超越種7

【ゴガアアアアアアアアァッ!】

 理性の欠片もない、野生の咆哮が響き渡る。

 その咆哮に合わせて動き出す、無数の水触手。イソギンチャクのような姿となったフィアは、百は優にあるだろう水触手を縦横無尽に振り回した! 一本一本が太さ数メートル、長さに至っては百メートルはあるだろうそれらは、大地を叩き付ける度に地震を引き起こす。地震は決して小さなものではなく、付近の瓦礫は反動で浮かび上がり、水触手の周りは常に朦々と粉塵が漂っていた。

 更にその蠢くスピードはまるで流星のように素早く、数の多さも相まって人間の動体視力では視認すら難しい。ヒュンヒュンと大気を切り裂く音だけが、触手がその場で動き回っている事を教えてくれる。

 もしもこの触手達に狙われたなら、ただの人間では為す術もない。身構える事すら許されずに叩かれ、受け止めたエネルギーの膨大さから爆散を通り越して気化するだろう。

 しかし、星縄は違った。

「ぬんっ! ふっ! はっ!」

 星縄は掛け声と共に、目にも留まらぬ速さで己の手を伸ばす。

 一見してヨガか創作ダンスのような動きは、轟音と共に水触手をさせる……つまり目にも留まらぬ速さで動き回っていた水触手を受け止めるための動作だった。恐らく『念力』により空気を固定し、壁のように展開しているのだろう。

 フィアと星縄の対決を目の当たりにし、花中は驚きを二つ覚えた。

 一つは星縄のパワー。フィアの ― 本気で暴れたなら一匹で人類文明を壊滅させたであろう ― 出鱈目な怪力を片手で受け止めている。即ち星縄の『念力』はフィアに匹敵する強大なもの。あまりの力強さに、人間を超えたという星縄の『戯れ言』が説得力を帯びた。

 そしてもう一つの驚きは、星縄がフィアの攻撃に反応している点だ。花中にはもう残像すら確認出来ないほどのスピードで何十と迫る水触手を、正確に捉え、理解するだけの反射神経を有している事になる。

 確かにミュータント化した生物は、そうでない生物より五感がかなり強くなっているように花中は思う。例えばフィアは頭上の気配に敏感で、光速の数パーセントもの速さで迫る物体を『なんとなく』で躱してしまう。普通のフナに出来るような真似ではない。星縄もミュータント化により五感が高まり、フィアの水触手が見えるようになった……その可能性は高いのだが、しかし花中は違和感を覚える。

 直感で避けているにしては、星縄の動きが滑らか過ぎる気がしたのだ。踊るような彼女の動きに、本能で行動しているような『野性味』が感じられない。

 本能ではなく、頭で考えて避けているのではないか。直感ではなく理性的に判断しているとすれば、攻撃される前から多少なりと動きが読めているのか? しかし一体どうやって……

 考え込む花中だったが、結論が出る前に状況が動く。

 星縄が前進を始め、フィアとの距離を詰め始めたのだ。フィアはこれを許さないつもりか、水触手の連打により妨害するも、星縄の歩みは遅くならない。否、それどころかどんどん加速していき――――

「はあぁっ!」

 流星染みた超高速で、フィアに跳び蹴りをお見舞いした! 何十メートルと宙を飛んで進む姿は、英雄と呼ぶに相応しい雄々しさを花中に感じさせる。

 フィアは防御を固めようとしたのか、水触手が星縄の前に集結して『壁』を作る。『壁』の強度は凄まじく、星縄の蹴りではビクともしない。

 きっと星縄も、防御を破れるとは思っていなかっただろう。故にこの跳び蹴りの目的は別にあるのだ。

 例えば、フィアに至近距離から『念力』を喰らわせる事とか。

【ヌッ……ヌゥウウウウウウウッ!?】

 星縄の蹴りを受けた次の瞬間、水触手が生えている、イソギンチャクの『胴体』のような部分が大きく後退を始めた! 『胴体』部分に潜んでいるであろうフィアが唸りを上げ、水触手を大地に突き刺して止まろうとするが、中々上手くいかない。

 あっという間にフィアは、星縄から二百メートル近く離されてしまった。星縄は軽やかに着地し、十分離れたフィアにほくそ笑むような表情を向けた

 刹那、イソギンチャクの怪物が星縄の至近距離まで来ていた。

「――――はっ、な、ぐおっ!?」

 星縄が驚きで顔を歪めた、その直後にフィアと星縄が激突する!

