第5章

35 ゴール

 姫香に宣戦布告され、その姫香をあっさりと殺した麻衣と繋がって――そんな怒濤の日々から数日が過ぎ、僕はかつての平凡な学園生活を取り戻していた。


「静かな場所ね」

「ああ。誰かさんがいないおかげでな」


 昼休憩の部室は、日中の校内とは信じられないくらい静かだった。


 僕と彩音は長机をはさんで向かい合っている。

 広げた弁当箱から食欲をくすぐる匂いが漂う。

 食欲に忠実に従って、僕がもりもりと消化しているところ、彩音がふとつぶやいた。


「……まさか麻衣があの二階堂王介の娘だったとはね」


 一昨日、火曜日――姫香の退学が校内で発表され、騒然となった。家の事情ということらしい。


 この状況を利用したのが麻衣だ。

 麻衣は体調不良を理由に、今週は一度も学校に来ていない。が、それは表向きで、本当の理由は姫香の件で忙しい、ということになっている。

 もっともその体を知っているのは僕と彩音だけだ。天神家と親交の深い二階堂家なら何ら不思議なことではない……と思っていたのだが、実は彩音も知らなかったらしく、一昨日僕が口頭で伝えた時には驚いていた。


「姫香の幼なじみだから、ただの家柄ではないと思っていたけれど……」

「二階堂って名字は珍しいだろ。気付かなかったのか?」


 かく言う僕も最初は気付かなかったけどな。


「薄々そんな気がしないでもなかったけど、あの二階堂王介よ? 身近に接点があるとは思えないじゃない」

「天神家のお嬢様とも友達だったじゃないか。別に驚きはしないさ」

「そうかしら。芸能界の王って天神家以上に浮き世離れしていると思うのだけれど。それより、聞き捨てならないわね」

「あん?」


 僕はご飯を頬張ったまま、動きを止めて彩音を見る。

 言われるまで何も気付かなかった。

 彩音が復唱する。


 ――友達だったじゃないか。


「過去形よね。なぜ?」

「……別に深い意味はない」


 本音を言えば、僕にとって姫香は既に亡き人であり、過去の思い出だ。

 もちろん口に出すつもりなど毛頭無かったのだが、内心は言動にみ出るもの。厄介なものだ。


「やはりお嬢様はお嬢様ってことだ。あっさり退学しやがって」

「退学したら友達関係は終わりなの?」

「そんなつもりはない。言葉の綾だ。……まあ、強いて言えば、あいつが考えてた小説が気になって仕方がないってのと、連絡一つ寄越さなかったことに少し腹が立っているくらいだな」

「……ふうん」


 幼なじみの僕にだけ向ける、リラックスした表情を、彩音は見せていた。

 だが、微かに懐疑の色が宿っている。鋭い奴でもある。やはり油断はならない。


 僕は自然に目を逸らし、弁当の消化に勤しむ。


「ま、一理あるわね。一度様子でも見に行ってみる?」

「僕ら凡人の相手をしてる暇は無いと思うぞ。わざわざ退学するくらいなんだし」

「薄情なのね」

「というより劣等感が強いだけだな。一応姫香の友人を名乗れるつもりではいるが、警備とかに一蹴されたら、僕は少なからずショックだぞ」

「そんなこと気にする性分じゃないくせに」


 そんなまじまじと見ないでくれ。非常にやりづらい。

 ……本当なら彩音ともしばらく距離を置きたかったのだが、置きすぎても逆に怪しまれるからなあ。彩音はそういう柄じゃないが、もしこっそり尾行でもされたらたまったもんじゃない。


 いったん会話が終了する。

 彩音も黙々と食べ始めた。相変わらず姿勢も行儀もいい。時にテレポートも交えてくる麻衣とは大違いだ。


 ――麻衣、か。


 こうして誰かと比較する程度には、僕の中で、彼女の存在が大きくなっている。

 麻衣に僕をる気がなかったら、このまま殺さず、恋人として過ごし続けてもいいと思ってしまうほどに。

 なんだかんだ僕はちょろい男なのかもしれない。


 でも、甘い人間でもない。

 僕はもっと身勝手で、自分勝手だ。


 テレポートという火種を持つ以上、誰であろうと生かしておくつもりはない。


「そうそう、話は変わるけど」


 不意に彩音が口を開いた。嫌な予感がする……。


「今週、ずっと帰りが遅いけど、何してるの?」


 え? 麻衣とホテルでエッチしてるけど?


