りした。


「いいかクソ野郎、テメェがやったのは明確な裏切り行為だ! 俺だけじゃねぇ、ショージュンを信じてついてきた連中の想いを踏みにじった! そこにどんな正義があったかなんて関係ねぇ!! テメェは恭介さんが築き上げたモンを全部をぶっ壊したんだ、謝って許されるような軽い話じゃねぇ!! どうしてこんなふざけた事をしやがった!!」

「俺の目的は最初から変わらない、投棄地区ゲットーを本物の居場所にする。そのために俺は最適な選択を繰り返してきた。だから謝るつもりも、許されるつもりもない。それに——」


 わずかに間を開けて、すっと表情から色を消した。


「——アキラ、お前がそこまで辿り着いているのなら、俺にだって考えがある。計画シナリオとは外れる事になるが、お前には真実を教えてやってもいいだろう」

「真実、だと……?」

「ああ、俺の計画シナリオの全てを話す。その中に……いや、特等席にアキラの名前を組み込んでいい。だが、それには条件がある」


 ショージュンの紫水晶アメジストの瞳に突き刺すような鋭い光が浮かぶ。それは猛烈に責め立てていたアキラが思わず気圧させられてしまうほど、冷たくて、真っ直ぐな眼差しだった。


「全てを失う覚悟をしろ。アイオライトだけじゃない、第一校区の生徒という立場も、他の友人も、普通の生徒としての未来も、何もかも捨てる決意だ。それができるのなら全てを教えてやる。お前が知りたいことを、全て」


 話の規模が急激に変わったせいですんなりと飲み込めない。まるで家族の問題を議論していたら、それが急に国家規模の問題に発展したような――


「ここから先は一方通行だ、進んだら後には退けなくなる。よく考えて、慎重に結論を出してくれ。一週間後……来週の日曜日に答えを聞こう。敵として俺に銃口を向けるか、俺を信用してついてくるか、それとも投棄地区ゲットーから逃げ出すか。全てはアキラの選択に委ねるよ」


 キングの隣に置かれた騎士ナイトの駒を持ち上げて、ショージュンは問い掛けた——その品のある顔に、悪魔のような冷たい笑みを浮かべて。


「さあ決めてくれ。未来は、お前の手の中にある」


 黒い雨が、その勢いを増していく。



        ×   ×   ×



 折り畳み傘を差したアキラは、投棄地区ゲットーに伸びる古い道路を歩いていた。


「……何が、どうなってやがる」


 全てはショージュンが仕組んだ計画シナリオ通り。かどみやきょうすけが創り出し、アキラが必死に守ろうとしていたモノは、最も信頼していた友達によって破壊されていた。


 投棄地区ゲットーを本物の居場所にする。

 目的は変わらないはずなのに、どうしてここまで食い違う? それ程までにショージュンが隠している『真実』は大きな意味を持つのだろうか。だが、どれだけ想像力を膨らませたとしても、理屈を並べ立てたとしても、絶対に許す事はできなかった。


「(そもそも、アイオライトの他の連中はどうなんだ?)」


 うえごう——ゴウキとらいほう——ライメイは何かを知っている様子だった。元々、二人ともショージュンに心酔していたのだ、裏切られたとしてもまだ納得できる。全てを捨てろとショージュンに命令されれば、二人なら喜んで指示に従うはずだ。


 だが、しきもとはる——ハルは?


 誰よりもアイオライトや投棄地区ゲットーを大切に想ってきた少女。変化が認められないなら、元に戻すために戦えばいい。そう言ってアキラの背中を押してくれた。ずっと前からアキラの味方だと言ってくれた彼女が裏切っていたとは考えたくない。


「……くそ、結局どうすりゃいい!」


 ショージュンを敵と定めて、正面から戦うのか。ショージュンの正義を信じて、全てを捨てる覚悟を持つのか。それとも、全てを諦めて投棄地区ゲットーから逃げ出すのか。


 決められない。

 グチャグチャに濁った思考が脳内で渦巻いた。様々な可能性が煙のように浮かんでは消えていく。何をしても胸が締め付けられるような苦しみが付き纏う。どれだけ藻搔いても抜け出せない底なし沼に落ちた気分だった。


