第17話 栄子の覚悟
八月の忙しさはどこへやら、九月になるとパタリと客足は途絶える。その反面、平野部では残暑厳しい頃であるが、ここ草津は涼しい風が心地よい一番過ごしやすい季節なのではないだろうか。
樹里の提案で看板も「邂逅屋」の横に「KAIKOYA」と和風の字体でローマ字を入れたところ、前を通る観光客にも覚えてもらえたようだ。もちろん表向きには則男の提案となってはいるが。ローマ字を覚えたての子供たちが「かいこや、かいこや」と声を出しているのを見て、則男は町民にも名前が認知されていなかったことを初めて知った。
例年では客足の確保に値段を下げたり、団体客用の格安パックを組んだりと様々な手を打つところではあるが、今年の邂逅屋は違う。程よくネットからの予約で客室は値下げすることなく埋めることができた。
さて、佐山栄子はある覚悟を持って休日の今日、デートに臨んでいた。祐介が有休をとってくれたため二人の休暇となったのだ。昼間は草津から約一時間の長野県の上田市にまで足を伸ばし、必要な買い物に祐介を付き合わせた。そのまま映画を鑑賞して、夕食まで中途半端な時間なので、帰るかまたは時間を潰して、夕食も上田で食べて行こうかを話していた。
祐介の運転は少々荒いが、テックニックは光るものがある。
「どうするんだよ」
「だからそんなに飛ばさなくてもいいって。草津に着いちゃうよ」
「途中に食うところ無いしなぁ」
「あ、祐ちゃんちでご飯食べよ」
と言ってみる栄子。
「ああ? ダメだよ俺んちは」
「どうして?」
「そりゃ家の人間がいるもん。決まっているだろ?」
「私は気にしないよ」
「俺が気にするの!」
「祐ちゃん・・・」
「何?」
「もう、そろそろご両親に私を紹介してもいいんじゃない?」
言えた。三年間ずっと言えなかったことが噛まずに初めて言えた。
「・・・」
黙ってミラー越しに後方の車の確認をしたり、サイドミラーの角度調整をしたりして、聞こえなかった振りをする祐介。
「ねぇ、聞いてた?」
「何を?」
「何をって・・・。両親に紹介して!」
一度口を出たら次は言い易かった。もう何度でも言える。
「お前をか?」
「当たり前でしょ。他に誰がいるのよ」
「分かった」
「え?」
祐介は左側に見えたコンビニに車をスッと入れると、
「ちょっと電話してみる」
と車から降りた。
「中でしたらいいでしょ」
栄子の声を無視して電話を掛けている祐介。三、四分しただろうか、車に入って来るなり言った。
「いいよ。でも今日は誰もいないぞ」
「え? じゃあ意味無いじゃん」
「そうだな。どうする?」
「・・・」
一点を見つめブスッとしている栄子。
「それでもいいよ。途中でスーパー寄って。ホットプレートある?」
「あるよ」
「じゃスーパー寄って」
前にも一度上がったことがあるが、その時も誰もいなかった。四十坪あるか位の中規模の一般住宅。祐介が小学校のとき新築したものらしい。
「台所借りるよ。祐ちゃん、ホットプレートの段取りして」
買って来た食材をテーブルに出す栄子。
「何作るの?」
「お好み焼き」
「ああ、そういう系か。あ間違えた。無いわホットプレート」
「ええ?」
「カセットコンロだった。それならある」
「じゃあいいや、それとフライパンでやる」
キャベツの加工を始める栄子。キッチン収納や、引き出しを開けたりして確信した。ここには女が存在しないと。
「ブタでもエビでもイカでもいいよ」
こたつテーブルに座って作り始める栄子。
「俺全部ミックスがいいや」
反対側でリクエストする祐介。
「それでいっか。混ぜちゃおう」
分けた具材を一緒に粉のボールに入れる。
「ブタは最初に少し焼くわ」
手際よく箸で豚肉を平らにする栄子。
「祐ちゃん、油少し垂らして」
「OK」
ジューと油の上で豚肉が音を立てる。
「よーし焼くよ~」
この何気ない二人の日常。
この部分だけ切り取れば仲睦まじいカップルの一シーンだ。
三年も付き合って一度も身内に紹介されない栄子は、まるで不倫をしている愛人のような気持ちだった。ましてや健全なふたりなのに「結婚」という言葉すら出てきたことが無い。異常と言えば異常な交際だった。
