第19話 逃避行

「なに? 両方、逃しただと! なにをしている!」

「申し訳ございません、我が主……」


 ザルキシスが叱責すると幽鬼王スペクターロードにして、モードガルの宰相ナムベレトは頭を下げる。

 ナムベレトのローブの下は暗い影に覆われてその表情は見えない。

 かつて、闇の大母神ナルゴルの秘書官にして、死の影と呼ばれるナムベレトは感情を露わにすることはない。ただ、命ぜられた事を黙々と遂行するだけだ。

 しかし、今回は失態である。

 暗黒騎士との戦いは突然現れた道化によって中断し、後一歩まで追い詰めたにもかかわらず、道化の目眩ましで逃してしまった。

 現在、暗黒騎士達は幽鬼の騎士スペクターナイトに追わせているが、見失ったようであった。

 ザルキシスは怒りでどうにかなりそうだった。

 祭壇にはあるはずの冥魂の宝珠ソウルオーブがない。

 暗黒騎士の仲間である道化によって奪われてしまったのである。


「このザルキシスの宝を奪うとは……」


 ザルキシスは悔しそうに呟く。

 道化はこの神殿の守りをすり抜け冥魂の宝珠ソウルオーブを奪った。

 暗黒騎士は囮だったのだ。道化はこのザルキシスが冥魂の宝珠ソウルオーブから離れるのを待っていたのだ。

 たかが、天使だけならば祭壇の警戒が緩くなる事はない。

 暗黒騎士が現れた事で、全ての注意がそちらへと向かった。

 そして、冥魂の宝珠ソウルオーブは奪われてしまった。


「それにしても、我が眷族ならともかく外部の者が冥魂の宝珠ソウルオーブの存在を知っている? 何者だあの道化は? ぐぬぬ! しかし、今はそんな事を考えている暇はない! 追うぞ! ナムベレト! 幽霊空船を用意せよ! あの道化はなんとしても捕まえねばならぬ!」

「はい、我が主。ところで暗黒騎士の方はどうなさいますか? 道化と一緒に逃げてはいないようです」

「うむ、暗黒騎士か? うむむむ」


 ザルキシスはナムベレトのその言葉で頭を悩ませる。

 暗黒騎士は死の影により力を失っているはずであった。

 逃げたのがその証拠である。

 捨て置いては危険であり、殺すべきであった。

 また、捕えておけば冥魂の宝珠ソウルオーブを取り戻す交渉の道具になるかもしれなかった。


「ザファラーダ達に暗黒騎士を追わせろ! できれば生かしたまま捕えよとも伝えよ! 奴は力を失っている! なんとかできるはずだ!」

「はい、我が主……。しかし、暗黒騎士が鎧を脱いで逃走している可能性もあります。暗黒騎士はどのような素顔をしているのでしょうか?」


 ナムベレトに問われてザルキシスは少し考える。

 ザルキシスは暗黒騎士の素顔を知らない。

 しかし、手当たり次第に全ての者を捕らえるのは愚策であった。

 