 フィアは水触手を束ね、ドリルのような体勢となって星縄に突っ込んでいた。一体何万トンあるかも分からぬ巨体が、目にも留まらぬ速さで突っ込んだのだ。衝突時のエネルギーは凄まじく、周りの瓦礫のみならず大地をも吹き飛ばす。地上に出現した半径五十メートルはあろうかというクレーターが、フィアの圧倒的パワーを物語った。

 この攻撃はさしもの星縄も反応出来なかったのか、彼女の身体はフィアによって強引に動かされる。クレーターを作り出してもまだ余りあるエネルギーにより、何百メートルと後退させられた。

 しかし星縄にとって致死的なものではない。

「ふっ!」

 星縄は両腕を伸ばした。『念力』によりフィアを止めるつもりなのは、遠くより戦いを見ている花中にも分かる。予想通り星縄を押し続けるフィアの『身体』は徐々に減速していく。

 そしてある程度速度が衰えるや、星縄はフィアの巨体を持ち上げた!

 これまで瓦礫などを持ち上げ、自身の防御に用いていた『念力』により、フィアの『身体』そのものが宙に浮かぶ。とはいえ今のフィアの質量は些か厳しいものがあるのか、その動きは決してスマートなものではない。

 その緩慢な動きの中でフィアは『身体』を変形。イソギンチャクのような姿から、再び魚面の怪物へと変わり、二本の足で大地に立つ。星縄による投げ飛ばしもこれでは効果がないに等しいだろう。

【ガアアアアアアアアアアッ!】

 事実フィアは怯まず、着地後間髪入れずに頭から星縄に突撃する!

 ただの突撃ではない。魚面の頭がばっくりと上下に裂け、その内側にある無数の『牙』を剥き出しにしながらの突撃だ! 更に背中からは無数の水触手を生やし、先端に『口』を形成させて星縄に向かわせる!

 水触手に出来た口の中にも鋭い歯がずらりと並んでおり、噛み付いたものをミキサーのように切り潰しながら奥へ奥へと進んでいく……そんな光景が予想出来る形態をしていた。無論頭に付いている牙も鋭く、触れれば人間など潰れるどころか真っ二つに切り裂かれるだろう。

 どちらの口も、まともに喰らった次の瞬間には死が訪れるに違いない。

「ちょ、殺す気満々過ぎ……ぐっ!?」

 殺意に満ちた攻撃を前にして、さしもの星縄も狼狽えた。が、迫り来る巨大な牙を両手と両足で受け止める。『念力』を使っており、星縄の手も足も牙には直接触れていない。触れれば即座に切り裂かれると、星縄も理解しているのだ。巨大な口の中に入りながら、星縄は奮戦している。

 無論ここで手を弛めるようなフィアではない。なんのために水触手を生やしたのか。

 両手が塞がった星縄に、獰猛な水触手達が襲い掛かる! 両腕を塞がれた状態からの奇襲攻撃。されど星縄は水触手が生えているところを既に見ており、このような追撃があるのは間違いなく想定内。『念力』で作ったであろう、空気の壁により水触手は星縄に届かず跳ね返された。

 追撃は失敗に終わった。しかしそれでもフィアは諦めず、否、止められていると気付いていないかのように力を込め……少しずつだが、フィアの牙を受け止めている星縄の腕と足を曲げていく。小細工など無用とばかりに、純粋な怪力で押し潰そうとしていた。

