目覚めるパンドーラ3

 本館から何百メートルも伸びている廊下の先。そこから繋がる『日本の野草展示ハウス』の前を、無数の人々が埋め尽くしていた。

 否、正確には行列だ。何百、或いは何千もの人々が五列ほどに分かれて並んでいる。行列は着実に前へと進んでいるが、その歩みは遅々としており、果たして一時間でどれだけ進めるか分かったものではない。もしかしたら列のど真ん中辺りで止まり、抜け出せなくなる可能性もある。

 スマホで時刻を確認し、本命の展示会が始まるまで残り一時間半だと知った花中は、目の前の列に並ぶ事を躊躇した。元より行列はあまり好きではない。知らない人に挟まれ、囲まれるプレッシャーが、胸をきゅっと締め上げてくるが故に。しかしどれだけ嫌な事を並び立てても、この行列には並びたいというのも確かな想いである。

 何故ならこの行列の先にある『日本の野草展示ハウス』の前こそが、花中が目指した場所――――復活した古代植物研究の資料が展示されている、特別コーナーが設置された場所なのだから。躊躇をすればするほど、行列はどんどん伸びていく。資料を閲覧するにはすぐにでも並ばねばならない。

 ここは覚悟を決めるしかないと、花中は小さくて勇ましい鼻息を吐いた。

「いやー中々壮観な光景ですね。花中さんなんて飲まれたら二度と帰ってこれそうにないです」

 ……隣に立つフィアの、恐らくなんの意図もない感想が耳に入り、決めかけていた覚悟が萎んでいくのを花中は感じる。前に出そうとした足が、一歩後退りしていた。

 実際、無理して行く必要はない。

 星縄のお陰で、展示会のチケットは持っているのだ。時間に遅れなければ、実物の古代植物を拝む事が出来る。研究資料にも興味は惹かれるが、実物の方が遙かに見たい。一時の欲求に従った結果、たった一時間半後に起きる『世紀の瞬間』を見逃すなど愚の骨頂だ。

 論理的に考えれば選ぶべき行動は明白。迷う必要など何処にもない。

 ないのだが、感情的には思いっきり後ろ髪を引かれる訳で。

「……フィアちゃん。あの、いざとなったら、列から抜け出るの、手伝ってくれる?」

「そのぐらいでしたらお茶の子さいさいというものですよ」

 尋ねれば、フィアは胸を張ってそう答える。分かり切っていた答えだ。フィアからすれば何百何千もの人間が作る行列も、飴に群がるアリの大群と大差ないのだから。

 フィアからのをもらい、改めて花中は気持ちを固める。

 見たいものは見たい。そして自分には津波が如く押し寄せる行列を、平然と跳ね返せる友達が隣に居る。

 そう、迷う必要など何処にもないのだ。

「良し。フィアちゃん、並ぼう!」

「了解でーす」

 花中が誘い、フィアは花中の手を握り締めて答える。掌に伝わる、しっかりとした圧迫感。これならはぐれる心配はない。

 花中とフィアは行列の最後尾に付き、やってくる順番をゆっくりと待つ。暇潰しには事欠かない。フィアとお喋りをしていれば、時間なんてあっという間に過ぎていく。むしろ夢中になり過ぎて、スマホでの時刻確認を忘れてしまいそうになるほどだ。

 しばらくして花中達の目に、『古代植物研究資料館』と書かれた看板と、その看板の下にある大きなガラス戸が見えてきた。日本の植物展示ハウスじゃない? と疑問に思ったが、よくよく見れば看板の下にもう一枚看板がある。本来あったものの上に、適当に置いただけなのだろう。

 ……等と一瞬納得しかけたが、花中の頭はしっかりと違和感を覚えた。

「(なんで、看板の上に看板なんか掛けてるんだろう?)」

 時間がなくて、適当な改装をするしかなかったのか。しかしわざわざ『日本の野草展示ハウス』を隠すように設置する意味が分からない。加えて看板に書かれている『古代植物研究資料館』という名前は、如何にもこの先にあるのようではないか。

