待人

音崎 琳

待人

 壁の時計に目を遣ると、そろそろ日付が変わろうとしていた。かれこれ四時間近く、柱の陰のこの席を占拠していることになる。顔なじみのマスターは知らぬふりで、カウンターの中でグラスを磨いている。店の中にはすでに、他の客の姿はない。

 ほろ酔い、と表現するには、少し気持ちよさが足りない。結露の纏わりついたグラスとにらめっこ。浮ついたオレンジ色が憎たらしい。きらきらと光を弾くそれは、今の自分をきれいに裏返したみたいだ。

 もう一度、時計を見る。明日まで、あと四分。あと四分待ったら、もう一度電話をかけてみよう。そう自分に言いきかせる。小さなテーブルの上の携帯電話は、死んだように沈黙している。

 ぬるくなったカクテルを、一口喉に流し込む。甘ったるさだけが舌の上に残る。腕を組んで顔を伏せた。冷たい指先とは反対に、目頭が熱っぽい。頭の奥が、じんわりと痛む。

 なんでだろう。自分がここにいる意味がわからない。きみがここにいない意味がわからない。

 考えることにも疲れてしまって、口の中は甘いはずなのに、ゆっくりと苦味が広がっていく。

 重い頭をようやく持ち上げて、店の奥の時計に視線を合わせる。あと二分。小さな緊張と不安は、絶望の中に紛れて見えない。ふいに、自分の上に影が落ちる。首を巡らすと、オレンジ色を浮かべたグラスを手に、マスターが立っていた。黙って卓の上のそれと取りかえる。礼を述べようとしたけれど、舌がひっかかって何も言えなかった。マスターは、微笑みの破片らしきものをのぞかせて、カウンターの中に戻っていく。

 かちり。静かな店内で、時計の針が動いた。

 冷たいトロピカル・カクテルを一口含んで、携帯電話を取りあげる。喉を滑り落ちていく液体に意識を預けながら、電話を掛けた。

 コール音が何度もくりかえされた後、抑揚のない声が告げる。電話の向こう側は、どこにもつながらないままだ。こちら側で、小さく鐘が鳴る。

「ただ今電話に出ることができません。ピーという音のあとにメッセージを……」

 自分で予測した通りの未来。伝言など残すつもりはなかったけれど、今なら舌は動いてくれそうだ。小さく息を吸い込んで――

「ごめん、お待たせ」

 柔らかな声に、遮られた。

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待人 音崎 琳 @otosakilin

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