第10話 優子と雅美
邂逅屋の仲居は朝六時から十時までの四時間、そして三時から七時までの四時間、または五時から九時までの四時間の計八時間が基本的な就労時間となっている。いわゆる『八時間労働制』に則った場合だ。それでも多少の前後は否めない。忙しい時期はオーバーするが、反対に暇な時期にそれをカバーして早くに上がり残業代を出さない工夫をしていた。
三時から七時を早番、五時から九時を遅番と呼んでいた。この人数調整のシフトは事前申請で、スケジュールを厨房のホワイトボードに書き込んで仲井たちの間で譲ったり、譲ってもらったりとしていた。しかしいずれの時間にしても夕食は客に出す前にまかない食を摂る。食事時間は四時半なので遅番の場合でもその時間に夕食を済ませなければならない。
「今日は優子さんと雅美ちゃんは早番でしょ? ご飯食べて帰れば?」
まかないの肉野菜炒めを食べながら栄子が言った。
厨房の配膳台はこの時間、板前と仲居の食卓テーブルとなる。
「だからボードに要らないって書いておいたでしょ」
とホワイトボードを指差す優子。
「すみません」
謝る雅美。
「何よ。二人で美味いもん食べに行くの?」
上目遣いにお茶を飲む二人を見る栄子。
「秘密よ、ひ・み・つ!」
ニコリとして言う優子。
「何か俺の飯がマズイみたいじゃんか」
航太郎が口を尖らす。
「ううん。航太郎さん、これスゴイ美味しいっ」
隣に座る樹里が目を大きくして言う。
「ホント? ありがと。樹里ちゃん味噌汁気が付いた? シジミ汁苦手でしょ? 樹里ちゃんのだけ豆腐とネギの味噌汁なんだぜ」
「ええ~? ホントだっ。わぁ、ありがとうございますぅ」
ドヤ顔の航太郎。
「おい、コータ。いつもジュリにだけ優しいよね」
航太郎を軽く睨む栄子。
「そりゃ作る側の勝手だろ。俺は気が効くんだよっ」
ニヤリと睨み返す航太郎。栄子は向井を見ると、
「一方の向井!」
「ハイッ」
「ご飯、おかわりちょーだい」
「ハイッ」
と完全に使い走りにしていた。
「板長はどうします?」
と香川に聞く栄子。
「じゃあ俺も軽くもらおうかな」
「向井、板長のも」
「ハイッ」
その様子を見て香川は苦笑いをする。
まかない食は板場の三人が交代で作ってくれていた。想像がつくと思うが、向井の料理に栄子はうるさい。
優子と雅美は夜の温泉街を抜けて住宅街を歩いていた。
「草津は五月でもこんなに寒いんですね。私、うちからコタツ用の掛け布団を送ってもらったんですよ」
と優子と並んで歩く雅美が言った。
「でしょう。っていうかコタツが要らないのは一年で七、八、九の三ヶ月だけかも知れないよ、人によっては」
優子が微笑みながら返す。そして、
「もうすぐ家だからね」
と言った。
邂逅屋旅館から徒歩で十五分ほどの場所に優子の自宅があった。
「ただいまぁ」
建坪が三十五坪ほどのこじんまりした二階建て家屋。七十年代に主流だったモルタル壁の古い家だった。小まめに手入れされた花壇を横目に小さな庭を抜けて玄関に入ると、優子の家らしく綺麗に掃除が行き届いた空間だった。
「お帰り。いらっしゃい井上さん、どうぞ」
優子の夫、広幸が暖かく雅美を迎え入れた。
「こんばんわ。井上雅美です。ごちそうになります」
「さ、雅美ちゃん、上がって上がって」
と雅美の背中を押す優子。
六畳ほどのダイニングキッチンの食卓には出勤前に優子が下ごしらえ済みのご馳走が並んでいた。寄せ鍋、煮物、鳥とネギの塩焼き、小松菜のおひたし、わかめとイカの酢の物。
「まだ寒いから鍋は全然OKでしょ?」
「ですね~、美味しそう。この間専務が歓迎会をしてくれたんですよ。その時はバーベキューだったんですけど、寒くて〝まだ鍋の方が良かったかもね〟なんて皆で言っていたんです」
「そうだってね、楽しかった?」
「ええ、とっても」
寄せ鍋は海鮮鍋だ。火を入れていない鍋の中に海老、鯛、ほたての貝柱、
鱈が白菜とネギ、ニンジンに囲まれて用意されていた。
「こんな感じで並べちゃったけどいいのかな?」
広幸が優子を見る。
「お父さん、ありがとう。タラの切り身は煮崩れしやすいから、火が通った最後でいいのよ」
「あ、そうか」
その様子を微笑みながら見ている雅美。
「雅美ちゃん、飲めるのよね?」
「ハイ。大丈夫です」
「ビールでいい?」
「何でも」
ニコニコする雅美。
「うちは子供が大学と高校でしょ。高校の次男も寮に入っちゃったから、今はもうお父さんと二人きりなのよ」
ビールをコクリと飲んで優子が言う。
「旦那さんはどちらにお勤めですか?」
雅美が広幸に聞いた。
「俺は役場。税務課ってところだよ」
「あ、じゃあ本多祐介さんって知っています?」
「祐介なら前に土木課で一緒だったよ。知ってるの?」
「ええ知っています。その歓迎会に来てくれたんですよ。そうかぁ、優子さんのこと知っていたのは、だからだったんだぁ」
「え? どういうこと? 何で本多君が歓迎会に来るの?」
眉を寄せる優子。
「優子さん、栄子さんの彼氏が本多さんなんですよ! もう長いそうです」
