女神の美食2

 ずどんっ、という音が聞こえてきそうな分厚さ。

 褐色とは程遠い、鮮やかな赤色。

 雪のように真っ白な脂。

 どれもが理想的な姿だった。脂身はやや少なめにも見えるが、しかし個人的にあまりにもこってりとした肉は好きではないのでむしろ丁度良い。それは未だガラスケースの向こう側に置かれているが、今にも芳醇な肉の香りが漂ってきそうなほど魅惑的である。安易な悦楽を求めず、理想を追求して長い旅を続けた甲斐があった。

 此処こそが楽園エデンである。

「流石にそれは言い過ぎなのでは?」

「あ、うん。ちょっと、テンション上げ過ぎた、かも」

 等と調子に乗って語ってみたところフィアから冷静なツッコミを入れられ、花中はこくんと頷くしかなかった。とはいえこの程度で収まるほど、今の花中の胸中を跳ね回る興奮はちっぽけなものではない。

 何しろ、ようやく念願の牛ステーキ肉と対面出来たのだから。

 スーパーカチオンから ― 花中の鈍足でも ― 徒歩十五分。家からの道のりではカチオンよりもずっと近い場所にある商店街……そこの一角に立つ肉屋に、花中達は居る。目的は勿論、スーパーで買えなかったステーキ用の牛肉を購入するためだ。

 そして願いは通じ、肉屋には牛ステーキ肉がしっかり置かれていた。

 無論、あからさまに質の悪そうなものなら購入を躊躇しただろうが、見た限りその心配はあるまい。そもそも最初から心配などしていない。この店の店主が……肉にただならぬ情熱を注いでいる彼が、味の劣る粗悪品を自らの『コレクション』に加える事など許さないと、去年からそれなりの頻度で訪れている花中は知っているからだ。

「いやぁ、珍しいね。花中ちゃんがステーキ肉を買うなんて」

 色とりどりの肉が並んだショーケースの向こう側に立つ、花中の三倍はあろうかという大変恰幅の良い五十代ぐらいの男性――――この店の店主から尋ねられ、答えたのはフィアだった。

「なんでも急にステーキが食べたくなったみたいでして」

「成程。花中ちゃんも食べ盛りだし、そーいう事もあるだろうさ。いや、もしかしたらようやく成長期が来て、これからもりもり食べてどんどん大きくなるんじゃないかな?」

「えーそれは困りますねぇ。花中さんちっちゃくて可愛いのに」

「ははっ。確かにそれは困るかもなぁ。花中ちゃん、大きくなったら美人さんになりそうだし、そしたら目のやり場に困りそうだ」

 身を乗り出しながら伸ばした右手でぐしゃぐしゃと、店主は花中の頭を撫でながら快活に笑う。美人さんになりそう、と褒められて悪い気はしない。むしろ恥ずかしいぐらいで、花中は顔を赤らめた。

「しっかし今日はなんでうちに来たんだい? 今日は確か、カチオンの方がポイント三倍だったろう?」

 もしも彼が話題を変えてくれなければ、際限なく高まる恥ずかしさで頭が湯だっていたかも知れない。

 ぷるぷると頭の中の熱を振り払い、花中は火照り気味の顔を上げて店主の疑問に答える。

「カチオンさんにも、行きました。ただ、ステーキ用のお肉が、売れ切れでして……」

「この時間で? そんなに繁盛してるのかあそこ」

「どうでしょう……わたしも、この時間に、お肉が売り切れてるのは、初めて、見ましたし」

「店員も戸惑っていましたから偶々だと思いますけどね。肉ブームでも来てるんじゃないですか?」

「ああ、なんだ」

 心底ホッとしたように、店主は安堵の顔を見せる。彼に限らず商店街の人々からすれば、近所のスーパーほど忌々しいライバルはいまい。繁盛しているよりも、してない方が嬉しいのが正直なところだろう。或いはフィアがなんの根拠もなく告げた、『肉ブーム』という言葉への期待かも知れないが。

