超越種2

 花中達が暮らしている避難所は、今やちょっとした村のようになっている。

 『ムスペル事変』により崩落した校舎の瓦礫が少なからず散らばっていたグラウンドは、今ではかなり整理されていた。一周四百メートルのトラックがあるグラウンドも、その面積の七割ほどが瓦礫を綺麗さっぱり退かした状態にある……逆にいえば三割は未だ手付かず、或いは退かした瓦礫が積み上がっていて使用不可なのだが。しかし綺麗にしようにも瓦礫の移動先なんてなく、何時の間にか様々なゴミも捨てられるようになって今更撤去が出来ない。かくしてこうした場所を、この避難所では『ゴミ捨て場』と呼んでいる。花中が『超能力』の練習をしていたのも、四方に瓦礫が積み上げられていて人目に付かない『ゴミ捨て場』の一部だった。

 グラウンドの七割程度を占める『綺麗な場所』には、色々な施設が建てられている。施設といってもトタン板や木材で作られた簡素なものですらなく、何処からか運んできた草を地面に敷き、何処からか引っこ抜いた鉄の棒を地面に突き立て、何処からか持ってきたボロ布を被せただけの……テントと呼べない事もないような代物だが。しかしこんなものでも小雨ぐらいは防げる ― 大雨だと倒壊の危険があるので使えない ― し、床として敷かれている草はコンクリートのように固くなったグラウンドの地面より遙かに寝心地が良い。何より建造に掛かるコストと手間が非常に少なく、素人でも建てられるという利点がある。

 尤も、避難所には五十人以上の人が暮らしていながら、この粗末なテントもどきは十軒も建ってはいないのだが。時間も技術も十分にあるが、材料が足りていないのである。テントの材料は瓦礫の山から引っ張り出しているため、瓦礫をひっくり返すのに多くの労力が必要になっているのが原因だ。加えて大きな瓦礫を退かすのは老人や女子供では危なくて出来ず、大人の男性がそれなりに必要である。

 そういう意味では、新たな『労働力』が増えるのは実にありがたい。今この避難所で最も足りないのは食糧でも寝床でもなく、単純な人手なのだ。

「我々はあなた方を歓迎します。困難は多いですが、力を合わせて生き延びましょう」

 だからこそこの避難所の代表者をしている岡田勇作……六十代と高齢だが、かなり筋肉質で大柄な体躯の男性だ。震災時は川沿いをジョギング中だったため助かったらしい……の言葉は、間違いなく本心から語られたものだった。

 勇作の話を、花中は傍で聞いていた。花中だけでなく晴海や加奈子、他にも大勢の、この避難所で暮らしている人々が集まってきている。総勢五十八人。これがこの避難場所の『全人口』だ。

 ここに、花中達の前に居る十人の男女が加わる。

 二十代ぐらいの若い男が二人、三十代ほどの女性が一人、後は十代前半かそれ未満の子供が七人。誰もが汚れた服を着ていて、身体には擦り傷や打ち身の跡が見られる。傷口から細菌が入り化膿したのか、片目が異様なほど大きく腫れている幼児も居た。相当痛いだろうに子供達の誰もが泣いていないのは、子供ですらその痛みに慣れてしまったという事なのだろう。

 そして全員が酷くやつれている。十一月初旬の柔らかな日差しでも、今のように屋外で直接浴び続けるだけで体力が削られそうなほど弱々しく見えた。花中の勝手な推測であるが、あと一週間ほどの間十分な休息が得られなかったなら……全員とは言わないが犠牲者が出てもおかしくないだろう。或いは既に、体力的に劣っていた者が『脱落』した後かも知れない。

 彼等 ― とりあえず新入りと呼ぼう ― は他の避難所から逃げ出し、放浪の旅の中で此処を見付けた人々だ。晴海から聞いた話では、避難所内で起きた暴力に耐えかねて、との事。

 要するに宛てのある脱走ではない。これ以上避難所を探して歩き回っても、それは希望のない旅路だ。この避難所に保護してもらえなければ死を覚悟するしかあるまい。

「あ、あの、精いっぱい、頑張りますから……その……此処で、暮らさせてください……」

 二十代の男性の一人が擦れた声で頼み込む。必死に、命乞いでもするかのように。

 勇作はそんな彼の下に歩み寄り、肩を掴んでこう告げた。

「頑張るのは後でも大丈夫。あなた達には休息が必要だ。それに暖かな食事も。元気になってから働いてもらいますよ」

 避難所に訪れたばかりの新入り達に、休むように促したのだ。

 新入りの大人達は僅かにどよめいた。子供達は大人達の動揺を見て不安そうにしている。休息を取ってくれと告げられたのだから、彼等とて嬉しくない筈がない。それ以上の困惑が彼等を動揺させたのである。

