20160910:立つ鳥が残した蛍光
蛍光というのは。励起した状態から基底状態へと戻るときに放出するエネルギーを言う。
黒板にそんな意味の言葉が書かれて丸が描かれ、同心円がいくつか並び。最外の円からその直ぐ内側へ波線が引かれている。その図を示すように、チョークでとんとんと叩かれた。
ぼくは素直に首を横に振った。
淡い笑顔が長く長く息を吐いた。わずかに首を傾げると笑みが一層深くなる。
あまり出来の良い生徒じゃなさそうだったから。きっと始まる前から諦めていたんだろう。
淡い色彩に揺れる影の中、音もなく、光だけがやりとりの情景を映し出す。
*
ディスクを取り出す。
知っている言葉をラベルに見つけ、ふと手が止まる。
数瞬の逡巡の後、ぼくは結局そのディスクを再生機へとセットする。
*
「立つ鳥あとを濁さずというのは素敵な言葉だと思わないかい?」
やたらと目立つ大仰な装置へと視線をちらちら送りながら、コーヒーを啜っていた。
渡り鳥が立ち去ったあと、痕跡が残されていないと思われるほど、綺麗な事を言うのだとあの人は続けた。ネイティブでないぼくへ補講だとでも言うように。
「そうなんですか」
ぼくが気のない返事をすれば、あの人は満足そうに頷いた。
本当は知っていた、とは。言わなくても良いことなのだと、ぼくは既に学んでいた。
「片付ける、来たときのように綺麗にする」
「礼儀のことですか」
「習慣のことだよ」
あの人のデスクはいつも綺麗だった。常に掃除が行き届いていて、埃一つ、パンの食べかけ一つ残されていない。私物の持ち込みは最小限で、退勤してしまえば空席があるだけのようにも見えた。
「なるほど、綺麗だ」
「だろう?」
嬉しそうに笑む。けれど、どこか、諦めが混じったようにも、ぼくには見えた。
*
多分、あの人の言う「立つ鳥あとを濁さず」は、痕跡の事だったのだと今は思う。
手がかりを残さないこと、証拠を残さないこと。消える準備をし続けること。関わりを深く持たないこと。
揮発するかのように。
淡い光が音もなく、情景を映し続ける。
*
「蛍光とは違うんですね」
暗室の中、レーザーを止めたにもかかわらず、結晶は淡く輝いていた。夜光とか蓄光とか、言い方は様々だが。この光を蛍光と呼ぶのだけは変わらない。
「残るものだからかい?」
「後ろ髪を引かれるようなと言うのでしょう?」
上手いことを言うね。
そう言って笑ったあの人の目の前で、光が静かに引いていく。
反射がその場限りのものであるなら、蛍光はぐずぐずと残るものにもぼくには思えた。立つ鳥とは、正反対の。
「エネルギーが残ってしまう故の現象だからね」
そうとも言えるし、そうでない、とも。
あの人は淡く笑う。いつもの笑み。諦めたような。
「そうでない、とは」
だからぼくはつい。袖を慌てて掴むように言葉を繋いでしまうのだ。
生じたエネルギーが、何処へも消えていかないように。
「基底状態に戻る際に放出されれば、そこで光は消えるからさ」
熱力学第二法則。エントロピーは拡大する。
*
一口だけ口を付けたコーヒーカップを残したまま音信不通になったのは、全くあの人らしくなく。
あの情景は、ぼくの中で。励起状態のまま、固定されたかのようだった。
*
例えば、と冗談交じりに発せられたあの人の言葉を覚えている。
励起状態を保つことが出来たなら。任意のタイミングでそれを解除できたなら。それは情報を保持していると言えるのではないだろうか。
「写真は光による反応で記録する。不可逆な記憶媒体だ」
磁気情報のフロッピーディスク。エネルギーのオンオフで記録する各種メモリ。光の反射角に、ある種の状態。読み取っても消えない媒体として、記録媒体として、様々なものが考案されている。
「蛍光は一度きりの通信に向いていると思わないかい?」
読み取ることは失うことで、改竄不可能なのだ。あの人はそう、息巻いていた。
「改竄不可能?」
「基底状態になったなら、新たなエネルギーで上書きしなければ、励起状態には戻らないんだよ」
*
生き物がエネルギーの塊だと言っていたのは誰だっただろう?
体温を持ち、運動が可能で、重さがあり。
量子の世界で見たならば、速度の二乗分のエネルギーを、生まれたときからぼくらはみんな持っているのだ。
『放出するエネルギーが蛍光なんだ』
*
エネルギーを与え続ける。もしくは、エネルギーを与えた状態を保つ。
与え続けることが難しいなら、エネルギーのやりとりのない系をつくる。
理論屋の言うことはいつも机上の空論で、理想論で。まず、一笑に付されるところから始まるのだ。
「完全閉鎖系の可能性を考えたい」
電磁波、可視光、音波、物理的な力に、地震のような低周波。ホワイトノイズに含まれるありとあらゆる『波』を。共鳴させず反射し、中身へと伝搬させない。
「でも、蓋があり、必ずいつか開けることが出来る。そんな系だ」
物性論の研究室へ足を運び、工学分野を尋ね周り。あの人がそれをライフワークにする頃に。
ぼくは蛍光を追うことを辞めたのだ。
「行くのかね」
「立つ鳥あとを濁さず、と、教えてくれたのはあなたです」
*
この選択が正解だったのか失敗だったのか。
ぼくが知る術など、本当に限られているのだ。
*
次いで現れたのは空だった。ケースの中に収まる鉱物よりずっと青くて高い空だ。
鉱物に心の存在は無いとされる。代謝を行う『生物』でもなく、鉱物の内部に器官もない。だから、この鉱物が青空を見て、感情を残すはずがあるはずもなく。
それでも。
空が揺らぐ。淡い蛍光が描き出す空が、放出のこの一時しか見られない空が。千年の空を詰め込んだような淡い光の中で、揺らぐ。
揺らぎが文字を表していることに、やがてぼくは不意に気付いた。
*
――日、一二時五分。これを開封しているのが――であることを願う。
人為的に再現されたブラックホールでしかないから、この装置がいつまで持つのかまるで判らない。そして、時間の流れも私が知ることは無いのだろう。
目の前に広がる光景が千年の空であったとしても、昨日のものであったとしても、そこに違いなど無いだろう。
私はそこにいないのだろうし、この通信は機密性と完全性を備えたものであるから、君でなければ意味を取ることも出来ないだろう。
私はあとを濁さず飛び立てただろうか。
私は私を消すことが出来ただろうか――。
*
ふと、笑みが漏れた。
諦めだったかも知れないし、幼稚なあの人への嗤いだったのかも知れない。
消えたがっていたあの人は。
けれどこんなに――ぼくの中に。
*
千年の昨日の空は、今もまぶたに、焼き付いている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます