恋の棘 2

「なんだ。つまんないの」

 インキュバスは小さく嘆息するとソファーに深く座り直して背もたれの上に肘をついた。


「自ら眷属になろうとする吸血種に、後ろ暗い事情があることなどわかりきったことだと思いますよ」

 誠史郎さんはインキュバスを真っ直ぐに見据えて伝える。


 私は心臓がばくばくしていた。本当に気づかないことが多すぎる。あんなに優しげな絵は、好きな人だから描けるものだ。

 それにしても誠史郎さんは絵が上手なのだと今さら感心する。記憶に残っている絵とインキュバスの掌の上で佇む女性はそっくりだ。


「誠史郎さんは絵が上手なんですね!」

 思ったことを口にしてしまっていた。全く流れにそぐわない発言をしてしまってみんなが呆気にとられて私を見ているのに気がついて赤面してしまう。


 透さんが額を押さえて笑い始めた。

「さすが、みさきちゃん」

 ひとしきり笑うと透さんはインキュバスを見る。

「話っちゅうのはそれだけやったら、もう帰ってもええ?」


 立ち上がった彼を見て、淳くんと眞澄くんもハッとしたようだ。透さんがいてくれて良かった。

「どうぞ、ご自由に」

 インキュバスをその場に残してみんなでそそくさと部屋を出て、フロントで料金を支払うと家路を急ぐ。


 誰も誠史郎さんに詳細を求めることはしなかった。彼が自ら語ることもなかった。いつもと変わらない整った横顔だけど、どこか翳があるように私には思えた。



 みんなで家に帰ってしばらくいつもの、思い思いに行動する日曜日を過ごしていたけれど、誠史郎さんは1度自宅のマンションに戻るとキッチンに飲み物を取りに来た私に告げて玄関を出る。偶然周りに誰もいなかった。

 私は彼をひとりにしてはいけない気がして誠史郎さんの後を追っていた。


「どうしました?」

 運転席に乗り込もうとしていた誠史郎さんを見て、やっぱり今ひとりきりにするのは良くないと感じる。

「あ、あの……」


「一緒に行きますか?」

 誠史郎さんが柔らかく微笑んで、私は頷いた。助手席のドアを誠史郎さんが開けてくれる。私が乗り込むとそれを閉じて彼は運転席側にまわって乗車した。


 出発してから、誰にも言わずに飛び出してしまったと気がついた。だけど誠史郎さんのお家にお邪魔するだけだから大丈夫かと思いそのままにしてしまう。

 誠史郎さんのお家は相変わらず生活感がないほど整えられていた。


「お邪魔します」

 リビングルームに通されて、高そうな黒い革のソファーに座らせてもらった。大きさからして3人掛けだと思う。とてもふかふかして気持ち良いけれどスカートが少し短かったので裾に気をつけた。


 誠史郎さんは私に紅茶を淹れてくれた。白い瀟洒なカップに注がれたそれは甘いイチゴの香りがする。

「ありがとうございます。美味しいです」

「それは良かった」


 こんなにソファーは広いのに、彼は腕が触れ合うほど近くに腰掛ける。なぜか私たちの間に微弱な電流が走った気がした。

「彼女のことを詳しく聞きたいですか?」

 ふたりきりで至近距離になると、彼の切れ長の瞳はいつも危うい色香を湛えているように思う。


「そんなつもりじゃ……」

 私は俯き加減で頭を振ってから顔を上げた。でも妖しい光を双眸に滲ませる誠史郎さんを真っ直ぐには見られなかった。


「誠史郎さんが心配で」

 ぽつりと呟くと、流れるように優美な立ち振る舞いが僅かに滞った気がした。私は何かまずいことを言ってしまったのかと恐る恐る誠史郎さんを横目で覗き見る。


「みさきさんは、どうしてそう……」

 彼は少し困ったように目を細めていた。

 今日のどこか不安定な誠史郎さんが気がかりだったのは本当だけど、漂う雰囲気に警戒してティーカップを手持ったままひとり分の距離をとって座り直してしまう。


「逃げないでください」

 ソーサーにカップを戻したのと同時に、誠史郎さんの影が被さってくる。逃げようと思う間もなく、彼にソファーの上で押し倒されていた。


「私の理性も限界があります」

 両手首を頭上で纏められて、誠史郎さんは簡単に片手で押さえつけてきた。びくともしなくて、足を動かそうにも彼の身体に潰されて抜け出せない。

「……みさき」


 震えるほどの甘い声が耳朶に触れると思考回路が停止しようとする。そのまま耳を喰まれて、誠史郎さんの舌と唇が私の首筋に沿って移動する。


「あっ……」

「ここが好きですか?」

「そ、そんなのわから、な……ンっ」

 彼の柔らかい粘膜が耳に触れるとひとりでに鼻から抜けるような甘えた声が溢れてしまう。恥ずかしくて口を塞ぎたいけれど、両手を拘束されているのでできない。逃れようと身動ぎするけれど誠史郎さんは鋭く妖艶な微笑みを湛えてそれを許してくれない。

