輪廻拒絶6

 なんでこんな事になっているのだろうか。

 加奈子は軽自動車の中で自問し、されど答えは出てこなかった。

 軽自動車は浩一が運転している。この車は浩一のもので、彼は運転にも慣れていた。助手席には正夫が座り、加奈子は田沼と共に後部座席に座っている。シートベルトは着用していない……過去の光景がフラッシュバックして、加奈子には着けられない。事故を起こした際、何時までも脱出出来ず生きたまま内臓を吸われるぐらいなら、窓ガラスを突き破って即死した方がマシに思えた。

 加奈子達は、避難所だった公民館から無事に脱出した。浩一が車で来ていたお陰で ― 一般の人達は徒歩で来るように通達されていたが、浩一達猟師や警察官は車で来る事が許されていた ― 加奈子達はそれに乗り込み、素早く離れる事が出来たのである。

 そして浩一達の親である土方は、生き残った市民達の避難を助けるため車には乗らなかった。

 或いはその行為は、自分の子供達を守るためのものだったかも知れない。イノシシに襲われ、吸い尽くされるまでの一秒未満の刹那……その刹那の時間を稼ぐ事で、何かが変わるかも知れないと信じて。

 浩一達は何も言わない。田沼も何も語らない。

 沈黙が、車内を満たす。車窓を見ても、車が走る住宅地は街灯以外の明かりがなく真っ暗だ。まだ時刻は夜の八時かそこらなのに。住人は皆避難のか、イノシシを恐れて息を潜めているのか……

「……これから、どうしたら、良いのかな」

 静けさに耐えきれず加奈子はぽつりと呟いたが、誰も答えを返さない。返せるとは、加奈子自身これっぽっちも思っていなかったが。

 銃弾で脳みそを掻き回されても平然としている怪物。あくまで加奈子が抱いた印象の話であるが、恐らくあのイノシシは生きていない。生きていないから、殺してものだ。既に死んでいるものを、どうやって殺せば良い? 挙句殺せば殺すほど強くなるなんて、滅茶苦茶にも程がある。

 倒せないなら共存するしかないが、されどあの化け物は人を喰う。それも半日にも満たない時間で、何十もの数を平らげる大食漢。単純計算ではあるが、一年も放置すれば、一万人以上が奴の腹の中だ。逃げるにしても、今のイノシシは時速百キロ以上で走り、車をもひっくり返すほどのパワーを持っている。誰も奴からは逃げきれない。

 勝てる訳がない。

「……警察や猟友会でも手に負えないんだ。恐らく、自衛隊が出てくる」

 加奈子が俯くと、田沼が前向きな言葉で語り掛けてくる。

「自衛隊は凄いぞ。戦車や戦闘機を持っているからな。あんなイノシシ、簡単にやっつけてくれるさ」

 加奈子を励まそうとしてか、田沼は我が事のように自衛隊を誇る。実際、自衛隊の武装は猟銃よりも強力なものが山ほどあるのだろう。自衛隊が持つ戦車や爆弾なら、イノシシを粉々に吹き飛ばす事も可能かも知れない。如何に『不死身』の化け物でも、跡形もなく消滅させれば蘇生は出来ない筈だ。

 けれども、もしも当たり所が悪かったなら?

 イノシシが攻撃を回避したり、射撃の腕が悪かったりして半端なダメージしか与えられなかったなら……イノシシは、更なる進化を遂げるのではないか。戦車砲や爆弾すら通用しない、正真正銘の『怪物』と化してしまうかも知れない。

 少し前までなら、戦車に耐える動物なんている訳がない、そんなものはアニメやゲームの中の敵だけだ……加奈子もそう断じただろう。例えフィア達の正体を知っていても、彼女達は極めて稀な例外なのだと思っていたから。

 しかし今の世界には、軍隊すら敵わない生き物がうようよしている。今更戦車で倒せないイノシシが現れたところで、一体何が不自然だと言うのか。それに人間が手を出したら事態が悪化した事例だって、いっぱいある……と加奈子は思う。そんな話をテレビだかネットだかで見た気がした。漫画でもよく見る展開だ。