「ぬ……ぐ、ぐぐ……こん、のおおおオオオオオオオオッ!」

 フィアの顎の力は星縄にケダモノ染みた叫びを上げさせる。

 渾身の力により、閉じようとしていたフィアの顎はこじ開けられた。星縄は十分なスペースを確保するや、『念力』を用いてか自らの身体を撥ねられたような勢いで射出。押し返す力が消え、フィアの顎はガヂンッ! と轟音を響かせながら閉じる。余程凄まじいパワーだったようで、閉じた瞬間フィアの口周りに衝撃波白い靄が生じていた。

 辛うじて脱出に成功した星縄は、フィアから数百メートルは離れた後、ふわりと空に浮かぶ。これもまた『念力』の応用か。フィアより高い位置を確保した彼女は、おどけるように肩を竦め、楽しげに笑い出した。

「ふっ、はははははは! いや、本当に驚いたよ! いずれ復帰するとは思っていたけど、こんなにも早いのは想定外だ! それにさっき戦った時よりも、明らかにパワーが上がっている。君は一体何をしたんだい?」

【グガアアアアアアアアアアッ! ゴガアアゴオオオオオオオオ!】

 魚面の怪物と化したフィアは、問い掛ける星縄にケダモノの咆哮を返す。猛然と駆け出したと思えば、空を飛ぶ星縄に向けて腕を伸ばし、叩き落とさんとばかりに振るった。

 星縄はこれを後退しながら回避。納得したように頷く。

「成程、理性をかなぐり捨て、ほぼ完全に野生に身を任せた訳か。手負いの獣は危険だなぁ。ミュータントとなれば尚更だね」

【ガァオオオオオオオオオッ!】

 ぽつりとその推理を語ると、肯定するようにフィアは叫んだ。尤も、今のフィアは星縄の言葉など何一つ理解していないだろうが。

 花中はごくりと息を飲む。

 避難所の外で起きた最初の揺れ……星縄との初めての戦いで、フィアがどれほど追い詰められたかは分からない。挙句怪物の『身体』の奥に潜む、今のフィアの姿など見えもしないのだ。花中には、フィアの容態を知る術などない。

 けれども想像は出来る。悪態すら吐かず、罵声すらぶつけず、ただただ咆哮を上げるだけのケダモノ……星縄が言うように、今のフィアは理性を完全に捨て、野生の本能に支配されているようだ。痛みも苦しみも闘争心で抑え込み、強引にこの戦場に来たのだろう。

 そんな状態が身体に良い筈もない。この『野生』そのものの状態は、きっとフィアに大きな負荷を掛けるだろう。後遺症も残るかも知れない。親友がこんな無茶をするところなど、花中は見たくなかった。

 だが、だからこそ思うのだ。

 フィアは『野生生物』だ。不必要なプライドなど持たず、過剰な怯えも抱かず、本能のまま正確に敵を見定める。エネルギーの消費を嫌い、余計な消耗を無意識に避ける。

 ならばフィアの本能は、きっとこう判断したのだ。ここまでしなければ星縄を倒せない、と。例え命を削ろうとも、削るほどの覚悟がなければ何もかも失うのだと。

 それほどまでに星縄の『念力』は強力だというのか――――

「……やれやれ、こうなるとこちらとしても本気を出さないと不味いね。本気を出せば、なんとかなりそうだけど」

 花中が嫌な予感を覚えた時、星縄がぽつりと独りごちる。

 刹那、星縄の真横から放たれた『雷撃』が、緩やかな弧を描きながらフィアに直撃した。

「……え?」

【グギィ!? ギグガッ……!】

 雷撃を受けたフィアが苦しそうに呻きながら、後退りする。その様を花中は呆然と眺めるのみ。

 なんだ、今のは。

 眩い光を放ち、ジグザグの軌跡を残していく様は雷撃以外の何物でもなかった。されど雷は上から下に落ちるものであり、横に飛んでいくものではない。そもそも雷程度の電圧で、数万度もの高熱にも耐えるフィアの水が『壊れる』筈がないのだ。なのにどうしてフィアは苦しみ、後退りしている?