再来月には二十九歳になる栄子。栄子の中の人生計画では子供が二人いるはずだった。もう決意は固まった。栄子の覚悟とはこれ以上進展がなければ、もう祐介と別れるというものだった。
「祐ちゃん、ご両親は何時に帰ってくるの?」
食べ終わった食器を洗いながら居間にいる祐介に聞く栄子。
「分かんねぇ。遅くなると思うよ」
横になってテレビを観る祐介が返した。
「お兄さん夫婦は?」
「兄貴は旅行に行っている」
〝兄貴は〟と一人だけを言った祐介。
「お子さん達も?」
「ん? ああ」
「学校休んで旅行に行ってるの?」
「そうじゃねぇの? 優雅だよなぁ」
「ふーん・・・」
洗い物を終えると、買って来た缶ビールをまた持ってきた栄子。
「はいよ」
それを祐介の前に置く。
「サンキュ」
起き上がってそれを手に取る祐介。
「祐ちゃん真面目な話しよう」
本題に切り込む栄子。
「何よ突然」
「台所を見て分かったんだけど、この家に女っ気無いよね」
「はぁ?」
「もう隠さないで本当のこと教えてよ。祐ちゃんち、どうなってんの?」
「どうって何だよ・・・」
「どんな状況でもいいの私は。ただ嘘をつかれていることが嫌なの」
「・・・」
バツの悪そうな顔をする祐介。
「・・・お前に嘘をつくつもりは無かった」
祐介は話し始めた。
「そうだよ。女っ気は無い。親父と兄貴と俺の三人暮らしだよ。何でだと思う栄子?」
「え・・・」
「離婚だよ。親父も兄貴も離婚した。じゃあ親父も兄貴も暴力夫で博打に明け暮れて、家に金を入れない酒びたりの生活かって?」
「そんな・・・」
「どっちも同じ理由だよ。嫁が男作って金持ってトンズラしたんだ。母親は俺が中学生の時に兄貴と俺を捨てた」
「・・・」
「俺はこんな性格だけどさ、二人とも俺とは真逆の人間。ド真面目な男さ。一生懸命家事を手伝って、育児も手伝って、休みだってひたすら家族サービスなんかしてさ、趣味もあるんだけど嫁からみんな奪われて、贅沢もしないで節制して、挙句の果て貯めた金を持って男と逃げられたんだ。兄貴は調停までなったんだけどな、調停員とやらは最初から男憎しで話にならねぇ。クソ嫁のでっち上げ話を信じて、兄貴の全てを熨斗を付けて渡しやがった。洗脳されたガキと最初からいた男にな」
「ひどいね・・・」
「ああ、ひでぇよな。だけどこれが現実だぜ。いい夫なほど、いいように利用されて舐められるんだよ。それが結婚だ」
「!」
ビクッと震える栄子。
「二人とも言ったよ・・・」
「何を・・・」
「結婚する前はあんな女じゃなかったって」
「でも私は・・・」
「もちろん、お前がそんな女だとは思わない。お前はスゲーいい奴だし、こんな器量のいい女いないって俺は思っている。だからこそ俺は・・・お前と結婚したくないんだ・・・」
「何それ、祐ちゃん・・・」
栄子の目からボロボロと涙が溢れた。
「お前が結婚で変わっちまうんじゃないかって考えると、恐くなるんだ」
「祐ちゃん、私は違うよ! そんなんじゃない!」
「分かっているんだよ、もちろん分かっている。だけどダメなんだよ」
「ううっ・・・」
俯いて震える栄子。
「ごめんな栄子。いつかこれを言わなきゃならないって思っていた。だけど草津と東京っていう距離があったから今まで何とか持ち応えて来た。同じ町になれば、やっぱオカシイって直ぐに分かるよな・・・」
戸棚の上に置いてある父親の煙草に手を伸ばすと火を付ける祐介。
強くそれを吸うと天井に向けて煙を吐く。
「祐ちゃん・・・私はどうしたらいいの?・・・」
ぐしゃぐしゃになって言う栄子。
「分からねぇよ・・・。俺もどうしたらいいのか、分からねぇ」
テーブルに肘を付いて頭を抱える祐介。
「お前が決めるしかねぇだろっ」
苦い顔で声を絞り出す祐介。
「あぁぁあっ・・・」
祐介を見つめて泣く栄子。
「やだよぉ! こんな終わり方やだよぉ・・・」
うつ伏して号泣する栄子。
「それだったらキライになってぇ! 私のこと捨ててよ~! ああぁあ~」
