第九章 女神の美食

女神の美食1

 四月も半ばを迎え、春真っ盛りとなった今日この頃。

 満開だった桜は花が散り始め、ところどころに葉の色が混ざるようになってきた。日差しはポカポカと暖かく、穏やかなそよ風と相まって眠気を誘うだろう。

 しかしながら、春といえば目覚めの季節でもある。

 数多の草花が芽吹き、動物達も次々と活動を始める。生き物が多いという事は、食材も多いという事だ。春の食べ物といえば、野菜ならカブやタケノコ、魚ならメバル……他にも色々な食材が旬を迎える。

 人間は科学の力によって安定的な食糧供給を為し得たとはいえ、旬の美味しさには敵わない。人もまた動物である以上、季節に合った食べ物を身体が求め、その求めに応える事以上の幸福など早々ないのだ。

「今日の夕飯はお肉食べたいなぁ。なんというか、具体的にはすごく牛肉が食べたい」

 などという考えを真っ向否定するかのように、花中は唐突にそう独りごちた。それも午前九時半という朝っぱらから。

 大桐家のリビングにて、その言葉を聞いたフィアは目をパチクリ。ソファーに座ったままキョトンとし、愛らしく首を傾げる。

「……花中さんって牛肉そんなに好きでしたっけ?」

「ううん、そんな事は、ないけど。なんか、今日はもーれつに、牛肉をがっつり食べたい気分なの。豚でも、鳥でもなく」

「はぁそうなのですか」

 納得したような言葉を、フィアは首を傾げたまま伝えてくる。どうやらあまりピンと来ていないらしい。

 花中は普段あまり肉を食べない。

 魚はそれなりに食べるので、正確には牛や豚などの『獣』の肉を摂らない、と言うべきか。一応これでも食べ盛りなので肉も好きではあるが、それよりも野菜や魚の方が好みなので、そちらをメインにした料理ばかり作ってしまう。故に普段は、味や風味付け程度に欠片ぐらいの大きさのものを使うのが精々。そういった食事を日々見ているフィアには、花中が肉をがっつり食べたいと言っても半信半疑なのだろう。

 尤もフィアは、だからそれを止める、なんて事をするタイプでもなく。

「まぁ良いんじゃないですか? 花中さんちっちゃいですからもっと栄養のあるものをたくさん食べた方が良いと思いますし」

「……別に、タンパク質は、魚で取ってるもん」

「おお怖い怖い」

 『魚』であるフィアは肩を竦めながら、しかし前言を撤回したりはしなかった。別段背の小ささをさして気にしてはいないが、おちょくられて平気なほど無関心でもない。まるで堪えていないフィアの態度を見て、むにゅっと、花中は唇を尖らせる。

 それはさておき。

 食べたいものを決めたは良いが、では作ろう、という訳にもいかない。何しろ花中は普段あまり肉を食べないのだ。今の大桐家の冷蔵庫には、牛要素のある食材は合い挽き肉ぐらいしかない。それだって先日麻婆豆腐を作るのに使って、半分しか残っていない有り様である。これっぽっちでは今の花中の牛肉欲求を到底満たしてはくれない。今の花中はもっと肉々とした牛肉が、具体的には分厚くてジューシーな牛ステーキとかを食べたいのだ。

 ならば買い物に行くしかあるまい。

「兎に角そーいう訳だから、今からスーパーに行くけど、フィアちゃんも、来る?」

「勿論ご一緒しますよ」

 尋ねてみればフィアはソファーから立ち上がり、背伸びを一つ。スッキリとした表情を見せ、すぐにでも行けると目で訴えてくる。

 花中も肉衝動に襲われる前から今日は買い物へ行くつもりだったので、既に外出用の格好をしている。可愛らしい花柄の入った長袖のシャツと、動きやすいズボンという服装だ。身支度だって済ませてあり、お財布を持てば何時でも出立可能である。

「うん、それじゃあ、すぐに行こう。今日は、カチオンさんに行こっか」

「かちおん? ああよく学校から帰る時に立ち寄るスーパーですね。でも家から向かうならあっちより商店街の方が近くないですか? 商店街にもお肉屋さんはあったと思うのですが」