「ハンマーヘッドシャークのミュータントは、強力な電気を操る能力を持っていた」

 混乱する花中の耳に、再び星縄の声が聞こえる。

 あまりにも淡々とした言葉故、一度は聞き逃しそうになった。されど理性がその言葉の『意味』に気付き、見開いた目は星縄へと向けられる。

 結果、花中は星縄の周りに『石の槍』が出現する光景を目の当たりにした。

 作り出された『石の槍』は高速で射出され、フィアに直撃。核兵器すらも耐える『身体』が、なんと僅かながら砕け散っているではないか。傷跡は即座に修復するが、飛び散った『肉片』は水に戻りながら地面に落ち、少しずつだがフィアの『身体』は削れていく。

「アフリカマイマイのミュータントは地中のケイ素を自在に操り、空中などで集結させ、この槍のように射出する力を持っていた」

 星縄は淡々と語りながら、大きく両腕を広げる。

 まるで星縄に呼応するように、彼女の背後にあった大量の……数百メートル、いや、数キロにも渡る範囲の瓦礫がふわりと浮かび上がった。

 星縄は告げる。

「そしてこれは花中ちゃんの能力……『念力』さ」

 今まで使っていた力さえも、ではないのだと。

 星縄が大きく腕を振るうや、無数の瓦礫がフィアに押し寄せる! 何万トン、何十万トンあるかも分からない質量の濁流は、フィアの巨体を着実に押していく。

【グギ……ギ……ギガアアアアア! アアアアアアアアアアアアアアアッ!】

 フィアは叫び、瓦礫の濁流を掻き分ける。だが掻けども掻けども前には進めず、どんどん後ろに下がり続けてしまう。

 ついにその身が、ふわりと浮かび上がり。

「そうそう、花中ちゃんにはまだ教えていなかったね。人間であるボクの能力は……他の生物の能力を模倣する事さ」

 己の力を明かした星縄は、力強く片手を前に突き出した。

 それは駄目押しの動き。

 浮かび上がったフィアの『身体』は瓦礫に飲まれ、ひっくり返るように押し倒される。しかし瓦礫の流れは止まらない。

 瓦礫はどんどん積み上がり、フィアを覆い隠さんとする。フィアは巨体をのたうつように暴れさせ、瓦礫を掻き分けようとして腕を振り回すが……押し寄せる瓦礫は止まらず、フィアの姿は瓦礫の山に飲み込まれてしまう。

 瓦礫はただ積み上がるだけでは終わらない。ごりごりと音を鳴らしながら横向きに動き始めたのだ。その動きはどんどん加速し、やがて竜巻のような速さとなった。まるでミキサーだ。しかも瓦礫同士がぶつかり合っても破損せずにいる事から、一つ一つの瓦礫が『念力』により守られているらしい。

 強固な守護を得た瓦礫は、加速を止めない。最早個々の瓦礫の輪郭が見えないほどの速さとなり、摩擦による静電気なのか雷撃が周囲に飛び散る。周辺の大気も巻き取っているのか、何百メートルと離れている花中ですら引き込まれそうな暴風が起こり、瓦礫を取り囲むように本当の竜巻が天に向かって伸びている。瓦礫の竜巻からは刃が如く鋭い白い靄――――衝撃波が飛び、周辺の大地に爪痕のような傷を刻んだ。

 更に回転する瓦礫の竜巻から、何か、半透明なものが飛び散る。飛び散った何かは周りで起きている本物の竜巻に飲まれ、空へと舞い上がり……やがて花中の頭にぴちょんぴちょんと『雨粒』が落ちてきた。

 花中はゾッとした。頭に落ちてきたのは雨粒なんかではない。フィアを守る『身体』の水が、瓦礫の竜巻により削り取られているのだ。

 それにこの攻撃には見覚えがある。フィアの娘であるフィリスが用いた、湿気を含んだ土による竜巻による『ヤスリ』攻撃だ。フィリスの事を知っているのか、それとも合理的判断の結果か。いずれにせよ間違いなく言える事が一つある。

 この攻撃は、フィアに対し『有効』であるという事。

 フィアを守る『身体』は凄まじく頑強で、水爆すら容易く防ぎきる。されどが能力を用い、硬くした瓦礫はこの頑強さを上回っていたらしい。降り注ぐ雨粒は止まず、それどころか勢いと量を増していた。

