限られた時間の中で(5/5)

 今にも消えそうな弱々しい明かりの下。狭いワンルームの部屋では二人の若者がパソコンと睨み合っていた。室内ではカタカタとキーボードを叩く音だけが響く。時折、興奮して荒くなった鼻息が聞こえた。


 ついに若者の一人がキーボードから手を離し、上体を大きく伸ばす。天井に向けて伸ばされた手は勢いよく廊下に落ちる。そのまま、力の抜けた体が椅子の背もたれに、微かな音を立てて寄っかかった。その瞳がもう一人の若者を捉える。


「ねぇ、健太。そっちはどう? 俺はバッチシ終わったよ! ミッションコンプリート! さすが俺!」

「海人、うるさい、静かにして。この部分のコマンドをこう変えたら……いや、そもそものプログラムが……」


 健太はパソコンから目を離す余裕がない。意味深な言葉を呟きながらも液晶画面の中にある何かと戦っている。白地の画面にプログラミング言語を書き込み、何かのプログラムを構築しているようだ。


 正確に言えば、健太が手間取っているのはプログラム構築ではない。ソースファイルの変換作業――コンパイルと呼ばれる過程であった。成功すればプログラム実行ファイルが生成される。しかし失敗すればエラー表示が現れ、プログラムを実行には移せない。健太が苦戦しているのはこのコンパイルにおけるエラー表示であった。


「おかしい。初歩的なミスはしてないはずなのに」

「落ち着いたら? もしかしたら健太、タイプミスしてんじゃない?」

「してないはず。元にしたのは東京スタジアムで使ったのと同じファイルだよ? あれが上手くいって今のがエラーって……」

「わかんないじゃん。編集した部分がエラーの原因かもしんないし? エラーでエラエラするくらいなら、俺に見せろって」

「……そこ、無理にダジャレっぽくすら必要あった? 笑えないんだけど。とりあえず、ソースファイルの確認頼んだ」


 目的のためにプログラムを構築するも、今のままでは実行に移せないただのテキストファイルでしかない。プログラムを実行するにはコンパイルと呼ばれる作業でソースファイルを変換した後、複数のプログラムやファイルを結合する作業をしなければならない。


 健太は今、プログラムを実行するどころか構築すら出来ない状態であった。エラー表示が出ているのだがその原因すらわからない。否、見つけられない。もはや一人で作業を続けるのは限界であった。


「健太、よく見ろよ。やっぱり打ち間違えしてんぞ。ほら、ここ」


 頼まれた海人は一目見て原因に気付いたらしい。問題となる部分を指で示し、健太のキーボードに手を伸ばして編集を行う。さらにその編集したばかりのソースファイルをコンパイルという作業で変換することにも難なく成功。わざとらしいブイサインを健太に突きつける。


 自分が苦戦していたことを海人が一瞬でやり遂げた。その光景を目の当たりにした健太は絶句した。胸の奥の方で悔しさが込み上げてくるのを感じる。抑えきれない感情が酷い頭痛を引き起こした。




 八月七日午後二十三時。ようやく健太が手掛けていたプログラムが完成し、使えるようになった。プログラム構築で気力を使い果たしたのか、健太は床で大の字に伸びて寝ている。その様を海人が上から見下ろしていた。


 健太は海人がいることに気付いていないのか、夢から目覚めない。試しに体を軽くつついてみるが、起きる様子はない。規則的に上下する胸だけが、健太の生存を知らしめる。


「悪いな、健太。システムさえ完成したなら、あとはもう、俺達でやるよ。頼むからお前は……俺達のことを忘れて、真っ当に生きろ」


 海人の呟きと重なるように、鍵を開ける音がする。何者かの足音が二人の元に近付いた。


「海人、お疲れ様。健太は眠ってる?」

「ああ、眠ってる。疲れてただろうし、しばらく起きないと思うぜ。運ぶなら今のうちだ」

「了解。じゃあ僕、健太を運んだら戻ってくるから。さっき電話で健太のこと頼んだら、『いいよ』って即答してくれたんだ」

「悪いな、裕司。じゃあ俺、お前が帰ってくるまでに最終調整しとくよ」


 部屋に入ってきたのは、ここ数日の間健太、海人と共に行動していた裕司だった。慣れた手つきで健太の体を抱え上げると、休む間もなく部屋から出ていった。意味深な会話にも、体に伝わる不自然な振動にも、健太は動じない。


 一人きりになった海人は、先程まで動いていたパソコンに触れた。正常にシャットダウンされた二台のパソコンは、現在は動いていない。モーターやファンの音も聞こえず、液晶画面は真っ暗なまま。それでも、パソコン本体を撫でずにはいられない。


 狭いワンルームはお世辞にも綺麗とは言えなかった。空のペットボトルやビニール袋と言った生活ゴミから、引越し準備と見間違うような重さのある段ボールまで、様々なものが散らばっている。そんな中で、部屋の中央部分とパソコンの近辺だけは無理やり物をどかしてスペースが作られている。


 ポッカリと空いたスペースの一つ。その床に手を伸ばせば、微かな温もりが残っていた。つい先程まで健太がここで、疲れきって寝ていたからだ。微かな温もりに健太を思い出し、思わず瞳に涙を浮かべる。


「ごめんな、健太。お前のためには、こうするしかないんだ。最後のお節介、させてくれよ。くだらないダジャレ言うのやめるからさ。俺と裕司が罪、被るからさ。だからお前は……」


 届けたい相手には決して届かない言葉を紡ぐ。もっとも、口にしたところでその意図が健太に伝わることはないのだが。東京オリンピック閉会式まであと僅か。海人は一人で抱えきれない感情を握り拳に込め、力一杯床を殴りつけた。

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