母なる者4
ミリオンに連れられた花中達がやってきたのは、絶景としか言えない砂浜だった。
海側以外の三方を無数の大岩で囲まれたその砂浜は、幅にして十メートルぐらいしかない。ゴミ一つ落ちていない砂は、ほぼ真上まで昇った太陽の光を反射して宝石のように煌めいている。海の水も透き通っており、波打ち際は穏やか。遠い南国にでも迷い込んだのではと錯覚しそうだ。
それでも此処が日本だと、そしてあの侵入すら難しそうな海水浴場の近くだと実感出来るのは、音があるから。あの大混雑していた浜辺からは一キロと離れておらず、巨大な喧騒が微かに聞こえてくるのだ。逆に言えば、あの海水浴場を思い出させるものはその微かな音しかない。
間違いなく、この場所は穴場だ。人っ子一人、影も形もないぐらいの。
「どうよ、此処は。かなり良くない?」
「ふむ。あなたにしては悪くない働きですね。褒めて差し上げましょう」
「岩場があるのは良いねー。身体が沈まないで済む」
そんな素敵な浜辺を前にしてフィア達人外は心底楽しそうにはしゃぎ、
「良い訳あるかーっ!」
人間代表として、水着姿の晴海が声を荒らげた。
晴海の抗議の言葉に、同意するように花中も頷く。震える身を縮こまらせ、着ている水着を隠すように自身の身体を抱き締めながら辺りを忙しなく見回した。
花中は不安だった。誰かに自分達の姿を見られてしまう事を。
何しろ砂浜への進入ルート上に堂々と立て掛けられていた看板曰く――――此処は遊泳禁止の区画なのだから。周りは怪我を招きかねない岩がゴロゴロと転がり、海域にはサメ避けネットなどが張られていないのだから、至極当然の措置と言える。
こんな場所で遊んでいるところをお巡りさんにでも見られたら、厳しく怒られてしまうだろう。そうなったら恥ずかしいし、方々に迷惑を掛けて申し訳ない事になる。
しかしミリオンは人間達の抗議を受けても悪びれる様子すらなく、わざとらしく肩を竦めるだけだった。
「あら、どうしたの? 何か不満?」
「不満も何も、遊泳禁止エリアじゃない! 泳いじゃ駄目って書いてあったでしょ!」
「書いてあるけど、私達は人間じゃないから関係ないし。それにさかなちゃんが居るから水難事故もサメも怖くないわよ?」
そう言いながらミリオンはフィアを指差す。名でも指でも指されたフィアは、威張るように胸を張った。水着姿で、大胆に露出した ― 偽物の ― 胸がぷるんと揺れる。
確かに、フィアが居るなら事故もサメも怖くない。水を自在に操れる生命体にとって、海流や水生生物など脅威どころかコントロール対象である。フィアの能力がどの程度の範囲まで及ぶかは分からないが、かつて彼女は山に溜めた一億トンの水を制御してみせた。数百メートル圏内の海域を安全地帯にするぐらいは造作もないだろう。
理屈の上では、ミリオンが言うようにルールを無視しても問題は起こるまい。しかしルールを守るというのは、理屈云々で全て済むような話ではないのだ。
「そ、それでも、あの、やっぱり、ダメだと、思います……わたし達は、あ、危なくは、なくても、見ている人が、安全だと、思って、来るかも、知れないです、し」
「そうよ! 自分達は大丈夫って考えが一番駄目なんだから!」
俯きながらも花中が言葉を絞り出せば、晴海も賛同してくれる。
頼もしい援軍に花中は笑みを浮かべ、このまま一気にみんなを説得しようと口を開けた
「ひゃっはー! もう我慢出来ねぇ!」
瞬間、今まで押し黙っていた加奈子が動いた。
全速力で砂浜を駆け、躊躇なく海に跳び込むという、割と最悪な形で。
「「……………」」
「……あの子、ほっといて良いの?」
あなたは入園したての幼稚園児ですか――――そんな言葉が脳裏を過ぎる花中だったが、ミリオンの一言で我に返る。
フィアはまだ海に入っていない。なので恐らくだが、彼女は海水を操っていない筈である。フィアが入水するまで加奈子の安全は保障されていない。極論だが、今この瞬間浅瀬まで来ていたサメが、無防備な加奈子の頭を食い千切ってしまうかも知れないのだ。
なんとか加奈子を浜辺に呼び戻さないと。だけど……
