第7話 初出勤

 土曜日、樹里たち三人は今日から仲居として邂逅屋旅館で働く。出勤は早朝六時からだ。前日の金曜日に着物の着付けを習った。雅美は金曜日午前中に引越し、午後に着付けだったため忙しかったであろう。うぐいす色の着物と桃色の前掛けが邂逅屋の仲居のスタイル。常備してあって皆で着回す。二部式の襦袢3枚、足袋5足、草履1足は支給された。これらは自分で洗濯して管理する。もっと必要なら個人で購入しなさいとのこと。


 着付けの担当は三人いるベテランの仲居の中でもリーダーとして旅館内を切り盛りしている山口優子。地元草津町出身で年齢は四十五歳。ベテラン仲居の中では最年少で、大学生と高校生の息子がいるとは思えないチャーミングな女性だ。その外見とは裏腹に仕事に対する姿勢はストイックなものがあり、則男も怒られてばかりである。そんな優子に女将智恵子は絶対的な信頼を置いている。


「えもんを抜いて!」

「裾斜めに引き上げて」

「上前を脇に合わせて!」

「おはしょりは、帯の下指一本分の長さ!」

「ヴァ~井上さん、横じゃなくて縦に指一本分じゃいっ。ウィスキーじゃないんだからっ」


 冗談を交えながらの優子の指導は楽しいものがあった。仲居の仕事は立ち座りが多く、動きもあり、また着くずれをゆっくり直す時間もないので、衿元や裾がはだけない着付けがポイントだ。樹里たち三人は専門用語に戸惑いながらも何とか優子に食らいついて必死に覚えた。要領のいい樹里、栄子に対し、おっとりとした雅美はなかなか付いて行けない。

「雅美ちゃん、こっちが先でしょ。ここで止めてぇ、こうやってぇ」

 と栄子がそこをフォローしていた。

 三人の新人の中では最年長の栄子。性格も相まって自然とリーダーとしてポジションを確立していた。


 厨房では航太郎ら板前たちが早朝五時から既に朝食準備に取り掛かっている。その後六時から仲井たちは大広間に用意される朝食会場の準備だ。部屋の人数に合わせた配膳と座布団、そして腰高ほどの衝立で部屋ごとに軽く仕切る。出来上がった料理を皿に盛ったり、お膳に並べたりするのも仲居の仕事だ。七時からの朝食に間に合うようにそれらを準備する。ここで大変なのが部屋ごとに朝食時間がまちまちなところだ。七時から八時までの間に朝食を摂ってもらう決まりで、部屋のタイミングに合わせて暖かいものを用意するのに気を使う。

 

 朝の時間帯では仲井たちは着物ではなく、桃色の女性用作務衣と藍色の前掛けで仕事をする。早朝に着付けをするのは忙しいのと、朝食中に行う布団の片付けがあるからだ。これは重労働なので則男も伊藤も手伝う。仲井たちはこの布団の作業はローテーションを組んで行っていた。今日の布団は誰々といった具合だ。布団担当でない者は朝食会場の片付けと皿洗いに回る。そこまでの仕事をだいたい九時までに終わらせる。そして九時から十時までが客の見送りとなる。


 智恵子はこの時に旅館の顔として客を見送る。九時前には出勤するのが日常である。それでも自宅は旅館の一階が兼ねているため、慌ただしく従業員たちが動き回る六時には起床していた。


「もっと左に寄せた方がいいんじゃないの? お客様の通路をちゃんと確保して。出入りするお客様とお食事を摂るお客様が近すぎると落ち着かないでしょ?」

 今日は初出勤の三人の仕事ぶりを見るために七時前に出てきた智恵子。濃紺の着物が存在感を引き立てる。

「ハイ。すみません」

 雅美が配置した御膳を全部直す樹里。

「樹里さん、スイマセン」

 慌てて雅美が手伝う。

「井上さんはいいのよ。奥の赤城の間のお客様が先にお食事なんですから、そっちを手伝いなさい」

「あ、スイマセン」

「〝あ〟は要らない」

「ハイ、スイマセン」

 早くも厳しい口調の智恵子だ。

「井上さん、こっち持って。おいでおいで」

 その空気を素早く察して優子が雅美を呼んだ。

「ハイ」

 否応無しに押し迫る時間と、智恵子が見ている緊張感に動揺の色を隠せない雅美を、優子は作業をしながらも優しくチェックしていた。


 続々と客が入ってくる。

 樹里は青葉の間の客を担当にされた。

「おはようございます。青葉の間の佐々木様でしょうか?」

「うん」

「こちら四名様になります」

 樹里は丁寧に案内を始める。

 四人の年配の男性グループだ。全員が座布団に座ったところで、

「皆様、ご飯は普通盛りでよろしいでしょうか?」

「俺、少なめで」

「かしこまりました。では少なめのお客様から」

 と茶碗に軽くご飯を盛る。

「どうぞ」

「ありがとう。お? ピッタリの量だ。一粒も間違っていない!」

 と冗談を言う客に。

「でしょう? 324粒ってお顔に書いてありましたから」

 と返す樹里。

「上手いな、お姉ちゃん!」

 四人全員が大笑いをする。

 その様子を智恵子が見ている。

 則男も布団片付けに行く前に心配で樹里の様子を見に来ていた。

(いいぞジュリちゃん!)