 中の展示物を差し替え、建物の呼び名を変えるという事は、さして奇妙ではないだろう。しかしだとすると、二日前が更新日となっているパンフレットの表記と矛盾する。パンフレットには、この先の建物は『日本の野草展示ハウス』と書かれているのだから。

 ……ここに古代植物の研究資料があるという情報は、パンフレットに注釈として書かれていた。しかし書き方はかなり雑だ。どのぐらい雑かといえば、地図の一部が注釈で隠れているぐらい。

 大体、何故植物を育てるためのハウスを資料館にしてしまう? 熱いし蒸れるし狭いし、良いところなど何もないではないか。そのハウスで育てられていた大量の植物は何処にやった?

 ――――薄々感じていたが、この植物園、何かおかしい。

 具体的にどうおかしいという具体的な説明は出来ない。だが、妙に雑というか、その場しのぎが多いように感じられる。それでいて何かを必死に隠しているという印象は受けず、何故そんな事をしているのかさっぱり分からない。

 強いてイメージを当て嵌めるなら、一つの事に夢中になるあまり他が疎かになっている子供みたいな……

「花中さんそろそろ目当てのものが見られそうですよ」

 思索に耽っていたところ、フィアが優しく告げた言葉で我を取り戻す。周りを見れば、随分と『資料館』の入口が近くなっていた。

 一つの事に夢中になって、注意が疎かになっていた……正しく今の自分の状態そのもので、恥ずかしさから花中は顔を茹で蛸のように赤くする。とはいえ悶えてばかりもいられない。行列は花中の後ろにも出来ていて、自分達の順番が来るのを待ち遠しにしているのだから。

 花中は隣の人の邪魔にならないよう小さく顔を横に振り、いくらか頭の中身をマシにしてからポケットにあるスマホを取り出す。画面に表示される時刻は十五時十五分。展示会は十六時に始まるので、残りの自由時間は四十五分ほど。迷わず移動出来るという前提ではあるが、パンフレットの地図から推察するに此処から展示会の会場までは徒歩十分も掛からない。

 逆算される見学時間は約三十分。資料の閲覧をするには十分な時間だろう。

「……うんっ。行こっ」

 花中はフィアの手をきゅっと握り締め、『資料館』へと足を踏み入れた。

 元々植物を展示していた場所だけあって、資料館はガラス張りの温室だった。とはいえ熱帯植物の展示をしていたハウスと異なり、冷房が効いているのかかなり涼しい。ガラス越しに降り注ぐ陽光が室内を眩く、それでいて自然の美しさで染め上げており雰囲気は良かった。ただし植物園のハウスなのに、彩りとして飾られている胡蝶蘭ぐらいしか植物の姿が見られないので、どうしても違和感は残ってしまうが。

 尤もその違和感も、植物の代わりに置かれている数々のパネルや冊子を見付ければすぐに胸の奥底に隠れてしまう。

 花中は早速一番手前にあるパネルに向け、列の流れに従いながら進む。途中職員らしき女性が、嬉しそうな笑みを浮かべながら小冊子を渡してきたので受け取る。

 冊子のタイトルは、『マグナ・フロスの発見経緯』。

「……まぐなふろす? なんですかそれ?」

 冊子を横から覗き込んだフィアは、タイトルに書かれていた単語について尋ねてくる。正直なフィアの事だ、疑問に思ったから何も考えずに尋ねたのだろう。

 実を言うと昨日花中はこの単語について教えていたのだが、興味がなかったのか忘れてしまったらしい。花中は正直という美徳の塊である友達に聞こえぬよう、無駄とは知りつつも小さなため息を漏らした。

「もぅ、昨日教えたでしょー。見付かった、古代植物の学名、だよっ」

「んぁー? 言われてみれば聞き覚えがあるような……ああそうですそうです確かに教えてもらいましたね。思い出しました。『でっかい花』って意味でしたっけ?」

「『偉大な花』だよぉ……」

 全然思い出せていない友達に肩を落としつつ、花中は改めて『マグナ・フロス』について教える事にした。発見の経緯だとかなんだとか、自分が集めた情報を主体にして。

 そうして話しながら資料館に置かれた資料を読んでいったのだが、段々と花中の説明は疎かになっていく。何しろ置かれている資料には、ネットやテレビでは集められなかった情報が山盛りてんこ盛りだったのだから。

 発掘された種子が豆粒よりも小さい事。芽吹いたばかりの芽が単子葉でも双子葉でもない、三子葉であった事。触られると数秒で葉を折り畳んでしまう現代のオジギソウのように、刺激に対しまるで動物のような機敏な動きが出来る事。高温多湿の環境を好むという事……どれもこれも、初めて触れる知識だ。

 花中はすっかり目を輝かせ、フィアへの説明も止まっていた。途中からほったらかしにされたフィアだが、怒ったり拗ねたりする事もなく、むしろ小学生に混ざっても違和感がないぐらいはしゃいでいる花中の姿を愛でるように眺めている。お陰で花中は、この楽しい時間を存分に満喫出来ていた。

 しかし悲しい事に、楽しい時間とはあっという間に過ぎ去ってしまうものである。

「――――あれ?」

 置かれていた資料を読んでいくうちにハウス内をぐるりと巡り、自分達が入った入口の反対方向にある扉……出口の近くまで来ていた事に、花中は直前まで気付けなかった。

「もうすぐ出口ですね」

「うん……あ、そうだ。時間……」

 時間感覚を失念していたと自覚し、花中はすぐにスマホを取り出す。

 資料館に入ってから、既に二十分は経っていた。展示会が始まる時間にはまだまだ余裕はあるが、未だ胸に残る感覚からして、この倍の量の資料があっても夢中になれただろう。危ないところだったと、猛省しておく。

 とはいえ時間に余裕がある事も明らかになったので、割と誘惑に弱い精神状態でもあったりする。

 そして設置された解説パネルはあと一枚。見た目の印象としては、あまり分量は多くない。

 この『誘惑』に、花中が耐えられる筈もなかった。

「……じゃあ、最後にあれだけ、読んでいこう」

 言い訳するように独りごち、花中はそそくさと解説パネルに歩み寄る。

 パネル曰く、発掘現場には『マグナ・フロス』とは別種と思われる種子も発掘されたとの事。こちらも化石化はしておらず、休眠の打破を植物園側で試みているが、未だ成功していないらしい。

「将来は、二種の古代植物が展示出来るよう、これからも研究を続けていきます……だって」

「ふぅん。この写真がもう一つの種とやらですか」

 フィアが指差したのは、パネルの横に張られた一枚の写真。

 写真に写っているのは、楕円形をした黒い塊だった。比較物がないので種子の大きさは分からないが、数ミリ程度のものではなさそうだ。種子には縦方向に幾つもの溝があり、表面の細かな凹凸もハッキリと確認出来る。色合いこそ長年の休眠により変化してしまったのだろうが、欠けたり変形したりしていないその姿は、今にも芽吹きそうな生命力を感じさせた。

 こちらは未だ復活していないからか、その存在を仄めかすような記事はネットでも見た覚えがなかった。まさかもう一種『マグナ・フロス』のような生物が存在したとは、驚きを禁じ得ない。生命とは、人間が思う以上にタフなものらしい……花中は改めて、生命の強さに感動を覚えた。

「ああ見覚えがあると思ったらこれアレですね。虫の卵に似てます。本当は種じゃなくて卵なんじゃないですか?」

 ……その感動も、隣で楽しそうにしている超常的生命体を意識すると擦れてしまうのだが。おまけになんの気遣いなく語る感想の所為で、種子が卵にしか見えなくなった。モンシロチョウの卵に似てるよねー、と思わず同意しかけたぐらいである。

