20150829:ユートピアの在処
走る。走る。走る。
ネオンが生み出す暗闇を辿り、どこまでも、どこまでも。
繋いだ小さな手が時に遅れ、時に躓き、引きずるように引いていく。
離さない。何があっても。
「あっ」
がくりと引かれ、つり下げるように持ち上げた。小さな悲鳴。ガマンしろと口の中だけで呟いた。
抱えて走る。暗がりを辿る。人の合間を縫うように。ぶつかり、転げ、それでも、なお。
「あそこだ!」
ざわめきが跡を追ってくる。弾ける煉瓦。続く悲鳴。
抱えたままで露地を曲がる。街灯のない、暗がりへ。
そこは。
──袋小路。
*
はう、とも、あう、とも取れない声を上げながら、ダイバーの少女は汗を散らして顔を上げた。ぶつくさと呟き続ける男の頬からぎこちない動きで両の手をはがし、どさりと座り込む。
「お疲れ様」
私が投げた蒸しタオルを息を吐きつつ頬に当てる。目元へ、額へ。顔を覆うようにまた、頬へ。
そうしてようやく、まだ幼さ残すそのまなざしを私の方へと向けて来る。
「逃げていました」
彼女の視線が男へ戻る。冷めた視線を男へ向けて、淡々と事実を語る。いや、男が事実と信じる事を。
暗闇を逃げていた。女の子の手を引いていた。袋小路に追い込まれた。
「この夜が明けたらって、しきりに、しきりに呟いて」
タオルを僅かに引き上げる。視線は男に据えられたまま、
「抱き上げた女の子の、首筋を」
言葉を切る。男を見つめ続ける視線の色は……嫌悪。
──嘗めていました。
吐き出されたその言葉を、私はただ、受け止めた。
*
「そう言うものは全部置いてきてしまったよ」
痛みに顔を顰めながら、男は笑む。
ゴツリと感触があったかと思えば、頬の痛みと床の冷たさを同時に感じた。
格子の嵌まった扉の向こうに明かりはなく。窓のないこの部屋がどこにあるかも分からなかった。
視線をぐるりと巡らせる。男を部屋に押し込めた連中の一人が、ぽきりぽきりと準備運動でもするかのように指を鳴らした。
男は霞が掛かる頭で思う。
全部、根こそぎ置いてきた。──格子の向こうの光の世界に。
「置いてきた場所を、思い出せば許してやる、ぞ」
今度は、腹。
ぐふりと思わず息をつく。飛んでしまえば楽だったのに、意識は未だ男を見放してはくれない。
そして、ぐりりと肩を。
「ほらほら」
背中を。
「ちょっとは思い出してきたか? よっ」
再び腹を、そして。
ごつんと頭で聞いた、気が。
「ひでぇ、な」
アイツがいれば。男は思う。
すがりつく小さな手。指を滑る絹のような細い髪。桃よりもやわらかい頬。抱きしめた重さと、もろさ。
いつまでも乳臭い香り。──汗の味。
「新品だったのに」
シャツも、アイツも。
へらりと口元を歪ませ笑い──。
*
ゆるりと少女は顔を上げた。幾度目かになるサイコダイブに、彼女もそろそろ慣れたのだろう。息をつきつつ、私を見上げる。
「……幼女趣味の、マゾヒストとしか思えません」
うん。私は頷いた。先を促す。
少女は語る。閉じ込められたらしいこと。暴力の中でそれでも笑っていたということ。女の子はいなかったこと。味を。女の子の味を確かに思い出していた、こと、を。
ぶるりと背中を震わす彼女の肩に、自分の上着を掛けてやる。寒いわけではないことくらい、私にも分かっていたけれど。
「女の子は?」
「さぁ、出てきませんね」
そう。私はただ、頷いた。
*
何度も殴られ、何度も蹴られ、常にどこかを出血していた。
窓のない部屋の中、死なない程度の水と糖を与えられ、幾日もただ転がれているだけだった。
それでも男はへらへらと笑い続けた。
そしてまた、何度も殴られ、何度も蹴られた。
幾日も経っていたかも知れない。
ふと気付くと女の子が目の前に立っていた。
紅い瞳が男を見つめる。
細い手が汚れたぬいぐるみを抱えている。
折れそうな足がやたらと綺麗なワンピースの裾から伸びて。
白い小さな裸足がみえた。
男はそっと手を伸ばした。
少女の腕を引き寄せる。
片側が上がらないまま、片手で少女を抱きしめて。
暗闇に淡く光を湛える首にそっと自身の口を寄せる。
「お前が、いれば」
甘く。かぐわしく。ほのかな香りと共に。
男の中で確かに何かが──崩れ。
崩れ……。
*
少女は無言で男を離す。床へと座り、息を零す。
少女は目を上げ、正面から男を見る。
「そうして、壊れたんですね」
虚ろな瞳は、彼女も私も見ていない。
ここではないどこかを、男の内のユートピアを、その秘密と共に。ただ。
「何か、思っていた?」
思い出す彼女の首はゆるりと横に。
「……なにも」
絞り出された言葉に、私は思わず溜息を零した。
賭けだった。
サイコダイバーを雇い、男の想いを知ること。
『女の子』が知り得なかった、男の記憶を、思ったことを。
手がかりを。
「どう……」
します、の言葉が消えたのだと、気配で分かった。
静寂の中、息を呑む音が僅かに聞こえた。
「どうしましょうかしらね」
再び溜息を零した私は、男から少女から、視線を外す。
窓の外には輝く満月。昇り初めの紅い。
……この夜が明けたならと。幾度。
淡く光を湛える自分の白い手を、開いて閉じてまた、開く。
「愛していなかったわけじゃない」
輝く手を男にかざせば、幻を映す瞳が、動く。
「私はただ知らずにいた」
そっと、少女と男の間に立つ。
男の手が、『私』を求め、僅かに震える。
「ねぇ、
父だとかつて名乗った男の、震えるその手を。
私、は。
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