「おっと、無駄話が過ぎたかな。すぐに包むから待っててくれ」

 それでもそういった事を口には出さず、店主は人の良い笑顔を浮かべながらいそいそとをビニール手袋を嵌めて、肉を取り分ける用意をした。花中とてこの話を掘り下げたい訳ではない。欲しい肉の量を伝え、店主が袋詰めしてくれるのを大人しく待つ。

「ほい、九百八十円ね」

「はい。えと、千円で、大丈夫、ですか?」

「勿論。千円お預かりしたんで、ほい、二十円のお返し」

 そして現金を渡し、お釣りと、肉が入ったビニール袋を受け取れば売買成立だ。購入量は百グラム。品質の良いお肉とはいえ、半年も前ならこの半分の価格で買えただろう。『異星生命体事変』により供給が大きく落ち込み、国産輸入拘わらず食料品価格は大きく高騰しているのだ。掌に掛かる袋の軽さが重たい現実を突き付ける。

 尤も、値段が高騰している事など百も承知。それでも食べたいと思ったからこそ花中はこれを買ったのだ。不満などある筈もなく、ようやくステーキ用の牛肉を手に入れた花中は満面の笑みを浮かべた。牛肉の濃厚な旨味と香りのイメージが頭を満たし、生唾が溢れてくる。

「お買い上げありがとうございました。気を付けて帰りなよ、最近物騒だからさ」

「はいっ! すぐに帰って、冷蔵庫に入れときますっ」

 最早肉以外の事はどうでも良くなっていて、店主の言葉に生返事。そそくさとその場を後にしようとし

「すみません。最近物騒とはどういう事です?」

 フィアが尋ねなければ、花中はきっと店主の言葉の違和感に気付きもしなかっただろう。

 フィアのお陰で疑問を抱けた花中も足を止め、店主の方へと振り返る。尤も、よもや彼が何かしらの『失言』をしたとは思っておらず、実際花中が見た店主は今まで通りのスマイルを浮かべていた。

「ん? そんな大した話じゃ……いや、大した話か。実は一週間ぐらい前に、商店街近くの公園で遊んでいた女の子が行方不明になってるんだ」

「えっ……女の子が、ですか?」

「ああ。それもまだ四歳だって話だよ。可愛い盛りだろうに、親御さんの気持ちを思うと……」

 言葉を濁す店主に、花中は無言のまま静かに頷く。店主は既婚者で、高校生と中学生の娘が一人ずついると聞いた事がある。親の身ではない花中でも、想像しただけで胸が締め付けられるのだ。娘を持つ店主の気持ちは、そして娘が行方知れずとなった親の気持ちは、察するに余りある。

 重たくなる空気であるが、しかしフィアは全く気にした様子もない。魚である彼女には子供を失う悲しみなど理解出来ないし、此処に居ない人間の気持ちを慮るなど理解不能な考え方なのだ。ましてやあり得る可能性を伝えないなど、そんな『意味不明』な事はしない。

 だからフィアは自分の意見を言うのに躊躇いなどない。例えそれが、人間ならば思っても口には出さない可能性であっても。

「人間の子供って色々無謀ですからね。そこらを歩き回っていたら用水路にでも落ちてしまって今頃溺れ死んでいるんじゃないですか? もしくは林とかに迷い込んでしまい野垂れ死んでいるかも知れませんね」

 本当に躊躇なく述べたフィアの意見に、店主は僅かながら顔を顰めた。

 ここで彼が怒り出さなかったのは、やはり実際には他人事であり、尚且つフィアの考えが『現実的』であったからだろう。

「……正直、俺も最初はそう思ったけどね。四歳の子供なんて何するか分からないんだから、目を離しちゃ駄目だよって。ただ、どうも事故じゃなくて事件っぽいんだ」

「? 何故です?」

「他にも行方不明になった人が出たんだよ。それも三人も」

 店主は三本指を立てながら教えてくれた。

 一人目は七歳の男の子。

 二人目は十四歳の女子中学生。

 三人目は三十一歳の男性会社員。

 先の女の子を含めれば四人もの人間が、この町から消えていたのである。それもこの一週間で、尚且つ店主が事実だと確認出来た範囲で、という注釈付き。噂ではまだ他に十数人もの行方不明者がいて、近々警察は正式な発表と調査を行うとの事。