 ニコリと微笑む則男。


「ハイハイ、おかわりは?」

 威勢よく客の顔を見回す栄子。

「ちょっと姉さん、急かさないでよ」

 栄子の担当は若い男三人組だった。

「だめだよ。私担当のおひつは常に空っぽにするからね!」

「ヒエ~!」

 ここの席も盛り上がっている。

 眉をひそめて見ている智恵子。


 雅美の担当席には一緒に優子が付いていてくれた。

「井上さん、あちらのお客様におかわりを聞いてみて」

 と、小声でアドバイスをする。

「お客様、おかわりの方はよろしいでしょうか?」

「あ、大丈夫です。お茶のおかわりをいただけますか?」

「かしこまりました」

 と女性客の前に正座をするとお茶を注いだ。

「ありがとうございます。新人さんですか?」

「あ、ハイ」

(また言っちゃった)

「いいですね、仲居さんなんて。頑張ってくださいね」

「あ、ありがとうございます」

(また言っちゃった)

 それでもこの一言で雅美の緊張はほぐれた気がした。


 今日は布団の片付けはベテラン仲居の一人宮崎と則男、伊藤で済む量だった。新人三人は朝食の片付けと皿洗いに回された。

「おい、コータ。このビニールみたいの燃えるゴミでいいの?」

 栄子が航太郎に聞く。木曜日の航太郎が催した歓迎会ですっかり馴染んだ栄子は、早速年齢的に後輩になる航太郎を呼び捨てにしていた。

「あー大丈夫。草津は三種類の分別しかないから。缶、ビン、プラスチック以外はみんな燃えるゴミ」

「へぇ~楽でいいね!」

 この時間、板前達は業務用専門機器の洗いや清掃をやる。仲井たちが洗うのは客用の皿類である。ここでとりわけベテラン仲居たちが目を見張ったのは栄子の仕事ぶりである。とにかく要領が良く速い。間に航太郎や、もう一人の若い板前の向井を顎で使うのが面白く、優子もチラリチラリとそれを眺めて笑っていた。

 栄子が洗った皿を樹里が運んで来て雅美が拭く。その拭いた皿を樹里が種類ごとに食器棚に仕舞う。見事な連携プレーが既に確立していた。

樹里が仕舞い場所が分からなくて除けておいた皿を見つけた栄子。

「向井~、その皿のジャンルは何になるの? しまい場所が分かんない」

「あ、これは大皿の部類です」

「じゃ、しまっといて」

「ハイ」

 向井も木曜日の歓迎会に航太郎と一緒にいた。グラマーな栄子に言い寄ってはみたものの、逆に飲まされて完全なまでに潰された。

 厨房での若い二人と栄子のやり取りを見て板長の香川も笑っていた。

「面白いのが来たな」

「ねっ」

 優子と微笑む香川。

 