祐介の前で初めて声に出して泣いた。
栄子は祐介の家からフラフラと歩いて由美のところまで行った。
泣き叫んだかと思うと気を失ったように倒れ込む栄子を見て、安藤家は騒ぎになった。萌は驚いて泣き出し、それを見て蓮も泣き出す始末だった。過呼吸に近い症状だった。今はソファーで横になって眠っている栄子。
「大丈夫かな、医者に連れて行った方がいいのかな」
心配して栄子を覗く一郎。
「呼吸も落ち着いて静かに寝ているから大丈夫だと思う」
そばに座る由美が言う。
「余程のことになったのね・・・」
由美が目を細める。
「エイちゃんは絶対弱音を吐かないから、一気に溜まったストレスが出ちゃったんだろうな。・・・こんなエイちゃん初めてだな」
静かに一郎が呟く。
「今度は私が助けてやらなきゃ」
由美がポツリと言った。
「うん。あの時みたいだね」
一郎が遠くを見て言った。
由美が一郎と付き合う前に交際していた男はとんでもない遊び人だった。由美は頑なに信じていたが、男にとって由美は数いる女の一人だった。それを自分の目で確かめてボロボロになった由美を助けたのは栄子だった。一郎のアパートに由美を連れて来て、一郎と結びつくきっかけを作ってくれたのも栄子だった。二人は栄子には恩を感じていた。
「うぅうっ・・んっ」
何かにうなされている様子の栄子。
「・・・栄子」
「悪夢を見ているんだろうね」
「起きても現実があるなんて・・・」
「本多先輩とは別れることになったのかな」
「だからこうなんでしょ・・・」
「あの頃、すぐ結婚するような勢いだったけどな」
「もう三年も経っていたんだね」
「萌がお話できて、蓮が居るんだもんな」
二時間は眠っただろうか、時計は十時を過ぎていた。
「・・・由美、」
栄子がもぞもぞと動いた。
「栄子、そのまま寝てな」
優しく声を掛ける由美。
「一郎君も・・・ごめんね」
「エイちゃん、落ち着いた?」
その二人の優しい声に、毛布を被り体を震わせて泣き出す栄子。
「栄子、このまま泊まっていきな。いっちゃんが専務には明日休ませてって電話しておいたよ」
「うん・・・ありがとう」
旅館には出勤するとは言わなかったことにダメージの強さを伺えた。
しばらくして落ち着いた栄子は、体を丸めて暖かいお茶をすすっていた。ことの経緯を説明した後、
「いつだか由美にもこんなことがあったね。あの時も三人だったね」
と呟いた。
「うん、いっちゃんとその話をしていたんだぁ」
「笑っちゃうね、私までこんなことになるなんてね」
「・・・」
黙って栄子を見つめる二人。
一郎が静かに口を開く。
「由美の時は相手がクソ野郎だったけど、エイちゃんのケースは違うよ」
由美が続けて、
「私思ったけど、本多さんはPTSDだよ。余程両親の離婚とお兄さんの離婚で心が病んじゃったんだと思う・・・」
栄子の湯飲みに急須のお茶を注ぎながら言った。
「俺もそう思った。本多先輩もかわいそうだね。エイちゃんのこと大好きなのにね・・・」
「・・・」
鼻をすする栄子。黙ってその湯飲みを見つめている。
「よく言うの〝分かんねぇ〟って・・・」
ポツリと栄子が呟いた。
「それが混乱しているときの症状なのかな・・・言葉にならないのかな」
一郎が言うと、
「今思うと、そうかも知れない。結婚という言葉にも拒否反応しちゃって自分でどう対応していいか分からなくなっていたのかもね・・・」
栄子は色々と思い当たる節があった。
「でも本人はトラウマを自覚していない中で、栄子との関係は進行していく。そのゴールはあるんだけど自分で無意識にそれを打ち消しちゃう。ゴールが無い状態で栄子とは一緒にいたい気持ちと葛藤していたんだと思う。その結果、あんな嘘を付いたり、身内に合わせない工作をしたりするしかなかったんだよ・・・」
由美が的確なことを言った。
「そうだね由美。今色々分かった・・・」
軽く頷くとボンヤリと栄子が言った。
「それもエイちゃんのことが好きだからなんだよ。誰も悪くないんだよ」
一郎のその言葉を聞くと、
「祐ちゃん・・・」
栄子の目からツーと涙がこぼれる。
そのとき一郎の電話が鳴った。
