語らない予兆2

 喜多湯船町。

 東北地方の山奥にある小さな町だ。三方を山に囲まれており、交通の便はお世辞にも良くない。土壌はアルカリ性が強く、作物の生育に適さないため農業もあまり発展していない。ないない尽くし、とまでは言わないが、満ちた部分よりも足りないところの方がずっと目立つ土地である。

 とはいえ本当になんの価値もなかった訳ではない。

 この町には温泉があった。非常に強いアルカリ性を有する温泉で、美肌効果がある……らしい。本当にそうかは科学的検証が行われた訳ではないので断言出来ないものの、ともあれそう謳われた効用に多くの女性が興味を持った。そうした温泉に惹かれた女性達をターゲットにしたエステサロンや健康食品販売店が建ち、水が良いという謳い文句で化粧品の工場を誘致。美容の町として大々的に売り出され、ゆっくりとだが発展を遂げていた。

 ……一年前までは。

「いやー見事なまでの廃墟っぷりですねぇ」

 駅から出たフィアが開口一番に発した言葉がこれ。

 傍でその言葉を聞いていた花中は、失礼だとは思いつつ、同意して頷いてしまう。少し乱れていたロングスカートと半袖のポロシャツを手で軽く整え、背負ったリュックサックの重みに負けて浮きそうになる足をしっかり大地に着けてから、フィアが見ているのと同じ景色を眺める。

 花中達が訪れた喜多湯船町は、すっかり廃れていた。

 恐らく一年前まではたくさんの人々で賑わっていたであろう駅前の商店は、どれもシャッターを閉めている。屋根の付いた立派なバス停が近くにあったが、並ぶ人の姿はない。いや、そもそも行き交う人の姿すら何処にも見られなかった。道には空き缶や紙くずなどのゴミが数多く転がり、観光地として重視すべき外観に手が行き届いていない事が窺い知れる。

 箱根や熱海ほどのネームバリューはないとしても、温泉好きにはそれなりに有名な町だったと聞く。その町が、たった一年で……

「話には聞いていたけど、怪物の影響ってほんと酷いのね。うちの町がまだマシな方ってのは、嘘じゃなかったと」

 考え込んでいる花中の隣に、語り掛けながらやってきたのは晴海だった。

 彼女の半袖半ズボンという格好は、昨年までの六月なら少々気の早いだろうが、気温が高い今年ならば最適なもの。背負う大きなリュックサックも、晴海の健康的な魅力を引き立てるアクセサリーのようだ。表情が少し暗いのが、勿体なく感じられる。

 やってきたのと同時に語られた晴海の言葉に、花中はどう反応すべきか迷ったがために口を閉じた。対して花中の傍に居るフィアは「そうみたいですねぇ」と気楽に答える。

 晴海が言うように、この町が廃れた要因は『怪物』だ。怪物による世界情勢、ひいては食糧価格などの高騰による娯楽文化への打撃……世界の観光地で起きている事が、この町にも起きている。つまり一般人が訪れなくなった事で、喜多湯船町は廃れたのだ。

 勿論人にはそれぞれの事情がある。生活が苦しいから娯楽に使うお金を節約するというのは、借金漬けになるまで豪遊するよりは『真っ当』な生き方だろう。そもそも日本国民が平均的に豊かである事を前提に、観光地としての発展を選んだのはこの町自身である。日本全体が貧困に喘げば衰退するのは必然。ある種の植物のみを食べている虫がその植物の衰退と共に滅ぶように、一つの産業に特化したが故の宿命と言えよう。

 だとしても、優しい晴海は何か想うところがあるのだろう。寂しげな、悲しげな、辛そうな……様々な感情の混ざり合った眼差しで、廃れた町を眺めている。

 花中も共に町を眺める。この町の衰退に拘わったのは、一般人である自分もだと思ったがために。

「どろっぷきぃーっく!」

「おぐぇっ!?」

 なお、その感傷に浸れたのはほんの数秒。数秒間哀愁を漂わせていた晴海の背中に駅から駆け寄ってきた者――――加奈子が、言葉通りドロップキックをお見舞いしたのだから。加奈子の着ている可愛らしいワンピースは跳び蹴りの勢いで捲れ、意外と派手な下着が露わとなった。

 勿論加奈子なりに加減はしたのだろう。でなければ加奈子ほどの質量の不意打ちを受け、晴海が二本足で立っていられる筈もない。わざわざ手加減したドロップキックを受け、晴海はよろめきながらも前に数歩進むだけ。