【ギ……グギガアァ! ガアアアァアァアアアッ!】

 風と瓦礫の竜巻の中心から、猛々しい、だけどそれ以上に苦しそうな咆哮が響く。時折竜巻から水触手が飛び出すが、それは渦巻く瓦礫によりすぐに切断されてしまう。中で暴れた拍子に突き飛ばされたのか、瓦礫が弾丸のように竜巻の外へと出てきても、Uターンするように瓦礫は戻っていく。

 フィアは着実に消耗している。助けないと、本当に危ない。

 だけど何が出来る? 水爆の直撃すらも耐えるフィアの『身体』を、問答無用で削り取る竜巻だ。小学生男子にも負ける身体能力では、接近するだけで粉々にされる。かといってこの身に宿った超常の力である『念力』が、一体なんの役に立つというのか。子供でも持ち上げられる程度の、ちっぽけな石さえものろのろとしか動かせないというのに。

 何時だって自分はフィア達の戦いを眺めるばかり。戦い方に口を挟み、小五月蝿く指示を出すのが精々。

 こんなしょうもない『念力』では、フィア達の手助けなんて出来やしない――――

「(……念力……?)」

 悔しがる花中の脳裏に、ふと、疑問が過ぎる。

 星縄は、模倣するのが人間である自分の能力だと言っていた。実際彼女は様々な能力を披露しており、その言葉に嘘はないと思う。

 ならば。

 ならば自分の念力は、

 

 頭の中にこびり付く数々の疑問。しかしそれを考え込む時間はなかった。

 やがて瓦礫の竜巻は終わり、瓦礫達は四方八方へと飛び散る。花中を引き込もうとする風は止み、天へと伸びる本物の竜巻も消えた。雷撃も止まり、衝撃波である白い靄も消える。

 そしてそこに怪物の姿は見付からない。

 あるのは本当にちっぽけな、直系一メートルもないような水球のみだった。

「……ふぃ、フィアちゃん!? フィアちゃんっ!」

 それが弱りきった親友の姿だと理解して、花中は無我夢中で叫んだ。しかし水球はただそこに転がるだけで、なんの反応も示さない。

 それは攻撃を止めた星縄が水球に近付いても、変わらなかった。

「おお、凄い。あの攻撃を満身創痍の状態で耐えるのか。君ぐらいのサイズのミュータントなら、割と今のでやられると思うよ?」

 星縄は心底感心したような言葉を投げ掛けつつ、水球を片手で持ち上げた。水球はこれでもなんの動きも見せない。

 星縄はふわりと飛び上がり、花中の下まであっという間に飛来してくる。フィアをも打倒した星縄への恐怖から、花中の足は自然と後退りしようとするが……身体は足に反して、前のめりになっていた。

 何故なら水球の中で、横たわる親友の姿が見えたのだから。

「フィアちゃん! フィアちゃんっ!」

「うぐ……花中……さん……」

「おっと、意識を取り戻したか。素晴らしい生命力、いや、ここまで強いとちょっと怖いぐらいだね。でもまぁ、それもここまでというやつだけど」

 花中が呼び掛けると水球の中で魚の姿を晒ししているフィアは、僅かに身を起こして答える。と、星縄は感心したように目を見開き、そして意地の悪い笑みを浮かべた。

「さて、花中ちゃん。大切な友達とお別れする準備は出来たかな?」

 告げてくるのは、花中の息と心臓を一瞬だけでも止める言葉。

 花中は顔を真っ青にした。必死に首を横に振る。そんな準備は出来ていない。そんな準備はしたくない。

「おや、残念。早くしないと……手遅れになっちゃうよ?」

 だが、星縄は待ってくれない。

 星縄は水球の中に、空いている方の手を触れる。するとずぶずぶと、その手は水球の中へと侵入するではないか。弱りきったフィアには星縄を阻む力もないのか、それとも星縄がフィアの能力に干渉しているのか。原理は分からないが、そんな事は些末な話だ。