 花中は、新入り達が置かれていた境遇を知らない。しかし想像は出来る。

 きっと彼等が避難していた場所は、苛烈な労働や暴力に支配されていたのだろう。されどこれは驚くような事柄ではない。正規の避難所ならば、非常食などの備蓄は建物内に収納しておくのが普通だろう。しかしムスペルが引き起こした地震はあらゆる建物を倒壊させてしまった。つまり折角用意した水や食べ物は、全て瓦礫の下に埋もれてしまったのだ。花中達が避難している、高校の校舎と同じように。

 そのため日々の糧を得るには、積み上がった瓦礫を退かすなり、何処か遠征して見付けるなり、なんらかの『労働』で確保せねばならない。働かざる者食うべからず、とは日本の諺であるが……極限環境下においてその言葉は、訳あって働けない弱者を切り捨てる、或いは人を奴隷化するための大義名分として使われる事は容易に考えられる。この新入り達はそれを経験し、そのトラウマが心に深く刻み込まれたのだろう。

 とはいえそうした体制を、一概に愚かだ野蛮だとは批難出来ない。十分な食べ物が確保出来ていないのに仕事をサボる奴が居たらみんなの負担になるし、酷な言い方ではあるが働けない人を養う余裕なんてない。確保出来たのが一人分の食糧だけなら、自分が生き抜くためには暴力で周りの人間を追い払う必要があるだろう。安全な労働規則や社会保障、法による統治というものは、人々の生活が技術発展により安定してきた近代以降だからこそ生じた考えなのだ。

 花中達が暮らすこの避難所でそうした事が起こらない理由は、生活が安定しているからに他ならない。勿論資材は不足していて、寝床にすら困っているが……逼迫した労働とは無縁である。

 何故なら、一番大切な物資である食糧には全く困っていないからだ。

「花中さぁーんただいま帰りましたよー」

 そしてその食糧調達係が、丁度このタイミングで戻ってきた。

「あ、フィアちゃーん」

 花中は戻ってきた食糧調達係こと、フィアの声が聞こえた方へ顔を向け、大きく手を振るう。声が聞こえてきたのは花中から見て左手側……元々は校舎が建っていた、今では高さ五メートルを超える瓦礫の山があるだけの方角だ。

 避難所の住人達も花中と同じ方を見遣り、小さな子供などは満面の笑みと共に手を振る。新入り達も声の主が気になったのか、釣られるように皆と同じ方向に顔を向けた。

「う、うわああああっ!?」

「ひぃっ!?」

 次いで新入り達だけが悲鳴を上げる。

 校舎が崩れて出来た瓦礫の山の頂上に、フィアは居た。堂々たる立ち姿で佇み、花中に向けて大手を振っている。向日葵のように眩しい笑みを浮かべ、花中との再会を大いに喜んでいた。

 そんなフィアの背後には、見るもおぞましい怪物の姿がある。

 青白い体躯は、ざっと全長五メートルはあるだろうか。顔には四つの単眼があり、口許には四つの嘴が付いている。手足は触手のような形態であるが、とても太くて逞しい。

 それは人をも喰らう怪物――――『白饅頭』であった。ただしその個体はぴくりとも動かず、一目で完全に死んでいると分かる状態……いや、一目見るような余裕がある時点で大分おかしいだろうが。何しろどう見ても人を喰らいそうな『モンスター』である。始めて見れば、誰であろうとまずは恐怖の感情を覚えるに違いない。

「よいせーっと」

 ましてやその巨大な亡骸を、見た目麗しい美少女であるフィアが片手で持ち上げながら運べば、恐怖の対象は白饅頭からフィアへと移る事だろう。

 新入り達の誰もが恐れ慄いた表情を浮かべるが、しかしフィアは人間の顔色など気にも留めない。ぴょんと瓦礫の山を跳び降り、大地を揺らしながら人間達に接近。新入りの大人は腰を抜かし、子供は大人にしがみつきながら泣き出す。