「ぶぐぇっ!?」

 それよりも、着地に失敗して背中を打った加奈子の方がダメージは大きい筈である。花中や晴海と同じくリュックを背負っていなければ、大変な怪我をしていたかも知れない。なんの被害もなかった花中からすれば、正直「あぁ、この人は相変わらずバカだなぁ」と思える姿だった。

 尤も、だから晴海の怒りが収まる訳でもなく。

「……かぁーなぁーこぉぉぉぉぉー……!」

「あ、ま、待って……痛い、背中打って……あたたた……」

「そんな危ない事したら痛くて当たり前よ! 馬鹿じゃないの!? というか馬鹿よねこの馬鹿っ!」

 哀愁漂う空気は何処へやら。なんとも間の抜けた雰囲気が場を満たしていく。

 もう、悲しさも辛さもない。

 そうだ。自分達は此処に、温泉を楽しむために来たのである。決して、滅びゆく温泉街に同情しに来たのではない。

 加奈子は、それを思い出させてくれた。

「……やっぱり、小田さんは、凄いなぁ」

「そうですか? ただアホなだけだと思いますが」

「ちょ、フィアちゃんそれは酷、あだだだだだだだだ!? 足!? 足折れる!?」

「折ろうとしてるのよ」

「怖いんですけどぉあだだだだだ!?」

 晴海に足四の字固めをやられ、路上で悶絶する加奈子に花中の褒め言葉は届かない。賑やかで、元気な叫びが辺りに木霊する。手足をばたつかせて暴れる加奈子だが、晴海はガッチリと技を掛け続けていた。どうやら逃がす気はないらしい。

「ミィちゃん来たわよー……何やってんの、アンタ達」

「やっほー。楽しそうな事してるねー」

 二人がわいわいと盛り上がる中、電車に乗れないので走ってやってきたミィと、そのミィを待っていたミリオンが合流する。二匹の暢気で呆れ果てた感想に、花中はようやくこれが『恥ずかしい』状況だと気付く。

 でも、花中達以外の人の姿は今も相変わらずない。人がいないという事は、誰も晴海と加奈子のやり取りを見ていない。

 見ている他人がいないのだから、『恥ずかしい』事は何もない訳で。

「え。ちょ、大桐さんその優しい笑みは何!? 笑ってないで助けて! 助け、ほげえええええええええっ!?」

 じゃあしばらくこのままでも良いかなと思い、花中はしばし、晴海と加奈子の賑やかなじゃれつきを生暖かく見守る事にしたのだった。

 ……………

 ………

 …

 駅前の商店街を抜け、自然豊かな町並みを通り、山へと向かう。

 家は段々と閑散となり、代わりに大きな木々が目立つようになる。更に進めばいよいよ道路と標識以外に人工物は見られなくなり、豊かな自然が周りを埋め尽くすようになった。六月なのに真夏並の高温に見舞われ、動植物も混乱しているのだろう。セミの声が至るところから聞こえ、生い茂る草木は八月頃のように色が濃い。

 そうした異常はあれど、緑に囲まれると健やかな気分になる。花中は友達とお喋りをしながら森の中を歩く。フィアが人間達の身体に水を絡ませ、体温調節をしてくれているので熱中症の心配もない。のんびりと、バスなら十分ほどで済む道のりを一時間掛けて歩いた。

「おっ、見えてきたよー」

 長くはあったが楽しかったのですぐに渡りきったように感じる道の先で、加奈子が前を指差しながらそう訴える。

 加奈子の指が示す方角を見れば、そこには小さな建物があった。小さいといっても民家と比べれば何倍も大きいが……『旅館』として見れば、こじんまりとした印象の木造家屋だ。木は独特な色合いをしており、建てられてから過ぎた歳月の長さを物語る。耳を傾けてみたが、人の声や物音は聞こえてこない。人の姿も見られない。

 なんとなく、寂しい場所に思える。けれどもそれは仕方ない事なのだろう。

 加奈子の話が正しければあの建物……加奈子の叔父が経営する旅館は、もうすぐ畳まれるのだから。従業員も殆ど解雇されたとなれば、声が聞こえてこないのも頷ける。

「あれが加奈子のおじさんのやってる旅館? 随分辺鄙へんぴなところに建ってるね」

「うん。豊かな自然を堪能出来るってのが売りだったみたい。まぁ、今じゃ自然を売りにしても人なんか集まらないどころか、下手すると炎上だけどねー」

「ああ、確かに最近そういう人多いわよねぇ。SNSでもチラホラ見掛けるし、学術系のニュースサイトにも出没してちょっと鬱陶しいのよね」

 ミィ ― ちなみに彼女は今、猫の姿でフィアの頭の上で丸くなっている ― からの問いに、加奈子はニコニコと微笑みながら答える。その話を加奈子の横で聞いていたミリオンが納得し、思い出したかのように語りながら呆れた表情を浮かべた。

