湖畔デート
「マイちゃん、マイちゃん」
桔梗に、何度も呼ばれ、私は、ようやく出しっぱなしだった、水道の蛇口をひねった。
「どうしたの?」
「……なんでもない」
私は首を振る。頭の奥が痺れたようになって、ぼんやりとしている。
日野と別れてから。どうやって帰ってきたのか、記憶がおぼろげだ。
――好きなひとということは、恋人ではないのでしょう?
日野の言葉が、私の中に広がる。
その通りだった。
激しいキスを交わしても。あれは、私を保護するための『呪術』でしかない。
私と如月の間にあるのは、保護者と被保護者の関係だけ。
恋人ではない。私は、それを決定的にしたくないから。如月に赤の絆をつけた理由を問えないでいる。
――辛い恋をするより、私の愛を受け入れたほうが、貴女は幸せになれる。
私は、辛いのだろうか?
背を伸ばしても届くことがないような、そんな人だから。時折、気まぐれに伸ばされる手も私を苦しめる。
涙があふれた。これから先、また如月が女性を部屋に招き入れるのを目撃しなければならないのだろうか。
「ねえ、マイちゃん、どうしたの? 変だよ?」
おろおろする桔梗に、私は微笑み返す。
「なんでもないの。ちょっと、疲れただけ」
私は頭を振った。さすがに自分でもおかしいと思う。最初からわかっていることなのに、ちょっとネガティブに振られすぎだ。
「マイちゃん……何があっても、私はマイちゃんの味方だから。ね?」
桔梗が私の背を優しくなでる。その手の温もりを感じているのに。
――貴女はきっと私を選びます。
日野の声がリフレインする。
なぜ?
拒絶したいのに。その手を取ることはないと思うのに。
日野の言葉は甘く、私の中に広がっていく。
「頭が……痛い」
この感覚は知っている。でも、それはもっと柔らかなものだったはず……。
私は激しい頭痛に襲われ……意識を失った。
目の前に、黒い蠢くものがいる。
触手が伸び、私の身体を絡め取る。
――ああ、私、死ぬのかな。
そう思った次の瞬間、テノールの声が聞こえて、世界が光に包まれた。
おぼろげな意識の中で、ふたりの男を認識する。どちらも甲乙つけがたい美形だ。
『また、このコか。ほぼ、三か月に一度のペースだな』
『もっと、場の安定したところに引っ越しをさせたほうがいい』
『しかし、そこまで干渉すると規則に引っかかる可能性があるぞ』
『……このままにしておくと、いつか死ぬ』
額に手がのせられる。頭が……痺れる。
この手を私は知っている……私は、ぼんやりと思う。
優しくて、暖かい。そして、柔らかな力が流れてくる……。
「マイちゃん、大丈夫?」
気が付くとベッドに寝かされていた。
「桔梗?」
心配そうな瞳で、桔梗が私を覗きこんでいる。
「急に倒れたの。身体に異常はなさそうだったけど……」
「そう。疲れていたのかな」
私はゆっくりと体を起こす。
「桔梗が、ベッドに運んでくれたの?」
「うん」
桔梗はこくんと頷く。
「私、人間じゃないから、気にしないで。こう見えても、悟さまより力あるから」
式神さんは、細腕でも怪力らしい。でも、その現場はちょっと見たくない気がする。
「私ではよくわからないけれど、マイちゃん、霊傷があるみたい。何かあったの?」
「霊傷?」
私は首を傾げる。妖魔にあったわけでもないし、誰かと戦ったわけでもない。
「本当は、悟さまに視てもらうといいのだけど……今日に限って、戻れないらしいから」
ぷくっと、桔梗は頬を膨らませる。
「如月さんも忙しいもの。仕事でもないのに、私にかまう時間なんてないわよ」
「マイちゃん、何言っているの? 変なこと言わないでよ」
桔梗が悲しそうな顔をする。
「悟さま、明日の朝には戻ってくるから。本当は、すぐにも帰りたかったのよ?」
「そんなに無理しなくていいよ……」
どうしてそこまで、と、思う。その優しさに甘えていたら、私は、隣人でいられない。
「頭痛薬飲んでおけば、治るって」
私は、笑顔を作る。
「マイちゃん、お願い。私の前で無理に笑わないで。本当に、どうしたの?」
桔梗が私の手を握る。
「なんでもないよ。男の人に言い寄られたことなんてなかったから、対応するのに疲れたみたい」
「……バラ男に何かされたの?」
私は苦笑した。
「会社に花束送られて。駅で待ち伏せされたかな。もう……意味がわからないよ」
ドラマのヒロインになったかのようだ。
「好きだと言われて……どうしてこんなに、ブルーになるのかな。どうして、嬉しいって喜べないのかな……」
気恥ずかしさも、ときめきもなく。ただ、哀しい。
なぜ、日野ではダメなのだろう? どうして、私は彼の手を取らないのだろう?
