3. 魔の手はそっと忍び寄る

魔の手はそっと忍び寄る(1/5)

 琥珀色の双眸がノートパソコンの液晶画面を見つめている。画面に表示されたウインドウを見て、彼は思わずため息を吐いた。ウインドウにはプログラムを構成するアルファベットや記号が並んでいる。それこそが、彼を悩ませるものの正体であった。


「これといった特徴はない、か。感染を広めるというより情報を得るのに特化した、独自のスパイウェア、ねぇ。これだけで犯人特定は不可能だな。犯人は国内にいそうかなって仮説くらいしか立てられない。弱ったな」


 男の名は五十嵐晃一。東京オリンピック・パラリンピックのサイバーテロ対策チーム所属の者であり、現役のサイバー犯罪捜査官でもある。そんな彼は今、ホテルの一室にてパソコンと向き合っていた。


 時刻は深夜一時を過ぎた頃。多くのオリンピック関係者が翌日に備えて睡眠をとる中、晃一ただ一人だけが起きて作業を続けている。パソコン作業の合間には、眠気覚ましのためにと用意したブラックコーヒーを飲む。飲んだ際の苦味と胃が焼けるような痛みが、晃一の体から一時的に睡魔を追い払っていく。


「そりゃそうだよな。普通、痕跡は消すもんな。だからこそ、サイバー犯罪の逮捕は難しいんだけど。にしても、今回の犯人の一つ……ドローン乗っ取り犯はかなり用意周到だな。目的はなんだ?」


 ブツブツと思ったことを口に出しながらキーボードを叩いていく晃一。その顔が明るくなることはない。ブラックコーヒーを口に入れては顔を歪め、次のブラックコーヒーを用意する。その様は事務的で、人間らしさがほとんど感じられない。


 パソコン上に別のウインドウを表示させた。そこにプログラム言語を紡ぎ、一つのプログラムを構築していく。そのプログラムが何のためのもので、どのような効果を発揮するのか。それは、製作者である晃一にしかわからないこと。


「ひとまず準備だけしといて、だな。恐らくこのあともなにか仕掛けてくるだろうし、対抗策は講じても損がない。明日、良亮にも話さないとな。あいつが一番心配だ」


 まるで楽器を奏でるように滑らかに動く指先。カタカタと音を立てる度に、黒いウインドウにはアルファベットや記号の羅列が追加される。プログラムをある程度書き終えると書き損じがないかを確認し、口角を僅かに上げた。




 オリンピック開会式から二日目。サイバーテロ対策チームは今日も新国立競技場のモニタールームに集まって、パソコンと向かい合っている。昨日と違うところと言えば、新国立競技で競技が行わることだけだろう。競技開催に向け、関係者の一部が慌ただしく動いている。


 サイバーテロ対策チームをまとめるリーダー、良亮は妙に落ち着かない。パソコン作業をしていたかと思うと突然立ち上がって周囲をウロウロと歩き、またパソコン作業に戻る。それを何度も繰り返しているのだ。


「良亮、どうした? やけに落ち着かないみたいだけど」

「晃一さん! やっと敬語とれてきたっスね。というか聞いてくださいよ。接続がやたら遅くて、アプリ立ち上げても読み込みに時間かかるし、作業が進まないっスよ」

「……あとでお前のパソコン、調べさせてもらうぞ。嫌な予感がするからな。で、何の作業をしようとしてたんだ? 必要なら俺のパソコン使うか?」

「いいんスか? なら、ありがたく借りるっス。説明は、作業しながらするっス」


 良亮のパソコンの不具合に、晃一の眉が潜められる。つい数日前まで問題なく動いていたパソコンの不具合。良亮の使っているパソコンはオリンピック・パラリンピック開催に向けて支給された最新のものであり、関係者全員が使用している。


 同じタイミングで購入された、同じモデルの他のパソコンには影響がない。となれば、何らかの形で良亮のパソコンがサイバー攻撃を受けた可能性が浮上してくる。不安を抱く晃一の前で、良亮は何も知らずにパソコンを操作する。


「昨日、公式サイトにサイバー攻撃を受けたじゃないっスか。晃一さんと一緒に構築したセキュリティシステムがなかったらヤバかったっス。そんなわけで今、オリンピック・パラリンピック関連サイト全てのセキュリティをもう一度チェックして、システムの穴を埋めようと思ってるっス」


 良亮の口から飛び出したのは少し前ならば考えられないような言葉だった。事態を楽観視していた良亮は実際にサイバー攻撃を目撃したことで少しずつ変わろうとしている。その一つが、セキュリティシステムの確認及び強化、なのだろう。


「お前、変わったな」

「自覚すれば早いんスよ、ウイルス除去と同じで。あるってわかればウイルス除去プログラムを使うなり対策するっしょ? あれと同じっスね。気付くまでが大変っスけど」

「気付くのがあと数週間早ければもっとよかったけどな」

「そこは言わないでくださいっス」


 晃一は良亮の隣に立って作業の補佐を務める。良亮の成長に喜ぶも、その顔から疲労の色は取れない。目の下に色濃く現れたクマが、晃一を苦しそうに見せていた。

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