 重要なのはその結果、星縄の指先がフィアの腹に突き立てられたという事だけである。

「ぎっ……こ……の……」

「黙りなよ」

 反射的なフィアの反発に、星縄は笑顔のまま苛立ちの言葉を告げた。

 そして罰だとばかりに突き立てた指を、フィアの腹の肉を切り裂いて突き刺す。指先から鮮血が滲み出て、その傷の深さを物語る。

「がっ!? ……! ……ッ!」

「ふぃ、フィアちゃん!?」

「魚も人間も、お腹の中には大切な臓器が詰まっている。このまま指を突き進めれば、内臓が傷付いてしまうね」

 わざとらしく語りながら、星縄は自らの指を苦しむフィアに少しずつ射し込んでいく。フィアは声にならない呻きを上げており、だからこそその苦しさが花中にも伝わってくる。

 内臓が傷付けられたとしても、それなりの体力さえあれば、水を操る能力を応用して傷口を塞ぐぐらいフィアならやっただろう。しかし今の疲労困憊状態のフィアにそれが出来るとは思えない。傷口を塞げず、切れた血管や臓器の縫合が出来なければ、一般的な生物と同様に致死的なダメージとなる。

 このままでは親友が死んでしまう。

 花中はこれまで人間の死は幾度となく目の当たりにした。亡くなったクラスメートもいるし、自分の身だって何度命の危機に見舞われたか事か。

 だけど今は、これまでに経験したどんな時よりも怖い。

 ずっと自分の傍に居てくれた親友が失われるなんて、自分の死よりも考えたくなかった。

「なん、で……こんな、こんな事、を……」

 突き付けられた現実が受け止められず、花中の口から出てきたのは今更過ぎる疑問。

「言っただろう? 旧人類を一掃するため……ついでに、旧人類に味方するミュータントも片付けようと思っただけさ」

 その疑問に星縄は、呆れるように肩を竦めながら答えた。

 この疑問の答えはもう聞いている。聞いているのに、また尋ねてしまった。追い詰められた花中の胸に、星縄の言葉は深々と刻み込まれる。

 悲しかった。自分の家族が、自分の親友を奪おうとする事が。

 悔しかった。何時も自分を守ってくれた親友を、自分の力では助け出せない事が。

 心の中を二つの感情が満たす。絶望に支配された花中はその場にへたり込み、身動きも取れない。半開きの口からは、なんの言葉も発せられない有り様。

 頭の中は感情で塗り潰された。論理的思考は何もない。ただただ、感情的な言葉だけが頭の中を駆け巡る。

 ……やがて、とある感情が二つの感情を押し退け始めた。

 星縄の言葉が本当か、それとも実は嘘なのか、そんなのは分からない。だけど今の星縄はあまりにも残忍で、冷酷で……身勝手な理由で自分の大切なものを奪っていこうとしている。

 それを悪だとは言わない。自然界に悪も正義もありはしないのだ。人智を凌駕する存在に至った星縄が人間から資源を奪うのも自然の摂理であり、戦いによりフィアを殺したとしたところでそれもまた野生の闘争に過ぎない。人間社会が崩壊し、再び野生が支配するようになったこの世界で、彼女は『悪い事』なんて何一つしていないのだ。

 だからこれは、私的な感情。私的な想い。

 ――――許せない。

「質問は以上かな? じゃあ、これで親友ともお別れだ」

 へたり込んだ花中を見て、星縄は何を思ったのだろうか。失望したようにも見える表情を浮かべると、花中に残酷な宣言を行う。

 それでも花中が動かず、何も言わずにいると、星縄はため息を吐き……

 星縄の指先が、フィアの身体に一際深く突き刺さった。



















 瞬間、ぷつんと、何かが花中の中で切れる。



















「っ!?」

 直後フィアに突き立てていた星縄が慌ただしく腕を上げた。星縄は困惑したように、フィアの肉を抉っていた自分の指を見つめ、花中を見つめ……何度か交互に見つめて、困惑した表情を浮かべる。