 悪い予感ばかりが積み上がる。不安ばかりが膨れ上がる。ただの人間が幾ら集まったところで、あのイノシシに勝てるとは思えない。

 だとしたら、勝てるのは……

「……よし、此処らで一度休もう」

 考え込む加奈子の耳に、浩一の声が届く。気付けば車は止まり、駐車スペースに収まっていた。

 傍にあるのはごくごく普通の一軒家。

 まさか知らぬ人の敷地に車を止めた訳ではあるまい。恐らくは、浩一達の自宅なのだろう。

「すみません、自分達は一度家に戻ります。母に……色々説明する必要があるので」

「うちのおふくろなら大丈夫だろうが、少し宥めないといけないかも知れないからな。五月蝿くしててもそういう事だから、まぁ、ちょっと待っててくれ」

 浩一と正夫はそう言うと、車の外に出て、自分達の家へと帰る。

「……外を見張っていよう。大丈夫だと思うが、イノシシが来るかも知れないからな」

 田沼もそう言って、車から出て行った。

 一人残された加奈子は、小さく、深く息を吐き出す。

「……っ」

 次いで懐からスマホを取り出した。素早い手付きで操作し、起動するのは電話機能。

 コール音三回。普段より格段に早く、『彼女』は電話に出る。

【お、小田さん! 大丈夫ですかっ!?】

「おー。大桐さん、開口一番それとは流石だねぇ」

 電話越しからも慌てふためく様が想像出来る彼女――――花中の声に、加奈子は笑みを取り戻した。

「とりあえず、私は平気だよー。うん、私はね……」

【……そう、ですか】

「ねぇ、大桐さん。頼みがあるんだけど」

【……はい】

「人食いイノシシ、大桐さんの友達の誰かに退治してもらえないかな?」

 単刀直入に、加奈子は花中に頼む。

 加奈子は知っている。花中の友達が強大な力を持ち、恐ろしい怪物さえも倒してきたという事を。

 彼女達なら、人食いイノシシを跡形もなく吹き飛ばす事だって……

【……ちょっと、訊いてみます】

 花中はそう言うと、一度電話を耳から離したのだろう。ガタガタと走る音が聞こえ、やがて遠くで話す声がする。話し合いは、段々と……ただし一方だけが……ヒートアップしているように聞こえた。

 しばらくして、またガサガサという音がする。スマホが受け渡されたのだろうか。

【はい、もしもしー。ミリオンよー】

 予感は的中し、今度はミリオンが電話に出てきた。

「う、うん。加奈子だよー……えっと、それでなんだけど」

【面倒だから答えを先に言わせてもらうわ。No。お断りね】

 加奈子が訊こうとすると、ミリオンは至極面倒臭そうに、そしてなんの罪悪感もなくそう告げた。

 加奈子の心臓が、鼓動を早くする。脂汗が滲み、体温が一気に下がった気がした。

 乱れと感情を整えるために、加奈子は一度深呼吸。改めて、電話越しのミリオンに問う。

「理由を、訊いても良い?」

【理由は三つ。一つは人間がどれだけ死のうと私にはどうでも良いから】

「……………」

【二つ目は相手の実力が分からないから、不用意に動きたくない。私に助けを求めるって事は、人間では歯が立たなかったのよね? なら、そのイノシシがミュータントや危険な怪物という可能性は否定出来ない。イノシシ風情がこの私に敵うとは到底思えないけど、リスクは考慮しておくべきじゃないかしら?】

「……うん」

【ま、でもこの二つは些細なものね。私、小田ちゃんの事はそこそこ気に入ってるから、これだけならイノシシ退治に出向いても良かったわ。でも、残念ねぇ……】

 心底残念そうに、出来る事ならしてあげたいという気持ちを露わにするミリオン。

【今日はさかなちゃんが外出中で、私しかはなちゃんの傍にいないの。はなちゃんの安全を守れるのは私だけ。だから離れる訳にはいかないわ】

 しかし彼女は、自分の事情を明かす事に躊躇いなど見せなかった。

「な、なんでさ!? ミリきち、分裂出来るでしょ!? だったら一人ぐらいこっちに分けてくれても良いじゃん!」

【分裂って、細菌じゃないんだからしないわよ。私、一年ぐらい前に増殖能力失って、以来減る一方なの。まぁ、まだまだ数は用意出来るけど、昔ほどじゃない。だから分割すると、十分な戦力を確保出来ないかも知れないのよ】