「ええぇ~?! ホントに?!」
驚く優子。
「なるほど、それで栄子ちゃんは草津に来たわけねっ」
「じゃあ祐介もいよいよ結婚ってことか」
頷く広幸と優子を見ると雅美は、
「でもこのこと内緒にしておいて下さいね。言ってはいけなかったかも知れないんで」
と二人に口止めをした。
三人でキレイに鍋を食べて、雅美が、
「お手洗いを貸してください」
と席を立つと、
「この廊下を通って左ね。あ、その居間を突っ切っちゃっていいよ。出て左ねー」
と返す優子。
雅美が居間を抜けようとコタツの脇を通ると仏壇があり、子供の遺影が目に入った。雅美は見なかったふりをして廊下に出た。
「雅美ちゃんはどうして草津にまで来たの?」
優子はずっと思っていた疑問を聞いてみた。
「私は・・・誰も私のことを知らない土地で働きたかったんです」
ボソリという雅美。
「そうなの、またどうして?」
静かに伺う優子。
「私どちらかというと、いじめられっ子だったんです・・・」
「・・・」
その告白に押し黙る山口夫婦。
「実家は厚木だから横浜にでも行けば働き口も一杯あるけど、何かと会っちゃうもんなんです」
「そうかぁ」
真剣な顔で聞く優子。
「一年だけ向こうで就職したんですけど、職場にそんな噂流されて居辛くなって・・・」
「ふーん。ひどいね」
「それに向こうにいると何でもお母さんがやってくれて、これでは自分のために良くないなと思って、ゼロから一人でやってみようって・・・」
「えらい、えらい。そうだよね、自分でやらなきゃね」
と雅美を優しく激励する優子。
広幸も微笑んで聞いている。
「草津に来たら、女将さんは恐いけど、みんないい人で良かったです。栄子さんや樹里ちゃんは仕事が出来る人なんで、最初はまたいじめられるかと思ったら、優しくしてくれて・・・。それに一番嬉しかったのは優子さんがいてくれたことなんです」
と照れくさそうに下を見て言う雅美。
「そんなこと言ってくれると、またご馳走しちゃうよ~」
三人で笑う。
「ずっと、優子さんに聞きたかったんですけどぉ・・・」
もじもじと言う雅美。
「なぁに?」
「あのぅ・・・優子さんは、どうして私にこんなに優しくしてくれるんですか? ごめんなさい、変な質問しちゃって・・・」
チラッと優子の目を見て、すぐにまた下を見る雅美。
「あぁ・・・それね」
と優子は広幸に視線を送る。
広幸は優子を見て軽く頷く。
それを確認すると優子は話し始めた。
「今日ね、私達夫婦の夢が叶った感じなの・・・」
雅美を真っ直ぐに見て微笑む優子。
「え? どんな夢ですか?」
何のことだか分からない雅美。
「娘と一緒にお酒を交わすって夢」
「娘?」
「そう。お父さん写真あるかな?」
「あるよ」
と言ってイスから立つと隣の居間に行く広幸。隅にある戸棚の引き出しをゴソゴソとすると、数枚の写真を持って来て優子に渡した。
「アルバムは二階だけど」
「いいよこれで」
と言って優子は、
「見て、娘の真由ちゃん」
と雅美にその写真を渡した。
それは三、四歳ほどの女の子の写真だった。
「生きていれば二十三歳。雅美ちゃんと同い年」
「亡くなったんですか・・・」
「そう、先天性の難病でね。ソックリでしょ、雅美ちゃんに」
「わぁホントだ。私みたい・・・」
優しい眼差しを向ける優子の目が潤んでいる。
「それだから雅美ちゃんを世話するとか、そんなつもりは無いのよ。ごめんね。私が勝手に雅美ちゃんにしているだけだから・・・」
「・・・」
それを聞いて雅美も涙を浮かべる。
「ごめんね、雅美ちゃん。栄子ちゃんと樹里ちゃんがスゴイ子たちだから、女将さんに雅美ちゃんが攻撃されちゃうと私は思ったの。今までもね、そうやって辞めちゃう子が一杯いたから・・・。雅美ちゃんは普通なのよ。あの子達が異常に出来る子だったの。たまたまなのよ」
優子の目から涙がこぼれる。
「優子さん、ありがとうございます・・・」
「だけどね、やっぱり親なのね。時間が解決するって人は言うけど、あの子を忘れたことなんて一瞬も無くてね・・・。雅美ちゃんが来た時、それに歳を聞いた時、本当にビックリしちゃってね・・・。ごめんね」
首を振って微笑む雅美。
「お父さんも、そんな見方をするんじゃないって言うけど、私にはあなたが真由ちゃんにしか見えなくて・・・本当にごめんなさい。雅美ちゃんは雅美ちゃんよ、真由ちゃんじゃないの。もちろん分かるわ・・・うっ」
と言うとテーブルに顔を伏せて泣く優子。
「ごめんね井上さん。こんなこと聞かせるつもりで呼んだわけじゃないんで、変に思わないでね。優子もちょっと酔っているみたいだよ」
と広幸が優子の側に行き、背中をさする。
「優子さん、気にしないで下さい。私は嬉しいです。きっとマユさんが私を草津に呼んでくれたんだと思います」
と微笑んで雅美が言うと、
「ああぁ~」
と声を上げる優子。
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