「えと、チラシ見たら、今日はカチオンさん、ポイント三倍みたいだから……」

「……それだけの事でわざわざ遠い方に行こうという気に何故なるのか私にはさっぱり分かりません」

 まぁ花中さんとお喋りしながら行けるのでしたら何処でも構いませんけど。

 そう付け足すフィアの言葉にくすりと笑みを零してから、花中はテーブルの上に置いてあるお財布を掴み、玄関へと向かう。そして花中は外出用の靴を履き、玄関戸に手を掛けた

「あ、そうだ。ミリオンさんも、一緒に、来ますか?」

 ところでふと思い出し、花中は家の中へと振り向いて尋ねる。

 家の中には、花中とフィア以外の姿はない。が、そんなのは『彼女』の存在の有無を何一つ証明しない。

「んー、今日は遠慮しておくわ。ちょっと片付けたい仕事があるから」

 何故なら彼女――――ミリオンは自身の身体を霧散させる事で、姿を自由に消せるのだから。

 声と共に姿を現したミリオンは、何故か真っ黒な女性用スーツを身に纏っていた。勿論ウイルスの集合体である彼女にとって服とは自ら作り出した物である。如何にもキャリアウーマン風の身形は大人びた印象があり、中々カッコいい。普段はだらりと垂れ下げている黒髪をポニーテール状に纏めており、それも凛とした雰囲気を作る一因となっている。

 実に決まっているファッションであり、大変麗しいが、初めて見る格好だ。何故にそんな格好をしているのかと花中は首を傾げる。

「ふんっ。別にあなたは来なくて結構です。というか仕事ってなんですか? なんか大人の人間がよく着ている格好してますし」

 それはフィアも思ったようで、しっかり嫌悪感を剥き出しにしながら花中よりも先に尋ねた。普段から軽口を叩き合う仲であるミリオンはフィアの前口上はさらりと無視し、後半の質問にだけ答える。

「どーせ覚えてないでしょうけど、少し前に話したでしょ。『あの人』からもらった遺産があるって。あれの管理とか申請で役所に色々書類出さなきゃいけないのよ。おまけに国外の話だからもう郵送の手配やらなんやらが大変で……」

「はぁ。なんだか面倒臭い事してるのですね」

「ほんと、面倒臭いわ……なんで人間って、こんな面倒な仕組みばかり作るのかしらね」

 フィアの無頓着な感想に、ミリオンは心底同意しているようだった。人間花中は思わず苦笑い。

 ともあれ、ミリオンには予定があると分かった。無理に誘う理由もないのだから、素直に留守番をお願いするとしよう。

 何より、そろそろ

「えと、それじゃあわたし達、そろそろ……」

「あっと、ごめんなさい。早く行かないと、美味しいお肉を他の人に買われちゃうものね」

 花中が玄関戸のノブを握りながら外出の意思を伝えると、ミリオンはにこやかに微笑みながら何もかも見透かしてきた。花中は顔を朱色に染め上げながら俯き、しかし握り締めたノブは離さない。

「い、いってきます!」

 力強く戸を開けた花中は、逃げるような早足で家を跳び出した。恥ずかしさで染まった顔に、見送ってもらえる嬉しさと、わくわくを乗せた笑みを浮かべながら。

 目指すは近所のスーパー。

 花中は今にもスキップしそうな足取りで、追い駆けてきたフィアと共に突き進む。

 そして……

 …………

 ………

 …

「……なんで?」

「いや私に訊かれましても困るのですが」

 唖然となる一人が漏らした呟きに、あまり興味がなさそうな一匹は律儀に答えを返した。

 スーパーカチオン。花中達が暮らす町にある中では、一~二を争う規模の大きさを誇るスーパーマーケットである。

 特に食品関係が充実しており、今は春の食材がずらりと並んでいた。春キャベツの瑞々しさ、青々としたアスパラガスの色合い、ぷりっぷりに太ったホタルイカ……旬の食べ物が来店者を惑わし、無用な出費を強いていく。店内を歩き回る人々の目から理性は薄れ、微かながら野生が蘇っている様子だ。

 とはいえ、花中は普段から買う物を決めてからスーパーに出向くタイプ。加えて今日は牛肉をずどんと食べたいのだ。ケモノ感の足りない軟体動物に用はない。タンパク質の乏しい植物共など目にも入らない。入店するや、花中の足は真っ直ぐ精肉コーナーに向かっていた。

