今できる最善を(2/7)

 バンと勢いよく机を叩かれる。恐怖は感じなかったが、大きな音に驚いて一瞬体が浮いた。狭い部屋には取り調べ用の机と椅子しかない。窓は小さく、差し込む光は極わずか。時計もないため、時間の感覚が少しずつズレていく。


 両手首には手錠、腰には腰縄。部屋の出入口には警官が一人。それとは別に、ノートパソコンで取り調べの内容を記録する警官が一人と、実際に取り調べを行う警官が一人。壁が薄いせいなのか、壁越しに隣の声が聞こえた。


「おい、聞いてるのか! 何とか言ったらどうなんだ!」

「おっかねー。お金絡みじゃないのにおっかねー」


 海人がいるのは、所在地のわからないどこかの警察署の取調室だ。パトカーで連行され、よくわからないままに裕司と別々の部屋に入れられた。だが海人は自分から多くを語ることはせず、笑いながらつまらないダジャレを言う余裕すらある。


 実際に取り調べが行われている時間はわからない。まだ解放されないことから、「取り調べ開始から八時間は経っていない」と推測することしか出来ない。逮捕された時刻を考慮しても、閉会式までまだ余裕がある。


「ふざけるな! お前――」

「柴崎海人。俺には、柴崎海人って名前がある。ちゃんと名前くらい調べろよな、警察さん」

「お前、警官舐めるのもいい加減に――」

「舐めてるのはそっちでしょ。しっかりしてくれなきゃ、情報なんて教えてあげないよ? 別に俺は、オリンピックが台無しになっても困んないもん」


 一向に名前を呼ばない警官に痺れを切らし、ついに海人は自分から名乗り出す。だがその全てを話すことはしない。名前という情報を警官に与えた上で、警察の反応を窺っている。取り調べの場だというのに、主導権を握っているのは犯人である海人であった。


 拘束したところまではいい。海人、裕司の二人から情報を聞き出せなければ大惨事が起きる。さらに、警察は未だに犯人の名前すら把握出来ていない。海人が名乗らなければ、その名前を知ることすら叶わなかっただろう。


 出来ることならスレスレの禁じ手を使ってでも情報を吐き出させたい。だが海人の方が立場が上であること、犯人の仕掛けた罠について情報が少ないこと、などから強気に出ることが出来ない。オリンピックを人質に取られてしまえばもう、犯人の機嫌を取りつつ様子を窺うのが限界なのだ。


「時間がくれば、俺達がここにいようが勝手に事が起きるさ。仕掛けは全部観客席に仕掛けた。見つけたところで、適切に処理しないと……防げないよ? ふふ、これが俺からの最初のヒント。これでどこまでわかるか、楽しみだね」


 海人の笑い声が取調室に響く。ヒントを出す過程すらも楽しむその様子に、警官達は思わず顔を見合わせる。夏特有の熱気で暑いはずの部屋が、異様に寒く感じられた。




 爆発物処理班が到着したのは十一時を少し過ぎた頃のことだった。実際に爆発物の処理を行う彼らに加え、原宿署や渋谷署といった近隣の警察署からの応援を参加し、爆発物の捜索が行われる。手がかりや証言の類はなく、新国立競技場全体を捜索する必要があった。


 良亮は、晃一が犯人のパソコンから抜き出した情報を調べ、少しでも使える条件がないか確かめている。晃一は現在、警察の者と取り込み中のようで、サイバーテロ対策チームを率いるのは良亮しかいない。


「対策チームはいつものようにサイバー攻撃への対応を頼むっス。緊急チームは、晃一さんに言われたかもですが、俺の作業のヘルプに入ってください。プログラム解析とか情報の確認漏れがないかのダブルチェックを頼むっス」


 会場内に関係者が増え、慌ただしい雰囲気に包まれる。周囲の喧騒を物ともせず、良亮はパソコンを睨みつけたまま指示を出した。作業の分散を行い、一人一人に口頭で何をすべきかを伝える。逃げ出す様子は微塵もない。


 無駄話をするような余裕はなかった。不審物の捜索と処理は専門家に任せ、良亮は自分に出来ることを着々と進めていく。良亮達サイバーテロ対策チームは、パソコンのプログラムやインターネットの知識には精通している。だが爆発物や生物兵器となると、全くの専門外である。


 良亮が何度もモニタールームの入口に視線を向ける。縋るような眼差しを向けたその先、扉越しにいるのは晃一だ。晃一は警察からの情報を良亮達に伝えるという役割を担っていた。晃一の帰還を今か今かと待ちわびていると、扉が乱雑に開く。


「良亮、わかったぞ! 不審物は全て観客席にあるらしい。だが……一つだけは、プログラムを止めないと起動するんだとか。俺は爆処理にこのこと伝えてくるから、パソコンを起動させといてくれ」

「晃一さん、ちょっ、それだけじゃ状況わかんないっスよ!」

「時間が無い。処理できるものを処理して、閉会式に向けて準備をする。それが最善だろ? とりあえず、連絡したら戻るから、一旦頼んだぞ。何かあったら電話しろ」


 慌ただしく入ってきてすぐに部屋から飛び出したのは晃一だった。スマートフォンを片耳に当てながら指示を出し、通話しながら駆け足で移動していく。普段は表情がわかりにくい晃一だが、今回ばかりは焦りと困惑がはっきりと見てとれた。


 余裕のない晃一を見て、良亮は胸のあたりがざわめくのを感じた。何かが起こるような気がしてならないのだ。不安で真っ白になりそうな頭を、頬をつねることでどうにか理性を保つ。今の余裕のない状態で初歩的なミスをすることは避けたい。


「みんなはとりあえず指示したことを頼むっス。俺のことは気にしないでください」


 心を落ち着かせるために発した言葉は上擦っていた――。

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