「ナムベレトよ! 豚だ! 豚みたいな奴に決まっている! モデスの仲間なのだからな! 豚みたいな男を捕えるのだ!」





 薄い布の向こうから、ジュシオの耳に水の音が聞こえる。

 その薄い布の向こう側でザファラーダが暗黒騎士によって傷ついた体を癒すために入浴中なのである。

 モードガルの中にあるザファラーダの館の奥の浴室は広く、湯船の周りには吸血鬼ヴァンパイアの侍女達が控え、桃色の明かりが室内を照らし、妖しい雰囲気を醸し出している。

 香水の匂いが部屋に充満して、死の匂いを消している。

 ジュシオは薄い布の前で跪き、主の入浴が終わるのを待っている最中であった。

 男はジュシオしかいない。

 暗黒騎士との戦いで無傷ですんだ吸血鬼騎士ヴァンパイアナイトはジュシオだけだ。

 そのため、控えのジュシオだけがザファラーダの側に控えているのである


「暗黒騎士を捕えろ。そう、わかったわ。お父様には必ず捕えると伝えてちょうだい」

「はい姫様」


 そう言うと吸血鬼ヴァンパイアの侍女の一名が頭を下げて出て行く。

 ジュシオはその侍女が出ていくのを見送る。

 先程死の君主ザルキシスから暗黒騎士を捕えよとの指令が下されたところだ。

 侍女はそれを伝えに来たのである。


「暗黒騎士を捕えろ? なかなかお父様も無茶を言ってくれるわね。ねえジュシオ。貴方はどう思うかしら?」

「奴は手負いです。今ならば可能かもしれません」


 ジュシオは主の問いに答える。

 嘘は吐いていない。

 しかし、難しいだろうとも思う。手負いとはいえ暗黒騎士は強い。容易ではないはずであった。


「確かに手負いでしょうね。でも、気が進まないわ。捕えた娘を全て潰しても、まだ回復しきれていないわ」


 ザファラーダは左手を上げて不満を言う。

 吹き飛ばされた腕は元に戻っているように見える。しかし、完全に回復したわけではない。

 周囲には人間の少女の死体が無造作に転がっている。

 ザファラーダが浸かっているのは人間の乙女の血だ。


 血浴み。


 それが、ザファラーダが行っている行為だ。

 ザファラーダは他の生物の生命力を吸う事で再生する能力を持つ。

 この能力は他の種族も持っているが特に死の眷属はその能力が高い。

 ザファラーダは捕えた人間の娘でも特に魔力が強い者をいざという時のために保管していた。

 そして、新鮮な血は生命力の塊だ。

 その娘達の血を湯船に満たし。全身で生命力を吸っていたのだ。

 ジュシオは周囲を見る。

 死体の数から、捕えた娘達全員を潰したようだと判断する。

 おそらく近いうちに補充の命令が出るだろう。

 また、何人もの娘を捕えなければいけないかと思うとジュシオは嫌な気分になる。

 近くには娘の頭が転がっている。その顔は切り刻まれている。

 ザファラーダは美しい娘が恐怖で顔を歪ませるのが好きなので、死ぬ瞬間まで痛めつけられたようであった。

 ジュシオの動かないはずの心が痛む。

 人の死に心が痛む吸血鬼ヴァンパイアはジュシオだけだろう。

 他の吸血鬼ヴァンパイア達はザファラーダの行為に心が痛むことはない。

 しかし、自身の主の忠実な下僕である以上、ジュシオは命令を聞かねばならなかった。


「しかし、姫様。御父君の命令を聞かぬわけには……」

「わかっているわ。ジュシオ。用意が出来次第動きます。はあ、これで暗黒騎士が美男子だったら良かったのに……。でも魔王のお仲間はほとんどがブサイク。期待できないわね」