「う、うぐ……」

【さかなちゃんがいれば、私が動いても構わないのだけれど。私、結構あの子の実力は評価してるから。見栄っ張りな割には勘も鋭いし】

 如何にも残念そうなミリオンの口振りに、加奈子は歯噛みする。

 さかなちゃん……フィアは今、アルゼンチンだ。虫の怪物を食べるために出掛けている。帰ってくるのは何時になるのやら。

「な、ならミィちゃんは!? あの子ならこの町に居るよね!?」

【さぁ? 私、猫ちゃんの寝床が何処か知らないのよね。昔気になって探してみたけど、全然見付からなくて。案外隣の県まで行ってるかも知れないわ。あの子の足ならそれこそ数秒の道のりでしょうし】

 反射的にもう一匹の名を挙げてみるが、これもまた呆気なく言い返される。おまけに町に居るかも怪しいという事実を告げられ、逆に動揺させられた。これではミィに頼るというのも夢物語である。

 人外の力にも頼れない。誰も人間を助けてくれない。

 なら、一体どうしたら……

【……最初に考慮すべきは、本当に人間の手に負える存在じゃないのか、という点じゃないかしら?】

 加奈子が悲観に暮れていると、電話越しのアドバイスがやってくる。無意識に俯かせていた顔を上げ、加奈子は顔を顰めた。

「どういう、事?」

【人間ってのは凄いのよ。大昔は石とか木の棒を振り回すだけの存在だったのに、今じゃ森を切り拓き、宇宙に旅立ち、気候すら変えてみせる。怪物達が大人しくしているほんのつかの間の支配者かも知れないけど、代行出来るぐらいの力はあるという事。考えてみたら、良い案浮かぶかも知れないわよ?】

「でも……」

【ま、諦めるならそれはそれで良いけどね。私にとってはどうでも良い事だし】

 躊躇う加奈子に、ミリオンは投げやりな言葉を返す。なんとも気持ちの入っていない言い方で、加奈子も思わず脱力してしまう。

 しかしながら、それまでに語った『アドバイス』は正しいように思える。

 相手の圧倒的な力を前にして諦めの感情を抱いたが、されどその諦めが正しいなんて誰が言ったのだろうか。誰も言っていない。ただそこに、こんな奴に勝てる訳がないという思い込みがあるだけ。万物の霊長としての自信を挫かれ、ふて腐れただけである。

 考えれば、何か案があるかも知れない。

 そうだ、人間が余計な事をするのがアニメなどのお約束だとしても――――そうして起きた出来事をなんとかしたのも、人間ではないか。

「そう、だよね。諦めるには、早いよね……ありがと、ミリきち!」

【どういたしまして。そうね、謝礼として……そのイノシシの詳しい話を聞かせてくれない?】

「うんっ!」

 ミリオンへの『謝礼』、そして町の人々の活路を見出すために、加奈子は自分が見聞きした情報をミリオンに伝えた。

 人食いイノシシと出会った時の事、食べられる人達とその食べられ方、圧倒的な身体能力、脳を撃ち抜かれても蘇る不死性……語りながら加奈子も情報を整理するが、考えれば考えるほど、イノシシの凶悪さに身体が震える。諦めない、と決意はしたが、果たして本当に勝ち目などあるのか? そんな想いも強くなる。

 一通り話し終えると、ミリオンはしばし沈黙していた。何かを考えているのかも知れない。加奈子は何も言わず、ミリオンが話し出すのを待つ。

 しばらくしてミリオンは、自発的に話し始めた。

【OK、大凡理解したわ。その程度なら大したものじゃないわね。心配して損したわ】

 勝利を確信した、頼もしい言葉を以てして。

「か、勝てそうなの!?」

【私達ミュータントからしたらね。まず身体能力が低過ぎる。銃弾を喰らって血を出すなんて、しょうもない防御力だし。それに毒物への耐性とか、酸やアルカリにも弱いんじゃないかしら。ま、死ねばまた耐性を得るんでしょうけどね】

