3-9 再会は忘れた後にやってくる 後編

 あいちゃんの説明によると、誰かに追われて困ってる人を助けてくれる探偵みたいなことをしている会社であるらしい。もっともそれは本当に困ってる人にしか見つけられないという都市伝説みたいなものらしいのだけど。

「十二階建てビルの十三階にあるとか……いかにもそれっぽい噂だね」

「とりあえず今は困ってませんけど、いつか行ってみたいですね」

「でも本当に困らないといけないんでしょ。だったら私はいいかな」

 何気なく言ったその言葉だったけど、私は何故か胸が痛むのを感じた。

「……なにこれ」

 どころか涙を流していた。理由はわからないけど、私は悲しんでいた。何がそんなに悲しいのかすらわからないのに、涙が止まらない。

「こんなところで泣いたりして、彼氏にでも振られたのかい?」

 そんな質問と共に私の視界にハンカチが飛び込んできた。

「違います! 多分ですけど」

 私はとっさに涙を拭うとハンカチを差し出してきた相手を見た。

 目力の強い女性だった。ハッとするほどの美人なのだが、それを台無しにするくらい酷い髪型をしていた。全体としては長いのに、思いつきで適当にハサミを入れただけにしか見えない不揃いさが目立つ。

「多分って、おかしなことを言うね、君は」

「よくわかんないんです」

「じゃあ否定も言い訳もしなくていいだろうに」

 その女性は小さく笑った。

「とりあえずこんな往来で泣いてるのは穏やかじゃないので、涙は拭くといい」

 そして改めてハンカチを渡してくれた。まだ涙がこぼれていたのかはわからないけど、ハンカチで目を押さえるとそれだけで少し気分が落ち着くのを感じた。

「あ、すみません。洗って返しますね」

 それで自分のハンカチで拭けばいいだけだったと今更気付く。

「君にあげるよ」

「え? でも」

「どうせ、もらいものだしね。特に愛着感じてるわけでもない」

 彼女の説明を聞いてハンカチを見ると、それが紺色で男物のデザインだとわかる。

「そう、なんですか」

 だからって見ず知らずの人間にあげるものだろうか。

「なんなら帰り道、捨ててくれて構わないよ。君だって知らない男からもらったものなんて、なんか不気味だろ?」

 どこまで本気でそう言ってるのかわからない人だった。私はそれでどう答えたものか考えてしまったのだけど。

「……え?」

 その間に彼女はどこかに行ってしまった。

 あんなに目立つ感じの人だったのに、都会の雑踏に紛れるともう追いかけることは無理そうだった。


   ○


 十二階建てビルの十三階。そこは本来、存在しない場所だけあって騒音というものが聞こえてこない。

 事務所の長椅子に寝転がって目を瞑っていると何もない空間に浮かんでいる不安な気分にすらなる。イカリを置き忘れた船のようにユラユラとどこかに行ってしまいそうな危うさだ。

「どしたのー?」

 でも、そこにドタドタと音を立ててミリがやって来た。

 ミリはこっちがちゃんと話してもわからないくせに、話さなくてもわかる時がある。

 俺がへこんでいると言わなくても理解してるのだろう。

「ちょっと疲れちまったみたいだ」

「じゃあ、甘い物だねー」

「ケーキでも買ってくれば良かったかな」

 もっともそんな気の利いたことをする元気もなかったわけだが。

「人の世界に入れる人間なんて久々に会ったからかな」

 俺はお嬢ちゃんの人柄ではなく、同じ能力を持つ人間としてのシンパシーを感じてると思おうとしているらしい。

 実際、そういう面もあるだろう。前社長と決別して以来のことだったのだから。

「違うよー!」

 どういう文脈かわからないがミリはそう言って怒り始める。

「そうか、違うか」

 そしてなんのことかわからなくても、きっとそうなんだろうと俺は思った。だから俺はミリの頭を撫でて落ち着かせる。

 それで少し考える余裕が出来たのか、俺は今まで考えたこともないことに気付いた。

「自分で自分の世界に入れるなら」

 同行しただけだったが、お嬢ちゃんはお嬢ちゃん自身の世界に入った。それなら俺は俺の世界に入ることも出来るし、そこでお嬢ちゃんを殺せば……。

「いや、ないな」

 可能か不可能かと言えば可能かもしれない。でも、その選択は無い。

「受けとめないといけない。そういうこともあるよな」

 そうするべきなんだ。それだけはわかったが、疲れてるのか元気は湧いてこない。

「膝枕するー?」

 ミリはそう言って俺が寝ている長椅子に座ってくる。

「疲れた時は寝るのー」

「……そうだな」

 忘れられはしなくても、眠れば傷は少し癒えるかもしれない。

 ミリの膝枕は少し薄くて決して寝心地が良かったわけじゃなかった。でも俺はすぐに眠りについた。

 やはり疲れていたんだ。


 なんだか物音がしているのに気付いて俺は目を覚ました。

 事務所の中には光が満ちていて、軽い仮眠のつもりがガッツリ寝ていたことに気付く。

「……お客さんか?」

 でもそれよりも気にすべきは物音の方だ。誰か来ているというなら応対しないわけにはいかない。

 俺は忘却社の社長代行なのだから。

「ん?」

 しかしそんな感じでもなかった。ミリが誰かと楽しげに掃除をしていた。ミリが自分から積極的に掃除をするはずはない。つまりその誰かが掃除をし始めて、ミリが一緒にやろうと言い出したのだろう。

 問題なのは、その誰かだ。ここに来る人間は困り果てた人間だ。そんな人間が俺が寝てるからって掃除をしてくれるなんて、そんなことはあるはずがない。

「ど、どうして!?」

 しかしそのあるはすがないどころじゃないことが起こっていた。

 俺はその光景を理解してガバッと上体を起こした。

「おはよう、つばさくん」

 そこにいたのはお嬢ちゃんだった。彼女がここに来るはずはないし、ましてや俺の名前を覚えているはずはない。

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