奈落の快楽



 奈落には深海のイメージが付きまとっているために奈落から海を削ぎ落として丘にしなければならない。その丘にはいくつかの火山が煙を吹いてぼんやりと立ち込める気流の隨に色彩の移植手術をするかのような手つきで見えざる神の手が塗り分けていくと、もはや干からびた魚骸がいくつも散らばっていて、それが彼方此方で風に吹かれて震えている……といった内容が、火星そのものの実態の描写として『火星の書』には記されているのだが、それと同時に『火星の書』が奈落の快楽というタイトルの章の中に出てくるだけではないことは、この書物の読者ならばとうに知っていると思われるが、念のため説明しておくと私は嘘をつくかもしれないので聞かないほうがよい、しかもその嘘も嘘の嘘の嘘の嘘の……と延々と続く嘘であるがゆえに真実にいつまで経っても近づけないという悲しさがあるのだ。いやひょっとすると嘘の嘘は嘘から出た誠となって真実の糧になるかもしれないが、それは瓢箪から駒を出すようなものであり、全くもってあてにならないのである。

 私は奈落の快楽を信じない。そもそも奈落の存在を信じない私が奈落に快楽を見出す所以もない。しかしながら奈落の快楽というタイトルがこの小説に付けられてしまった以上、またそれらのタイトルをひとしきり買ってしまった以上は書き終えねばならない。だがこんなにも短い中で私ができることはなんだろうか? 奈落の果てに何が眠るのか? そもそも奈落の存在を史実を紐解いたところで出てくるはずもないし、強いて言うならそれは脳の歴史、もしくは文学史とともにあるものだろう。だが同時にこうも言えるわけだ。奈落とは現実の深海である、と。

 何のためにこんな前提が必要なのだろうか? 何のためにこうしたことが書かれているのだろうか? 果たしてその根拠は? そういったものを詮索するより先に、多分に小説らしいものを書くという努力をした方がいいのかもしれない。しかしながら私には今ひとつその小説らしさというものへの実感が湧かないのである。風景論などを読んでいてもそう感じる。例えばこれだけ複数の要素の集合体を形成していればひょっとするときちんとした形態に見えるかもしれないという錯覚に基づいて書くことは欺瞞だろうか? 錯覚が錯覚であったとしても?

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る