 そして花中にとってこのスーパーは、よく買い物に訪れる店の一つだ。当然お肉が何処に並んでいるか、完璧に把握している。特売シールやお買い得品の棚をも素通りし、花中は(ついでに彼女の後ろを付いてきたフィアも)最短コースで精肉コーナーに辿り着いた、筈だった。

 なのに。

「なんで……なんで全然売ってないのぉ!?」

 花中を待ち受けていたのは『品切れ』という悲しい現実だった。

 何時もならずらりと並んでいる筈のお肉が、何故かすっからかんになっていたのである。それも今の花中が求めていた、ステーキ用の牛肉がごっそりと。ついでとばかりに豚肉も品薄のようである。

 確かに肉類は生鮮食品なのだから、常日頃から山ほど在庫を抱えている訳ではないだろう。しかし今の時刻は十時半。開店して三十分しか経っておらず、その短時間で店頭に出てきたお肉が全て売れてしまうなど考え難い。昨年末の『異星生命体』襲撃事変の影響で極端な品薄になったという可能性も浮かんだが、周りを見る限り、品切れは牛肉だけで起きているらしい。

「あ、あの、すみません。今日って、ステーキ用の、牛肉は……」

 あまりにも不可解な状況に、花中は近くを通り掛かった店員 ― 中々気の強そうな雰囲気のおばさんだ ― に思わず尋ねていた。店員は花中の質問を受けてショーケースに顔を向けると、驚いたように目を見開く。それから彼女も動揺したように、困り顔を浮かべた。

「んん? おかしいわね、開店前はそれなりに並べた筈なのに……」

「えと、お店が開く前は、そこそこ置いてあったの、ですか?」

「ええ。私が並べたから間違いないですよ」

「その、在庫、とかは……」

「……ごめんなさい。置いてある分で全部でして。最近って『宇宙人』のせいで、品不足なんです」

 だけど置いていた量が少ないって事もなかったと思うのですけど――――店員の説明で、花中はますます困惑してしまう。

 入荷量が普段と変わらないのなら、何故売り切れになっているのか。ポイント三倍の影響? いや、そのサービスは他の商品にも適応される。牛肉だけが品切れになる理由とはなり得ない。

 なら、バラエティ番組などで牛肉が身体に良いとでも放送され、ブームになっているのだろうか? しかしそういったブームがあるという話は、テレビだけでなくネットでも聞かない。二~三日に一度は買い物をしているが、そういったブームが起きている兆しも感じられなかった。この線も薄い。

 では、偶然にも今日は町中の人がステーキを食べたくなったのだろうか? ……否定する要素はないが、肯定するに足る根拠もない。

 納得のいく答えが見付からず、花中はおろおろしてしまう。ややあってから店員が困ったように立ち尽くしている事に気付き、花中は感謝の言葉を伝えてお仕事に戻ってもらった……その後の花中は呆然と立ち尽くし、物寂しいショーケースを眺めるばかり。

「どうします? 一応鶏肉はたくさん残っているようですし豚も幾つか残っているようですが」

 フィアから尋ねられても、しばし答えは返せなかった。

 フィアが言うように、鶏肉は十分な品揃えである。豚肉についても同様だ。チキングリルも十分お肉っぽさを味わえる料理だろうし、ポークソテーだって美味しい。肉料理のレパートリーはいくらでもある。

 だが、今日の花中のボディは牛肉ステーキを所望しているのだ。まさか買えないとは思っておらず、際限なく高めてしまった期待は今更裏切れない。そして人間には『損失回避バイアス』……利益よりも損失を極端に恐れる傾向がある。別段牛肉を食べても利益はないかも知れないが、諦める事は精神的な『損失』だ。

 正気じゃないのは重々承知。されど今は牛肉が欲しいのだ。肉を手にするのに正気は必要か?

 否である!