 ……言えるわけない。

 僕とてバカじゃない。言い訳はちゃんと考えてある。


「散歩だ」

「散歩?」

「ああ。部活がこんな状態だろ? だからこそしっかり進めておきたくてな」

「散歩で何ができるっていうのよ」

「わかってねえな。あちこち歩いて、想像働かせて過ごすことでインスピレーションが湧くものなんだよ」

「口先だけは偉そうね。大したもの書いてないくせに」

「酷い言い草だ。お前には読ませんぞ」

「力尽くで読むからいいわ」

「やめてくださいお願いします」


 彩音の口元が微かにほころんだのを僕は見逃さなかった。

 そうだ、何も問題は無い。彩音だって深い意味で訊いているんじゃない。いつも家族と一緒に晩飯を食べる僕が、部活もないのに帰りが遅いからと疑問を抱いているだけだ。

 僕がテレポーターであることも、姫香を初め何人も殺してきたことも、そして今はそのお礼として麻衣の色欲を満たし続けていることも、何もばれてはいない。


 ……いや、厳密に言うと少し違うか。

 姫香を殺した実行犯は麻衣だし、満たし続けているのは麻衣だけでなく僕もだ。


 ふつふつと蘇る。




 ――だーりん、だーりぃん……


 とろけるような笑みで誘惑する、麻衣のささやきが。




 ――あ、んぁ、やぁん……


 色っぽい表情から漏れる、麻衣の喘ぎ声が。




 ――だ、だめっ、だめええええええ!


 耳をつんざくような、麻衣の悲鳴が。


 特に最高潮に達した時の絶叫は……あれは凄まじかった。

 それはもう爆弾のような声量で、しかも何十秒と続いて、なるほど高級ラブホのスイートルームでもなければ確実に近所迷惑になるなと、我に返って思ったものだった。


 声にフォーカスしただけでもこの有様だ。


 普段見ることのなかった麻衣の裸体。

 味わうことのなかった感触、刺激。興奮。高揚。幸福。罪悪。背徳――

 一晩中でも思い出していられそうなくらいに充実していた。だからこそ。


 ぱんっと平手打ちの音が響く。


 叩いたのは僕。

 叩いた箇所は、僕の頬。


「……いきなり何?」

「いや、今良いシーンが思い浮かびかけたんだけど、見逃してしまった。何やってんだよ、と不甲斐ない自分にお仕置きしたんだ」

「変態」

「作家はこんなもんだよ」

「ワナビーのくせに偉そうに」

「お前、そういう言葉を使うようなキャラじゃないだろ……」


 聞き慣れた彩音の声を聞き、見慣れた彩音の顔を見ながら。

 僕は改めて自分に問う。




 僕の目標は平穏に生きること。

 それも末永く生き続けることだ。

 そのために邪魔だったテレポーターは、残り一人というところまで絞れている。

 まだ終わっちゃいない。麻衣という名のラスボスが、残っているだろ?