 ……という内容の『噂話』を、店主は大仰に語った。フィアはあまり興味がないのか大きな反応を示さなかったが、花中は目を丸くし、喘ぐように口をパクつかせる。

 店主は大事だと思っているようだが、では済まない。これが事実なら、あまりにも異常な状況だ。

 日本の年間行方不明者数は十万人、という話がある。実際には九割以上がその後 ― 生死は問わないものの ― 発見されているため、あくまで警察に出された申請の数でしかないが……その誇張された数から考えても、日本全体で一日当たりに出ている行方不明者数は約二百七十三人。人口比など考えず単純に割った場合、一都道府県当たりの行方不明者数は五~六人でしかない。ちなみに日本の市町村は全国で約千七百存在するので、一市町村当たりだと〇・二人/日以下だ。一週間で町の人間十数名が行方知れずとなれば、平均の五十~百倍ほど多い事になる。いくら細かな前提を抜きにした雑計算とはいえ、どう考えてもこの数字おかしい。

 果たしてこれは『事件』なんて言葉の範疇に収まるのか? とてもそうとは思えず、花中はぶるりと身を震わせる。

「まぁ何が原因か分かりませんが花中さんにはこの私が付いていますからね! 不審者だろうがなんだろうが花中さんを襲おうとしたら私がけちょんけちょんにしてやりますよ!」

 対してフィアは、全く恐怖など覚えていないようで。花中の肩を掴んで抱き寄せると、胸を張りながら自慢げに断言してみせた。どうせ花中の心境などさして気にしていないだろうが、肩に加わる握力がなんとも頼もしく、花中の胸中にあった恐怖は呆気なく握り潰されてしまう。

 店主も花中も、フィアの宣言で明るい笑顔を取り戻した。花中はふにゃりと頬を弛め、店主は心から安心したようにガハハと笑う。

「そりゃ心強いな! ま、実際行方不明になってる奴等は一人になった瞬間にいなくなってるみたいだから、誰かと一緒なら大丈夫な筈さ」

「む? そうなのですか。しかしそれでは花中さんを怖がらせる不審者をけちょんけちょんに出来ませんね。花中さんの傍から離れる気はないですし……」

「もう、フィアちゃんったら。目的、変わってるよ?」

 フィアの天然ボケのお陰で、淀んでいた空気が一気に和らぐ。と、緊張が解けた花中は忘れかけていた『急用』を思い出した。

 今し方買った、ステーキ用の牛肉だ。まだまだ暑いとはいえない気候だが、気温はそれなりに高い。常温で放置したら肉の質が落ちるどころか、性質の悪い雑菌が増えて食中毒を起こしかねない。折角の美味しい食事が、食中毒で台なしになるなどごめんだ。

「おっと、つい引き留めちゃったね。ごめんな」

 店主もその事を思い出したようで、本当に申し訳なさそうに謝ってきた。肉について拘る彼だからこそ、肉の品質を落としかねない真似をしてしまった事を恥じているのか。

 花中は気にしていない旨を伝え、ぺこりとお辞儀。行方不明事件について教えてくれてありがとうございます、と感謝を述べてから精肉店を出た。フィアも花中の後を追い、共に外へと出る。

 それからしばし、三十秒ほど歩いて。

「……………やっぱり、ちょっと急ごうかな」

 肉欲求がすっかり戻ってきた花中は、小走りでこの場を後にするのだった。

 ……………

 ………

 …

「ふぅん。行方不明者多発、ねぇ」

 大桐家リビングにて。カリカリとボールペンを走らせ書類への書き込みをしているミリオンは、さして興味がなさそうな返事をした。紙に書かれる芸術的美しさがあるミリオンの文字 ― どうやらドイツ語のようだ ― に見惚れそうになりながら、花中はこくんと頷く。

 肉屋から無事帰ってこられた花中は、早速肉を冷蔵庫に入れた後、ミリオンにお肉屋さんで聞いた話を伝えた。理由は単なる世間話であり……尚且つ、ミリオンはフィアよりも世俗に詳しいため何か知っているかもと考えたからである。

 無論、花中に『行方不明者』を探す義務などない。それでも自分の町で起きている事件となれば、関心ぐらいはある。知っていそうな友達が居れば訊いてみたくもなるもの。つまるところこれは世間話だ。

