第3話 いるかのペンダント
それは京子さんが10才のころ。
いつも勉強しなさいと口うるさかったお母さんが珍しく連れてってくれたデパートの「海の生き物」展の水槽の中で、
ふよふよ、ふよふよ、と漂うミズクラゲを見て、なんて綺麗なんだろう!と心が体を離れる位の感動を覚えた。
いいなあ、
おまえはこうやってぷかぷかしてるだけでも生きていけるのね。
と心で語りかけて帰りに「記念品が欲しい」とお母さんにねだってガラスのイルカのペンダントを買ってもらった。
それからガラスのイルカは京子さんにとってのお守りとなり、家や学校で辛いことがあると誰もいないところで
「もしもしイルカさん?今日テストで84点取ったらお父さんにひどく怒られたの…『85点以上取れない奴は人間じゃない、医学部入れない奴は人間じゃない』って。
それでお母さんをきつく叱って、叱られてる間お母さんはこっそり私の脇の下をつねるの。
…あれ、ものすごく痛いんだよ。ああなんだかすっきりした」
という風に。
京子さんのお父さんは脳外科医といって人様の頭の中をかっぽじってお金を貰って偉そうにしているお仕事だった。
当然娘の京子も医者になるべきだ、としつけも勉強も厳しくされたが11才の時に弟が生まれ、両親の愛情が全部弟に注がれるようになった時、
ああこれでお母さんにつねられなくて済む、と京子さんは思った。
そんな京子さん、中2の頃に恋をした。
相手は
京子さんは思いきって貴博くんの靴箱に手紙を入れた。五日後、貴博くんから返事の手紙が入っていた。
7月23日の1時、市民プール横の公園で待ち合わせしませんか?
と。
京子さんは白いハットを被り、水色のストライプのワンピースを着て初めて胸にイルカペンダントを下げて公園のさるすべりの下で待った。
蝉がじわじわ鳴いて、頭がぼうっとするぐらい暑い真っ昼間、京子さんは待ってる間じゅうお守りのイルカに話しかけた。
イルカさん、貴博くん来ないけど何かあったのかしら?私、からかわれたのかなあ…
「キョーコさん、お小水は大丈夫ねー?」
目を覚ました京子さんの視界にぬっと現れたのは克子オバア。さんぴん茶のペットボトルにストローを差して飲め、と口元に近づける。
ああ、ゆうべ急に体が動かなくなってこのまま朝を迎えたのだ。と思い至った。
京子さんはストローをくわえて花の香りのする冷たい茶をすすって喉を潤した。
「この宿のお客はねー、キョーコさん、あんたみたいに気力が枯れてマブイ落っことしたり、内地での暮らしに疲れて心に穴開いて、こーしてうちなーの果ての波照間島までトリップしてくる人がほとんどさあー」
みんな?と京子さんがスケッチブックに書くとオバアは「Yes」と親指立てて答えた。
「いま泊まりのお客さんみんなサァ、うちのバカ孫も」
野上くんと篠田くんは湯気がたつソーキそばをはふはふいいながらすすり、
「本島、石垣、宮古、と各地のソーキそばを食ってきたが、だし、麺、肉の全てにおいてここのそばがうまい!」
とどっかのグルメ通みたいにうんちくたれて港の旅客ターミナルにある食堂でソーキそばを「ごっそさん!」と大汗流しながら完食した。
「いやあ篠田くん、沖縄料理の味が濃いぃのはこうして食ってる間にも汗噴き出して体の塩分とミネラル流れるからなんだねぇ~」
と野上くんは首にかけていたスポーツタオルでばふばふと顔の汗を拭いてから連れの篠田くんとお店を出て、宿から1週間800円でレンタルしているママチャリにまたがってから、
「教授に言って宿替えして正解だったな」
「うん、前の宿はおっさんばかりだったからね」といままでの旅を思いだしながら笑った。
「二週間休みが出来たんだけれど、沖縄旅行ついてくるか?旅費はおごるから」
と桂教授がなぜか野上くんに声をかけ、高校からの親友である篠田くんも
「家族と軽井沢の別荘行って気を遣うのもやだから」と教授の誘いに乗ったのがいけなかった…
旅行の実態は泊まる宿全て一泊千円のゲストハウスやら民泊やらで平気で他人と相部屋、というケチケチ旅行で
教授は朝から刺身を魚に泡盛飲んで寝てるので若い医学生コンビは自分たちだけで観光地巡ったり釣りしたりしながら
「せっかくなので日本最南端まで行こう」と教授の気まぐれでずるずるとここまで来たのだ。
「要するにおっさんの現実逃避に付き合わされているだけなんだな、見てくれ篠ちゃん」
と野上くんは前の宿の畳の上で寝ている教授を中心に、二日酔いでだらしなく寝ているおっさん旅行者の群れの写メを見せて、
「ふっふっふ、俺はこの写真に『日本最南端のアザラシの群れ』と名付けてやる…」
と意地の悪い笑みを浮かべた。
「その勢いでゼミのみんなに写メ送るのだけはやめなよ…後の学生生活に響くから。でも良かった、聡ちゃんがこうやって笑えるようになって」
携帯をリュックのポケットに戻しながら野上くんは
「笑えるようになったって…俺周りから見てそんなに暗かった?」と改めて親友に尋ねたると、
「うん、おじいさんが亡くなってから表情というもんが消えてた」という意外な答えが返ってきた。
去年の夏、野上くんの祖父が亡くなった。92才で眠ったまま永眠という大往生だった。
三才で父親を亡くし、母親に出ていかれた彼にとって、祖父は育ての親以上の存在だった。四十九日が終わってから野上くんは、三回意識消失の発作で倒れた。
決まってアルコールに漬かった献体(臓器)を出すときに倒れては廊下に臓器ぶちまけてたので「匂いで酔った」とごまかしていたが解剖担当の桂教授は卒業生の精神科医を紹介し、言われた通りに受診すると、
喪失体験によるストレス発作。と診断された。
「ねえ篠ちゃん、教授はわざと俺を誘ってくれたのかなあ…」
「さあねえ、単に一人で現実逃避が寂しかっただけかもしんないし」
と医学生コンビがお昼の太陽を受けてギラギラしている海を眺めていると、ズボンのポケットの中で篠田くんの携帯が震えた。
電話の相手はエーシンからだった。
「え、ニシ浜ビーチでガラスのイルカを探せ?何言ってんです落ち着いて!」
「篠ちゃんも落ち着け」と野上くんが携帯を取り上げて
「ニシ浜で京子さんは何やってたんですか?え、シュノーケリング…イルカの大きさは?ペンダントトップくらい…分かりました。エーシンさん、女性客ひとりビーチに派遣して下さい」
ほどなく、宿の客である田所夫妻の奥さん、佳世子さんが原チャリに乗って野上くんの指示通りニシ浜ビーチに行き、
シャワー室の棚の奥に光るガラスのイルカのペンダントトップを見つけて宿に帰ってきたのであった。
「よく盗まれも割れもせずに見つかったもんだと思うよー奇跡だね」
と佳世子さんがハンカチに包んだガラスのイルカを克子オバアに渡し、オバアは何か方言でもごもご言いながら京子さんの手に握らせると…
京子さんは口の中に小さな玉が飛び込むような感覚を覚え、「それ」を飲み込むと…
同時にに尿意と空腹と喉の乾きに襲われ、動けるようになった体でまずはトイレに駆け込んだ。
ここは民宿しらはま荘、
今日も気枯れした客が一人、マブイを取り戻した。
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