 麻衣は強い。

 僕なんかじゃ歯が立たない。


 麻衣は可愛い。

 本音を言えばまだまだ溺れていたい。


 でも、そのルートに未来はない。

 僕は太く短くな人生なんて望んでないんだよ。


 贅沢は言わない。

 細く、長く生きる。

 それでいい。それだけでいい。

 ラノベがあれば一生暇を潰せる。いつでも空想に浸れる。

 それだけで僕は満たされるし、今までも満たしてきた。


 そこにアクセントを加えてくれるのが、目の前の幼なじみだ。

 性欲で我を見失いつつある僕を覚ましてくれるのも、こいつだ。


「彩音――ありがとな」


 怪しまれることはわかりきっているのに、それでも僕は伝えた。


 彩音のおかげで、僕は麻衣に呑まれずに済んでいる。

 彩音のおかげで、淡白で根性のない僕でも頑張ろうと思えてくる。


 待っててくれ。

 僕は諦めない。必ずや怪物を倒し、手に入れてみせる――


 お前と一緒に過ごす、ささやかな未来を。




      ◆  ◆  ◆




 放課後になるとすぐに学校を出て、麻衣が待つホテルへと向かう。

 係員に顔を覚えられたようで、今や僕が尋ねる前に部屋番号を教えてもらえる。といっても番号は決まっている。901。最上階角部屋の、スイートルーム。

 制服姿の麻衣に出迎えられ、いきなり開始――というわけではなく、まずは果物を食べつつ雑談。

 話題は様々だが、傾向としてはテレポートと天神家が多い。


「にしても天神家を敵に回してよく生きてられるな」


 ラノベ脳の僕としては国家権力というか軍事力というか、そんな大規模なレベルの力で一瞬でねじ伏せられるイメージがあるのだが、麻衣には焦りが微塵も見られない。


「天神家もそこまで本気じゃないからねぇ」


 どころか危機感のまるで見られない、間の抜けた体勢と表情と声音である。ソファにもたれながらバナナの皮を剥いていた。「だーりんのバナナより大きい」うるさい。


「ひめっちに天神家を継ぐ意志はないから、ひめパパも期待してないんだよ。ひめっちはただの娘でしかないの」

「よくわからんが、娘なんだろ? 仇討ちとか考えないのか」

「そんな暇も度胸もないよ。主にパパのおかげかな」

「……大丈夫なのかよ、本当に」


 僕としては麻衣が天神家に捉えられ、その関連として僕も捉えられてしまうことを危惧している。

 正直麻衣がどうなろうと知ったことではないし、むしろ天神家が始末してくれたら僥倖ぎょうこうだが……そうは行かないだろうなあ。

 僕と麻衣の繋がりは深い。麻衣が捕まれば、その手はおそらく僕にも及ぶ。


「だいじょーぶだいじょーぶ。だからまだ休みを取ってんだよー、だーりんにこの苦労わかんのかー、おらおら」


 むき出しのバナナを僕のに見立てて、ツンツンと突く麻衣。食べ物で遊ぶな。

 ……まあ、麻衣が大丈夫ならそうなんだろう。こいつだって天神家に捕まりたくはないはずだし、そもそも僕如きでは何もできやしない。だからこそ姫香殺しもお願いしたわけで。


