第2話 則男

|日本屈指の名湯として名高い群馬県吾妻郡、草津温泉。年間に三百万人の観光客が訪れるこの地は、エメラルドグリーンの強酸性の湖『湯釜』を名所とする草津白根山を含め、二千メートル級の山々が連なる三国山脈、その山並みに囲まれた国際観光リゾートと、町のシンボル『湯畑』を中心とする情緒漂う温泉街が魅力の一大観光都市である。毎分約三万六千リットルもの豊富な湯量と、源泉かけ流しの天然温泉に魅了され、近年では国際的にも多くの観光客が日本に訪れた際にここ草津の地を踏む。観光客の入数に対して、町の人口は七千人を切る程の小さな町ということも草津の特徴である。


 高杉則男はここ草津温泉で老舗の宿『邂逅屋かいこうや旅館』を営む若旦那。祖父の代からの旅館で則男は三代目。肩書きで言うならば専務取締役となる。身長一六二センチの小柄なフツメン。背があったらイケメン。年齢は二八歳、まだ独身である。二歳下に妹がいるが既婚であり、長野県に嫁いでいた。現在社長は父である良作が担っているが、旅館という仕事は周知の通り、その代表は事実上女将である。ここ邂逅屋旅館の女将である則男の母は智恵子。町の女将会の会長も担っている敏腕美人女将だ。


 邂逅屋は古い造りで木造三階建て。客室は和室十室、収容人数は四十人ほどの中規模の旅館である。草津の旅館には二階の梁や桁を一階外壁より外側に付き出す構造で舟の両舷に付き出した「せがい」に似ていることから〝せがい出し造り〟呼ばれる、江戸時代より伝わる建築様式の旅館が並ぶ。一階より二階の床が前面に張り出す効果で軒の出が大きくなり豪華さが演出される。邂逅屋もその「せがい出し造り」であり、二尺ほど出た桁を支えるブラケットが彫刻装飾されているのも観光客の目を楽しませていた。


「若旦那、今日のお客さんの秋山さんが五人で、秋本さんが四人でいいんスよね?」

 と玄関ホールで則男に聞いたのは番頭の伊藤だ。帳場で客のお出迎え、お見送り、受付案内等の世話役といったポジションを担う。三十一歳の好青年だ。

「違うよ! 逆だよ逆! 秋本さんが五人で、秋山さんが四人!」

クイックルワイパーを手に持った則男は予約を担当していた。今はパソコンからの受付が多いが、年配の客は依然電話がほとんどである。予約用の電話は則男の携帯にも転送されるようになっていた。

「いや、秋山さんが五人で、秋本さんが四人でいいんスよっ」

「ややこしいなぁ、だから逆だよ! 俺のパソコン見てみなよ」

 そう言われて事務所に開いてある則男のパソコンまで行く伊藤。眉間にしわを寄せて画面を見る。

「やっぱ俺が正解じゃないっスか」

 ニヤける伊藤。

「あれ? そうだっけ?」

 則男はこんな感じである。


 厨房では忙しく夕食の準備に追われていた。今夜は二十二人分の食事だ。邂逅屋では板長と助太刀の若い板前二人を中心に、盛り付けや配膳を仲居の女性三人で回していた。特に料理を部屋出しで行っているために、毎日午後六時からが戦争のような忙しさとなる。部屋への料理の配膳と片付け、布団敷きは則男と伊藤も手伝っていた。仲居の女性たちから増員を頼まれている女将智恵子はハローワークに募集を出していた。


 帳場から続く事務所に智恵子と則男がいた。事務所は業務上の来客を通す応接室と事務室に分かれていた。事務室には智恵子、則男、伊藤のデスクがあり、一応良作のデスクはあるが物置と化している。

 乱雑に書類が詰まれたデスクの隙間から智恵子が則男に声を掛けた。

「ノリちゃん、募集していた仲居さんで三人の希望が来ているわよ」

「え? 三人も?」

 募集そのものは期間を置いて随時していたが、景気が悪いと言われている昨今でも、スタッフの確保は難しい。募集を掛けて何人か増えても数ヵ月後には辞めてしまうことを繰り返していた。それくらい旅館の仕事はハードワークである。

「今回は広い規模で呼んでいる割には、これしか来ないなんてねぇ」

 智恵子は不満そうである。今日は洋装の出で立ちだ。

「でも来てくれるだけありがたいよ。どこから?」

 それを聞くと智恵子は封筒の中にあった書類を見る。

「一人は神奈川。一人は東京。もう一人は・・・え? 青森だって」

「青森? 何でまた」

 目を見開く則男。

 その書類をしばらく読んでいる智恵子。すると、

「三人とも若い子よ。二十代よ。良かったねぇノリちゃん」

 と目を細めて則男を見る智恵子。

「何でだよ、従業員じゃんか・・・」

 ぶっきら棒に答える則男。

「そしたら、とりあえず来週の水曜日に面接することを本人たちに伝えるように伊藤君に言っておいて」

 照れる則男を無視して業務的に告げる智恵子。

「はいよ」

 早速立ち上がる則男。


 階段を忙しくお膳を持って行き来する仲居たちに混ざって則男も食事を運搬する。スラックスを履いたネクタイ姿の上に邂逅屋の家紋の入った藍色のハッピを羽織るのが則男のいつものスタイル。