 加奈子やミリオンが言うように、かつて『共存』ないし『管理』対象であった自然は、今や怪物というコントロールも共存も出来ない存在を育んできた環境として人々に認識されている。その結果自然とは人類が一致団結して打倒すべきものであり、甘えた対応は許されない……そんな認識が広く世間に受け入れられるようになっていた。

 そして中には、自然との共存を語る奴等は敵側だという些か過激な思想の持ち主も、少数ながら存在する。

 彼等或いは彼女等は、自然保護を求める団体や個人などへの抗議や『攻撃』を行う。ここ最近でも、怪物を生み出す森を守っていたという言い掛かり理由で、山林の所有者が脅迫・暴行されたという事件も起きている。幸いその暴行犯達は逮捕されたが、ネットのニュース記事では犯罪者達を讃え、釈放を求めるコメントがちらほらと見られた。そして賞賛の声は日に日に増加しているように見える……つまりそうした考えが、少しずつだが世間に受け入れられつつあるという事だ。 

 正直、ミュータントや怪物という『大自然の脅威』と遭遇した身である花中からすれば、彼等と真っ向から対立しようとする思想はどうしようもないほどと思うし、多様性様々な意見の封殺は存亡の危機にある人類にとってマイナスにしか働かないと考えるのだが……ともあれ、人々の自然への憎悪は確実に増していた。自然との触れ合いなんて口にすれば、非難され、社会的に抹殺される――――そんな考えが、今や被害妄想でも絵空事でもない。

 加奈子の叔父が旅館経営を止める事になった理由の一つは、このような人々の出現もあるのかも知れないと花中は思った。

「はい、とうちゃーく」

 考えているうちに、花中達は旅館のすぐ前までやってきていた。我に返った花中はぷるぷると顔を軽く横に振り、前を見据える。

「おーい、おじさーん。遊びに来たぞーい」

 加奈子は旅館の玄関戸 ― 大きな曇りガラスの張られた扉だ ― を叩きながら、中に居るであろう人物を呼ぶ。

 加奈子が叩いていたのは勿論木で出来た枠の部分だが、扉の揺れと共にガラスも揺れ、インターホンの代理でもするかのようにガシャンガシャンと音が鳴る。中に居る人に、加奈子の存在は十分にアピール出来た筈だ。

 待つ事数十秒。旅館の中から、ガタガタと音が聞こえてくる。

「はい、いらっしゃい。待ってたよ」

 扉を開けて出てきたのは、中年の女性だった。花中の三倍はあろうかというほど恰幅が良く、朗らかな笑顔は見ているだけでこちらの心を和ませてくれる。着ている和服がパツパツなのは、ご愛敬といったところか。

 十中八九、彼女がこの旅館の女将さんだろう。

「あ、早紀おばさんこんにちはー。いさむおじちゃんは?」

「山に行ってるよ。加奈子ちゃん達に美味い山菜料理食わせるんだーって、意気込んじゃってね」

 現れた女性……早紀という名前のようだ……の説明に、「えぇー」と加奈子は呆れたような声を出す。

 どうやら加奈子の叔父、勇という名前の男性は外出しているらしい。山菜を採りにいったという事は、新鮮な山菜料理がこの旅館の売りなのだろうか。

 時間が経つとタンパク質の分解により旨味成分が増す魚や肉類と違い、植物性の食品は新鮮なものほど美味い。「果物は早めにとって熟成させるじゃないか」という意見も出そうだが、あれは農地から店に届くまでの時間を計算し、店頭に並んだ時完熟一歩手前になるよう調整した結果である。木に生らしたまま熟したものを、その場で食べるのが一番美味だ。