「あ、もげた」


 バナナが根元から折れて、地面に落ちようとしていた。

 僕は落ちたと思ったが、麻衣の手は既に先回りしていた。


「ごめんねだーりん。痛かったでしょ?」

「いや、もげたら痛いどころじゃないから……」


 ――常人の反射神経じゃない。


 これだけでも麻衣の非凡さがよくわかる。


「そうなの? 気持ちよさそうじゃない? だーりん、どんな声で鳴くかな? ちょきちょき?」


 手でチョキをつくって動かしてみせる麻衣。言葉だけだと冗談そのものだが、こいつなら本当にやりかねないから怖い。


「あー、でも切断したら、もうだーりんのバナナで楽しめなくなっちゃうね。手術で接合すればいけたりする?」

「そういう問題じゃない」

「だーりんのけち」


 麻衣は露骨にふて腐れた表情をつくったが、すぐに飽きたようで、バナナをもしゃもしゃ食べ始めた。

 生身を手で掴んでいるため少々はしたない。食べるのも早いし。


「だーりんだーりん、掃除して」


 バナナで汚れた右手を掲げてきたかと思えば――あ、これはテレポートのパターン。

 とりあえず上体を左方に倒してみると、案の定、テレポートしてきた麻衣が、僕の顔に手を突っ込むところだった。

 その手は途中で軌道を変え、僕を追跡してきて。


 麻衣の指が唇に触れた。


「ぺろぺろしてほしいなぁ」

「嫌だと言ったら?」

「顔にこすりつける」

「わかったから頬をなぞるな。ぬるっとして気持ち悪い」

「ほらほら、はーやく」

「へいへい」


 至近距離で見る麻衣の指。

 血色がよく、逆剥けも皆無で、爪は深爪というほどではないが好感触の持てる長さだし、やたらつやつやしている。

 ぱくりと口に含めてみた……うん、バナナの風味だ。


「あったかいね」


 そりゃ口内だからな。

 僕に人の指を舐める性癖はないが、テレポートで迫るくらいだから麻衣も引く気は無さそうだ。

 観念して、舐めてやることにする。


 鮮明に伝わってくるのはバナナの味と――爪。

 皮膚とは違って硬質で、滑らかだ。こんな部位は他にはないだろう。

 もしかしたら爪フェチという概念も存在するのかもしれない。そう思わせるような、不思議な感触だった。


「んん、いいですなぁ……」


 今度は麻衣の顔が至近に迫ってきた。

 遠くから見ても、近くから見ても、相変わらず愛くるしい童顔をしている。それがあやしく微笑んでいる。

 僕の左手が塞がれた。恋人繋ぎだ。

 僕が逃げるのを防ぐつもりなのか、と思ったら、繋がれた麻衣の手が――指が、もそもそと動き始める。

 まるで快感を少しでも探るかのように、接触する僕の指と擦り合わせている。


「はぁ、はぁ……指プレイ、いいかも……」


 いきなり息が切れるはずもないのだが、どうやら麻衣のスイッチが入ったらしい。

 この程度なら僕の身体にも無害だから、僕としてもありがたい。

 麻衣に応えるように、僕は口内の指に舌を絡める。

 絡めながら、考える。




 麻衣は僕に飽きたら、僕を殺すだろう。

 僕はそれまでに麻衣を殺さなきゃいけない。


 でも、どうやって殺せばいいかが、てんでわからない。

 ずっと一緒に過ごしているのに。

 今はこんなにも近いのに。

 殺した後の処置に頭を悩ませる以前に、殺せるビジョンが全く思い浮かばない。


 僕が萎縮しているだけなのかもしれない。

 散々見せつけられた麻衣の力――頭脳、要領、身体能力、精神的狂気を前に、一方的に敵わないと決め付けているだけかもしれない。


 でも、こいつは姫香を倒したんだ。

 僕では到底成し得ない事をしてのけたんだ。

 スペックが違う。

 格が違う。

 勝てない。敵わない。殺せない――




 だからといって、諦めるわけにはいかないんだよ。

 諦めたら試合終了どころか、人生終了なんだからな。


「ぷはっ……麻衣。僕の指も舐めてくれないか」

「え、いやだけど」

「なんでだよ」

「手、洗ってないじゃん」


 そんなことを言うなら口だってうがいもしてなければ歯磨きもしてないんだがな。

 僕はよだれを拭いながら、交渉を試みる。


「洗うから」

「指プレイしながらだったらいいよ」


 再び指をねじ込まれた。ちょっと舌が疲れてきたんだがな……。


 僕は麻衣の指をくわえながら、一緒に洗面所に向かう。

 大きな鏡に映るのは、鏡越しでも可愛らしい彼女と、その指を舐めている僕……こんな気持ち悪い自分を見ることなど、昔の僕は思いもしなかっただろうな。

 鏡から目を逸らし、レバーを捻る。石けんでたっぷり泡立てながら、


「麻衣に舐められると気持ちよさそうだ」

「噛んでも気持ちよさそうだよね」

「絶対にやめろよ」

「甘噛みは?」

「……いいと思う」


 僕は指プレイに期待を寄せるふりをする。


 最後の戦いは、まだ終わっちゃいない。


 ――どこまで延命できるか。


 麻衣が楽しめるプレイを一つでも多く考え、提案し、楽しんでもらうこと。

 それが僕に出来る延命措置だ。

 要は麻衣を飽きさせなければいい。


 麻衣は処女だった。

 男であるはずの僕よりも求めてきたし、絶頂時の咆哮ほうこうとも呼ぶべき絶叫だって何度も聞かされた。

 麻衣は本当に淫乱で、おかげで僕は出しすぎて、枯れすぎて、正直言えば少ししんどいのだが、僕とて健全な男子高校生。まだまだ粘れる。


 麻衣が僕との新鮮な体験にハマっている今こそが、絶好のチャンスなのだ。

 極端な話、セックスフレンドのような関係でもいい。

 一緒に過ごして、間近で肌を重ねて。

 僕は麻衣を見る。感じる。聞いて、聴いて、視る。観る。

 粘って、足掻いていれば、殺し方が見つかるかもしれないから。


 今、この時はターニングポイントであり。

 バッドエンドかどうかの、おそらく最後の分岐だ。

 人生を賭けて望むべき瞬間なのは、まず間違いない。


「あっ……」


 僕の指がしゃぶられた。

 じゅるじゅるといやらしい音を立てながら、上目遣いで麻衣が見つめてくる。

 特に敏感でもない指なのに、その気がむくむくと膨れ上がる。


 僕は麻衣の指を吐き出し、彼女の口から自分の指を抜いて、


「麻衣。もう我慢できないかも」

「……しちゃう?」

「しちゃう」


 ぷるんと艶やかな唇を貪ってやった。

 下半身の膨脹を自覚しながらも、沸いてくるのはそれだけじゃなくて。


 麻衣を。

 このラスボスを、絶対に倒す――


 と、そんな、淡白な僕自身がびっくりするくらいの炎が、心の内で燃え上がっていた。

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