遮熱板



 亜空間物質転送装置が亜空間物質転送装置によって夢の中へ転送されて消えてしまう。亜空間物質転送装置自身の効力により何もかもが夢の中にただ流れていってしまうのだ。

 だからここに書かれていることもいずれは消える。亜空間物質転送装置自体も、夢の中に消えてしまうのだ。それだから今から語る物語は、ひどく現実離れしたものになるだろう。

 物語の始まりは――仮にそんなものが存在するとしてだが――現実という概念さえも、夢の中に消え失せてしまうとすれば、という仮定からスタートする。もしそうだとすれば、現実離れという語が意味を持つことはなくなってしまうのだ。結果として、現実に近づくための方法は閉ざされてしまうのである。物語の中には、神楽弓月が妊娠検査薬を使用するシーンが含まれている。昔話のおじいさんとおばあさんのように、イマニュエルとの間に子供ができない、ということはなかったのだ。そのシーンから語り始めよう。


 ピンク色の箱の中から取り出した細長い管状のものに、尿を二、三滴垂らすとすぐに反応が見えた。彼女はすぐにイマニュエルに責任を取らせることを考えたが、直後に誰に責任を取らせるべきであるのかを忘れてしまった。だから彼女が友人たちに相談する内容はこうだった。

「誰に相談すればいいかわからないの、誰の子供かわからないから」


 物語は、夢の中において進行するために、常に忘却の機能によって統御されたままである。そのうち彼女の忘却は著しくなり、次のように主張するのだった。


「私、最近身体がひどく太った気がする。どうしてなのかわからない。病院に行くと、いつも何か言われるけれども、それを忘れてしまう。書き留めるけれども、書き留めたのが、どこにあったか忘れてしまう。必ず胸ポケットに入れているけれども、書いてあるのは『妊娠』とか、『五ヶ月目』とか、そういうことばかりなの」


 いよいよ彼女の産気づきが怪しくなってくると、亜空間物質転送装置が彼女の胎内に入り込み、それというのも通りすがりにイマニュエルが彼女の鞄に入れたからだ、イマニュエルはしめしめといった顔で帰っていった、そして彼女の胎児は夢の中に飛ばされ、彼女自身は想像妊娠であったことが発覚するのだが、この頃になると彼女はもはやイマニュエルはおろか体調のことさえ認識できなくなっており、それというのも日付の感覚が疎かになっているからなのだが、家族は真剣に施設入所を考えなければならないほどになっているのである。

 最終段階に至ると、神楽弓月は、もはや自分の名前さえ認識できなくなり、誰かに名前を呼ばれても名前を呼ばれたことを考えられなくなってしまっているのである。

 神楽弓月は言う。


「まるで夢みたいなのよ。私が誰なのかとか、そういうことはどうでもよいの」彼女はIoTデバイスによって家族の監視下に置かれていて、ポットにお湯を入れたことや暖房を付けたことが家族に認識されるような状態で独居しているが、もはやなんの不安もないといった表情だ。「怖くないわ。死ぬことも、生きることも私には関係ない」彼女は笑う。


 彼女は平成の元号が変わる頃に息を引き取った。しかしそれもまた夢かもしれず、覚めたときにはどんな本物の彼女の笑顔が見られることだろうか。遮熱板の裏の暗がりのように彼女の未来は暗い。

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