 不意に、携帯端末が震動を始めた。着信だ。画面には『非通知』の文字が浮かんでいる。嫌な予感に苛まれながらも、画面を操作する。


『お久しぶりです、しろあきらさん。「とくはん」のなかはらすずです。一週間ぶりですね。どうです、心境の変化はありましたか?』

「……またアンタか」


 湧き上がる苛立ちによって声音が尖るが、構わずに続けた。


「それで何の用だ? スカウトとか協力してくれって話なら聞くだけ無駄だぜ、俺の答えはすでに伝えてある通りだ」

『いえ、その話ではありません。状況が変わったので報告します。貴方からしても無視できる内容ではないはずですよ』


 一呼吸置いた中原美鈴は、低い声で告げた。


投棄地区ゲットーで暗躍している敵の正体が判明しました。柊グループ――あの都市伝説がとうごうしようじゅんの手引きによって動き回っています』


 言っている事を理解するまでに時間が必要だった。

 

 柊グループ。

 国家予算並の資産を持ち、政治家を動かせる権力をもった秘密結社。人員も目的も不明で、噂と恐怖によって着飾った姿を持たない怪物インビジブル・モンスター。そんな中学生の妄想帳に書かれているような闇の組織が、ネットの掲示板の中だけに存在する都市伝説が、すぐ近くまで迫っている。


「……信じられる訳がねぇだろうが、そんなの!」


 思わず、声を荒げていた。


「こっちはつまらねぇ妄想に付き合っている暇はねぇんだよ! その手のばなしなら専門の掲示板に投稿してくれ、匿名の暇人が喜んで付き合ってくれるはずだぜ」


 先程、ショージュンは正体不明の敵による暗躍が計画シナリオ通りだと言っていた。仮に柊グループだとすれば、ショージュンには柊グループと連絡を取る手段がある事になる。相手は存在すら曖昧な都市伝説なのだ、流石にそれは考えにくい。


ひいらぎすみ


 まるで、ずっと温存してきた切り札を盤面に出すように。

 冷徹な声で告げた。


。目的は不明ですが、彼女はラクニルから追放された今もまだ、遠い本土からとうごうしょうじゅんを利用して投棄地区ゲットーに干渉を続けています。これは投棄地区ゲットーに潜入させた我々の仲間と、寺嶋家から得た情報を元に導き出した真実です』

「ちょ、ちょっと待ってくれ!」


 携帯端末を耳から外し、空いている手で頭を抱える。


 佳純の名字が『ひいらぎ』? 更に柊グループのメンバー? 唐突に突き付けられた情報が脳内でぐるぐると空回りした。


「……仮に、だ」


 緊張が冷や汗となり、頬を伝って地面に落ちていく。


「アンタの言っている事を信じるとしてだ。すみ先輩が柊グループのメンバーで、ショージュンと協力して投棄地区ゲットーで暗躍しているとして……どうして、その情報を俺に話した? アンタらだって知っているはずだ、俺が今回の事件で蚊帳の外にいるってことくらい」

『簡単な理由です。あなたは知っているからですよ、とうごうしょうじゅんの本当の目的を。彼が巻き込まれている理不尽の正体を。何故このような状況になったのか、あなたなら解るはずなんです』

「何を、言っている? 俺は知らないぞ、ショージュンの目的なんて……そもそも、アイツのことは何も……」

『それは違います、あなたは知っているはずなんです。忘れているだけなんです』


 事件を目撃情報をひた隠しにする証人から、何とかして話を聞き出そうとする刑事のように、中原の声に力が入った。


『我々には他に手掛かりがありません、あなたの記憶だけが頼りんです。だから早く思い出してください。それともこう言った方がいいですか、知らないとだけだと』


 ジクリ、と。

 脳が熱を帯びた気がした。

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