「人間はほんと面倒な生き物ねぇ……さかなちゃん、猫ちゃん」
「「あいあいさー」」
悩んでいるとミリオンの号令が。フィアとミィは一瞬で察したのか頼もしく返事をし、何故か花中達の傍までやってくる。
そして軽々と、フィアが花中を、ミィが晴海を肩に担いだ。
「え、ふぇっ!?」
「な、何する気!?」
「んーそうですねぇ」
「渋る輩は無理やり共犯にしちゃえって感じ?」
戸惑う人間達に、動物二匹はニッコリと微笑み返す
のも束の間、彼女達は投げた。
小学生ぐらいの体躯しかない高校生と平均的な女子高生を、十メートル近い高さで、海目掛けて。
「っうぇぇええええええええええっ!?」
「へ、わ、わぼぶっ!?」
晴海が悲鳴を上げ、花中は手足をパタパタ動かすがどうにもならない。二人の人間は放物線を描きながら着水し、立派な水飛沫を上げた。
浅瀬であったら打ち身どころでは済まなかっただろうが、浜辺からかなり遠い位置まで放り投げられた結果、二人が落ちた場所は足が着かないぐらいの深さがあった。お陰で怪我はなかった……怪我は、だが。
「ぷはっ! はっ、はっ、もう! いきなり投げるなんて……っと、大桐さん、大丈夫?」
「ぷふぁ。あ、は、はい……えと、泳ぎは、苦手ではないの、で……それより……」
「それより?」
「……泳いじゃいました、ね」
花中の一言で、晴海は顔を引き攣らせる。
放り投げられた花中と晴海が到達したのは、砂浜から二十メートルは離れた沖の方。フィアとミィからすればこれでも軽く投げたつもりなのだろうが、お陰ですっかり遠くに来てしまった。
これでは友達に海に投げ入れられた、と正直に証言しても誰が信じるものか。目撃された瞬間にテレビで取り上げられるような阿呆な若者と認定される。言い訳など聞き入れてもらえない。もらえたところで、更なる面倒が湧いてくるだけだ。
「いやー冷たくて気持ちいいねー」
頭を抱える花中達だったが、能天気な声がちゃぷちゃぷと音を鳴らしながら近付いてくる。自らの意思で泳ぎに入った加奈子だ。
「気持ちいいねーじゃないわよ! なんで跳び込んじゃってんのよ!」
「? だって暑いし」
「暑いのはあたしも同じだごるぁ!」
あまりにも自由気ままな加奈子に、ついに晴海がブチ切れた。が、当の加奈子は何処吹く風。むしろイタズラに気付いてもらえた子供のような、満面の笑みを浮かべる始末。
「うははー! にっげろー!」
「待ちなさい! 今日こそとっちめてやるんだから!」
ついに加奈子は逃げ出し、ばしゃばしゃと泳いだ。晴海も加奈子を追って泳ぎ出す。
……叱るのは結構だが、どう考えても釣られている。
「おやおや見事にはしゃいでいますね。口では強がっても本当は遊びたかったんですねぇ」
傍目には仲良く遊んでいるような姿なので、遅れてやってきたフィアがそう解釈するのも仕方ないだろう。
フィアは海面上に二本足で立ち、滑るように花中の下までやってきた。水着姿なのに浸からないのは、フィア自身は既に水中に居るからなのか。
なんにせよ、こうなった『元凶』に向けて花中はため息を吐いた。
「もぉー……海に投げるなんて……酷い」
「これでも安全には配慮しましたよ? ちゃんと深い場所まで届くよう適度に加減してましたから」
「それは、そうだって分かってるけど……むぅー」
ぷっくりと頬を膨らませ、花中は不満を露わにする。花中が怒っているのは、ルールを破る行為を無理強いされた事についてなのだから。
されどフィアは臆せず怯まず。
「そう怒っては可愛い顔が台無しですよいえ怒った顔が可愛くない訳ではありませんがともあれ折角の海なんですから楽しみましょう。そうですねこれで機嫌を直してはもらえませんか?」
パチン、とフィアが指を鳴らすと、海面が意志を持って動き出した。花中の身体はゴムボールのように海面ギリギリまで浮かび上がり、周りの海水が盛り上がって花中を包み込む。
毎度おなじみ、花中専用の水球だ。とはいえ今回は花中の身を守るために作った訳ではない事は、うねる水の暢気さから伝わってくる。
