魔の手はそっと忍び寄る(4/5)

 モニタールームから勢いよく飛び出した良亮は人と人の間をすり抜け、新国立競技場の外へと無我夢中で走っていた。モニタールームに居続けるのが辛くて、少しでも早く外の新鮮な空気を吸いたい。なにより、見知った顔のいない空間に行きたい。その気持ちだけが良亮の体を動かしている。


 一歩外に出ると、夏特有の暑さが襲いかかる。ギラギラと地面を照りつける太陽から逃れる術はない。新国立競技場周辺に植えられた木々から聞こえる蝉の声が体感温度を上昇させる。そんな外の世界に飛び出た良亮は、ちょうど目が入った一本の木に近寄り、その下に座り込んだ。


『寝ぼけてても最低限の自己防衛はしろ。自分の身を守れるのは自分だけだ!』


 先程言われたばかりの晃一の言葉が頭の中で再生される。その声をかき消すために身震いすると、パンツのポケットからスマートフォンを取り出す。その液晶にはメール受信を知らせるポップアップが表示されている。


「もう、遅いっスよ、晃一さん」


 メール画面を表示すると同時に小さな声が洩れた。掠れ声の原因は、表示されたメールの内容にある。差出人は見知らぬ名前。「犯行予告」とだけ書かれた件名は不気味さを醸し出している。パソコンより小さな液晶画面に、疲れきった良亮の顔が反射する。


「『オリンピックを中止しなければ、閉会式の日に多くの人が苦しむことになるだろう。動画のような事態を避けたいなら、直ちにオリンピックを中止しろ』なんて言われてもなぁ」


 良亮のスマートフォンに届いていたのは見知らぬ犯人からの犯行予告。メールには晃一がネット掲示板で見たのと似たような文言が並び、動画ファイルが添付されている。その添付ファイルを再生しようとして、良亮の手が止まる。


 メールの受信時刻は「十一時三〇分」。昼休憩の間に届いたそのメールを、良亮はすでに一度開いて内容を確認していた。添付ファイルの内容も、言葉に出来なかったメールの本文も、良亮を追い詰めるには十分なものだ。


「晃一さん。俺、どうしたらいいっスかね。俺、俺……もうわかんないっス。頭が、パンクしそうっス。誰が、何のためにこんなこと……」


 零れ落ちる言葉達は途中から嗚咽混じりのものに変わる。瞳から落ちる涙が一粒、二粒、スマートフォンの液晶画面に落ちていく。良亮の手はスマートフォンを落とさないようにするのが精一杯で、液晶に落ちた水滴を拭き取ることまでは出来なかった。時間だけが淡々と過ぎていく。




 正午を少し過ぎた頃。太陽は空高くに上がり、暑さが和らぐ様子はない。ネクタイとジャケットを身につけていないとはいえ、ワイシャツ一枚に長ズボンでも汗はかく。良亮は、湿った布が皮膚に張り付く感覚に不快感をあらわにする。


 良亮は受信メールを表示したまま動かない。生命活動に必要な行動以外の全ての動きを止める。震える親指は、添付ファイルを再生する寸前で動かなくなっていた。


「俺には、やっぱり、無理っスよ。俺は、ただの、運営っス。人の命なんて……そんな重いもの、背負えないっスよ。背負いたくない。責任なんて取れない!」


 動画ファイルを再生しようとする度に脳裏に過ぎるのは、一度見ただけで頭から離れなくなった映像。発疹に苦しむ人々、死んでいく人々、次から次へと増えていく何かの被害者達。思い出しただけで吐き気を催してしまう。


 この手の知識に詳しくない良亮には、動画の症状が何によるものなのかはわからない。だが見ていて気持ちのいいものではなく、何度も見ようとは思えなかった。それどころか、動画ファイルの存在を人に知らせることすら躊躇ってしまう。


「言わなきゃってわかってる。でも、言えない。俺のミスのせいだから、怒られるんだろうな。晃一さんの言うとおりだ。メアドとか文章とか、ちゃんと確認すればよかった。怪しいメールは開くなって言われてたし、知ってたんだけどなぁ」


 良亮に届いた犯行予告は、良亮が関係者であると知った上で行われている。それどころか犯人は、良亮の職業はもちろんのこと、プライベート用のメールアドレスや電話番号などといった個人情報を突き止めている。それを伝えた上で犯行予告を実行しているのだ。


「『お前のパソコンの情報はほぼ全て手に入れた。悪用されたくなければ』って、絶対さっきのメールだよな。ご丁寧に盗んだ情報の一部を示してくるあたり、手慣れてるというか余裕があるというか。個人情報と人命なんて、俺には比較出来ないっスよ。無理っスよ」


 体を木の影に隠し、大きくため息を吐く。犯人と思わしき人物からのメール本文なら、一語一句間違えずに言えるようになるまで何度も読んだ。読んだところで打開策など浮かびもしなかったが。


 自業自得と言われればそれまでだろう。全ては良亮の一度の過ちから生じたこと。事態はすでに動き始めている。今さら犯人が引き下がるとも思えない。自らのミスが招いた結果に、良亮は再びため息を吐くのであった。

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