 花中は一瞬だけぷくっと頬を膨らませ、ぷしゅーと音を鳴らして頬の中の空気を吐き出す。熱めの吐息と一緒に、頭の中にあった色々な感情も出ていった。フィアは花中が何をしているのか全く分かっていないようで、こてんと首を傾げる。

 展示されているパネルや資料は此処で終わりだ。そろそろ展示会の会場に向かおうと、花中はフィアと共に出口へと向かう。

「閲覧していただきありがとうございます。何かご質問等がありますか?」

 と、その出口の手前で、職員らしき若い女性に呼び止められた。

 出口間際で呼び止められ、花中は一瞬戸惑いを覚える。が、狼狽から辺りを見渡せば、他の職員達も積極的に来場者に声を掛けている姿が見えた。

 どうやら偶々この場で呼び止められただけのようだ。少しずつ落ち着いていく胸に手を当てながら、花中は自分を呼び止めた職員と向き合う。

「あ、えと、特には……パネルの解説が、とても分かりやすかったの、で」

「そうですか。それは何よりです。お客様方に誤った知識を与えてはならないと、何度も書き直した甲斐がありました」

 花中の言葉を受けて、職員は安堵したように表情を和らげる。

 確かに見た人の知識となる解説文には、誤りは勿論、誤解を生むような表現もないに越した事はないだろう。しかしお世辞かも知れない言葉で安堵するのは些か大袈裟ではないだろうか。

 そんな感想を抱く花中であるが、この女性職員は二十代前半ぐらいの見た目である。恐らくは新人で、もしかすると此処の解説文の作成を初仕事として任されたのかも知れない。勿論解説しているものが世界的注目を浴びている存在なので、大半はベテランが書いただろうが、人手が足りなくて新人が駆り出された部分もあるのだろう。

「私は一つ訊きたい事があります。あの虫の卵みたいなやつは何時展示されるのですか?」

 そんな事を考えていた花中の横で、フィアが職員に質問をしていた。もう一種の古代植物に関心があるようだ……舌舐めずりしていたので、恐らく味覚的な意味で。

 虫の卵っぽいというだけで食欲を感じる友人に呆れつつ、花中としても気にはなる。何しろ二種目の古代植物だ。『マグナ・フロス』で得られた知見を下地にすれば、どれぐらい復活の可能性があるか分かるかも……そんな期待を、花中はひっそり抱いていた。

 だが。

「……さぁ?」

 職員の無関心な言葉が、その期待を砕く。

「すみません。『アレ』についてはあまり詳しくないものでして」

「ふーむそうなのですか。知らないなら仕方ありませんね」

 淡々とした職員の答えに、フィアは素直に納得する。隣で、花中がポカンと口を開けている事にも気付かず。

 目の前の女性職員が噓を吐いているとは思えない。

 故に花中は唖然としていた。確かにパネルに書かれていた種子は、復活するかどうかも分からない代物だろう。しかし『マグナ・フロス』という先例があるのだ。植物園の職員として働いているのなら、少しは植物への興味がある筈。なのにどうして『アレ』に対して関心がない?

「じゃあもう良いです。花中さんそろそろ行きましょうか」

 問い詰めたいほどの違和感が花中の胸を満たしていたが、されどフィアは話を打ちきってしまった。口を挟むきっかけを失ってしまう。加えてフィアが言うように、自分達はこれから『マグナ・フロス』の展示会の会場へと向かわねばならない。残り時間が決して潤沢ではない今、変に話が盛り上がっても困る。