「マイちゃん……」
桔梗が私の背をそっと抱きしめた。
翌日は、幸いなことに土曜日だった。
甘い香りに目が覚めると、桔梗がホットケーキを焼いていた。
「マイちゃん、おはよう!」
にこやかな笑顔を私に向ける。
「起きたら、食べて。食べたら、オシャレしてね」
クスクスと桔梗が笑った。
「何?」
桔梗のテンションがとても高い。どうしたのだろう?
「マイちゃん、今日の予定は?」
「……特にないけど」
「じゃあ、気分転換に悟さまとデートしてあげて」
ポカンと口を開けた私に、桔梗は朝食用のコーヒーを入れながら笑う。
「悟さま、ちょーっとスランプなの。柳田さんにリフレッシュするように言われたみたい」
「え? でも、なんで?」
リフレッシュするのに、私とデートなんて。
「マイちゃんもお疲れだし。ホテルで温泉でも入ってきなよ。デート代は悟さまが持つから」
桔梗はそう言って、私のクローゼットから、勝手に服を選び始める。
「湖畔デートだから、ちょっとリゾートっぽいこのワンピースがいいかなあ」
まるで自分がデートをするかのように、桔梗は楽しそうに服を選ぶ。
「着替えもいるよねー」
ご機嫌に桔梗が支度の世話をする。
「き、桔梗、ど、どうして、着替えがいるの?」
用意された服は二枚。そして、その横にブラとパンティ。そしてバスタオルが一枚。
これでは、まるでお泊りセットのようだ。
「だって、温泉行ったら、着替えがいるよ」
「あ……」
あらぬ想像をしてしまった自分に思わず恥ずかしくなった。
「マイちゃん、どうしたの?」
桔梗が不思議そうな顔をした。
桔梗が用意してくれた荷物を持って、駐車場に降りていくと、如月は、半そでのシャツにスラックスという出で立ちで、サングラスをして車を背に立っていた。
夏の眩しい日差し。映画の主人公のようなその人のまちびとが私というのは、非常に申し訳ない気分になる。
「あの、お待たせしました」
私は、ペコリと頭を下げる。
「いや……」
如月は私の方を見て、ぴたりと動きを止めた。サングラスで表情が良く読めない。
「変、ですか?」
桔梗が選んでくれたのは、ぺイズリー柄のノースリーブのワンピース。ちょっとだけ胸元が開いているデザインだが、スカート部分はふんわりしていて、それほどセクシーというわけではない。
「……すごく、よく似合う」
照れたようにそう言って、助手席のドアを開けてくれた。
――相変わらず、さりげなく、こーゆーことやってしまうひとなのね……。
お姫様のように扱われて、胸がドキドキする。
如月は車をスタートさせた。
「どこへいくのですか?」
如月の横顔を見ながら尋ねる。
「マイ……ごめん」
如月が私の顔を見て、首を振る。
「本当は、好きなところに連れて行ってやりたいけど……」
言いにくそうに口を歪める。
「恋雲湖ですか?」
私の言葉に、如月が頷く。
桔梗が湖畔って言っていたから、そんな気はしていた。
たぶん、柳田は、私の不確実な情報を調査するという名目の仕事を与えたのだろう。
「私は構いませんが……杉野さんの方が、適役だったのでは?」
「杉野が相手だと、リフレッシュどころか、ストレスがたまる」
如月はそう言って首を振る。
「でも……」
「俺は、マイがいい」
ドキリとする。ああ、でも。これって、仕事の相棒として認めてもらっているってことかな、と思い直す。
「一応、好きにしていいと言われているが……仕事モードに入ったら、マイには日当出すから」
「日当ですか?」
デートで、日当。なんとなくほろ苦い。
「ごめん」
如月が申し訳なさそうに頭を下げる。
「いいですよ。如月さんにおごってもらうって気が引けたけど、それなら経費ですよね、遠慮はしませんよ」
私はクスッと笑う。