「そんな話、今日初めて聞いたわ。新聞にも載ってなかったと思うし、テレビでも見た覚えがないわね。ま、噂が正しいならこれから警察が発表するのだから当然だけど」

 だから彼女が何も知らなくても、花中は別段落胆もしなかった。

「そうですか……」

「なぁに、なんか気になる事でもあるの?」

「いえ、そういう訳では……ただ、やっぱり自分の、住んでる町で、大きな事件があったら、知りたくなるじゃ、ないですか」

「確かにね。はなちゃん小さいから、誘拐犯に狙われそうだし」

 くすくす笑いながらおちょくるミリオンに、花中はぷくりと頬を膨らませる。心配してくれるのは嬉しいが、子供扱いされる歳でもないのだ。

 尤も、ミリオン ― 以外にもフィアとかミィとか晴海とか加奈子とか ― が自分を子供扱いするのは今に始まった事ではない。抗議しても止めてはくれないだろうし、もうこのやり取りにも慣れた。ぷいっとそっぽを向いて、不機嫌さを露わにするだけにしておく……見ようと思えば目の位置など関係なく見える癖に、ミリオンは花中の反応に気付く『素振り』すらなかったが。

「安心なさい。もし目の前に誘拐犯が現れたら、とりあえず眼球を沸騰させておくわ。これなら安心して逃げられるでしょう?」

「逆に、トラウマに、なりそうなの、ですが……」

「冗談よ。グロテスクな光景は精神衛生上良くないものね。脳の血管を詰まらせるだけにしとくわ。これなら綺麗な死体の出来上がり」

「死体そのものが、トラウマ発生装置なんですけど……」

「だから冗談だってば」

 げんなりする花中に、ミリオンは如何にも楽しそうにくすくすと笑う。果たしてどこまでがジョークで、どこからが本気なのやら。ジョークだとしても彼女は意外と、いや、ある意味ではフィアよりも感情的である。自分の『大切なもの』を傷付けられそうになったら、やらかさないとも限らない。

「ふふん花中さんご安心を。こんな奴に頼らずともこの私が花中さんをお守りしますからね!」

 尤も花中じぶんの隣で胸を張っているフィアに任せれば安心かといえば、そうとも思えない訳で。感情をオブラートに包むどころか装飾すらしない彼女に、自制という言葉があるとは思えない。『大好きなもの』を傷付けようとする不埒者がどうなるか、考えるまでもないだろう。

 それに。

「……一応訊くけど、行方不明になってる人を、探してくれたりは」

「嫌ですよ面倒臭い。花中さんへの誕生日プレゼントを買うためならばまだしもそうでない時に無駄な事はしたくないです」

「私もさかなちゃんと同じ。はなちゃんが無事なら、他の人間なんてどーでも良いし」

「ですよねぇ」

 分かりきっていた答えに、花中は乾いた笑みを浮かべた。

 とはいえ花中がそうであるように、フィア達にも行方不明者を探す義務や責務はない。能力的には可能だろうし、難しくもないだろう。しかし、だからやってくれ、やらないのは不誠実だ、というのは……出来ない側からの『わがまま』であり、『脅し』だ。友達とはいえ、そこまで強引に頼み込むのは気が引ける。

 本当に行方不明者がいるのなら、親族や知人が警察に捜索願いを出している筈だ。人間の事は全て人間がすべきとまでは思わないものの、人間だってちょっとは頑張らないと駄目だろう。某児童向けSF特撮番組に出てくる銀色の巨人もそう言っている。そもそも花中が肉屋の店主から訊いたのはあくまで噂話。店主を信用してない訳ではないが、何処まで本当かは分からない。それに噂が本当だとしても、偶然という可能性もある。

 ここで自分が首を突っ込んでも、大して役には立たない。警察に任せるのが正解だろう。

「それなら、良いよ。わたしが気になった、だけだし」

「そうですか。まぁ先程はああ言いましたが偶々近くで人攫いなりなんなりが現れたら知らない人間でも助けてあげない事もないですよ」

「……うん、ありがと」

 フィアなりの気遣いだろうか。基本的に ― 野生動物なので当然といえば当然だが ― 利己主義な考え方をするフィアからの『優しい』言葉に、花中は笑みが零れる。花中の笑顔を見て、フィアもまた楽しそうに微笑んだ。