なんだろう? と花中が思っていると、フィアはその身を落ちるように海に沈める。花中を包んでいる水球も後を追うように海に沈む。
「――――ふわぁ……!」
そして花中は、感嘆の声を上げた。
砂と岩が入り混じる景色。陽光に照らされた水は、プランクトンがたくさんいるのかほんのり緑掛かって見えた。泳ぐ魚達は数こそ多いが、いずれも青っぽい体色の、あまり変わり映えのしない姿をしている。植物も海草と呼べる立派なものではなく、藻のようなものが岩を覆うように生えているだけ。甲殻類や軟体動物の姿もちらほらと見える。
それはお世辞にも、美しい世界ではない。テレビで持て囃される沖縄や南国の海のような、神秘的なものと比べればお粗末にも思えるだろう。
だけど、見渡す限りに命が広がっている。
脈動し、今を生き抜こうとする命の姿に、花中の胸は小さくない感動と喜楽を覚えた。
「んっふっふーどうです? この景色を人間だけの力で見るのは中々苦労すると思いますが?」
水球の傍で、腕組みをしながらフィアが誇らしげにしている。花中に出来るのは、こくこくと頷く事ばかり。
人がたくさん居たあの海水浴場では、このわくわくする景色は見られなかっただろう。潜ったところで、ゴミばかり見えたかも知れない。人の姿しかなかったかも知れない。安全さと引き換えに、人は、命の美しさを切り捨ててしまったのだから。
そう思うと、ルールを破った事への罪悪感が薄れるようで。
「ところで花中さん。沖の方には大きな魚がもっとたくさん泳いでいるようですが見に行きませんか?」
ましてやこんな誘惑染みた言葉を投げ掛けられたなら、魔が差してしまうに決まってるではないか。
「……フィアちゃん、ずるい」
「失敬な。人間がスーパーに試食コーナーを設けるのと同じ事をしたまでです」
なんとも庶民的な例えを持ち出した反論に、花中はくすりと笑みを零してしまう。
「ちゃんと、立花さん達の事は、見てくれてる?」
「ふふふこの私を少々見くびり過ぎではありませんか?
胸を張りながら、フィアは断言する。驕り高ぶりはあるが、自分の力に嘘は吐かないフィアの事。半径十キロを把握しているのは確かなのだろう。
分かっていた事ではあるが、実際に本人の口から聞くと安心感が違う。そして安心感は、誘惑への抵抗力を失わせる。
それに、よくよく考えるとこういう『人気のない場所』でもないとフィア達は羽を伸ばせない訳で。
「……もう。今回だけだからね? 次はちゃんと、海水浴場で泳ぐんだからっ」
「覚えておきましょう」
果たして本当に覚える気があるのか。いまいち確信の持てない軽い返事をするや、フィアは花中を連れて沖の方へと動き出す。
一番の友達と、二人きりでの海水浴。
背徳感がすっかり失せてしまった自分に嫌悪を覚えつつも、花中は頬が弛んでしまうのを抑えられなかった。
……………
………
…
一方、その頃砂浜では。
「なんやかんや、楽しんでいたみたいだけど?」
「楽しんでないわよ……もうっ」
浜まで戻ってきた晴海が、ミリオンと話をしていた。喪服という如何にも暑苦しい格好をしながら、ミリオンは砂の上で足を伸ばして座っており、ギラギラと降り注ぐ太陽光と砂からの反射光をもろに浴びていた。尤も、数千度の高熱を自在に操るミリオンにとって、炎天下の砂浜などぬるま湯ですらないだろうが。
対する晴海は海から上がらず、波打ち際で寝そべっていた。押し寄せる波が一定の間隔で晴海の背中に掛かり、日射しで火照る身体から熱を奪っていく。これなら炎天下でも十分に涼を楽しめるだろう。
そして残す一人――――加奈子は、砂浜の上で寝ていた。大の字で、うつ伏せで。おまけに波が届かない、陽光で熱々になった砂の上。
「あっぢぢぢぢぢぃ!?」
あまりの熱さに耐えきれず、悲鳴染みた叫びを上げるのは当然だった。跳び起きた加奈子は逃げるように海へとダイブ。危うく丸焼けになるところだった身体を冷ます。加奈子の顔に浮かんでいたのは、海水の冷たさからくる快楽ではなく、地獄から開放された安堵だった。
「うひぃあぁ……し、死ぬかと、思った……」
「意外と目覚めるのに時間が掛かったわね」