仕事でなければ、如月がデートに誘ってくれることなんてないってわかっている。
それでも、私を相手に選んでくれたのは、嬉しい。
「こうやって、如月さんのお仕事を手伝えるのも、たぶん、最後かな……」
車窓を見ながら、ポツリと呟く。
「マイ?」
「界弾きが、本当におこるかどうかわからないけれど……そのあとのことは、私は知らないもの。こうやって、私の戯言に、如月さんを振り回したりするのは、これで終わりですね」
「防魔調査室は、マイを諦めていない。いつでも机を空けて待っている」
車は、ETCをくぐりぬけ、高速へと入る。恋雲湖まで、高速で一時間ほどだ。
「防魔調査室か……。それもいいかもしれませんね」
少なくとも、如月の傍にいることはできる。隣人より、同僚の方が、少しだけ距離が近くなるかもしれない。
でも。近くなったら、もっと辛いかもしれないな、とも思う。
「ところで、マイ、水着は持って来た?」
「へ? いいえ」
突然の言葉に、私は戸惑う。
「なんだ。ホテルにプールがあるから、マイの水着姿を楽しみにしていたのに」
クスクスと、如月が笑う。
「か、からかわないでくださいよ。私の水着姿なんて、見ても仕方ないです」
「それは、マイが決めることじゃない。レンタルしよう。出来ればビキニがいいな」
面白そうに如月が笑う。
――なんか、ホントのデートみたい。
そもそも、デートの経験がないから、ホントも嘘もわからないのだけれども。
如月が優しくて。その瞳に、私だけが映っているのが嬉しくて。
――辛い恋をするより、私の愛を受け入れたほうが、貴女は幸せになれる。
日野の言葉が、頭の中でリフレインする。
でも。
それでも、今だけは。この幸せを楽しみたい。
「如月さん、私、サービスエリアで、アイス、食べたいな」
「……マイは、色気より、食い気だな」
如月が優しく笑った。
恋雲湖は、どこまでも青く、キラキラと煌めいている。
ホテル湖水は、湖のほとりにある観光ホテルだ。
十五階建てで、屋上は温泉、地下には、プールがあって、バーやレストランもオシャレと評判だ。
一階のホテルのラウンジカフェも、美味しいケーキが食べられると、たくさんの女性で賑わっている。
私は如月に強引に誘われ、プールにいくことになった。
レンタルの水着も、如月の好みで決められて胸元のカットがセクシーなものにされてしまい戸惑いつつも、それもなんとなく恋人気分になれて、心がふわふわする。
更衣室で、大胆な水着に着替えている途中、携帯電話が鳴った。
知らない番号だ。
取る必要はない……そう思うのに。
「はい」
私は、つい電話をとってしまった。
「今日のデート相手が、貴女の『好きな男』ですか?」
日野陽平だった。
「何の御用ですか?」
日野は、くっくっと、忍び笑いを漏らす。
「賭けをしましょう。舞さん」
面白げに彼は続ける。
「今日、一日で貴女が彼から告白されれば、私は諦めます。その代わり、彼が、他の女性の誘いに乗ったら、貴女は私のものだ」
「何を言って――」
「少なくともデートをしている段階で、貴女の方が賭けは有利だ。違いますか?」
私は、電話を切るべきだと思いながらも、日野の言葉を聞くことをやめられない。
「レンタルした水着は随分とセクシーですね。貴女は恋人ではないのに、酷い男だ」
「え?」
「では――約束しましたよ」
電話は一方的に切れた。
私は、茫然としながら更衣室を出た。
広い屋内プールには、たくさんの人がいた。
どこにも日野の姿はない。
ただ。私の視線の先に――妖艶な美女に話しかけられている如月の姿があった。
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