 えへへ。うふふ。なごやかな声を漏らしながら、花中とフィアは互いに見つめ合う。花中は殆ど無意識にこの状態だ。間もなく一年が経とうとしているリア充状態(花中的定義:友達が一名以上いる状態を指す)であるが、花中は相変わらずフレンドリー大好きで、未だ割と簡単に我を失う。

「あ、そうそう。イチャイチャしてるところ邪魔して悪いけど、はなちゃんちょっと質問しても良い?」

 なのでミリオンから声を掛けられるまで自分の状態に気付かず、声を掛けられた途端、花中は顔を赤らめた。それからそそくさとフィアから離れ、ぷるぷると顔を横に振る。

 忌々しげな目付きでミリオンを睨んでいるフィアは一旦置いておき、花中はミリオンと向き合った。

「は、はい。えと、なんでしょうか?」

「冷蔵庫の中をしっかり探した訳じゃないから私の思い違いかもだし、そもそも必要ないかもだけど……ステーキソースって、うち、あったっけ?」

「……え?」

「だから、ステーキソース。今回の買い物では買ってきてないみたいだけど」

 ミリオンからの問い掛けに、花中はポカンと口を開けたまま固まってしまう。が、これはミリオンの質問の意味が分からなかったからではない。

 その証拠に、花中の顔は見る見るうちに青くなっていったのだから。

 最早病的なほど真っ青になった花中は、ミリオンの問いに答えぬままリビングを駆ける。向かうはキッチン。冷蔵庫の前に立つや花中は勢いよく扉を開け、溢れ出す冷気の中に顔を突っ込んだ。

 ない。

 ない。

 何処にもない!

 何処を探してもない……ある訳がない。普段、花中はがっつりとした肉料理を食べない。だから『あれ』を常備したところで使いきる前に賞味期限切れになってしまうからと、必要な時だけ小さいのを買って、普段は用意していないのだから。理性ではそんな事はとっくに気付いていて、延々と冷蔵庫の中身を見渡しても無駄であると訴えている。しかし感情が『論理的思考』を拒絶していた。

 認められない。ここでそれを認めては、自分の『完璧な計画パーフェクト・プラン』が瓦解してしまう。

 ……なんて、小難しい事を考えている花中であったが、

「ステーキソースを買い忘れてしまったのですか?」

「ぐふぅ」

 バッサリと飛んできたフィアからの質問が、完全無欠の正解だった。力なく項垂れながら、花中は「……うん」と掠れるような小声で答える。

 ステーキなんて滅多に食べないものだから、うっかり失念していた。無論ステーキソースがなくてもステーキは食べられる。塩コショウのシンプルな味付けも良いし、ガーリックオイルで焼くのも想像だけで涎が出そうだ。

 だが、今日はステーキソースの気分である。

 ステーキソース以外でもそれなりの満足感は得られるだろう。されど今日はそれでは駄目なのだ。市販のステーキソースの、あの如何にも身体に悪そうな濃い味付けで肉を喰らいたい。分厚いステーキを用意して、後は晩ごはんまでウキウキワクワクしたいのに、こんな些末な『落ち度』があっては心から楽しめない。

「……お昼ごはん食べたら、もう一度買い物に、行こう」

 最早後には退けぬとばかりに、花中は本日二度目の買い物を決定した。

「そう。留守番はしとくから、のんびりいってらっしゃい」

「花中さんが行きたいのなら私は構いませんよ。ところでステーキソースって何処で買うのですか? あのお肉を買った肉屋さんに置いてありましたっけ?」

「ううん、あそこは、お肉しか置いてないから……ちょっと遠いけど、スーパーに、行こうと思う」

「そうですか。まぁ花中さんと一緒なら何処でも同じですけどね」

 フィアもミリオンも花中の決定を小馬鹿にするでもなく、淡々と受け入れる。ミリオンからすれば買い物に行くだけなので行動を縛る理由もなく、フィアは言葉通り花中と一緒ならなんだって良いのだろう。