 午前中最後の仕事は客の見送りである。仲居全員が玄関ホールに待機する。智恵子が帳場でお会計をする客と談笑している。

「そうだったの? 昨日は居なかったからさぁ。今度俺達が来るときは晩も接待するように女将が言っておいてね」

「かしこまりました。ありがとうございます」

 微笑みながら深くお辞儀をする智恵子。さすがに仕草ひとつひとつが上品で様になっている。

「お姉ちゃん、また来るからよろしくね。おじちゃんの顔覚えておいてね」

 と樹里に話しかけるのは、先程の佐々木という客だ。

「ハイもちろん! 初めてのお客様が佐々木様たちで良かったですぅ」

 ニコニコとしてお辞儀をする樹里。


 見送りは全員で玄関に並び車が見えなくなるまで手を振る。あらかじめ伊藤は別の場所に駐車してある客の車を入口まで乗って運んでくる。


「姉さん、次に草津に来た時は俺達の飲みにも付き合ってくださいよ」

「お前らのおごりだぞ」

「もちろんスよ」

「スゲー飲むぞ、私」

「でしょうね」

 と爆笑する三人の若い男性客たち。

「この度はありがとうございました」

 深々と丁寧にお辞儀する栄子に、

「何かしこまっているの?」

 と含み笑いをする三人。

「仕事しているフリさせろよ。女将が見てる」

 と返すと再び爆笑する。


「ありがとうございました。立派な仲居さんになって下さいね」

 雅美が担当した家族づれだ。

「ありがとうございます。頑張ります」

 感極まって涙を浮かべる雅美。

「また来ますから、その時はよろしくお願いします」

「お元気で酒井様」

 優子がフォローする。


 則男はこれまでと違う邂逅屋の雰囲気を早くも感じ取った。それは智恵子も同じであった。朝食を担当しただけで客の心を掴んでいる。栄子の態度は問題だが、あんな接客も今の時代必要なのかも知れないと一瞬思った。しかし歴史と伝統を重んじる邂逅屋旅館には場違いな接客だと自分を戒めた。樹里の媚を売るような接客にもクレームを付けたいと思っていた。二人の妙に慣れ切ったような雰囲気が正直に言って気に入らなかった。雅美のようになるのが普通だからだ。


「お疲れ様、これで午前中の仕事はひと段落です。どうでしたか?」

 仲居の詰所に顔を出した則男が三人を労った。

「忙しいけど、慣れたらもっと効率よくいけるんじゃない?」

 栄子が冷蔵庫から麦茶を出して言う。

「私は疲れましたぁ」

 と樹里が言うと、

「私もですぅ」

 雅美が折りたたみ椅子に腰掛けて言った。

「すぐ慣れますよっ。そしたらもう寮に戻って休んでいただいて構いません。掃除は俺と伊藤さんでやります。次が三時からのお客様のご到着に間に合うように来ていただきます。この時は着物に着替えて下さい。お客様のお茶出し、夕食の準備と後片付けがメインになります。今日は土曜日なんでほぼ満室です。夕食はお部屋出しだから忙しいですよ。布団敷きはバイトが来ますんで皆さんは大丈夫です。着物ですしね」

「普段の布団敷きは?」

 栄子が尋ねる。

「俺と伊藤さんでやります」

 普通に答える則男。

「専務、あんた忙しいね。『何もせんむ』かと思っていたよ。専務とは名ばかりで、もう完全に従業員だね」

 感心する三人。

「小さな旅館ではこれが当然なんだ。だから嫁の来手きてが無い!」

 と笑う則男。

「・・・」

 三人が黙り込む。

「え? そこ笑うとこ!」

 則男がおどける。

「笑えないよ。全然笑えない」

 口をへの字にして言う栄子。


 詰所のドアが開いて残りの雑務をしていた優子たちが入ってきた。

「皆さんお疲れ様~」

「お疲れ様です」

 椅子から立ち上がって頭を下げる三人。

「すごいね、みんな。特に佐山さんと一ノ瀬さん。経験者なの?」

「初めてですよ~」

 答える栄子に、頷く樹里。

「井上さんは一番年下で初々しいから私がひいきするね」

 と雅美の頭をなでなでする優子。そういうフォローも上手い。

「ありがとうございます」

 照れる雅美。

「二人は放っておくから、バリバリ頼んだよ」

「え~、私にもナデナデして下さいよ~」

 と栄子は言ったが、上手く雅美を立てているなと優子は思った。二人は空気が似ている。

「まだ慣れないからいきなり疲れが来ちゃうと困るんで、しっかり寮で休んでね。今日は忙しいよ~。着付けに自信が無い人は二時半には来てね。私がしてやる」

「あ、私お願いします、優子さん」

 と雅美が優子を見上げて言う。

「いいよ、雅美ちゃん」

 と雅美の両肩を揉みながら〝雅美ちゃん〟と呼ぶ優子。

「優子さん、厨房の方々はどこに帰るんですか? 皆さん地元ですか?」

 と樹里が質問をすると、

「彼らも寮なんだよ。チームで渡り歩いているから、地元じゃないの。伊勢崎ってところから来た人達なんだ。一応男子寮ってことで別のアパートがあるの。あっちはボロいの。お風呂も無いからここで入って行くんだよ」

 と言って笑う優子。

「へぇ~そうなんですか。でも草津温泉ですもんね、贅沢ですよね」

 その質問をした樹里に目をやる則男。

(コータのことが気になるんだろうな)

 せっかくいい雰囲気だったのに、それで沈んでしまう則男。

(そんな話、この間の歓迎会でしたじゃない。何で聞いたの? アホなの、この子・・・)

 栄子は樹里がわざわざ質問した意味が分からなかった。

 樹里は則男に変な誤解をされたくないと思い、則男の前で航太郎の住まいを知らないことをアピールしたつもりだった。

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