 ガチャンガチャンと皿のあたる音が響く厨房で皿に盛り付けられた料理を、決められた配置でお膳に並べて各部屋へ持っていくのが五時半からの仲居たちの仕事だ。食事の時間は六時、六時半、七時の中から客が選べるルールにしていた。

「あれ? 三人は二階だっけ?」

オロオロしながら則男が仲居の一人に聞く。

「三階だよ。白根の間!」

「ゲッ、三階・・・」

 顔をしかめる則男。

 古い木造旅館のため邂逅屋にはエレベーターが無い。客も階段を使う。小荷物運搬用エレベーターも無い。景気のいい過去に設置を考えたが構造上設置出来ない、というより設置するスペースが無いと業者に言われた。そのため一膳一膳を手運びしなければならないという効率の悪い仕事をせざるを得なかった。

「失礼しまーす。お食事のご用意をさせていただきます」

 則男が白根の間に入ると、そこには風呂上りの艶かしい若い女性客三人が寛いでいた。

「あ、お願いしまーす」

 一人が答える。

 則男はゆるくはだけそうな浴衣姿の三人に目のやり場に困った。抱えていたお膳を座卓に置く。

「あのぉ、お風呂はこの近くにどの位ありますか?」

 髪を一つ縛りに軽く結った一人が聞いてきた。

「無料ですか? 有料ですか?」

 と聞く則男。

「あ、どっちも近いんですか?」

「ええ、ここは中心なんでどこも近いです。無料でしたら玄関から出て目の前に『千代の湯』があります。うちと同じ湯畑源泉です。湯畑まで行ってもらうと白旗源泉の『白旗の湯』があります。湯畑にあるけど最も古くて違う源泉なんですよ。ここから三分です。うちの裏手を回ってもらうと五分で地蔵源泉の『地蔵の湯』があります。ちょっと白く濁った湯です。個人的に僕は地蔵の湯がマイルドで温度も丁度良くて好きですね」

「へぇー」

 目を輝かせて聞く三人。則男がノッて来た。

「有料でしたら玄関から出たら右へ道なりにずっと行っていただくと約七分ほどで『大滝乃湯』があります。ここはサウナ、あわせ湯、露天風呂みんなあります。健康ランド的な施設ですので、湯上りにビールを一杯やる場所もあります。八時までに入らないと行けないので温泉めぐりをするなら最初に行った方がいいですよ。無料でその道中に煮川源泉の『煮川の湯』がありますが、ここは激アツです。お客様たちお肌が真っ白ですから、入った場所だけ真っピンクになりますよ。って言うか足さえも入れないと思います。でも挑戦するのもいいかもです」

 と言うと笑う三人。

「西の河原公園はもう行かれました?」

 則男が聞くと、

「今日夕方に着いたばかりでまだ湯畑しか行っていないんです」

 と先程の一つ縛りの客が答える。

「でしたら、明日はお天気ですので西の河原大露天風呂で自然を満喫するといいですよ。とにかくデカイ露天風呂ですので最高ですよ。ここからは歩いて仲見世通りを抜けて約十分で西の河原公園に着きます。温泉が川になって流れている神秘的な公園なんですよ。その奥に露天風呂があります。ここは有料ですけど間違いないです」

 すると仲居のひとり山口優子がチラリと部屋を覗いて、

「何やってんの若旦那!」

 と則男に激を飛ばした。

「ハイ!」

 思わず返事をする則男。

 それを見てまた笑う三人。

「ごめんなさい、若旦那さんなのですね。引き止めちゃってスイマセン。もし怒られたら私たちが弁明しますんで呼んでくださいネ」

 ショートボブの客が則男を擁護して言った。

「いえ、大丈夫です! 僕の方が怒る立場ですから」

 と言うとまた笑う三人。

(そこ笑うとこ?)


 則男はこんな具合にお喋りが好きで、ついつい話し込んでしまう癖があった。そこをよく注意されるのだが、実は大手旅行社のサイトで宿泊客の評価書き込みなどを見ると、これが邂逅屋の高評価になっているのだ。残念なことにその事実を邂逅屋に知っている者は居ない。大手旅行社のサイトをチェックする必要がないからだ。というのも大手のホテルと違い邂逅屋ほどの規模の旅館では旅行社を通さずに営業することが可能ではある。そのメリットは客からの宿泊料がそのまま入ることだ。つまり旅行社にマージンを払わなくて済む。デメリットとしては営業力に劣ること。独自に客を取らなければ部屋は埋まらない。近年はインターネットのホームページからの予約が主流になってはいるが、このカテゴリーも大手旅行社の営業力には劣る。個人では守備範囲がどうしても狭いためである。邂逅屋は大手を通さず独自の営業でこの荒波の中、奮闘していた。


 バブル崩壊後の1990年から2000年までの10年の不景気、そして2000年~2010年まで続く政府発表とは裏腹な実質の景気低迷。これを『失われた20年』と経済界では呼んだ。則男たちは2000年からの景気低迷の真上にいた。




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