 つまりは優しさではなく、無関心からの態度だった。実際ただの買い忘れであって、大した話ではない。だけどこうして第三者から気遣いなしに「大した事じゃない」と言われると、花中は胸がすっと軽くなるのを感じた。失態で落ち込んでいた気分もいくらか上々となり、顔には自然と笑みが戻ってくる。

 それでも一つ、拭えない不安があるとすれば。

 ステーキ用のお肉の売り上げが好調だったあのスーパーでは、きっとステーキソースもたくさん買われているという事だけだ……





















「ふんふんふふん、ふんふふんふーん」

 商店街の肉屋にて、店主は上機嫌な鼻歌を奏でていた。

 今日はそこそこ高価な肉が売れた。

 彼には肉屋としてのプライドがある。だから安物の肉でも、品質の悪いものは置いていない。高価な肉でも安物の肉でも、売れれば等しく嬉しい……が、それと売り上げの善し悪しは別問題。肉が売れねば利益が出ず、利益が出なければ生活が成り立たない。独り身ならば自分が苦しいだけで済むのだが、店主は妻子持ちである。貧乏によって家族までも苦しめる訳にはいかない。

 そして昨今は異星なんちゃらのせいで肉の価格が高騰し、売り上げが低迷気味。給料が上がらず食料品の価格が倍以上になったのだから、みんなが安い食品を買い求めるのも仕方ない事であるが、仕方ないで済んだら人は共産主義に走らない。今日はどれだけ売れるだろうかと不安を覚えていたが……常連さん花中がそれなりに高級な肉を買ってくれた。お陰で明日も家族に美味しいご飯を食べさせる事が出来そうだ。

 そんなこんなで機嫌良く店内の掃除をしていたところ、カランカランと、店のドアに取り付けた鐘の音がした。お昼間際で客の大半をランチやレストランなどに取られているこの時間帯に来店とは、売り上げが落ちている最近では殊更珍しい。花中の友人が言っていたが、どうやら知らぬ間に肉ブームが来ているようだ。

「はいよ、いらっしゃーい。今日はどんな御用、で……」

 期待いっぱいの笑みを浮かべながら、店主は店の出入り口の方へと振り向いた――――直後、その身体を強張らせる。

 彼が見た先に居たのは、一人の淑女。

 栗色の髪が麗しく、気品溢れる佇まい。すっかり肉付きの良い身体となった自身の妻では相手にならない ― ただし三十年前なら良い勝負だとは思っていたが ― ほどの美女が店を訪れたのだ。こう言っては難だが、見た目の雰囲気からして商店街の肉屋などまるで似合わない。予想外の人物を前にして、店主の思考はすっかり固まってしまった。

「ええ、ちょっとお肉が欲しくて」

 ただし『彼女』からのこの一言があるまで、だ。肉が欲しい、という事は客である。客ならば変な気遣いはいらない。丁寧かつ物怖じせず、堂々と自慢の商品を選ばせれば良い。

 ……普通の客より、ちょっとお高い肉も買ってくれそうだ、との皮算用はしていたが。

「そうですかい。ご希望はありますかい?」

「ええ、勿論。もうさっきから良い匂いがして、欲しくて堪らないんですの」

「ははっ! 意外と食いしん坊なようで。取り分けますから指差して教えてくれます?」

「あ、そんな気遣わなくても大丈夫ですわ。わたくし自身が切り分けますし、それにその状態ではもう無理でしょう?」

「……はい?」

 『彼女』は何を言っているんだ? 意味が分からなくて店主は顔を顰めるも、段々と苦悶の表情に移り変わる。

 痛い。熱い。熱い、熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い。

 右手から走る、感じた事のない激痛。若い頃調子に乗って指を半分切った時すら比較にならない、例えようのない刺激。客の前だからと我慢していたが、段々脂汗が浮かび、全身がまるで錆び付いた機械のように強張るのを感じる。