 どちらかを選ばねばならないのなら、答えは一つしかなかった。

「……うん。そう、だね。そろそろ行かないと」

「日々最新の情報に更新していきますので、是非またお越しください。退屈はさせませんよ!」

 資料館から出る意思を呟くと、女性職員は活き活きと資料館を宣伝する。先程までの無関心ぶりが、噓のように。

 フィアと手を繋ぎ、女性職員に背を向けて歩き出した花中は薄気味悪さを覚えていた。だけどそれはただの感想で、証拠も論理もない、主観的感情の積み重ねでしかない。だからそれを根拠にして行動を起こす事は、論理を重視する花中には出来ない。

 花中の胸の奥底で燻る、足を止め、考え込みたくなる衝動。

 されどそれは、現代に甦った古代種という浪漫によって、段々と霞んでしまうのだった。




 『マグナ・フロス』の展示会は、植物園の敷地の丁度中心辺りにある『特別温室』にて行われる。

 特別温室という名前に相応しく、その施設は他のどの温室よりも大きく、豪勢な装飾に飾られていた。施設へと繋がる廊下には窓があり、外の様子が窺えるのだが、特別温室の周りにはゴテゴテと巨大な機械が設置されている。高度な技術によって、室内環境を精密に制御しているのだろう。これならば観客の熱気や、紛れ込むかも知れない不埒者が撒いた何かしらの薬物も、素早く調整・洗浄してくれる事が期待出来る。繊細で希少な植物を、なんとしても守り抜くという意思が感じられた。

 パンフレット曰く、特別温室内はさながら映画館のような作りになっており、スクリーンに該当する場所に展示物が置かれるらしい。たくさんの観客が展示物を見られるよう、そうした作りになっているそうだ。

 しかしその作りだと、後ろの方に立たされた人にはさぞ展示物が見え難いのではないか。そんな不安が事実である事を物語るように、パンフレットの片隅に『双眼鏡の貸し出しもしています』と書かれている。

 開場時間間際にやってきた花中に、双眼鏡の貸出所を探す余裕なんてない。いや、もしかすると既に全て貸し出されていて、花中達の分はないという可能性もある。

「もし遠くて見えないようでしたら私に言ってくださいね。能力を使って望遠レンズを作りますから」

 されど花中には、人智を超えた友達がいた。

 今までの花中なら、なんだかズルをしているような気がして、フィアの力に頼る事に少し居心地の悪さを覚えたかも知れない。だが前向きに考えれば、自分が双眼鏡を使わなかった分、誰かが双眼鏡を手に入れる事が出来たともいえる。

 四月の出来事以来、ちょっとだけポジティブに生きようと思うようになった花中は素直に「ありがとう」と伝えた。フィアは上機嫌に鼻を鳴らし、ぎゅっと花中の手を握り締める。特段意味などない、恐らくは無意識であろう友達の反応に、花中はくすりと笑みを零した。

 さて。そうして友達と楽しく歩けば、廊下なんてあっという間に渡り終えてしまう。

 ついに特別温室へと通じる扉の前まで、花中達はやってきた。特別温室は扉もまた豪勢で、三メートル近い高さがある。門扉は未だ閉じたままだが、開場が待ちきれないのか、既に巨大な人集りが出来ていた。

 と、これだけならば凄いの一言で流せるのだが、人集りが出す喧噪があまりにも大きい。罵声、悲鳴、泣き声……聞こえてくるのはそんな、楽しさとは無縁な声ばかり。

 しばらく眺めていると不意に人混みが大きくうねり、罵声が飛び交って、やがて静かになり……人混みから出てきたガードマンらしき屈強な男が、ぽいっと二人の男を人混みの外へと投げ捨てた。投げ捨てられた男二人はしばし唖然とし、やがて意味不明な叫びを上げ、互いに殴り合いを始める。そしてそれを止めに来る者は一人としていない。否、それどころかまたしても人混みが蠢き、喧騒と悲鳴が上がる。落ち着きを取り戻す気配すらなかった。

「おやおや。随分と盛り上がっていますねぇ」

 フィアは「盛り上がっている」の一言で済ませてしまうが、人間である花中にはとてもそうは思えない。フィアとの時間で育んだ楽しさが、一瞬で掻き消えてしまう。

 一体これはなんだ? 何が起きている?