 星縄の意思による行動じゃない。

 しかしフィアは何もしていないだろう。もう声を発せられないほどに弱りきっているのだから。身体には星縄によって開けられた穴から血が出ていない。止血するのに必死で、他の事をする余力などない筈だ。

 けれども花中だって何もしていない。花中はただ、強く願っただけだ。

 その手を退けろ、と。

「……は、ははっ! ははははははっ!」

 しばらくすると星縄は笑い始めた。本当に嬉しそうに、何処までも楽しそうに。

 何故星縄は笑っているのか? 花中にはよく分からない。そもそも花中は、自分の状態すらよく分かっていない。自分の身体がキラキラと輝き出した事にすら、気付いていないほどに。

 勿論ちゃんと自分の身体を見れば、花中も自らの身に起きた異変を理解しただろう。しかし今の花中にそんな余裕は残されていない。一つの事に集中しているのだから。

 フィア達がムスペルをひっくり返そうと奮戦する中、必死になって応援したあの時と同じぐらい。

 今の花中は、親友を傷付ける星縄だけに意識が向いていた。

「随分と勇ましい顔付きになったねぇ。だけどそれだけじゃあボクは止められないよ。ほら、もう一度……」

 星縄は花中を嘲笑いながら、フィアに向けてもう一度手を伸ばす。その手がフィアの傷を癒やすためでなく、新たな傷口を作るためなのは明白。

 そんなものは認められない。

 だから花中は己の腕を伸ばし、その手に力を込める。

 ただそれだけで、フィアに迫っていた星縄の手はピタリと止まった。星縄は全身に力を込め、なんとか腕をフィアの下まで伸ばそうとするが、動く気配すらない。

 それどころか花中が伸ばした腕の手首を回すと、星縄の腕がその動きに合わせるようにフィアから遠ざかる。あたかも大柄な人間に手首を掴まれ、引っ張られるように。

「ぐっ……ぬ……う、うぐ……!? 動かな……」

「……………」

 身動きが取れずに苦しむ星縄を見据えながら、花中は自らの手をぎゅっと握り締める。

 するとどうだ。星縄の腕がメキメキと音を立て始めたではないか。

「ぐ……ぐ、く……くぅあっ!」

 星縄は水球を持っていた方の片手を、音を立てる腕に向けた。フィアを包む水球は投げ捨てられ、地面を転がる。

 星縄は『念力』を用いて、腕を襲う原因を取り除こうとしているらしい。その行動と選択は正しく、星縄の腕から鳴っていた異音は止んだ。しかしフィアは離してしまい、水球は星縄から数メートルは離れた位置に転がる。止めを刺そうとしていた動物が、拾いに行ける距離ではあるが遠くに行ってしまった。放置すれば体力と傷を回復し、また挑んでくるかも知れない。

 尤も、星縄はもうフィアなどどうでも良いのか見向きもしていない。

 愉悦に染まった星縄の眼差しが向いているのは、花中に対してだけだった。

「……ふ、ふははは! あはははははははははははっ! あっははははははは!」

「……星縄さん。わたし、今とても、怒っています」

 唐突に笑い出した星縄に、花中は静かに、けれどもハッキリと己の感情を伝える。

 それでも星縄の笑いは止まらない。ゲラゲラと心底嬉しそうに笑い続け、目に涙まで浮かべている。身を仰け反らせ、捩らせ、己の感情を上手くコントロール出来ていない様子だ。

 豹変した星縄を、花中は変わらぬ眼差しを向け続ける。しばらくしてようやく感情が落ち着いたのか、どうにか笑い止んだ星縄は、湿る目許を擦りながら花中を見た。

「許さない、ねぇ……じゃあ、どうするつもりなんだい?」

 星縄が、わざとらしく尋ねてくる。

 彼女も答えは分かっているのだろう。それを敢えて尋ねてくる理由は、今の花中には分からない。知らなくても問題なんてない。

 今の自分がやりたい事は、ただ一つ。

「わたしが……あなたの行いを、止めます!」

 憤怒に染まった赤い瞳で睨み付けながら、花中は星縄に宣戦布告をするのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る