第24話 失踪
三月。厳しい冬の終わりを感じる季節。春はもう目の前だ。
春休みシーズンは書き入れ時。卒業旅行やグループ旅行の学生、新生活や新年度を控えた家族連れが多く訪れる。景気回復とはいえない世情の中、邂逅屋の売上は前年比を上回っていた。
毎日が忙しい中、各々が充実した生活を送っているためか、職場そのものが活気に満ちているように感じる。
栄子は忙しい中、結婚式の段取りで軽井沢に祐介と通う日々。
雅美は栄子、樹里に触発され、もう一人前の仲居といえるまでになった。
そんな雅美とまるで親子のように息の合ったコンビネーションを見せる優子。二人はプライベートでも仲良く行動している。
則男と樹里はゆっくりと二人のペースで愛を育んでいた。智恵子とは、ほとんど会話もしていない則男。業務上のお付き合いといった感じ。
「ただいま」
今夜も樹里の部屋に帰る則男。
「おかえりー」
ドラフターに向かっている樹里が則男を見て微笑む。
「頑張っているね。どう?」
「ほぼ完成っ。全部で二十一枚にもなりました。あとその工事をする時に施工図っていう大工さんに渡す細部の図面が必要なんだけどね」
「へぇ、そうなんだ。大変なんだね。これだもん設計屋さんはいいお金を取れるわけだ」
「それでもお客さんにイメージしてもらうのにカラーパースとかが本当は必要なんだよ。絵ね、絵」
「ふーん」
「CADシステムを持っていればすぐに出来ちゃうんだけどね」
「それ何? コンピューター?」
「そう。平面図を入力しちゃえば全部してくれるの」
「時代だよね~」
「ね~。お茶入れるね」
樹里は椅子を立つとキッチンに向かう。
「青森に行きたいな・・・」
お茶を一口飲むと呟く則男。
「え? どういう意味?」
驚いた顔をする樹里に、
「あっ、旅行だよ、旅行」
あわてて補足する則男。
「あぁ旅行ね。寒い時期はやめた方がいいよ。弘前ならリンゴの花が咲く五月がいいかもね。花祭りとかやっているし。一番は八月のねぷた」
「ジュリの家にも行きたいな」
「・・・」
手に持ったお茶に視線を落とす樹里。
「弘前〝市〟なのにリンゴ農園があるの?」
「市街地から郊外一帯に広がっているの。岩木山の裾野。きれいだよ~」
懐かしむような顔をする樹里。
「そこに家があるの?」
「うん。まぁ近くだね。一ノ瀬農園って言えばみんな分かるよ。あの辺に一ノ瀬なんて名字うちしか無いから」
「へ~珍しい名字なんだぁ」
「そうみたい」
家に則男を連れて行くことも考えたことがある樹里。だけどそんなことをしたら耕作は勘違いするだろうとも思う。要らぬ期待をされる則男にも迷惑な話だろう。それでも則男が家に来たいと言ってくれたことは素直に嬉しかった。両親に会うつもりはあるんだと確認できた。そんな一つ一つの小さな出来事が今の樹里の支えになっていた。
航太郎は愛車RX7を覆っていたシートを取った。
「もう走れるな・・・」
FR(後輪駆動)のスポーツカーFD3Sは雪道には適さない。冬の間はシートを掛けて眠らせている。必要な時は向井の車を借りていた。不便ではあるが、それが航太郎のFDに対するこだわりだった。
四月初旬。航太郎は前橋に向かって車を走らせていた。
「十一月から乗っていないからどうかな?」
「え~大丈夫ですかぁ?」
「わかんねぇよ。突然エンストするかもよ」
「ホントですか~」
助手席から不安な声が上がる。その声の主は雅美だった。
航太郎は二月頃から何となく雅美と行動していた。本当に何となくだ。別段何したわけでも無く、何しようとも思ってはいなかった。
樹里が本気で則男と付き合っていることは、もう職場のみんなが知っている事実だった。これまでモテる人生を歩んできた航太郎にとって、本来それは屈辱的であるはずだった。しかし不思議とそれが無い。ただ何とも言えない虚脱感に襲われていた航太郎。その隙間を埋めるように雅美と何となく出掛けたりしていた。
