イオナの決意

 イッコマさんは、しぼらく黙ったままで僕を見上げていた。

 やがて瞼を閉じて俯くと、後頭部をポリポリと搔く。


「マモル君だっけか? イオナちゃんを起こしてくれないか? 話がしてぇ……」


 そうイッコマさんは言ったが、僕は油断せずに動かないでいる。


「大丈夫だ。もう、酔いも醒めた。二度とイオナちゃんに酷い事はしない……そこのクローゼットで新しい服に着替えてくれ。自分でやっといて何だが、目のやり場に困る」


 僕はイッコマさんの顔つきを見定める。

 確かに嘘はついていなさそうな瞳をしていた。


『もし、またイオナさんに何かしようとしたら……今度は本気で潰します』


 念の為に、そう脅しておいて僕は服を着た。

 そして両手で軽く自分の頬を叩く。


『イオナさん……起きて貰えますか?』


 途端に四肢の自由が効かなくなり始めた。


「う、うーん……マモルくん?」


 かろうじて立ったままで僕は、身体の自由をイオナさんにお返しする。

 イオナさんは周囲を確認するように見回すと、自分が服を着替えている事に気がついた。

 彼女は驚き、自分の身体を抱き締めて震える。


『大丈夫です……何もされていません』


 僕は彼女を落ち着かせるように、そう伝えた。

 イオナさんは大きく安堵の溜め息を笑顔で漏らす。


「ありがとう、マモルくん……イッコマさんは?」


 彼女は、もう一度だけ水平に周囲を見渡した。

 すると視界の隅に、うずくまった男性を見つける。


「イッコマさんっ!?」


 イッコマさんの顔を見たイオナさんは驚いて、すぐに彼の前へとしゃがんだ。

 右手を彼にかざしながら呪文を唱える。

 彼女の右手が淡い黄緑色の光を放つと、イッコマさんの鼻血が止まり、傷が塞がっていった。


「マモルくん! やり過ぎよっ!?」


 イオナさんは怒っていた。


『えっ!? あの、その……すみません……』


 僕は彼女の剣幕に少しだけ狼狽えつつも謝罪する。


「いいんだ、イオナちゃん……これくらい当然の報いだ……」


 イッコマさんは、そう言って微笑んだ。

 その顔は道具屋で見かける、いつもの彼だった。


「なあ……イオナちゃん。本当に行くつもりなのか?」


 ある程度の出来る所までの治療を終えたイオナさんは、イッコマさんの問いに深く頷く。


「わしは店を休んでまで、おまえさんには付き合えない。それでも……女一人でも行くのか?」

「マモルくんがいるわ……」


 イオナさんはイッコマさんを真っ直ぐに見て答えた。


「それに、今回の事をユイナスちゃんに伝えないと……」

「そうか……つらいな……」

「まだ、ヨークが死んだと決まったわけじゃないわ」


 イオナさんが微笑んでいるような感触が、僕に伝わってくる。


「マモルくんから見てもヨークは、簡単に約束を破る人には見えないって……」

「そうか……」

「私も、とりあえず彼が生きていると信じてみる事にする。ユイナスちゃんを訪ねたら相談して一緒に捜してみるつもりよ?」

「……分かった」


 答えるイッコマさんの顔は、なぜか清々しそうだった。


「所詮は実らぬ老いらくの恋か……」


 イッコマさんは残念そうに、イオナさんに聞こえない声で呟いた。


「イオナちゃん、いつ出掛けるんだい?」

「早い方がいいだろうから今晩はもう寝て、明日で準備を整えて、明後日の早朝には出掛けるわ」

「ええっ!?」


 ええっ!?

 流石に、そんなに早くだとは思わなかった……。


「……分かったよ、イオナちゃん。明日は店にも来てくれないか? 一緒に行けない代わりに旅の役に立ちそうな物を揃えておくから、持てるだけ持って行ってくれ」

「……ありがとう、イッコマさん」


 イオナさんは嬉しそうな声で御礼を言う。

 イッコマさんも微笑んでいたが、どこか寂しそうだった。


『イッコマさん、僕からもお願いがあります』

「……なんだね?」

『さっき言っていたローンの借り換えを済ませておいて貰えませんか?』

「……ローンの借り換え?」


 イオナさんが何の事か分からずに尋ねてきた。


「この家のローンの話だ。わしが保証人になれば、もっと利息を安く抑える事ができる……分かった、手続きをこちらで進めておこう」

「ホント!?」


 利息が安くなると聞いてイオナさんは両手を合わせて喜んだ。


『それで僕らが旅をしている間だけローンの支払いを立て替えておいて貰えませんか?』

「はあぁっ!?」


 イッコマさんは流石に目を大きく開いて驚いた。


「それは……しかし……ううむ……」


 イオナさんは無言でイッコマさんを見つめているようだ。


「……分かった。詫びのつもりで払っとくよ」

「わーい、やったー!!」


 イオナさんは無邪気に喜ぶ。


「こうなったら必ずヨークを連れて帰ってこいよ? 誰も住んでいない家のローンを完済するとか、笑い話にしかならんからな?」

「はいはい」


 イッコマさんは疲れたように壁に背を預けると、イオナさんに向かって微笑みかける。


「まったく、大した相棒だな。おまえさんの貞操帯は……」

「……うん」


 イオナさんは嬉しそうな声で返事をして大きく頷いてくれた。


『あの……後、すみません。もう一つだけお願いが……』

「まだ、何かあるのか……?」


 イッコマさんは少しだけ疲れたように尋ねてきた。


『そこの床板も修理を依頼しておいて貰えませんか?』


 なんの事か理解したイッコマさんの視線の先を追うように、イオナさんも僕が壊して大きな穴が開いた床を見つめる。

 彼女は驚いて目を丸くしながら呟いた。


「し、新築の綺麗な、お家だったのに……」

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