 山菜もまた鮮度が命。採りたてほやほやのもので作られた料理は、さぞ美味しいに違いない。自分がこれから味わえるものを想像し、僅かながら生唾が出たのを花中は自覚した。

「勇おじさんの山菜、時々変なの混じってるから不安なんだけど」

 尤も、その生唾はすぐに引っ込んだが。

「んー、大丈夫じゃない? 死人は出た事ないし」

「病院送りは三回ぐらいあったと思うけど」

「あら、そんなものだった? 加奈子ちゃんが二歳ぐらいの時にも、やらかしてたと思うんだけど」

「ちょっと待って、私その話知らないんだけど?」

 早紀との間に交わされる、不穏以外の何ものでもない会話。花中は自然と晴海と目を合わせ、晴海も無意識といった様子で花中の方を見遣る。晴海の顔は不安がありありと出ていて、きっと自分もこんな顔をしているのだろうと花中は思った。

「……念のために訊くけど、その山菜料理本当に食べて平気なの?」

 そして花中の生存が優先事項であるミリオンが、眉間に皺を寄せながら疑念をぶつける。

 ぶつけられた加奈子は「うーん」と悩むような素振りを見せた。花中的にはこの時点で色々とアウトのような気がするのだが、しかしもしかすると誤解が生じぬよう言葉を選んでいるだけなのかも知れない。

 息を飲みつつ待つ事十数秒。決して長くはない、けれども待つ側としては焦れったい沈黙を挟み……加奈子はニコッと微笑んだ。

「大丈夫! 何回病院送りになろうとも食べたくなるぐらいには美味しいから! 私が保証するよ!」

 そして笑顔と共に告げられる、何も安心出来ない答え。

 花中も晴海もミリオンも、その口許をぴくぴくと引き攣らせるのであった。




「……美味しいわね」

「……はい。凄く美味しいです」

 並んで座りながらぽつりと漏らした晴海の言葉に、花中もまたぽつりと漏らすように同意する。

 花中達が居るのは畳の敷かれた大部屋。何十もの人々が入ろうとも窮屈さを感じずに食事が出来るほど、とても広々とした一室だ。部屋の隅にはカラオケのための機材が置かれ、一昔前の旅館らしさを感じられる。畳や壁には小さな傷が見られるが、不快さを覚えるほどではなく、むしろ実家にいるような程良い親近感を抱かせるもの。実に落ち着きある雰囲気で、旅行でありがちな、慣れない場所に対する『疲れ』を感じさせなかった。

 本来なら此処は、例えば社員旅行などの団体客を迎え入れるための場所なのだろう。今日までにたくさんの人々が集い、料理に舌鼓を打ちながらわいわい楽しく過ごしてきたに違いない。目を瞑れば、その景色が浮かんでくるようだ。

 けれども今は、花中達人間三人と人外三体しかいない。

 そしてもう二度と、此処が大勢の人で賑わう事もないのだ。

「ありがとうございます。朝早く山に入った甲斐がありました」

 花中達が漏らした言葉を聞き、室内に居た中年の男が笑みを浮かべる。女将さん以上に恰幅の良い大柄な男だが、にこにことした表情は子供のように無邪気で、男性が苦手な花中でもあまり怖いと思わせない。

 彼こそがこの旅館の主であり、そして加奈子の叔父であるいさむだ。

 花中達は今この旅館で一番の大部屋にて、彼が旅館の裏山から採ってきた山菜を材料にして作った、夕飯を食べている最中だ。素揚げやお浸し、炒め物や漬け物などシンプルな料理が多いが、だからこそ素材の味が強く出ている。そしてその素材は姫竹やワラビ、謎のキノコに謎の草に謎の茎……正体不明の代物が半数以上占めていたが、どれもとても美味であった。こんな美味しいものを食べてしまったらスーパーで売ってる野菜なんて食べられないと、冗談抜きに思える。

 強いて不満を述べるなら、分類不明な謎植物と謎菌類は本当に食べて大丈夫なのか著しく不安な点だが……花中達には物質のエキスパートことミリオンが傍にいる。彼女の簡易的な検査により、料理に猛毒が含まれていない事は確認済み。微妙な毒はあるかも知れないが、人間は多種多様な食物を摂取出来るキング・オブ・ザ・雑食生物なのだ。多少の有毒物質はなんのその。万一お腹を壊しても、微細粒子であるミリオンならば血液ごとクリーンに浄化する事も可能である。

 恐れるものは何もなし。存分に山の味覚を堪能し、花中は幸せを満喫していた。

「ふっふーん、どうだ美味いだろー。勇おじちゃんの料理、味に関しては本当に最高だからね!」

「何故あなたが自慢げなのです? まぁ思いの外美味しいというのは分かりますが」

 花中と晴海が料理を気に入った事に、勇の親戚である加奈子が胸を張る。花中の隣に座るフィアは、パクパクと出された料理を口にしていた。人間とは味覚が異なるフィアだが、未知の食材は彼女の舌にも合ったらしい。