「いやぁ今日は良い感じに太った奴が捕まえられました! コイツは丸焼きにしますかそれともお刺身にしますか?」

 そんな新入り達の悲鳴は、フィアのあまりにも能天気なこの一言で止まり。

「岡田さん、どうしますか? わたしは、茹でようかと、思うのですが」

「うーん。火を通したものも悪くないが、偶には刺身が食いたいね」

「「「えっ」」」

 花中と勇作の暢気な話を聞いて、新入りの大人達は呆気に取られた声を漏らした。

 この白饅頭こそが、花中達避難所の住人の命を繋いでいるもの。

 泥落山もムスペル事変で崖崩れなどの被害は生じていたが、幸いにして生態系が壊滅するほどのものではなかった。野生生物達は今も変わらず生きており、つつがなく食物連鎖が繰り広げられている。

 白饅頭達も、多くの野生生物達と同じく泥落山で元気に生きていた。今でこそ泥落山生態系の頂点だが、彼等は元々喰われる側。そのため個体数が非常に多く、また回復も早い。しかも白饅頭の肉は大変美味で、調理方法を変えれば毎日食べても飽きないほど。流石に栄養価は、これだけを食べ続けていてはそのうち偏るだろうが……そこまでの贅沢は言えない。そうした理由から花中を含めたこの避難所に暮らす人々は、白饅頭の肉を主食にしていた。

 無論白饅頭の力は、体長数メートルの『幼体』であっても戦車砲すら通じない圧倒的なもの。そして今の人類は、この星には人智の及ばぬ怪物がひしめいている事を知っている。白饅頭の恐ろしい、常識の通用しない姿を見れば、それが『怪物』の類だと誰でも理解するに違いない。

 ならばその怪物を、まるで虫けらか何かのように扱うフィアは……

「あ、あの、そ、そちらの、方は……」

 新入り達の中の一人、大人の女性が尋ねてくる。自分について尋ねられたフィアは、しかし自分に向けられた質問だと気付いていないのか、或いは面倒臭くて無視しているのか。女性の問いに答えないどころか、見向きもしなかった。

「ああ、彼女は我々の仲間です。彼女のお陰で私達は食べるものに困らず、大助かりですよ」

 代わりに勇作が答えたものの、その答えは少し的外れで、女性が知りたかったであろう部分には触れていない。

 女性も勇作がわざとその部分に触れなかった事は、きっと理解しただろう。だからこそ疑念が膨れ上がったに違いない。

「な、仲間って、でも、その大きな怪物をどうやって」

「さぁ? 私達は彼女がこの生き物を捕まえるところを見ていないからね。知らなくても、まぁ、問題はないさ」

「い、いや、でも」

「仮に知ったところで、どうするんだい? ちなみに我々が普段食べているものは、この恐ろしい怪物だ。というより他の食べ物はない」

 問い詰めてくる女性に、勇作はそう尋ね返す。

 女性は口を閉ざした。大人の男二人も何も言わない。子供達は大人の態度を見て不安そうな表情を浮かべるばかり。

 そしてこの避難所の住人達も、新入り達の意見に賛同しない。

 知ったところでどうするのか。どうする事も出来ないのだ。フィアが食糧を調達し、その食糧によって自分達は生きている。フィアの狩りがどんなに恐ろしかろうと、どんなに危なかろうと、フィアが持ってきた食べ物がなければこの避難所はたちまち飢えと渇きで滅びてしまう。

 フィアを追い出す、ましてや退治するなんて選択肢はない。それは遠回りな自殺でしかないのだから。

「勿論、彼女と一緒には居られないと思ったのならば出ていくと良い。私達は共存を強要しない。過去には出ていった人も僅かだがいる。あなた達を無理に仲間にしようとは思わないよ」

「……………それ、は……」

「まぁ、あまり深く考えなくて良い。ちょっと変なところはあるが、悪い子ではないからね。それに」

 未だ困惑し、恐怖心を見せる新入りの大人達に、勇作はあれを見ろとばかりに視線を逸らす。

 向けられた視線の先に立つのはフィアと――――そのフィアの周りを囲う四~十歳程度の子供達四人。

「フィアねーちゃん! あそんであそんで!」

「ねーねー遊んでよー!」

「あん? あなた方だけで勝手に遊べば良いでしょうが。私は花中さんと一緒に居たいのであなた達に構っている暇はありません」

「いいじゃんけちー!」

「分かった! この前神経衰弱で負けたから逃げてるんだ!」

「やーい! へったくそー!」

「へったくそー!」

「ああん? 人間の分際であまりこの私を嘗めるんじゃありません。良いでしょうあなた方最近ちょっと生意気だと思っていましたしここらでけちょんけちょんにして身の程を分からせてやりますよ」