 やがて無意識に、店主は自分の右手を見た。見た筈だった。

 なのに見えない。

 ある筈の右手が、手首から先が、消えていた。

「……あ、え……?」

「んふぅう! これは、凄いですわ……! 残り香だけでこんなにも美味なんて! ああ、もしもお肉の方を食べたなら、一体どれほど美味しいのかしら……!」

「え、え?」

 戸惑う店主の前で、『彼女』は光悦とした表情を浮かべながら、もぐもぐと何かを咀嚼していた。『彼女』の口からは赤い液体が垂れ、されど一滴も落とさないとばかりに、何十センチにもなる舌が伸びて綺麗に舐め取る。

 店主の目には、『彼女』の口から垂れていた液体と、自分の手があった場所から溢れる液体が同じ色に見えた。手首の先はまるで何かに食い千切られたかのように汚い断面をしており、溢れ出る液体は止まる気配がない。痛みは徐々に弱まるが、同時に頭痛や寒気も襲い掛かる。産まれて初めての、過去に体感した事のない苦痛だ。

 しかし店主は、最早自分の手が何処に行ったかなどどうでも良かった。

 『彼女』が自分を見ていたから。慈しむように、期待するように、愛するように。

 さながら、自分が市場で魅惑的な『肉』と出会った時のように。

「ひっ、ひぃうぐっ!?」

 反射的に飛び出る悲鳴は、猛獣が如く勢いでやってきた何かによって塞がれた。藻掻く身体にぎちりと巻き付き、百キロを優に超えている店主の巨躯を、スポンジでも絞るかのように締め上げる。

「勿論、あなた自身も大変美味しいですからお残しなんてしませんわ。ええ、床に落ちてしまった血も一滴たりとも残しません。では、いただきます」

 『彼女』の言葉は、既に店主には届かない。動かなくなった店主の身体は易々と持ち上げられ、『彼女』の下へと引き寄せられる。

 そして……

「ふふんふふんふふーん」

 道を歩く、一人のふくよかな女性。商店街でも有名な、肉屋のおしどり夫婦の妻である。

 井戸端会議仲間とティータイム ― 商店街の喫茶店使用 ― を堪能した彼女は、旦那の昼飯を作るため自宅でもある店へと向かった。あの旦那はもう五十になるのに飯の一つも作れないのかと時々呆れたくもなるが、毎日美味い美味いと言われながら食べるものだから、ついつい作ってあげたくなってしまう。

 のしのしと足音を立てながら、巨体に見合わぬ軽快な足取りで妻は商店街を突き進む。やがて見慣れた我が家の前に辿り着いた彼女は、自宅に入るための裏口ではなく、旦那が切り盛りしている店へとつながる表口から帰宅する。

「ただいまー……ありゃ?」

 それから元気よく帰宅を告げたが、妻はすぐに呆けてしまった。

 本来店主が居る筈のカウンターに、誰も居ないのだ。ショーケースから身を乗り出して店の奥を覗き込んでみたが、やはり店主の姿は見えない。耳を澄ませてみたが、物音や話し声も聞こえなかった。

 とはいえ、妻にとってこれは予想外の状況でもない。どうにも自分の旦那は人が良く、頼まれると快く手伝いに行ってしまう悪癖がある。いや、これだけなら別に悪くはないのだが、その際後先を全然考えないため、戸締まりもなしに出掛けてしまう事が多々あるのだ。

 商店街に泥棒が現れた、なんて話は最近聞いていない。商店街なので人通りも多く、監視の目だってたくさんある。が、だからって現金や商品を置いている店に鍵も掛けずに出て行く奴があるか。

 これは後で説教だなと考えながら、取り敢えず店を留守にするのは不味いと妻は素早く動き出す。店の表口から出た彼女は急ぎ足で裏口から自宅へ。荷物を適当な場所に置いてからエプロンを装備し、店へとつながる扉を開ける。扉の先はカウンターの裏側で、そこに置かれている消毒用アルコールで手を洗い、清潔な紙で手を拭けば準備万端。無論、使い捨てのビニール手袋がある事も確認しておく。

 全ての支度を終えた妻は普段店主が座っている椅子にどっしりと腰掛け、一息吐いた。

「全く、一体何処をほっつき歩いているんだか。帰ってくるまで、説教の内容でも考えておこうかね」

 気儘で考えなし、優しくて頼りになる旦那の帰りを、妻は待つ。

 気長に、何時までも。

 何時までも――――

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