 彼の空いている方の手が遠慮がちだけど内腿に触れた。


「せ、誠史郎さん?え?ちょっ……」

「私はずっとあなたが欲しかった。みさきさんの全てを私のものにしたいと思っていました」

 内腿から手が離れたことに安堵したけれど、今度は長い人差し指が私の唇に触れる。


「ここにキスをしようとすると周の術が発動してしまうみたいなので、私も考えてみました」

 秀麗な面がにっこりと笑って見せるけれど、美しい悪魔が破顔したように見えた。


 頬に、額に、優しいキスが落とされる。事態が飲み込めなくて呆然と目を見開いていると誠史郎さんの大きな掌が私の頬を優しく包んだ。


「ひとりの女性として、特別に思っています。……みさきさんは誰よりも大切な女性です。私は貴女を愛しています」

 眉のひとつも動かさずにさらりと言ってのけられた。すぐには理解できず反芻して私の方が混乱状態に陥ってしまう。まさか誠史郎さんに告白されるなんて。そんなこと今まで欠片も考えたことがなかった。だけど、そう言われると腑に落ちることがたくさんある。


 眼鏡を外してテーブルに置く。誠史郎さんの眼鏡は実は度が入っていないので、かけていなくてもきちんと見えている。一連の所作が余りに婉前としていて、つい見とれてしまう。それに気づいたのか、誠史郎さんは小さく華麗に微笑んだ。

「興味を持ってくれているのですね」


 私が抵抗しないので、誠史郎さんは手首を解放してくれた。でも服の上からだけど胸に触れられてしまい、もうどうしたら良いのかわからない。

 だけど彼が私に何をしようとしているのかは判明した。もちろん経験はないけれど、何となくの知識はある。


「だ、ダメです……!これ以上は……!」

「私が嫌いですか?」

「そんなことは……ないですけど……」

 頬ずりをされてそのままそこに唇が触れる。

「誠史郎さん……!」

 これ以上はできないと誠史郎さんの胸を押すけれど暖簾に腕押ししているようなものだ。


「みさきさんが私に火を点けたのですから、責任を取ってください」

 大きな手が再び私の大腿に触れ、何かを呼び覚まそうとするかのように緩々と撫で上げてくる。


 膝の裏に手を差し込まれて折り曲げられると、そのまま足を上げさせられる。膝の辺りから彼の唇がスカートの中へ向かってゆっくりと摺動を始める。

「せ……っ」

 扉の向こうから、誰かが走っているような足音が聞こえてくる。


「みさき!」

 バン、と勢い良くドアの開く大きな音と共に、息を切らせた眞澄くんが勢いよく走り込んできた。タイミングが悪すぎる。誠史郎さんが私の上腿にキスしているなんて、普通ではない。


 眞澄くんが凍りついていると、誠史郎さんは大きく息を吐いて失笑した。

「本当に眞澄くんは鼻が効きますね」

 誠史郎さんは徐ろに身体を起こすと私から離れて立ち上がる。私は急いで態勢と身だしなみを整えて座った。心臓が破裂しそうに踊り上がっている。


「誠史郎……!」

 眞澄くんが誠史郎さんの胸ぐらに掴みかかったので、私は慌ててふたりの間に割って入る。

「違うの!私がふざけて転んじゃって、誠史郎さんは起こそうとしてくれただけなの!」

 通用するはずのない苦しい言い訳だとわかっているけど、ふたりにケンカをしてほしくなかった。


「みさき……」

「大丈夫だから、だから……」

 俯いて眞澄くんの拳を包み込む。なんとかそれを収めてもらいたかった。


「お願い……」

 私自身の節操のなさが恥ずかしくなった。みんなが優しくしてくれて、それが当然の世界の中で目隠しをして何も考えたことがなかった。


「……帰るぞ」

 眞澄くんに痛いほど強く手頸を掴まれる。

「みさきさん」

 引き摺られるように歩き出した私の背中に誠史郎さんの英明な声音が届いたので振り返った。

「私は本気です。貴方が諾なってくださるのをいくらでも待ちます」

 私の声は出なかった。

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