「「「「わーい!」」」」

 口調は傲慢にして獰猛、されど子供の煽り文句であっさりと丸め込まれてしまうフィア。

 怪物を仕留めた存在のあまりの暢気ぶりに、新入り達は呆気に取られた様子。対する花中達住人は、フィアの姿を見てくすりと笑みを零す。敵意なんてこれっぽっちもありはしない。

 勇作は新入り達の方へと振り返る。とても穏やかで、敵意などない柔らかな微笑みだ。

「小さな子供という恐れ知らずで知恵も回る最強のモンスターに比べたら、彼女なんてずっと可愛らしいものだろう?」

 その微笑みと共に語られた言葉を否定する者は、誰一人としていなかった。

 ……………

 ………

 …

「むぐわああぁぁぁぁぁ! また負けましたああああああっ!」

 そして二時間後、フィアの苦悶の叫びが避難所に木霊する。

 その声を間近で聞いていた花中は、思わず笑みが零れた。ちらりと横目で見てみれば、フィアは剥き出しのグラウンドの上でのたうち回っている。さながら丘に上がったフナの如く。

「あはは。フィアちゃん、神経衰弱、弱いもんね」

「うぐぎぎぎぎぎ。確かに弱いですけどだからって何故あんな頭空っぽそうな生き物に負けるのか。なんかズルをしてるんじゃないですかアイツら」

 余程酷い負け方をしたからか、フィアは対戦相手である子供達のインチキを疑い始める。大人であればなんとも往生際の悪い姿であるが、フィアは人ではなく魚。往生際の悪さは生命の美徳だ。

 ……あと、フィアの直感はあながち間違いとも言えない。子供達はきっとトランプの傷やらなんやらを覚えているのだろう。何分学校も幼稚園も物理的に潰れ、付近が瓦礫だらけで危険な今、子供達の遊びは屋内系のものばかりである。何度も何度もトランプ ― ちなみにそのトランプは瓦礫の山から引っ張り出された『資材』の一つである ― をやった事で、未熟故にハイスペックな頭脳はそれらの特徴をしかと記憶したに違いない。大人でも勝ち目があるか怪しいところだ。

 勿論一番の原因はフィアが極度に忘れっぽくて、自分の捲ったトランプの柄すら三十秒と覚えていられない事なのだが。カードの裏に水を這わせ、絵柄による僅かな凹凸から種類を識別するという事もフィアなら出来るだろうが……恐らくそんな作戦は思い付いてもいないのだろう。

「あーあーもうあんなつまらない事はさっさと忘れるに限ります。花中さんの匂いでも堪能して気分を一新するとしましょう」

 負けてふて腐れたフィアは、何時ものように自分の思うがまま動く。ごろごろと地面の上を転がりながらフィアは花中の足下までやってきた。すっと立ち上がったフィアは特段断りもなく、花中に抱き付く。

 そして花中の髪に顔を埋め、すんすんと匂いを嗅いできた。

 フィア曰く、自分の匂いは落ち着く香りらしい――――以前フィアから直接そう伝えられた事がある花中だが、今はあまり匂いを嗅がれたくない。

 避難所生活でお風呂に入れず身体が汚くて、体臭を嗅がれるのが恥ずかしいから……ではない。フィアの能力により水は地面から幾らでも補給可能。瓦礫から燃料である廃材も取れるので、この避難場所の住人達は全員お湯で身体を洗う事が出来ていた。お陰でもう二週間野外生活を送っているにも拘わらず、花中達の身体は驚くほど清潔だ。そもそもフレンドリーな事が大好きな花中にとって、フィアに抱き付かれたり匂いを嗅がれるのはとても嬉しい事である。

 ただ、今は場所とタイミングが悪い。

「こらぁーそこの珍獣、大桐さんの邪魔をしなーい!」

 何故なら此処には青白い肉の塊を箸で皿に盛り付けている晴海が居て、

「そーだそーだ。もうすぐ夕飯で私のお腹はぺこぺこだ! ご飯が遅くなるのは看過出来んぞー!」

 晴海の背後で空のお皿を持つ加奈子が言うように、夕飯の時刻が近いのだから。

 此処は避難所の一角に設けられた、ちょっとした『公共施設』である。施設といっても穴だらけのシーツで作った簡易的な屋根と、その屋根を支える金属の柱が数本立っているだけ。幅は縦横四メートルほどで、中には瓦礫を積んで作った平らな台が三つあった。