 自問する花中であるが、答えは明白である。特別温室にある古代植物をより良い場所から見学するために、人々が争っているのだ。それも早く列に並ぶなどの平和的な方法ではなく、暴力による奪い合いで。

 確かに、恐竜時代を生きていた古代植物と出会える機会なんて二度目があるとは限らないし、この『一度目』の機会を掴むために莫大な ― それこそ破産するほどの ― 資産を投じた者も居るだろう。だから多少の騒動はあると花中も思っていた。

 だが、これは最早騒動などではない。感情に支配され、相手への思いやりを失うどころか我欲に支配された集団への変異。

 即ち暴徒化である。

「いやー、面白い光景ねぇ……今からあの人混みの後ろに行かなきゃいけないって点に目を瞑れば、だけど」

 あまりにも酷い光景を目の当たりにして、何時の間にか花中の背後に来ていた『誰か』が呆れたように独りごちた。

 花中はバッと、音が鳴るほどに勢いよく振り返る。

 振り返った先には、ミリオンとミィ、そして星縄の姿があった。

「み、ミリオンさん、みんな……!」

「遅かったじゃない。二人とも、楽しめたかしら?」

「えと、その……」

 ミリオンの問いに、花中は思わず言葉を詰まらせた。楽しめたか否かで言えば、間違いなく楽しんではいたのだが……やたらと違和感が付き纏い、心の中に不純物としてこびり付く。

 そのほんの小さな『不快さ』が、花中に答えを躊躇わせる。横で「勿論楽しかったですよ花中さんと一緒でしたから」と自分の感想を伝えているフィアと違い、ミリオンは花中の感情の機微をしかと捉える。

 花中の想いに対する返答なのだろうか。そりゃあそうだ、と言いたげな複雑な表情をミリオンは浮かべた。ミリオンも、そしてミリオンと同じように様々な感情を顔に滲ませているミィや星縄も、花中同様違和感を覚えたらしい。

 自分の中の違和感を、躊躇してしまうような雰囲気ではなかった。

「……何か、変なというか……職員の皆さん、仕事の仕方が、なんか……」

「雑、というのも違うわよね。やたら熱心だったりする時も度々見たし」

「人次第なんて事もないみたいだよねー。同じ人なのにいきなり興味なくしたと思ったら、フィアみたいにべらべら喋り出すしさ。あとなんか……んー……」

 ミリオンとミィは、自らが出会った職員について語る。別行動をしていたミリオン達も、花中達と同じような体験をしてきたようだ。ミィは他にも思うところがあるのか、俯くようにして考え込んでしまう。

 偶然にも自分達だけが変な職員に当たったという可能性がなくなり、一層の『違和感』が花中の胸に込み上がった。やがて曖昧な違和感は、論理という名の形になる。

「そして彼等の変化の基軸に、『マグナ・フロス』が存在しているらしい」

 星縄が語った、『具体的』な指摘によって。

 カチリと音を立てて、花中の頭の中でピースが嵌まる。

 『マグナ・フロス』がいない温室の管理は杜撰で、『マグナ・フロス』について書かれていないパンフレットに顔を青くする。『マグナ・フロス』がいない温室を改修し、『マグナ・フロス』のための資料館に変えてしまう。『マグナ・フロス』ではない古代植物には無関心で、『マグナ・フロス』については喜々として語ろうとする。

 自分達と接した職員達の誰もが、『マグナ・フロス』と関係するかどうかで行動の指針を切り替えていた事に花中は気付く。いや、切り替えた、というのは間違いか。『マグナ・フロス』以外への感心が極端に薄く、『マグナ・フロス』にしか意識が向いていないと言うべきだ。

 植物園の方針で、そうした業務を行っているのか? あり得ない。人間はゲームに出てくるNPCとは違うのだ。指示されたからといって、簡単に興味の有無を切り替えるなんて出来っこない。

 何かがあった筈なのだ。職員達の『思想』を塗り替える何かが。

 もしかすると、此処の暴徒も?