「うにゃーうにゃー」

「ええい野良猫め私の額を爪でガリガリ引っ掻くんじゃありません。ほれ」

「うにゃうー」

 ついでにミィも気に入ったようで、時折フィアが指で摘まんだものを受け取り、食べていた。猫が食べて良いものかは分からないが、どんな毒だろうと大質量で薄め、更には熱で分解してしまえる彼女ならば大丈夫だろう。それにこんなにも美味しいものを『かも知れない』で取り上げるのは、花中としては気が引けた。

 唯一ミリオンからは味の感想がないものの、彼女にはそもそも味覚がないのだから当然である。それでもどことなく楽しげに食べていく様を見るに、料理の彩りは気に入っているのだろう。出された素揚げや漬け物は決して派手な品ではないが……その素朴な風体は、食べる側に穏やかな気持ちを呼び起こすのだから。

 人間だけでなく、人外すらも魅了する料理。加奈子が言っていた「何度病院送りになっても食べたくなる」という言葉は、成程的を射た例えだと花中は得心がいく。後でちょっとお腹が痛くなるぐらい、対価としては安いものだと本気で思えた。出来る事なら何時かまた此処に来て、この山菜料理をもう一度味わいたいものだ。

 実に、惜しい話である。

「……本当に、辞めてしまうのですか?」

 花中は無意識に、勇に尋ねていた。

 無神経な問いだったかと後になって後悔するが、勇は不快そうな反応は見せない。ただ少し、寂しそうに笑うだけだった。

「ええ。道楽として続ける事も出来たかも知れませんが、最近は自然との触れ合いを売りにするだけで嫌がらせや抗議がありまして。お客さんがいるならそれでも続けてもいくつもりでしたが、来ない上に嫌がらせを受けるとなると流石に……」

「……そう、ですか」

「それに町もすっかり廃れてしまいましてね。若い連中は仕事や食べ物を求めて出てしまい、この町に居るのはもう私らのような老人ばかり。料理には何時も地元の味噌を使っていたのですが、その店の若旦那も家族を養うため農村に移り住んでしまいましたよ。あの味が出せないとなると、お客様に料理を出すのも申し訳なくて」

 如何にも他愛ない事のように語る勇だが、その言葉の重みは花中にも分かる。住人の流出が問題となっているのは、この町だけではない。日本中、世界中の自治体で起きている話だ。故にニュースでもよく取り上げられ、困窮を訴える人々の姿を花中は頻繁にテレビで目にしていた。

 人が居なくなるというのは、町が寂しくなるというだけの話ではない。例えばこの旅館を運営するにしても、食材を搬入する作業員、消耗品の販売を行う業者、水道やガスなどのライフラインの整備士、老朽化した建物や家具を修繕する技術者……ざっと思い付くだけでもこれだけ大勢の人々が必要な筈だ。細かなところを挙げれば切りがない。

 勿論交通網が発達した現代において、必ずしも町に全ての業種が揃っている必要はない。しかし近場になければ呼んだり買いに行ったりするだけで一苦労となり、納品までの時間が長くなるため急な対応は出来ず、コストも増える。そして万一交通網自体が怪物により破壊されようものなら……

 例え気持ちの上では利益度外視で続けたくとも、例え悪意に屈しない強い心を持とうとも、物理的に仕事が出来ない状態になろうとしている。無理に続けたところで、客に提供出来るのはろくでもないサービスだけ。心から旅館の仕事に誇りがあるからこそ、こんな状態の宿に客を泊まらせる訳にはいかないと勇は思ったのだろう。

 苦渋の決断だったに違いない。

「……大変、なのですね」

「いやいや、まだうちはマシな方ですよ。幸いにして食べるだけなら、裏山の山菜でなんとかなりますからね。怪物騒ぎのほとぼりが冷めて、みんなが冷静になった頃、また一からやりますよ。その時は加奈子と一緒に来てくださいね」