 この台の上には、まな板やフライパンなどの調理器具が置かれている。他にも菜箸やお玉、そして包丁を置いておくための棚も置かれていた。

 そう、此処は調理場なのだ。尤もガスなんて高等なものは通っておらず、水道代わりにバケツの水があるだけという簡易的なもの。しかし簡易ではあっても調理器具があれば、食材を様々な形で出せるようになる。

 花中は此処で、避難所の食事作りを任されていた。晴海はその手伝いである。

 この避難所での食事は、ほぼ花中が一人で作っていた。避難所には花中を除いて五十七人の人々がいて、花中以外にも料理の出来る人……例えば晴海や加奈子の母親など……は少なくない。けれども白饅頭という恐ろしい怪物に、包丁を突き立て、皮を削ぎ、串を刺せるような胆力の持ち主は花中だけだった。いや、花中の胆力などそこらの小学生にも劣るが、白饅頭を食べたという他にはない経験がある。味だって知り尽くしているし、何処をどう調理すべきかもちょっとは分かる。そうした経験から花中は誰よりも上手く白饅頭を調理出来、その結果台所を任されたのだ。

 とはいえ料理というものは中々の重労働。纏めて作れば一人分当たりの効率は良くなるものの、労力そのものはちゃんと増えていく。これまで五十八人、そして今日から六十八人分の料理を一日三回こしえるのは、かなりの重労働といえよう。

 自分より『身体』の大きなフィアに抱き付かれれば、少なからず動きが鈍る。仕事の効率を悪くするという点に関しては、フィアの行いは親友である花中でもフォロー出来ない部分だった。晴海と加奈子がフィアを何処かに追い払いたいと思うのは、料理を食べる側からすれば当然の意見である。

 尤も、それで拗ねたり睨んだりすればまだ可愛い方で。

「すんすん……あー癒やされますねぇ」

「おいこら無視すんな! あと加奈子アンタも怠けてないで手伝いなさい!」

「ふふふ。良いのかい? 我が家でイグナウスと呼ばれたこの私を台所に立たせて。台所が恐ろしい事になるぜ?」

「大桐さん、イグナウスってどんな意味?」

「えっと、ラテン語で怠け者ですね」

「あ、晴ちゃんズルい! 大桐さんを頼るのは反則だよ!」

「てきとーな事言ってサボろうとした癖に文句垂れるんじゃないわよこの怠け者!」

 小難しい言い訳も無駄となり、加奈子は晴海のゲンコツを脳天に受ける。手にしたお皿を落とさないのは、加奈子なりの意地だろうか。

「いだだだ……うう、仕方ない。大桐さん、何を手伝えば良い? 出来れば摘まみ食い出来るやつが良いんだけど」

「うーん、そうですねぇ。じゃあ、そこのバケツに入れてある、骨とか皮を、生ゴミの捨て場所まで、運んでください。その部分に付いているお肉なら、幾ら摘まんでも良いですよ」

「……大桐さん、ナチュラルにエグくない?」

「アンタの扱い方としてはまだ甘いぐらいでしょ。ほら、働かざる者食うべからずよー」

「へぇーい」

 晴海の言葉に後押しされて、加奈子は渋々といった様子でバケツを持つ。しかしながら運ぶ足取りは軽やかだ。本心から嫌がってはいない。

 あーだこーだと言ってサボろうとしたり、悪ふざけをしたりするが、加奈子は割と『良い子』だと花中は思う。晴海もそう思うから、仲良くしているのだろう。

「ちなみにフィアは手伝わないの? 大桐さん、喜ぶわよ?」

「ふふんこの私ならゴミ捨てをするのにわざわざ動く必要もありません。触手を伸ばせばぜーんぶ済みますから」

「あっ、そう」

 ちなみに晴海はフィアを同じ手で花中から引き離そうとしたが、超越的能力を使えるフィアには通じなかった。晴海の意図に全く気付いていないフィアの自慢げな表情に、晴海は顔を顰める。