「あそこで暴れている人混みも、最初は大人しかったんだ。特別温室につながる廊下が閉じられていて、その前に並んでいた時はまだ。だけど……」

「特別温室の前まで行ったらね、段々出てきたのよ。早く開けろ、俺が一番前に行くんだーって輩が」

 花中の予想は、話を続けた星縄と、その星縄の話を補足するミリオンによって確信を深める。花中は口許に指を当てながら、何故そのような事が起きたのかを推察しようとした。

「どうする、花中ちゃん?」

 その最中の花中に、最初に問い掛けたのは星縄だった。

 一旦思索に耽るのを止め、花中は顔を上げて星縄を見遣る。何時もニコニコと浮かべている胡散臭い笑みが、今の星縄にはない。代わりに浮かべているのは、一人の子供の身を案じる大人の顔だった。

「……えと、どう、というのは……?」

「これからの事だよ。状況証拠しかないとはいえ、『マグナ・フロス』には何か、人の精神に影響を与える性質があるとしか思えない。温室の外ですら、全員ではないとはいえおかしくなったとしか思えない人が出てきているんだ。同じ温室に入って、影響を受けないとどうして言える?」

「それは……」

 星縄の意見に、花中は反論が浮かばない。

 生命の力は凄い。それを花中は、何度も目の当たりにしてきた。

 今更人間を狂わす植物がいたところで、なんらおかしな話ではない。いや、大麻やコカインなど、人の手を介したものとはいえそうした効果は既に実在しているではないか。

 それを思えば、会場に足を踏み入れる事がどれだけ危険かは、言うまでもない。

「保護者として、これだけは言っておくよ。此処で引き返した方が良い。恐竜時代の植物が見られなくて残念だとは思うけど、でも、身の安全を一番に考えれば、行かない方が賢明だと思うよ」

 星縄からの忠告に、花中は口を閉ざしてしまう。

 君子危うきに近寄らず、ということわざもある。加えて『マグナ・フロス』を見なかったところで、花中の今後の人生に大きな影響はないだろう。今の状況から論理的に判断すれば、『マグナ・フロス』を見る事はリスクでしかない。

 そこまで分かった上で、花中は首を横に振る。

 論理的にはリスクしかない。されど感情的には、出来なかった。

 大勢の人々が狂わされていると知りながら見過ごすなんて真似を、花中はしたくないのだから。

「星縄さんの、言う通り、見に行くのは危ない事だと、思います。でも、ううん、だからこそ、行かないと、いけないと思うんです。今から、警察に通報しても、きっと信じてもらえない。正気を保ってる、わたし達が、ちゃんとした証拠を、見付けないと」

「花中ちゃん……」

「あ、勿論、本当に危ない事が起きたら、すぐに逃げます。えと、一目散、です」

 答えを聞いて心配そうな星縄に、花中は安心させようと約束を交わす。

 無論花中自身、自分の申し出が如何に危ういものかは分かっているつもりだ。花中とて星縄と二人きりだったなら、この答えは出さなかっただろう。

 やろうと思えた一番の理由は、今日は頼もしい『人外友達』が三匹も居るからに他ならない。人間にはどうしようもない力も彼女達ならばなんとかしてくれるという、経験に基づく確信があった。

 しかしながら当然、フィア達の『正体』を知らない星縄にそんな花中の思惑を察してもらうなど土台無理な話。それでも駄目だと言われたならどうやって説得するか、フィア達の正体を明かすしかないのか……予想される星縄の反応に対する答えを、花中は予め考えておく。