「全く。海で気絶するなんて……だから危ない場所で泳ぐのは反対なのよ」
「いや、晴ちゃんのせいだよね? 泳いでいる私を捕まえて、容赦なくチョークスリーパーかましてきたよね? 私覚えてるよ?」
「私の記憶にはないわね。大方白昼夢でも見てたんでしょ。もしくは走馬灯」
「流石にそれは酷くない?」
冷淡な晴海の答えに、加奈子もがっくりと肩を落とす。
二人のやり取りを見ていたミリオンは、くすくすとした笑いを隠しもしない。不機嫌そうな晴海の眼差しに睨まれても、ミリオンは笑うのを止めなかった。
「……何がおかしいのよ」
「あら、おかしくないところがあったなら教えてほしいぐらいなのだけど……まぁ、それは兎も角。これからどうするつもり?」
「どうするって、そりゃ此処で泳ぐ訳にもいかないから、さっきの海水浴場に戻るに決まってるじゃない」
「あの子を連れて?」
ミリオンはあっちを見ろとばかりに、とある方向を指差す。加奈子がその指先を追えば、見えてくるのはこの砂浜を囲う岩場の一画。
「ひゃっほぉー!」
そして、歓声を上げる一匹の猫だ。
岩場を獣よりも素早く駆けたミィは、なんの躊躇もなく岩の切っ先から跳び降りる。切っ先から海面までの高さは精々三メートル程度。だが海面から岩石の先がいくつか顔出ししており、無数の岩が浅瀬に転がっているのを示していた。もしも人間がミィを真似て跳び込んだなら、岩に全身を叩き付ける羽目になるだろう。大怪我で済めばむしろ幸運、下手をせずともあの世行きだ。
されどミィの身体は、『レールガン』や『地中貫通弾』すら弾き返す無敵のボディ。人間の身体とはひと味違う。
着水と同時に高さ五メートルはありそうな水柱が噴き上がり――――飛沫に混じって、無数の岩の欠片も飛び散った。数十トンにも及ぶ質量と砲弾すら跳ね返す強度で、着地地点の岩場を砕いたのだ。吹き飛ぶ岩石の量からして破壊は広範囲に及び、恐らく目に見える規模で地形が変わっている。
あたかも、爆弾でも撃ち込んだかのような光景。
「いやっほー!」
しかしミィはケロッとしていて、今度は水柱を噴き上がるほどの勢いで海から跳び出した。重過ぎて泳げないミィだが、足さえ着けば持ち前の出鱈目な脚力で動き回れる。ただの海水であれば、ミィにとって怖いものではないのだ。
なんであれ、ミィも存分に海を楽しんでいるようだ……人間には些かインパクトが強過ぎる形で。文字通り環境を破壊しながら。
「それで? 海水浴場に戻るんだっけ? みんなで」
そうした姿を指し示した上で、優雅に砂浜に居座るミリオンは改めて晴海に問う。
しばし言葉を濁らせていた晴海だったが、やがてため息一つ。うつ伏せから胡座を掻いた姿勢になり、それから沖の方へと倒れるようにして仰向けになる。
「……ふんっ。アンタ達と一緒じゃ海水浴場だと遊べそうにないし、今回だけは見逃してあげるわ」
ぽつりと零した晴海の言葉には、文面ほどの憤りは含まれていなかった。
「あら、良かったわぁ。あんな人だらけで海なんか見えやしない海水浴場なんて戻る気なかったから、これ以上ごねるならどうしようかって考えていたのよ」
「ごねるって酷い言われようね……言っとくけど、絶対安全だって信じているから許すのよ? そこんとこ分かってる?」
「それは私じゃなくてさかなちゃんに言ってちょうだい。まぁ、はなちゃんからも念押しされてるだろうし、心配ないとは思うけど」
「というか、許すなら私首締められ損じゃん」
「許す前にした自分の馬鹿さを恨みなさい」
晴海に一蹴され、加奈子はぷっくり頬を膨らませる。
が、直後に意地の悪い笑みを浮かべ、
「どっせぇーいっ!」
「ぐへっ!?」
不意に、加奈子は晴海のお腹目掛けて跳び込んだ。死ぬほどの痛みではないだろうが晴海は呻きを上げ、おまけに舞った水滴が晴海の顔を濡らす。
そそくさと起き上がり逃げる加奈子に晴海は怒りの表情を向け、同時にその口角を嬉しそうに上げた。
「この、やってくれたわねぇ!」
「へっへーん!」
笑顔で立ち上がった晴海は、加奈子の後を追い駆ける。最早晴海の目には、加奈子しか映っていないだろう。