「う、うーん? まぁ、ミリきち達からしたらそうかもだけど」

【おまけに力の効率化が出来ていない。内臓だけを食べるのは、食事の効率を上げるためね。それだけなら別におかしくないけど、何十人分も食べるなんて、身体能力の向上とエネルギー消費が釣り合ってない。私達ミュータントの効率なら、その程度のパワーアップじゃご飯を山盛りにする必要すらないわね】

「……死なない事については?」

【バラバラに、跡形もなく吹き飛ばせば良いだけよ。現在の身体能力がどの程度か不明だけど、私の場合なら血液や原形質を直に沸騰させて、その膨張圧で細胞一つ残さず粉砕するわ】

 如何にも容易そうに ― 実際ミリオンにとっては簡単なのだろう ― 語るミリオンだったが、人間である加奈子は苦笑いしか浮かばない。つまるところミュータントにとっては雑魚敵Aでしかないという話であり、人間にとっては相変わらず脅威なのだから。

 いまいち安心感を得られずにいる加奈子だったが、ふと、ミリオンはくすくすと笑い始めた。まるでパズルが解けなくて頭を抱える子供に、頑張れと応援するような笑い方だ。

「……なにさ、その笑い」

【大した事じゃないわ。冷静に考えれば、人間にとってもそいつは全然怖くないって分かるのに、何時になったら気付くのかなぁーって思っただけよ】

「どゆこと?」

【ヒントをあげる。大半の進化は良い事ばかりとは限らない。人間を震え上がらせている裏で、人食いイノシシは恐怖に震えている筈よ。恐怖を感じるだけの頭があればの話だけど】

「……はい?」

 加奈子は呆けた声を出してしまう。人間を震え上がらせているあの生物が、恐怖で震えている? 一体なんの事か、さっぱり分からない

【後は自衛隊なり警察なり猟友会なりに任せておけばなんとかなるって事よ。案外一人でもなんとか出来るかもだけど】

「……でも、その間にたくさんの人が死んじゃうんだよね?」

【ええ、勿論。何かご不満かしら?】

 うん、と呟こうとする自分の口を、加奈子はきゅっと閉じる。

 不満かそうじゃないかで言えば、不満だ。人が死んでいて、ミリオンならちょちょいと化け物イノシシを倒してくれそうなのに、彼女はやってくれないのだから。

 しかし駄々を捏ねても無視されるのがオチだろう。ぶつりと電話を切られたならそれでお終いだ。

【安心なさい。さかなちゃんが戻ってきたら、私が出てあげるから】

 むしろ少しでも譲歩してくれただけ、良いというものだ。

「……うん、ありがとうミリきち」

【礼を言うのは早いわよ。人間が倒すかも知れないんだから。ま、精々見付からないように息を潜めて隠れると良いわ。弱いなら、弱いなりの生き方ってのがあるものよ】

「うん、そうするね」

 侮蔑とも受け取れる、しかし恐らくはこちらを気遣っての言葉に、加奈子は笑みを浮かべる。素直に言う事に同意すれば、電話越しのミリオンはちょっとだけ困ったような吐息を漏らした。

 調子を狂わされたからか「話が終わったなら切るわよ」とミリオンから告げられた。加奈子としても『話題』は尽きている。

「それじゃ、また明日……あー、明日は多分病院かな。うん、また今度ねー」

【はい、また今度】

 別れと曖昧な再会の約束を伝え合い、加奈子のスマホはぷつりと音を立てた。無音になったスマホを耳から離し、加奈子は画面をじっと見つめる。

 安心、とまではならない。

 けれども少しだけ、気持ちが楽になった気がした。問題は何も解決していないが……『終わり』が見えてきたお陰だろう。

 かくして落ち着きを取り戻した加奈子の頭は、小さな疑問を考えるだけの余裕も得る。

 ミリオンが言っていた、人食いイノシシが感じている恐怖とは、なんだ?