 そんな晴海への当て付け、という訳ではないだろうが。

「いやぁ力を隠さなくて済むのは楽で良いですねぇ。今まで歩いていかないといけなかった事を花中さんに抱き付いたままぜーんぶ済ませられますから」

 フィアはとても上機嫌に、己の素直な感想を述べた。

 今回の晴海の作戦は失敗したが、しかし少し前までなら上手くいっただろう。今まで花中はフィアに、その力を人にあまり見せてはならないと頼んでいたからだ。ちゃんと隠せていたかは甚だ怪しいが、フィアなりには隠そうとしてくれていた。もしも先月同じ事を頼めば、ゴミ捨て場まで水触手を伸ばすなんて真似はしなかっただろう。

 そうした花中の禁止令は今、解除されている。

 白饅頭さえも捕まえてくる圧倒的パワー、地面から水を吸い上げる能力……どちらも今の花中達の生活には必要不可欠なものだ。隠しながら使ってもらうような余裕はない。それにこそこそと用意した事で、「奴等は食べ物が豊富な場所を隠している」等という不信を持たれたら色々と厄介だ。疑心暗鬼が高まれば、下手をしたら内乱になりかねない。

 そのためフィアの力は隠さず、彼女の力により『恩恵』が受けられると花中は堂々と主張する事にした。この力は自分達にとってメリットであると訴えれば、大抵の人はフィアの力を受け入れてくれた。みんなそれだけ将来が不安で、余裕がなかったのだ。勿論中にはフィアを化け物呼ばわりして避難所から去った人もいる。花中は彼等の顔を一生忘れないだろう。全て覚悟した上での決定だ。

 なんにせよ情報を明かした事で、避難所の秩序を守る事には成功した。『切り捨てた』人達には申し訳ないが……これも生きるための決断。後悔するような余裕は、今はまだない。

「……まぁ、良いか。アンタのお陰で食べ物にも水にも困らないし、ご褒美が大桐さんの匂いだけで良いなら安上がりよね」

「ふふーんそうでしょうそうでしょう。もっと私を讃えなさい」

「あ、今の讃えてると思うのね」

「? 違うのですか?」

「違わないし、アンタがそう思うならそれで良いんじゃない。多分その方が色々幸せになれるだろうし」

「そうですか」

 晴海の『人間的』な皮肉もフィアには通じず。相手がどう考えてるかなどどうでも良い、あくまで自分本位な考えであるフィアらしい物言いに花中は笑みが零れた。

 実際、自分達はフィアのお陰で生き長らえているようなものだ。泥落山には白饅頭以外の野生動物や植物が数多く生息し、それらを食材として利用する事は可能だろう。しかし避難所から泥落山までの距離は遠く、徒歩では往復するだけで一日が終わる。それに動き回る動物を狩ったり、判別の難しい植物を採取するにはそれなりの技術や知識が必要だ。人間だけの力では、全員分の食糧を賄うのは難しい。加えてフィア達が適度に狩らなければ、昨年の時のように白饅頭が大発生し、生き延びた人間はたちまち食い尽くされてしまうだろう。

 逆にフィア達が助けてくれているお陰で、食べ物にも水にも困っていない。今はまだ経験していないが、暴徒や野生動物、更には怪物の襲撃さえも、フィア達の強さを考えれば恐れる必要のないものだ。

 勿論楽な生活ではないが、希望は十分に抱ける日々。フィア達と共にこのままゆっくりとでも前に向かって進んでいけば、また人は豊かな社会を取り戻せるだろう……そんな気持ちを抱ける。だからこそこの避難所で暮らしている人々は皆自棄にならず、落ち着いて動けるのだ。

 なら、

 その希望がと知ってしまったなら――――

「あら、お料理中? 今はお邪魔しない方が良いかしら?」

 ふと思考が逸れていた、そんな花中に声が掛けられた。身体は反射的に声が聞こえてきた方へと振り返る。

 何時の間に来ていたのか、『調理場』の入口付近に黒髪の美女……ミリオンが立っていた。ミリオンはにこりと微笑みながら、花中に向けて手を振る。

 如何にもちょっとした買い物から帰ってきたかのような、気軽な現れ方。しかしながら花中はそんな軽い気持ちにはなれない。

 何故ならミリオンとは、かれこれ一週間ぶりの再会なのだから。

「ミリオン!? 何時の間に帰ってきたの!?」

「ついさっきよ、立花ちゃん。それにしても一週間でまた人が増えてたわねぇ。はい、これお土産の野菜。養殖物よー」

 久しぶりに見た顔に、晴海は箸を置くと駆け足で近寄る。ミリオンは笑顔で受け答えた後、何処からか取り出した菜っ葉を晴海に渡した。晴海が両腕で受け取らねばならないほどの大盛りだ。