 故に、

「分かった。花中ちゃんがそこまで言うなら、協力しよう」

 星縄の答えが全く予想していなかったものだった事を理解するのに、花中は短くない時間を必要としてしまった。

「……え? あ、えと、い、良いの、です、か……?」

「良くはないけど、花中ちゃんの意見も一理あると思ったからね。確かにこのまま放置するのは良くないと思うし、かといって現状警察や病院が動いてくれるだけの証拠はない。気付いた誰かがやるべきだ、というのは至極真っ当な意見だ。それに」

「それに?」

「小さい頃は曲がり角に何か居るかもと思って、何時もママの後ろに隠れていた花中ちゃんがこんな勇ましい事を言ったんだよ? その成長を応援しない訳にはいかないよね」

「ぴっ!?」

 いきなり昔の ― 尚且つ本当の ― 話をされ、花中は奇声と共に顔を真っ赤に染め上げる。慌てて誤魔化そうとしたが、フィア達の目は既に生温かくて優しいものになっていた。花中は顔がどんどん熱くなるのを感じるが、胸から込み上がる感情を止められない。

「うぅ……何時か、ぎゃふんって、言わせますからぁ……」

「それは楽しみだ。期待しておくね」

 苦し紛れに恨み言をぶつけてもみたが、星縄は怯みもしない。花中にはもう、星縄からそっぽを向くぐらいしか出来なかった。

「はいはい、はなちゃんったら拗ねないの。とりあえず、私も手伝ってあげるわ。あまり危ない事には近付いてほしくないけど、知らないままなのも良くないし」

「あたしも、何が起きてるか知りたいから手伝う」

「私は別にどちらでも構いませんよ。危険な感じはしませんし花中さんがやりたいようにやれば良いかと」

 そうしたふて腐れた態度も、ミリオン達が次々と賛同を示した事で続けられなくなる。自分が言い出した事なのに、その自分の態度が原因で始められないなんて、いくらなんでも恥ずかしい。

 何より全員が自分の意見を肯定的に受け入れてくれた事で、感謝と喜びの想いが溢れてくる。からかわれた事への怒りなど、そうした感情に飲まれ、薄れてしまった。

「……すみません。ありがとうございます」

「礼を言われるほどの事じゃないわ。そもそも危ないってのも状況証拠からの推測な訳で、もしかしたら『マグナ・フロス』はなーんも関係ないかも知れないし」

「それはそれで、個人的にはかなり残念な気持ちになるけどね。人間とはここまでアホなのかって」

 ミリオンのフォローに、星縄は肩を落として苦笑い。人間である花中も星縄の気持ちが分かり、思わず笑みを浮かべた。

「大変お待たせしましたー! ただいまより開園しまーす!」

 そうしていると特別温室の方から明るく、威勢の良い声が聞こえてくる。

 振り向けば、特別温室の大仰な扉が開き、人々がどっと押し寄せていた。ほんのついさっき付けた『暴徒』という呼び名が陳腐に思えるほどの勢いで、見ていると心臓が嫌な高鳴り方をしてくる。息も勝手に乱れ始め、頭の中も白く濁っていくような感覚に襲われた。

 無意識に花中がフィアの手をぎゅっと掴むと、フィアは花中の手を握り返してくれた。暖かく、柔らかな感触が、頭の中の緊張を解きほぐしてくれる。開いた手で胸をそっと抑えれば、心臓の鳴り方が落ち着いてきている事も分かった。

 みんなが居るから、きっと大丈夫。

「……うん。始まったみたいですし、行きましょう」

「そうね。さかなちゃん、はなちゃんから手を離しちゃ駄目よ?」

「この私がそんなへまをすると思うのですか? 花中さんの方から離そうとしても掴み続けますよ」

 頼もしい会話と共に、花中達も特別温室に向けて歩き出す。

 『マグナ・フロス』。

 六千九百万年前より蘇った古代種を目前にした花中の胸のうちを満たすのは、ほんの三時間前とは異なる興奮だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る