 人食いイノシシは死体だ。本当に死んでいるかは分からないが、腐敗臭のする血の臭いを嗅いだ加奈子の中ではそうなっている。死体という事は、つまりそれ以上殺す事は出来ない。死んでいる者にこういうのも難だが……あのイノシシは『死』を克服しているのだ。おまけに死ねば死ぬほど強くなる有り様。

 完全無欠の不死身。そのような生命体が、一体何を恐れるのか?

 それが分かれば、今すぐにでもイノシシを倒せるのだろうか。

「(……大人しくしてろーって言われた傍から倒す事考えてるし)」

 自分でなんとかしようとしている事に気付き、加奈子はため息のような笑いを漏らす。晴海に面と向かってこれを話したら、調子に乗るんじゃない、というお叱りの言葉と共にゲンコツもお見舞いされるだろう。

 そして彼女のゲンコツをもらうためには、全てが解決するまで大人しく隠れているのがベストだ。

「(……寝て、起きた頃には、全部解決してるのかな……)」

 過ぎる考えが、『やる気』を削いでいく……なんのやる気だろうか? それすら考えるのが億劫になってきた。

 思えば夕方頃から逃げて、逃げて、逃げ続けている。一息吐いたと思うやすぐにイノシシの襲撃を受け、ろくに休めていない。今までは考える暇すらなく、今になってようやく加奈子は自分が疲れている事を自覚した。

 自覚したら、途端に眠気が込み上がってくる。瞼は段々と下がり、手足が鉛のように重くなるような気がした。本能の衝動に逆らう気力など残っておらず、加奈子はついに目を閉じる。

 このまま夜が明けるまで眠ってしまえば、目が覚めた時には、きっと楽しい毎日が戻っている。

 それを祈りながら、加奈子の意識は沈んでいき――――

 ……………

 ………

 …

 突如として身体を貫いた『爆音』が、加奈子の意識を現実に呼び戻した。

「ひゃあっ!? え、な、何?」

 加奈子は思わず車外へと跳び出し、外を見張っていた田沼を探す。

 幸いにして田沼の姿はすぐに見付けられた。道路の真ん中で立ち尽くし、呆然とした様子で遠くを眺めている。

「おっちゃん! おっちゃーんっ!」

 加奈子が呼ぶと、田沼はハッとしたようにぶるりと肩を震わせた。それから加奈子の方を振り向き、強張った顔付きを少しでも和らげようと努力するような、不自然な表情の動かし方をする。

「おう、加奈子。そんな大声を出さなくても聞こえるぞ」

「そんな事より! 何があったの?」

「……あっちだ。見てみろ」

 田沼はそう言うと、遠くを指差した。

 加奈子が指先を追ったところ、町の一角が赤く光っていた。火事でも起きているのだろうか? ……出来ればただの火事であってほしいと、加奈子は願う。

 されど赤く光る景色から、猛り狂った咆哮が聞こえてきた。

 居るのだ、あの怪物が。燃え盛る町の中に。

 まさかこっちに来るのでは――――そんな予感に加奈子は顔を青くし、幾度となく聞こえてくる咆哮や破壊音が段々と近付いてきている事に気付いて背筋が凍るほどの寒気を覚えた。世の中には七度雷に打たれた事のある人がいるらしいが、同じ日に三度イノシシに襲われるのも同じぐらいレアな事ではないだろうか。

 或いは……

 不安が加速する加奈子であったが、しかし此度はこれまでと違う。今回、イノシシとはかなり距離がある。耳を澄ませば、微かに銃声らしき音も聞こえたので、警察などによる足止めも行われている。今から動けば、安全に逃げられる筈だ。