「うひゃあ! 野菜!? こんなの今じゃ稀少品よ!」

「山奥の村とかじゃ普通に食べられていて、肉の方が遙かに稀少なんだけどね。まぁ、喜んでもらえて何より」

 此処らでは手に入らない野菜を前にして晴海は大喜び。花中も野菜の姿を見て思わず生唾が出てきた。肉も嫌いではないが、肉単品の食事には流石に飽きが来ているのだ。多くの人々が食うにも困っているこのご時世に贅沢な悩み、いや、ワガママなのは重々承知しているが、欲望というのは底がないのである。

 本能のまま歩み寄ろうとした花中の身体は、しかしミリオンとの距離を詰める事は叶わなかった。何故なら背後から抱き締めているフィアが、花中を離さなかったからである。

「ああん? 邪魔に決まってるじゃないですか。さっさと何処かに行きなさいしっしっ」

 一週間ぶりに再会したミリオンに、フィアは露骨に顔を顰めながら拒絶の意を示す。なんとも無礼な対応だが、ミリオン相手になら何時もの反応。かれこれ二年半これを見ている花中にとっては、すっかりお馴染みのやり取りである。

 とはいえフィアは殴り掛かってでも追い払おうとはしないし、花中とミリオンが話し始めれば邪魔もしない。自分の気持ちは隠さないが、他人のしたい事を押し潰そうともしない……それがフィアの良いところだと花中は思う。

「さかなちゃんも相変わらずねぇ……さてと」

 今更驚きも何もないやり取りを終えたミリオンは、ちらりと視線を花中に向けてくる。口は笑みの形で閉じられ、何も語らない。

 それもその筈。ミリオンは既に用件を話していた。「今はお邪魔しない方が良いかしら」と。

 話があるという事だ。そしてその話の内容を花中はある程度知っている。

 ミリオンに一週間の旅をお願いしたのは、花中自身なのだから。

「えっと……」

 無意識に、花中の視線は晴海の方へと向いていた。慌てて元に戻す、が、聡い晴海は花中の視線の意図を直ちに察したらしい。

「あ、大桐さん。このお皿もうお肉盛り終わったけど、食堂に持っていって大丈夫?」

 花中が答えを出すよりも前に、白饅頭の肉が盛られた皿を指差した。

 何時かは持っていく必要があるもの。まだまだ肉を盛ろうと思えば盛れるが……晴海の心遣いだ。無下にするのも悪い。

「そうですね、大丈夫です……すみません」

「そこはお礼でしょー。んじゃ、のーびり持っていくわね。あと野菜についても岡田さんに話さないと。みんなで公平に分け合わないとねー」

 まるで何も気付いてないと言いたげな答えを返しつつ、晴海は両腕に抱えた野菜を調理場の隅に置かれた『食材置き場』こと大きな籠に入れ、次いで肉の盛られた皿を手に取る。軽やかに皿を持ち上げると花中に向けてウインクをし、晴海は颯爽と調理場を出ていく。

 残されたのは花中とフィアとミリオン。花中はミリオンと向き合い、ミリオンも花中の真っ正面に陣取る。花中は段々と表情を強張らせ、ごくりと息を飲む。

 しかし緊張を高めていく花中に対し、ミリオンはリラックスしたままだ。まるで大した事を話すつもりなどないと言わんばかりに。

 その緩い雰囲気が、花中の緊張を解きほぐす。恐らく晴海や加奈子なら、すっかり気を許しているに違いない。そしてミリオンが語ろうとしている話に、あたかも暇潰しの話題を待つかのような軽い気持ちで耳を傾ける筈だ。

 だけど花中は最後まで気持ちを弛めなかった。

 何故なら花中はミリオンが話そうとしている内容をある程度予想していたから。そしてその予想が当たった時の事を考えて取り乱さなかったのは、その想像が現実になる時が来るとずっと前から思っていたから。心構えは一年以上前から出来ている。

 その上で、

「結論から言うと、世界中でミュータントが大発生しているわ。もう、かつての世界は戻らないわね」

 突き付けられた『事実』は、花中の心臓を大きく脈打つだけの力を有していたのだった。

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