 魔王モデスの仲間の神々のほとんどがブサイクなのは有名である。

 そのため、ザファラーダはやる気が出ない。


「私の騎士も減ったから補充しないといけないわ。顔が良くて強い男、難しいわね……。娘だけじゃなくてそちらも探す必要があるわ」

「それでしたら、北の地の人間を襲いますか?」


 北の地は死の眷属の支配地ではない。

 反抗的な人間の騎士もいる。その者達の中に候補が見つかるかもしれなかった。


「いえ。駄目だわ。今は暗黒騎士を探すのが先よ、ジュシオ。弟達はどうしているのかしら?」

「はい。数名の御子様方は既に暗黒騎士を探すために動いております。残りの方々は姫様が来られるのを待っております」

「そう。わかったわ。それなら急いで支度しなければいけないわね」


 薄い布の向こうからザファラーダが立ち上がる気配がする。

 そして、薄い布が開かれる。

 ジュシオが顔を上げると全裸のザファラーダが見降ろしている。

 侍女達が体を拭き、衣装を持って来る。

 白い肌から血が滴り落ちる。

 それはとても美しく官能的な姿であった。

 甘い血の匂いを嗅ぎ、ジュシオの体が疼く。

 ここにいればジュシオは流されてしまうだろう。


「姫様。私は先に戻り兵を動かしたいと思います。暗黒騎士がどこにいるかわかりませんので」


 そう言ってジュシオは立ち上がる。

 自身の領地へと戻るつもりだ。


「待ちなさい。ジュシオ」


 しかし、ジュシオは背中から呼び止められる。

 それは甘い声であった。


「なんでしょうか姫様」


 ジュシオが少し振り向くとザファラーダが近づいて来る。


「こっちを向いて跪きなさい、ジュシオ。貴方は私の口づけを受けても、未だ心は堕ちない。教育が必要ね。残りなさい。貴方の領地には代わりの者を行かせるわ」


 そのザファラーダの言葉にジュシオの心がざわめく。

 ジュシオには拒否する事は許されない。


「はい姫様」


 ジュシオは全裸のザファラーダの前に跪く。


「舐めなさい。ジュシオ」


 その言葉にジュシオは顔を上げる。

 見下ろすザファラーダの顔には嗜虐的な笑みが浮かんでいるのであった。





「お逃げ下さい! クーリ様! そして、戻り皆に伝えて下さい! ワルキアから亡者の群れがあふれ出したと!」


 フルティンは叫ぶとメイスを掲げる。

 クーリ達の砦の窓からは亡者の群れが見える。

 亡者は突然、ワルキアの地から亡者の群れが湧き出したのである。 

 時刻は昼だというのに、ワルキアの空からは黒い雲が伸びて闇を広げている。

 蒼白く光る幽霊達が、空を飛び何かを叫んでいる。


「そうだぜ! クーリ様は逃げるべきだ! 後は俺達に任せな!」


 マルダスもそう言って仲間である鉄血戦士団を見る。

 マルダスとその仲間達はクーリ達が逃げるまでの殿をするつもりなのだ。

 それが、どれだけ危険な事かもわかっているだろう。


「ああ、団長の言う通りだぜ、王子様。戻って危険を知らせるのも大事だぜ、後は俺達がやるぜ」

「そうそう、食べ過ぎたから贅肉が付きすぎたからな。少し肉を落としてくるぜ」

「はは、ちげえねえや! 運ばれてくる酒と肉が美味くてな。ちょうど良い運動になる」

「がはははは、そうだな、みんな豚みたいになっているぜ」


 そう言って鉄血戦士団に所属する戦士達が笑う。

 鉄血戦士団は団長のマルダスと同じく太った男が多い。

 

「モンド殿。貴方もクーリ様と一緒に下がってください」

「何っ? それはどういう事だ? フルティン殿?」


 フルティンがそう言うとモンドは怒ったように聞く。


「モンド殿。貴方の体は戦える状態ではない。それは貴方が一番良くわかっているはずですぞ」


 フルティンはモンドを見る。

 頬の肉が削げ落ち、まるで幽鬼のようであった。

 長くアンデッドと戦ってきたモンドの肉体は瘴気によって蝕まれ、さらに連日の戦闘でつい先日倒れてしまった。

 もはや、モンドは戦える状態ではない。


「ぐ、しかし」

「いえ、今は戦うべきではありませんぞ。これから先、モンド殿の知識は必要になるはず。生き延びて下され」

「フルティン殿」


 モンドはフルティンを見る。

 普段無表情のモンドの目に涙が浮かぶ。


「クーリ様を頼みます。後の事は気にせず。さあ、早く私も贅肉を落としたいと思っていた所です」


 そう言ってフルティンは自身の大きな腹を叩く。


「申し訳ありません。フルティン先生、マルダス殿」


 クーリは悔しそうに言う。

 ブリュンドの王子でなければ一緒に戦えたのである。

 しかし、クーリに死ぬことは許されない。

 フルティンと鉄血戦士団を残し、他の者達は砦から脱出する。

 数が少なくなった騎士達は周辺の国にワルキアの変事を伝えなくてはならない。

 残りの戦士はクーリの護衛として、砦を離れる。

 

