11 あなたのために歌いましょう

 まばたきする数秒の内に、リヒトは触手に巻き付かれて、海に引きずり込まれた。あっという間に少年の姿が暗い海の下に消える。

 ちょうど戦いが始まった頃から、海面は上昇していた。

 砂浜で戦っていたソラリアの足元にも水が流れていて、そこは浅瀬になっていた。すぐ近くに暗い海が待ち構えている。


「スサノオ! これを」

「えっ、これ、あんたの聖剣じゃないか」


 ソラリアは剣を鞘に戻すとスサノオに押し付けた。

 突然、聖剣を押し付けられたスサノオは目を白黒させる。


「私は観光旅行中だったのです! 休暇中は勇者の仕事はしないつもりでした。だから聖剣は不要です!」

「はあ?」

「スサノオ、あなたは責任を取って、街の人を勇者として説得なさい!」

「ちょ、ちょっと待て!」


 聖剣は勇者のあかしだ。

 聖剣があれば、街の人々もスサノオの言葉を聞くだろう。それで天魔に対する不安が、少しでも払拭されれば良い。実のところ、このまま街に帰ると勇者として祭り上げられるのが、嫌だという理由もある。

 ソラリアは一方的にまくしたてた後、リヒトを追って海に飛び込んだ。

 彼を独りにしてはいけない、と彼女の天魔が囁いている。


「私も行くー!」

「駄目だ、お前は泳げねえだろっ、昼間のタコ焼き合戦で見てたぞ!」


 背中にアニスの焦った声と、アニスを止めているらしいスサノオの声が聞こえる。二人の会話を聞いた後、ソラリアは深く息を吸い込んで海に潜った。




 触手に足を引かれたリヒトは咄嗟に息を止める。その動作だけで精一杯だった。体勢を立て直す余裕もなく、海に突入する。

 海の中に光は届かない。

 夜の海はどこまでも真っ黒く塗りつぶされていて、空との境界線が分からなくなっていた。上下の感覚も、自分の身体もどこにあるのかすら判然としない。

 クラーケンのものと思われる触手を払いのけようともがいたが、すぐさま二本目の触手が巻き付いてきて、リヒトの首を絞めた。

 苦しい。息ができない。

 ごふっと口から泡が出た。無意識に吸い込んだのは海水だ。どうしようもなく酸素不足の上に、首が絞められて息ができない。

 天魔の力も使って無我夢中で触手を千切ろうとしたが、水中ではクラーケンの力が強まるらしく、脱出できなかった。

 意識が遠ざかっていく。

 走馬灯という奴だろうか。死を覚悟したリヒトの脳裏に、不思議な光景が浮かんだ。


 白亜の宮殿の中庭で、無数の鳩を肩や腕にとまらせた、美しい金髪の女性が自分に向かって微笑んでいる。

 彼女はリヒトに告げる。


 いついかなる時もあなたの側にあって、あなたのために歌いましょう。

 どんなに姿かたちが変わってしまっても、愛した記憶が消えてしまったとしても、この心だけは永遠にあなたと共に。


 女性はリヒトに近付いて、腕を伸ばして顔を寄せる。

 柔らかい唇がリヒトの口元を覆った。


「っつ?!」


 その一瞬で、リヒトは現実に立ち返る。

 いつの間にか目の前にはソラリアがいて、リヒトと彼女はキスをしていた。呆気にとられているリヒトに、口移しで彼女は空気を与える。身体を縛っていた触手は、ソラリアが引き裂いたらしい。拘束が解かれている。

 口移しされたのは、ほんの僅かな空気だ。だが、天魔を持つリヒトにとっては十分だった。少年の瞳に蒼い輝きが宿る。

 再び寄ってきた触手を避けて、リヒトは苦しそうなソラリアの手を引いて一緒に泳ぎ始めた。

 

 真っ黒な海の中、リヒトは正確に水面を目指して泳いだ。

 リヒトの心開眼ディスクローズアイには絆の糸が光として見える。自分と他者を繋ぐ輝く糸は、水面から伸びている。リヒトの目には地上の絆が星のように見えた。それはあたかも、無数の星が煌めく満天の星空だった。


「ぶはっ」


 水面から顔を出して、リヒトは大きく息をした。隣でソラリアも立ち泳ぎしている。


「死ぬかと思いました」

「僕も」


 水中は人間の生きる世界ではないと思い知った。

 こんな苦しい体験をしたのは初めてだ。


「メエー(坊っちゃん達、乗っていくかい?)」

「メリーさん!」


 どこからやって来たのか、クラーケン戦では陸で遠くからリヒト達を見守っていた羊のメリーさんが、巨大化して水面にプカプカ浮いている。

 リヒトは急いで羊によじ登った。

 どうやら羊毛に空気を蓄えて水に浮かんでいるらしい。

 ソラリアも羊に乗って、二人はようやく一息ついた。


「メリーさん、このまま陸に向かって」

「メエエ(合点承知)」


 羊のメリーさんは短い足で水をかいて、犬かきの要領で前に進む。が、絶望的に速度が遅い。海面を眺めたリヒトは、何となく嫌な予感がした。

 流されてないか。


「メリーさん」

「メエ(何?)」

「メリーさんって、ひょっとして方向音痴?」

「……」


 一向に陸が見えてくる気配がない。

 そして船乗りでないリヒト達は、星で方角を計算するなどの高等技術があろうはずもない。メリーさんに指示しようにもできず、どこまでも広がる海原に絶望するばかりだ。


「諦めましょう。人生、なるようにしかならない、と神は言いました」

「ソラリア、諦めるの早っ」

「ふふっ、海風が気持ち良いですね。ようやく観光旅行らしくなってきました」

「遭難は旅行じゃない!」


 やがて朝日が射す頃には、リヒト達は元いたバブーンから遠く離れてしまったことを悟っていた。

 陽光に照らされて陸が見えてくる。

 それ自体は喜ばしいことなのだが、目の前の陸は赤い岩が並んでいて、明らかに異国感が漂っていた。


「おそらく私達は海峡を越えて、隣のワイルダー大陸に渡ってしまったのでしょう」

「そんな……」


 リヒトは絶句した。

 羊のメリーさんは、いつ捕ったのかタコの足を生でむしゃむしゃ食べながら意味のない犬かきを続けている。羊は海流に乗ってワイルダー大陸の浜辺に漂着しようとしていた。



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