「雅美ちゃんをオモチャにしたら承知しないからね!」
「んなつもりマジねぇっスから」
優子に呼び止められて言われたこともあった。
「うわぁ満開だぁ~!」
前橋の敷島公園まで来た。沿道の桜並木に乗り入れるピカピカに磨き上げた真紅のボディに桜の木々が写りこむ。
「なっ、今日来て良かったろ?」
「はい! ありがとうございます!」
「ちっと降りてソフトクリームでも食うべぇ」
「そうしましょ、そうしましょう!」
興奮する雅美。
ご満悦な表情の航太郎だった。
樹里は午前の仕事を終えると、図面の筒を持って事務所に行った。
「伊藤さん、コピー借りまーす。専務には言ってありますんで」
「あっ、聞いているよ。どうぞ」
今日は午前中に智恵子が居ないことを則男に聞いていた樹里。完成した図面を製本するため一度全部コピーしようと持って来たのだ。結局二十五枚にも及ぶ大作になった。後半は則男と一緒に相談しながら形にしていった二人の作品とも言えた。
原画はA3サイズのトレーシングペーパーと言う設計図や図面などを転写するときに用いられる薄い透光性のある紙で書かれていたため、軽く丸め易いもの。それを図面用のペーパーホルダーに丸めて持って来ていた。
「樹里ちゃん、ちょっと俺は三階の掃除に行って来るんでよろしく。電話は専務に転送になっているから放っておいてね」
「はーい」
ホルダーから図面を出してコピー機の前に広げる樹里。
鼻歌を歌いながらコピーを始める。
しばらくコピーをしていると、樹里は背後に気配を感じた。
振り返る樹里。
「あ!」
氷のように冷たい表情で智恵子が立っていた。
「事務所で勝手に何をしているの?」
「あ、スミマセン。あの専務にも言ってあります」
樹里はさり気なく図面の原画を手に取ると丸めて後ろ手に回す。
「何を隠したの? 見せなさい」
「・・・」
「見せなさい!」
おぞおぞと図面を差し出す樹里。
それを雑にバッと広げると注視する智恵子。
「何よこれ」
「図面です・・・」
「そんなの分かるわよ。何の図面よ」
図面の表題を見る智恵子。
「!」
見る見る智恵子の表情が変わる。パラパラと別の図面も見る。その内の一枚に『大広間改修計画図』とあり、大広間を個室席の食事処に改装するものがあった。
「あなた何様なの?」
智恵子の手が震えている。
「え・・・」
「前から言おうと思っていたけど、あなた何様なの?」
「あ・・・」
恐ろしくて言葉が出ない樹里。
「ノリちゃんを口車に乗せて・・・今度はうちを乗っ取る気?!」
「そんな・・・違います。それは専務も承知で・・・」
それだけ言うのに精一杯の樹里。
「黙りなさい! それを言っているのよ! あなたが来てからというもの、うちは家族がバラバラよ!」
「・・・」
「私の知らないところでこんなものまで作って、則男に借金させる気なの?! 仲居の分際で何なのあなた?」
「そんなにお金を掛けずに、」
「黙りなさい!」
その勢いで智恵子は図面の束を真っ二つに破った。
「あぁーっ!」
目を見開き悲鳴を上げる樹里。
「ふざけるんじゃないわよ!」
智恵子が怒鳴ると、
「ああああぁ~っ!」
と大声で泣き出した。
「あああぁ~っ! ああぁっ!」
あまりの樹里の反応に驚く智恵子。
「何よ・・・そんなに泣くこと?」
体を一歩引いてボソリ言う智恵子。
樹里は大声を上げながら智恵子の横を走り去って行った。
「・・・」
黙って立ち尽くす智恵子。
ドタドタッと音を立てて伊藤が降りてきた。
コピー機の上に置かれた破れた図面を見た伊藤が、
「あぁっ。女将さん、あんまりですよ・・・!」
と智恵子を凝視して呟いた。
いつもこういう時に則男は居なかった。
今日は早番の樹里。三時には厨房にいるはずなのに来ていない。
「今日は樹里ちゃん早番だよね」
