Chrono - Kurono Tatsuki -

 オーケストリオンがいきなり止まったとか、ケータイの日付がおかしいとか、そんなことは、この際後回しにしようと思う。世の中不思議なことというのは少しくらいはあるものだ。所詮は機械のやることだ。そんな間違いも時には起こるのかもしれない。


 だが目が見えるようになった、というのは完全に説明不可能な異常だった。それは絶対にあり得ないことだ。なぜって例の大事故を生き延びて以来俺の眼窩に嵌まっているものは生身の眼球ではなく、義眼であったからだ。左右とも。義眼に視力は宿らない。はずだ。


 とりあえず、つついてみる。視覚だけではなく触覚と痛覚も蘇っていた。明らかに義眼ではなく、生身の眼球になっている。まあ、確かにこの眼が視えているのに眼球が義眼のままだったらそれはそれで異常事態なのだが、それはともかく鏡を探す、そんなものない、よく考えたら携帯にカメラ機能があるのでそれで映してみる。外見を見てもやっぱり普通の眼球のようだ。


 考えてみても何も分からないので、とりあえず別の問題にアプローチしてみる。携帯を操作し、日本標準時で同期をとる。やはり俺の携帯に異常はない。念には念を入れるべく時報にもかけてみたがやっぱり今は日本時間で4月1日のようだ。


 俺の頭や、現実認識がおかしくなっているのかもしれないが、その場合はいくら考えても無駄であろうから、そうではない、という仮定に立って現在置かれている状況について考えてみ、ようと思ったところでオーケストリオンが鳴り始めた。


 止めた覚えがないのに止まるのもおかしければ、動かしたつもりもないのに動き出すのもやっぱり異常事態なのだが、とにかく、音楽を聴いている場合でも気分でもないので動作を停止しようと試みる。止まらない。どうやっても止まらない。正常な停止プロトコルが通じない。電源を引っこ抜いてみたが、それでも勝手に動き続ける。


 このオーケストリオンには楽器を弾く動く人形(実際に弾くわけではなく、そういう形のオブジェ)が四体配されている構造なのだが、その人形たちが哀しげな顔で踊り狂っている。


 と。


 その人形のうちの一体が、こちらに一冊の本を差し出した。ボロボロの本だ。恐ろしく古いものだ。人形がそんな動作をするはずがない、そういう風には作られていないはずだ、というようなことはもうこの際どうでもいい。


 表紙にはギリシャ語が綴られていた。大学のとき、面白半分で取った古典ギリシャ語の知識を総動員して解読してみる。


「遺言」……こちらの単語は、固有名詞か? とすると、訳はこうだ。


『カルナマゴスの遺言』。


 ページは何か黒い粘液状のものでべとべとになっていて、ほとんど開くことができない。開けるページはただ一カ所だけのようだ。そこを開いてみる。ページは汚れきっていて、単語を拾える場所すらほとんどないが……かろうじて、一つだけ文章が読み取れる部分がある。単語三つ分だ。口に出して読んでみた。


「エクスクロピオス・クァチル・ウタウス」


 すると、また奇怪な現象が起こる。オーケストリオンの演奏が、テンポアップした。俺に本を渡した人形の眼から、赤い涙がひとしずく流れ落ちた。


 テンポが限りなく早くなり、そしてもう音楽として認識できなくなる。時計が目まぐるしく回り続けている。その針の回転も、認識できなくなる。時計とオーケストリオンが神懸かり的な壊れ方をしたのでなければ、時が加速しているのだろうが、そう思考したのが最後で、異様な時空の捩じれの中で俺はもう考えることすらもできなくなっていた。


 何分何秒経ったのか、分からない。或いは何年もの時間が流れたのかもしれない。ともかく。俺がどうにか自分自身の意識のコントロールを取り戻した時、目の前にはいた。


 大きさは人間の赤ん坊程度。いちおう、頭と胴体と手足があるという意味では人間型だが、この世の生物ではない。一言で形容すると「生きていた中絶児」という印象だ。干からびたミイラのようにひび割れだらけで、だが、生命と意志と知性を持っていることはその顔から伺い知れる。どう見ても人間の味方にも友好的な存在にも見えないが、俺の周りにいま起きている現象の元凶がこいつであるのだとしたら、どちらにしても敵意を抱こうが抱くまいが同じだろう。まだ殺されていない、ということだけが明白な事実だ。だから率直に問いかけてみる。


「お前は誰だ」


(クァチル・ウタウス)


 それが名か。脳裏で声が聴こえた。耳からではない。厳密にいえば声ではない、こいつは日本語を話しているわけではないのだが、そう言っている、ということが脳の奥の方で理解できるイメージ。


「お前が俺の眼を治したのか?」


 そう言うと、そいつは、クックッと顔を歪めて笑った。


(余に何の義理があって、そんなことをすることがあるか)


「余と言うくらいだから、あんたは偉いのか?」


(余の名を聞いても分からぬなら、言葉を割く価値は無い。忘れられて久しい、一柱ひとはしら。まあ、余の事はい。それよりも、貴様だ。まあ、たいそうな御方に魅入られたものだな)


「たいそうな御方? そいつが俺の眼を治したやつか」


(そうさ)


 言葉が続く。


(“ただ一つの原型的かつ永遠の存在”。外なる神の副王)


「勿体を付けられても分からない。それの名前は?」


 やれやれ、とそいつは肩をすくめたように見えた。


(ヨグ=ソートス。お前はその贄に選ばれた身だ)

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