 にっこりと笑いかけてくる勇に、花中は上手く笑みを返せない。この旅館が再開する時が来るとは、どうしても思えないがために。

「……ささ、こんな話なんてしても楽しくないでしょう! 旅行は楽しく、心身を癒やすためにするものですよ。それに料理が冷めてしまっては、それこそ勿体ない」

 暗くなってしまった雰囲気を変えようとしてか、勇は朗らかに笑いながら食事を促した。花中はこくんと頷き、残った料理を口に運ぶ。

 本当に、とても美味しいと思った。

「ほらー、大桐さんも暗い顔してないでガツガツ食べなってー」

「ぴゃっ!?」

 その味に、少し感傷に浸り過ぎたのだろうか。加奈子が寄り付き、抱き付いてきた。驚いた花中は思わず座った姿勢のまま跳ね、加奈子の方を見遣る。加奈子は満面の笑みを浮かべながら、花中の肩に腕を回してきた。

「こら加奈子。はしたない真似しないの」

「えー、スキンシップなのに」

「アンタ親しき仲にも礼儀ありってことわざを知らないの?」

 ふざける加奈子を晴海が窘めるが、加奈子はまるで堪えていない様子。とはいえ絡まれている花中としては、こうした触れ合いは大好きなので、続けてもらって構わない。

 むしろ今は、普段より一際嬉しいぐらいだ。

 傍目にも分かるぐらい暗かったから、励まそう、楽しませようとしてくれているのだろうと花中は加奈子の意図を汲んだ。加奈子は普段何も考えず好き勝手しているようで、常に周りを見て誰かが孤立しないよう気を配ってくれる。彼女はみんなが楽しむ事を大切にしているのだ。そして何時も『些細』な事で暗くなってしまう花中は、加奈子の元気さと楽しさを何時も分けてもらっている。

 そうだ、折角の旅行なのだから楽しまねば勿体ない。最高に楽しい状態で料理を堪能し、最高の思い出にするのだ。最後のお客さんが悲しい顔で帰るなんて、きっと勇も望んでいないのだから。

 丁度良い事に、最後まで残っている料理は出された中で一番美味しかったもの。

 濃厚な旨味を持った、キノコの素揚げだ。素材が正体不明の『謎キノコ』なので最初は躊躇ったが、その味を知った今ではもう何個でも食べられる。楽しみに取っておいたそれをいよいよ口にする時だと、花中は胸を躍らせながら箸を皿へと出して

 箸が空振りした。

「……ふにゅ?」

 無意識に、変な声が出る。

 パチンパチンと、指を動かす度に箸同士のぶつかる音がした。何故ならそこにはなんの食材もないから。キッチンペーパーだけ敷かれた皿が、そこにはあった。

「ん? おおひりはんほーひはの?」

 そして隣には、もっちゃもっちゃと贅沢な咀嚼をしている加奈子が居る。

 花中は、加奈子の顔を見た。花中以外にも晴海やミリオンも加奈子の顔を見ていたが、加奈子は気にも留めずもちゃもちゃもちゃもちゃ口の中身を噛み、やがてごくりと飲む。

 次いで「げふー」と出てきたゲップには、ゲップなのに食欲をそそる濃厚な旨味が感じ取れた。

「いやー、私このお皿にあったキノコ大好きなんだよねー。オススメだよー」

 そして何一つ悪びれる事なく、花中の箸が向いている空のお皿を指差す。

 くるりと、花中は晴海を見る。晴海は首を横に振り、空になった自分のお皿を指差した。

 花中はミリオンも見た。ミリオンは花中から視線を逸らし、フィアとその頭の上に居るミィがもぐもぐ口を動かしている姿を見遣る。

 成程、全員あのキノコは食べ終えてしまったらしい。確かにとても美味しかったから、自分に出された分を全部食べてしまうというのは当然の事だ。

 納得した花中は、最後に勇を見た。

「……すみません。そのキノコはそこそこ珍しく、今出したものが全てなんです」

 勇は笑顔を引き攣らせながら、本当の事を話してくれる。

 ――――前言撤回。やっぱり小田さん、なーんも考えちゃいない。

 その結論に至って間もなく、花中の割と切れやすい堪忍袋の緒がぷつんと音を立てた。

「お、お、小田さんの、バカぁーっ!」

「あはははは。めんごめんごー」

 沸き上がる怒りのままに加奈子の頭を叩く花中だったが、小学生より非力な腕力ではふざけた返事を引き出すので精いっぱい。それが悔しくて何度も何度も叩くが、ポコポコとへこたれた音がなるだけ。

 あまりに情けない連続パンチに、フィアが微笑み、ミィが吹き出し、ミリオンがくすくすと笑い、晴海が口を押さえるも笑いが漏れ出し、勇は顔を逸らして震え、加奈子がわははと大笑い。

 旅館の大部屋に、しばらくぶりにたくさんの笑い声が満ちるのであった。

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