表示を見て一郎は「!」と二人を見た。
由美がコクリと頷く。
電話に出る一郎。
「もしもし、こんばんは」
『あぁ一郎。あの、お前んとこに行ってる?』
「あ、エイちゃんですか?」
『ああ』
「ハイ。来てますよ」
『そうか、良かった・・・』
「あの・・・」
『いいよ、もう気を使うな。大丈夫か栄子は?』
「ええ、何とか」
『そうか。色々悪かったな・・・それじゃあな』
「はい。失礼します・・・」
安否確認だった。栄子に代わってくれと言わなかったことは、祐介自身の決別の意味だったのだろうか。
「本多先輩は、」
「聞こえたよ」
一郎が説明しようとすると由美が返した。
「・・・」
ボーと湯飲みを見ている栄子。
「栄子、お風呂入って休みな。今夜は萌と寝てやって」
「うん。ありがとう、そうする」
力なく微笑む栄子だった。
あくる日、栄子は東京の実家に帰った。則男にはしばらく休ませて欲しい旨を告げた。則男は一郎から聞いていたので、落ち着くまで休んでまた復帰してくれとお願いをした。戦力の栄子がいないことは旅館にとっては痛手であり、仲井たちもそれを痛感していた。しかしその穴埋めに奔走したのは他ならぬ樹里であった。
栄子は幼い頃からよく出掛けた善福寺川緑地公園で佇んでいた。
ここは杉並区にある都立公園である。善福寺川に沿う形で広がっている。荻窪一丁目の神通橋から五日市街道の尾崎橋までの約1.5キロの間に約四百本の桜並木が続き、都内有数の花見の名所として知られ、近隣住民の憩いの場として、また遠方から植物や野鳥を観測する来訪者も多い。秋には紅葉が見られるがまだそれには早かった。
家族づれが多いこの公園。平日のこの時間は幼児とその母親が多かった。自分もその一人になるんだろうなと漠然と思っていたが、その普通のことがどれだけ難しいことなんだろうと、栄子は祐介との日々を思い起こしていた。それでも遠距離恋愛で三年間も続いたことは奇跡のようにも感じていた。それは何故だろうと。
その答えは相手が祐介だったからに他ならない。栄子はその性格上、どうしても相手の上に行ってしまう傾向があった。意識していなくても要領がよく、他の女性に比べて時間の使い方がうまい。全てにおいてスピードと行動力で他を凌駕してしまう。そんな栄子の相手を出来る男は少なかった。しかし祐介は自分のペースで栄子をコントロールすることができた只一人の男だった。祐介の言うことには栄子は素直に聞いてしまう。
二人の出会いは一郎と由美の結婚式の二次会場だった。一郎の友人達にお酒を注いで回っていた栄子に声を掛けたのが祐介だった。祐介の話す内容は他愛の無いものだったが、栄子のボケに即座に荒々しくツッコミを入れるこれまでにないタイプの男だった。二人の会話ははずみ、カレールーとライスの融合が一番しっくりくる感じと似ていた。カレーは何にでも合うが、やっぱりライスが一番という感覚。カレーだった栄子が、ライスである祐介に出会ったのだ。束縛を嫌う栄子には遠距離は丁度良かった。月に二、三度のデート。ほとんど栄子が草津に出向いていたが、そのペースも反って二人を長く繋ぎとめた要素だった。
祐介の心の闇を知った今、何とか出来ないものだろうかと栄子は考えていた。由美の言ったPTSDは本当だと思う。カウンセリングを由美は進めた。それが前橋あたりにあるのかとも思ったが、果たして祐介がそれを素直に聞き入れるかは疑問だった。祐介にそれを認めさせる方が至難の業であることは栄子が一番知っていたからだ。祐介は結婚するくらいなら栄子との別れを選択するだろうことも、火を見るより明らかだと思う。
今祐介は何を考えているのだろう
本当にこのまま別れていいのか
旅館のみんなに迷惑を掛けてしまった
きっとジュリと優子さんが大変だろうな
女将は怒り狂っているだろうな
あ、首になるのかな
まぁいいや、それならそれで・・・
栄子の頭の中は混乱していた。全ての予定が狂ってしまった。
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