「さあ、行って下さい。クーリ様。何時の日かエリオスで会いましょう。もちろん、すぐに来てはいけませんよ」


 フルティンはそう言って楽しそうに笑うのだった。




 ワルキアの境界に亡者達が集合する。

 亡者による結界を張り、ワルキアから誰も出られないようにするためだ。

 急ぎ領地に戻って来た吸血鬼女伯ヴァンパイアカウンテスベーラは配下の者達に指示を出す。


「良いわね。お前達、偉大なる方の宝を盗んだ不届き者を逃がしてはいけないわ、何でも豚のように醜い男らしいわ。見つけたら、殺さず傷つけずに捕らえなさい」


 ベーラが言うと配下の下位吸血鬼レッサーヴァンパイア達が頭を下げる。


「ところで、ベーラ様。境界近くの人間共はどうしますか? 何やら騒がしいようですが」


 下位吸血鬼レッサーヴァンパイアの一名が聞く。

 ベーラの領地の近くには人間の騎士達が作った砦がある。

 亡者達が境界の近くに集まったことで騒ぎ出したようである。

 

「放っておきなさい。侵入者を逃がさないのが大事よ……。うん?」


 そこで、ベーラは砦の近くの人間達を遠視の魔法で見る。

 砦にいるのは豚のような男達ばかりであった。


「豚のような男達……。一応捕らえておいた方が良いかもしれないわね」


 ベーラは溜息を吐きながら呟くのだった。


 




 クロキ達が死都モードガルを脱出してからかなりの時間が経過したが、全く距離を稼げていない。

 クーナの蝶は結界を超えて転移できるが、距離が短い、これでは歩くのと大差ない。

 そのため、クロキはクーナとティベルと共にワルキアの地を歩く。

 道化はいない。道化は敵の目を引き付けるために別行動をしている。


(ナルゴルがあれほど怖い存在だとは思わなかった。ナルゴルの神々が恐怖するのもわかる……)


 クロキは脚が重く感じる。

 ナルゴルの死の影がクロキの肉体と精神を蝕んでいるのだ。

 ナルゴルの力は竜達ですら畏怖させる。

 その竜達が動かなくなったので、余計に力が入らない。


「大丈夫か? クロキ?」 


 クロキの体を支えるクーナが不安そうな顔をする。

 クロキはその顔を見て申し訳ない気持ちになる。

 天使達を助けた事で、危険な目に会ってしまった。

 そのため、クーナに心配をかけてしまったのだ。


「ごめんね、クーナ。心配をさせて……」

「そうだ。心配したぞ、クロキ。あの地でザルキシスと戦うのは無謀だ」

 

 クーナは少し怒った口調で言う。


「そうですよ~。心配したのです。クロキ様。無茶な事はしないでください~」


 ティベルもまた頬を膨らませて怒る。

 その様子が可愛くて暖かい気持ちになる。


「わかったよ。クーナ、ティベル。もう無茶はしない」


「わかってくれたのなら良い。クロキ。それよりもどこかで休まないと」

 

 クーナの言う通りであった。

 クロキの足取りは重く、このままでは回復しないようであった。

 どこかで休まないと動けなくなる


「そうだね、クーナ。少し休まないといけないな。ティベル。休めそうなところはあるかい?」

「そうですね~」


 ティベルは目を瞑る。

 小妖精フェアリーの危険察知能力は高い。

 その能力は小妖精の囁きフェアリーウィスパーと呼ばれ、その声に従えば危険を避ける事ができる。

 今まで見つからずにすんでいるのは、このティベルの能力による所が大きい。


「こちらが良いと思うです~。なんだか花の良い匂いがするのです」


 ティベルはある方向を指差す。

 クロキはその言葉に驚く。

 ワルキアは瘴気の濃い土地であり、小妖精フェアリーにとって良い匂いの花があるとは思えなかった。

 しかし、ティベルの花に関する感覚は間違いないはずである。



「花の匂い? このワルキアで? だけど、ティベルが言うのなら間違いないか。わかった、そちらに向かおう」

 


 クロキ達は花の匂いがする方に歩を進める。

 今はティベルの案内に頼るしかなかった。


★★★★★★★★★★★★後書き★★★★★★★★★★★★


更新しました。

一応GWですが、自宅待機の今は休みが関係なくなっています。

速くコロナが終息して欲しいですね(;´・ω・)


前から気付いていましたが、日本だけでなく、外国でも読んで下さる方がいるようです。

実は英語版を作ろうと思ったのはそのためだったりします。

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