第16話 A子の違和感
運悪く、ネックレスが壁を飛び越えて、吹き抜けのロビーの方へ弧を描いて飛んでいく。
A子はスローモーションの動画を見ているような感覚を覚えた。
あ、ネックレスがとんでいく……
細めのチェーンに小さなダイヤのトップがついた、私のお気に入り……
去年の誕生日にT輔に買ってもらったやつ……
じゃなかった、自分へのご褒美に買ったやつ……
不倫よ……ですって?
かつてこれほどまでに、自分の居場所の無さを感じたことがあっただろうか。
A子は、サスペンスドラマのクライマックスシーンでよく見るような、断崖絶壁に立たされて、吹きすさぶ風に煽られている感覚に見舞われていた。
あたし、こんなとこに立ちたくて立ってるわけじゃないのよ。
楽しい散歩道の終着点が、たまたまここだったってだけ。
気付いたら、行き場のない崖っぷちに、一人追い詰められている。
できることなら、早く部屋に帰って、美味しいスープをすすって、温かいお風呂にでもゆっくりと浸かっていたい。
しかしそんな極楽は、今の自分からは果てしなく遠い場所にある。
まさか自分がこんな目にあうとは。
だけど、なんだろうか、さっきから、胸をチクチク刺してくる、この違和感。
T輔に奥さんがいたなんて、そんなこと信じたくない。
夢であって欲しいけど、どうやら、現実らしい。
いままで全然知らなかった。
本当は少し変だなってわかってた?
あえる時間は少なかった。
付き合って二年近くなるのに、友達に紹介されたことはなかった。
スマホを何台も持ってるのは知ってた。
たけど、だからって家族がいたなんて、自分は浮気相手だったなんて、そんなこと、気がつくわけなかった。
考えられなかった。
考えたくなかった。
好きだったから……。
始めてT輔と出会ったときから、あいつの笑顔とデカい声に騙されてたんだ、私。
バカだ……。
そうよ、いっぱい、楽しい思い出があるわよ。
勇気や元気、もらってきたんだ。
仕事の悩みも、T輔はちゃんと聞いてくれて、いつも冗談言いながら励ましてくれた。
……ぜんぶ、嘘だったの?
それより何より、私が傷ついたこと、それは……。
宙に浮いたネックレスが、照明の光を反射して、キラッと輝く。
そう、嫁の前で嘘をつかれたことだ。
私じゃなく、家庭を守ろうとしたことだ。
そうだ、これだ、違和感の正体は。
私は、都合の良い人形か。
ふ、ふ、ふ、
今まで仲良く手をつないで歩いてきたのに、突然手を離して私を崖っぷちに追いやったわね。
ふ、ふ、ふ、
男は、いざとなったら家庭をとるんだ。
ふ、ふ、ふ、
こんな崖っぷち、自分から喜んで飛び降りてやる。
青ざめるあいつの顔が楽しみだ。
A子が衝動的に、エントランスを覗き込んで囲いに手をかけた、その時だった。
ビリビリッッッ
繊維と繊維を繋ぐ糸が急激に左右に引っ張られ、繊維もろとも千切れる音がした。
この音が、何かに取り憑かれたように遠のいていたA子の意識を、現実に引き戻した。
A子が、音のした方向に視線を向けると、そこにいたのは、見覚えのあるスーツ姿の男だった。
ん?どこかで見たような……。
あ! あのひとだ!
ぴちぴちズボンの、お尻の縫い目が今にも破れそうだった、あの人が、すぐそこにいる。
筋肉質そうな体付きで、高そうな生地のスーツに、そうそう、あんな風なキメキメの髪型をしていた。
彼が、カフェコーナーの囲いに片足を載せて大きく身を乗り出し、吹き抜けのシャンデリアの方へ思い切り手を伸ばしていた。
結構な危険をおかしての勇ましいポーズではあったが、残念ながら、ネックレスは彼の手にキャッチされずに、エントランスの方へ落ちていくところだった。
そして何より、急角度で足を上げたせいで、彼のズボンのお尻が派手に破れてしまっていた。
男は、足をおろし、A子たちの方へ気まずそうな表情を見せてから、
「ごめんなさい! 間に合いませんでした!」
と、大きく頭を下げて言った。
A子には、この男が、ただただ眩しかった。
眩しすぎて、頬をぽろぽろと涙が流れていくのに気付く余地もなかった。
ただ、A子がこの男に救われたということは、疑いようのない事実だった。
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