「……次のお店、行こう」

「へ?」

「次のお店に行こう。まだスーパーは、他にもあるし、近くには、商店街のお肉屋さんも、あるんだから!」

 言うが早いか、花中はそそくさとスーパーの出口目指して歩き出した。フィアは豚肉や鶏肉の置かれたショーケースを一瞥してから肩を竦め、花中の後を追う。

 次の目的地は商店街のお肉屋さん。しかし此処のお肉が全滅しているとなれば、肉を欲する主婦達は当然次はそこを目指す筈。あまり大きなお店ではないので、急がねばそこでもステーキ用の牛肉が売り切れてしまうかも知れない。

「ほら、フィアちゃん早くいこ!」

「いや花中さんの足が遅いだけだと思うのですが」

 フィアのツッコミを無視して、花中はずんずんと力強く歩んでいく。当人花中としては意気込んだ結果なのだが、ちっちゃな手足を大きく振る様はまるで子供の行進である。

 目の当たりにした人々を、ついでに同行する人外を笑顔に変えながら、花中はスーパーカチオンを発ち――――















 そんな花中の背中を、『彼女』は調味料コーナーの棚の影から見つめていた。

「ああ、なんて事なのかしら。ようやく会えたのに、我慢出来ずに食べてしまった所為でお腹が膨れてしまいましたわ。まだまだ食べられますけど、最上は味わえませんわね……」

 『彼女』は憂鬱げなぼやきを零し、最後にため息――――ではなく、その喉をぼこりと膨らませ、べしゃりと大きな塊を吐き出す。

 塊の正体は、発泡スチロールで出来たトレイや透明なビニールだった。涎でべちゃべちゃに濡れたそれは床に小さな水溜まりを作り、汚していく。あからさまに穢らわしい物体であるが、しかし涎以外の、例えば生の『肉汁』などは一滴たりとも残っていない。さながら犬が卑しく舐め続けたお椀のように、つやつやとした輝きだけを放つ。

 『彼女』の足下にはそのような塊が幾つも、いや何十と転がっていた。しかし『彼女』はこの事実など見えていないかのように、今居る場所から動こうとしない。ただただ、後悔するように顔を俯かせるだけ。

「ちょっと、あなたそこで何してるの!?」

 やがて誰かが『彼女』を見付けるのは必然だった。

 驚き半分、そして批難半分の声で呼ばれ、されど『彼女』は驚いたり怯んだりする素振りすらなく、のんびりと振り返る。

 声を掛けてきたのは女性店員だった。なんとも気の強そうな雰囲気をした中年女性で、その眼差しは猜疑心と嫌悪、加えて敵意に満ちている。『彼女』と女性店員の間に面識などないのに。

 されど『彼女』は、何故女性店員が自分に敵意を向けるのかよく分かっていた。

 何しろ自分の足下に転がるトレイ達は、かつて、このお店に並ぶステーキ肉を載せていたものなのだから。

「あなた、そこに散らばるトレイは何!?」

「……………」

「黙ってないで答えなさいよ!」

 女性店員に問い詰められるも、『彼女』は否定も肯定もせず、言い訳をしたり支離滅裂な叫びを上げたりもしない。逃げ出す素振りもなければ、威圧してくるでもない。

 『彼女』はただ、自分を問い質す女性を見つめるだけ。

 物欲しげに。

 そして、愛おしげに。

「な……何よ、なんか言いなさいよ!」

 あまりにも異質な眼差しに、問い詰めていた筈の女性店員は静かに後退りしてしまう。

 瞬間、『彼女』はその隙間を埋めるように、目にも留まらぬ速さで女性店員に歩み寄る。あまりにも唐突、何よりも異質な動きを目の当たりにし、女性店員は思わずといった様子で大口を開けた。

 しかし女性店員の口が、声を出す事はなかった。

 何故なら彼女は、忽然と姿を消してしまったのだから。

「……けぷっ。ああ、またつい食べてしまいましたわ。でも満腹感の幸せには抗えません……いえ、満腹には、ちょっと物足りないですけど。どうせですし、あともう一人ぐらいいただくとしましょう」

 『彼女』は光悦としながら独りごち、らんらんとした足取りで店の出口に向けて歩き出す。

「ねぇ、太田さん何処行ったか知らない? ちょっと肉類の売り上げと今の在庫数が合わないって、店長が言ってるんだけど」

「ん? 太田さんならそこに……あれ? 何処行った?」

「あー、私まだ見回るから、わざわざ探さなくても良いよ。見付けたら伝えといて。お肉のパック並べたのあの人だから、今朝の在庫数把握してんのは間違いないし」

 こんな会話を交わしている店員達の横を通っても、『彼女』の歩みが鈍る事はなかった……

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