後日談
今日は、藍月浜あいげつはままで、電車でやってきた。
二月の寒い風が肌に沁みた。さすがに、真冬だけに、観光客も少ないようだ。
「梓あずささん!」
改札の向こうで、私に手を振っている女性、山峯梓やまみねあずささんに、私は笑顔を向ける。
「舞ちゃん、お久しぶり」
梓さんが柔らかい笑顔で私を迎えた。頬の色がほんのりの赤い。前に会ったときより、少しふっくらとして、より優しい表情に見える。
「今日は、ご無理言ってごめんなさい」
私がペコリと頭を下げると、くすりと山峯さんは笑った。
「舞ちゃんこそ、こんなに遠くまでわざわざ来てくれて。本当に嬉しいわ」
あの人魚の御霊の事件以来、私は梓さんと定期的に連絡を取っている。もちろん、お仕事の側面もあるけど、彼女は本当にいい人で。美味しいお料理を作るコツなんかを教えてくれたりする。彼女の心に残った霊傷を治す専門医は別にいるのだけれども、彼女が今一番大事なのは、何でも話せる相手がいることなのだそうだ。 私がそうなっているかどうかは、よくわからないけれど、とても仲良くしてもらっている。
「だって、梓さんのフォンダンショコラ、とっても美味しかったもの! 」
彼女が退院した時、彼女のおうちでフォンダンショコラをご馳走になった。これが、もう、すごくおいしかった。彼女はパティシエではなく、お菓子は完全に趣味だと言ったが、もう、そんじょそこらのケーキ屋には行けない美味しさだった。それで、バレンタインの近づいた今日、作り方を教わりに来たというわけだ。
「舞ちゃんの彼氏さん、夕方に迎えに来てくれるのよね、じゃあ、夕飯も一緒に食べていってもらおうかな。腕によりをかけちゃう」
「本当ですか!」
「うん」
梓さんはにこやかに笑う。私達は駅の改札を出て、駅からほど近いマンションへと向かった。
「梓さん、結局、お引越しはしなかったのですね」
私は藍月浜の見える白いマンションを見上げて、そう言うと、彼女は「うん」と頷いた。
「私ね……舞ちゃんに話してなかったのだけど。再就職が決まったの」
エレベータに乗りながら、彼女は少し頬を赤らめてそう言った。
「おめでとうございます。やっぱり、コックさんですか?」
「うん」と、彼女は頷き、そして、言いにくそうに口を開く。
「実は、古巣に戻ることになったの」
「え? では、『レストラン潮風』に?」
驚く私に、彼女はそっと頷いた。ポン、と電子音がして、エレベータの扉が開く。
私達はエレベータをおりて、梓さんの家へと向かう。
「入院してから、ずっといろいろ 一条に世話になっていて。お互い、何もなかったことにはできないけれど。そばにいて支え合うことはできるかなって」
梓さんは少しだけ哀しげに首を振る。
「前みたいに、『大好き』って感情が自分の中にあるかどうかは、わからないけれど、やっぱり『嫌い』にはなれないし、そばにいると落ち着くのよ」
梓さんは自嘲気味に笑う。
「私、甘いのかなあ。許せないほどの裏切りを受けたはずなのに、ね」
「一条さんは?」
私の言葉に、梓さんは首を傾ける。
「彼も自分の気持ちに戸惑っているみたいね。最初は、入院した私の境遇への同情だったのだろうけど……恋人だった矢崎さんと上手くいかなかったこともあるのかもしれないわ」
本当は、一条はずっと梓さんのことが好きで。その感情を術具で捻じ曲げられてしまったのだ。考えてみれば、彼こそが被害者かもしれない。
「私に好きな人が出来るまでは、支えさせてほしいって言ってくれたの」
淡く微笑む梓さん。恋の高揚感はあまり感じられなくて、少し哀しい。でも。
「よかったですね」
私はそう思った。時間は巻き戻らない。でも、これから歩んでいくことはできる。
「もう一度、お二人で恋が出来るといいですね」
「舞ちゃんみたいにあまーくは無理。 彼氏さん、舞ちゃんにメロメロだものね」
「私のことは、いいンですってば!」
真っ赤になった私を梓さんがポンと肩を叩く。
激しい恋ではないけれど。梓さんと一条の間に、暖かい何かが戻ってきている、そんな気がした。
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