「田沼さん! 今の音は!?」

「またアイツが出てきたのか!」

 先の爆音を聞き付け、家の中から浩一と正夫が出てくる。その手には市街地でありながら猟銃が握られ、何時でも戦える用意が出来ていた。

 されど田沼も加奈子同様、人食いイノシシの恐ろしさを目の当たりにした身である。戦おうと思う筈もない。

「ああ。どうやらこっちに来ているらしい。だが、まだ距離がある。今から逃げれば、振りきれる筈だ」

「……分かりました。車で、遠くまで逃げましょう」

「お袋を説得してくる。あの頑固ババアの事だから、親父が帰ってくるまで家を出ないとか言いそうだからな」

 田沼の進言を、浩一達は受け入れる。正夫も戦おうとは言わない。彼もまた、撃てども死なない怪物を見たのだ。もう銃で戦う気など起きないのだろう。

 彼等は意見を素早く纏めると、逃げる準備を始めた。正夫は家の中へと戻り、浩一は車を動かために乗り込む。田沼もイノシシが居るであろう燃え盛る町を見つめ、その動向を注視する。

 皆が己の役割を果たそうとする中で、加奈子は一人考えていた。

 これまでなら、逃げる事に一も二もなく賛同しただろう。あの怪物は人間が敵うような相手ではない。ましてや小娘に過ぎない自分に何か出来るなんて、到底思えないのだから。

 けれども、ミリオンの言っていた言葉が『勇気』を生み出す。

 あの怪物は人間の手で倒せる。

 どうやると倒せるのか? ミリオンはそこを教えてはくれなかった。しつこく追及すれば教えてくれたかも知れないが、後の祭りというものである。しかし倒せると言ったからには、きっと倒せるのだ。

 どうして、ビクビクと怯えなければならない? どうして、助けられるかも知れない人を見捨てねばならない? 

 どうして、笑顔が消えるのを黙ってみなければならない?

 ――――加奈子は、楽しい事が好きだ。

 誰でもそうだと言われそうだが、加奈子のそれは普通とは違う。みんなが楽しくなるのなら自分が痛い目を見るのも構わないし、楽しかったなら多少『危険』なのも受け入れる。楽しかったなら遊び相手が人間じゃなくても構わないし、楽しくなければ人間相手も面倒臭い。例え命を脅かされようとも、最期が楽しければ起きた出来事に感謝する精神を有す。

 友人である花中は友達中毒者ジャンキーとでも言うべき人物だが、加奈子もまた別方向の中毒者……楽しさ中毒者ジャンキーなのだ。

 今までは、人食いイノシシへの恐怖が衝動を上回っていた。しかしながらミリオンの言葉により勇気が生まれた今、恐怖は抑え付けられる。衝動が感情を上回れば、加奈子は衝動を優先する。

 加奈子は楽しくない事が嫌いだ。楽しくなるためならなんだってする。人食いイノシシはみんなから楽しさを奪う奴であり、自分の楽しさを奪う嫌な奴だ。なんとかしてやっつけたい。

 それにミリオンは、「案外一人でもなんとか出来るかも」と言っていた。

 真に受けた、というのはミリオンからすれば心外かも知れない。しかし加奈子にとっては勇気をもらえた言葉の一つで、背中を押してくれたアドバイスでもある。

 そして、先程脳裏を過ぎった『可能性』。

 自分の衝動を実践する事に、加奈子は最早躊躇いなど覚えなかった。

「っ……!」

「!? おい、加奈子! 何処に行く!? 止まれ!」

 田沼の制止を無視して、加奈子は夜の町を走る。全速力のフルパワー。足腰の衰えた老人共など簡単に引き離せる走力だ。

「くそ、アイツ何処に向かうつもりだ!?」

「? 田沼さん? え、あの、何処に行くのですか!?」

「すまん! お前達は先に逃げていろ! こっちは後で追い駆ける!」

 されど田沼は棒立ちし続ける事もなく。困惑する浩一にそう伝言を残すと、自らも全速力で走り出す。無論、加奈子の後を追うように。

 加奈子は後ろから付いてくる田沼に気付いたが、足を止める気にはならない。息が切れても、足腰が痛くなろうとも、死力を尽くして走り続ける。

 夜の町を、より静かで、人気のない方へと。

 冒険心からよく町を散策している加奈子は、自分の行く手に何があるかを知っている。知っているからこそ、あそこに向かうのだ。

 廃棄された、化学工場へと――――

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