優子が雅美に聞く。
「そうですよ。どうしたのかな」
まだその時点では誰も気が付かなかった。何かどこかで別の用事を頼まれているのだろうとしか思っていなかった。
三十分経っても現れない樹里。さすがに異変に気が付く。
「誰か聞いてる?」
厨房も首を振る。
「雅美ちゃん、電話して見て」
優子の指示に雅美が棚に置いてある携帯を手に取る。
「・・・」
皆で雅美に注目する。
「ダメです。〝電源が入っていません〟になっちゃう」
「じゃあ栄子ちゃんに電話して」
「今日は栄子さん、軽井沢に打ち合わせ行ってます」
それを聞いて玄関に走る優子。
「伊藤君、樹里ちゃんに何か聞いてる?」
お出迎え待ちをしていた伊藤を呼ぶ優子。
「え? 来てない?」
伊藤の表情は何かを秘めていた。
「何? 何があったの?!」
問い詰める優子。
「ちょっと、女将さんと・・・」
「えぇ?」
伊藤は分かる範囲で経緯を説明した。
「ちょっと私、寮に行ってくる。三〇二号だよね?」
「そうです」
「あ! 伊藤君、予備の鍵ある?」
「それは専務が・・・」
「もう、何でこういう時いつも居ないのよぉ!」
と駆け出す優子。
深刻な顔で厨房に帰ってくる優子。
「どうだった?」
航太郎が詰め寄ってきた。
「何度呼んでも反応が無い。いる様子が無いのよ・・・。専務は連絡取れたの?」
「まだ会議中みたいで繋がらない。チッ、馬鹿野郎・・・」
目を細める航太郎。
その時、智恵子が入って来た。
全員が冷ややかな視線を送る。
「何ですか、みんなして」
「女将さん!」
その時、雅美が智恵子に走り寄った。すると、
「雅美ちゃんはいいの!」
とその行く手を優子が塞ぎ、智恵子の前に来た。
「女将さん、やっていい事と悪い事があります。女将さんは一人の人間を立ち直れないほどに傷付けました。私は失望しました!」
目に涙を溜めて真っ直ぐに智恵子を見る優子。
「優子さんまで・・・」
そう言うと、智恵子は出て行った。
何度も則男に電話を掛けながら、入館する客をお出迎えする優子たち。
四時半近くになって、
「お疲れ様デース! 今日のまかないは何だろ~なぁ」
と遅番の栄子が入って来た。
「ああっ栄子ちゃん、お部屋に樹里ちゃんいる様子無かった?」
優子が飛んできた。
「えっ、ど、どうしたの?」
「樹里ちゃんが居なくなっちゃったの!」
「はぁ?!」
則男は草津の近く伊香保温泉で会合だった。連絡が繋がった時は五時半を過ぎていた。その連絡を受け、懇親会と宿泊をキャンセルして草津に戻ったのは七時前だった。内容を聞いていたので旅館には行かず、直接樹里の部屋へ飛んだ。
栄子が真剣に言った言葉を思い出した則男。
『もし最悪な状態だったら、触らず、警察に通報するんだよ。気持ちは分かるけど、後が大変なんだよ。いいね、専務!』
階段を駆け上る足が地に着かない。何度も前に躓きそうになる。
「ハァハァハァ・・・!」
樹里の部屋の前に立ち、鍵を差し込む。
ゆっくりとドア開ける則男。
「ジュリ!」
「ジュリー!」
呼びながら中に入る。
やはり樹里は居ない。さっきまで居たような状態の部屋。荷物がまとめて消えているわけでもなく、いつもの部屋だ。
そしてユニットバスのドアを開ける。心拍数が確実に上がっている。
「ジュリ・・・」
やはり居なかった。
まずはここで最悪な結果になっていなかったことに胸を撫で下ろす則男。そして心を落ち着かそうと深呼吸をした。
「ん?」
ドラフターに何か貼ってある。
『ノリ君、幸せな時間をありがとう。一生忘れません』
その横に見事な則男の似顔絵も貼ってあった。
二人の思い出の旅行の時に旅館で撮った則男だった。
「あぁあぁ・・・」
その場でガクリと膝を落とす則男。
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