一人砂浜に残されたミリオンは小さく息を吐く。尤も、彼女の浮かべる楽しそうな微笑みに不快感などない。
「……やれやれ。やっとゆっくり出来るわね」
むしろ安堵したように独りごちる。
背伸びをして、ミリオンは砂浜での佇まいを直す。今までだらしなく伸ばしていた足を折り畳み、一般に体育座りと呼ばれる座り方を取った。それからじっと、海を眺める。
浅瀬では晴海と加奈子が追い駆けっこ。岩場の方ではミィが何度も跳び込みをしていて、その度に水柱が生えている。遠洋では今頃花中とフィアが、優雅な水中散歩を楽しんでいる事だろう。
「全く、こんなに騒がしい海は初めてよ。ろくに落ち着けないじゃない」
ぼやく言葉は不満を語るが、ミリオンの表情から笑顔が消える事はない。
「……今年も、また一緒に海を見れたわね。今日は二人きりじゃないけど……うん。たまには、悪くないかもね」
そして波音に掻き消されるほどの小さな独り言を口ずさみながら、ミリオンは自らのお腹を撫でた。
傍には誰の姿もない。ミリオンは一人透き通った夏の日差しを浴びながら、静かに海を眺め続け――――
「ぎょわっ!?」
「うへぇ!?」
その鑑賞を、海からの叫びが妨げた。
叫びを上げたのは晴海達だ。転びそうにでもなったのだろうと、最初は気にも留めなかったミリオンだが……以降、晴海と加奈子の笑い声が途切れる。
微かな違和感と共にミリオンが視線を向けてみれば、二人とも海面をじっと見つめていた。顔を見るに、戸惑っている様子である。二人が戸惑っていようとミリオンにはどうでも良い話だが、彼女は『海』を眺めている。辛気臭いものがチラチラ視界に入るのは、あまり気分の良いものではない。
「……どーしたの? 何かあった?」
「んぇ? あ、あー、なんというか……気持ち悪くて」
「気持ち悪い?」
『環境改善』の一環として尋ねてみれば、加奈子からはそんな答えが。予想していなかった答えに微かな好奇心を抱き、ミリオンは加奈子達の周辺を凝視する。
見れば、答えはすぐに分かった。
魚の死骸が浮いていたのだ。無論此処は海なのだから、魚の死骸ぐらいはあるだろう。
しかしその死骸が、何百とあったなら?
――――そう、晴海達の周りには魚の死骸が無数に浮いていた。
魚の種類や大きさに統一感はない。十センチぐらいの個体が多いとか、青魚類が多いなどの傾向は見られるが、例外もちらほら見付かる。単純にこの辺りに生息する魚種の比率が、そのまま死骸の比率に反映されているだけだろう。つまりどの種類の魚も、万遍なく死んでいると言い換えられる。
どう楽観的に解釈しても、穏やかな事象とは言えない。ましてや悪い方に考えを向ければ……
「一旦、上がった方が良さそうね」
「う、うん……」
ミリオンに従い、晴海と加奈子は海から上がってくる。対してミリオンは立ち上がり、海へと近付く。
「さかなちゃん、聞こえるかしら? ちょっと話したいんだけど」
波打ち際まで歩み寄るとミリオンは海水に片手を浸し、大きめの声で話し掛けた。
一呼吸置いた後、海がうねる。にゅるりと海面が盛り上がり、二メートル近い大きさの『コブ』が出来た。やがてコブは形を変え、色を変えていく。
見る見る間に、海面上に立つフィアが現れた。尤も当人は遠い海の彼方。能力で水を遠隔操作し、ミリオン達の目の前に人型のそれを作り出したのだ。
【なんですかー私は花中さんとのデートで忙しいのですけど】
出来上がったフィアは不機嫌そうに尋ねてくる。作りが雑なのか、声が少しくぐもって聞こえた。ミリオンは声質には触れず、本題を切り出す。
「なんですかーじゃないわよ。状況、把握してるんでしょ。この死骸は何?」
【何と言われましてもねぇ。探知範囲内の海域で魚の生息密度が極端に低くなっている様子もありませんし泳いでいる魚は元気そのものですから水質汚染もないと思われます。大方海が荒れた際に死んだ奴等が流れ着いただけじゃないですか? 確か何日か前に台風が来ていたと思うのですけど】
「それがまとめて砂浜に流れ着いたと?」
【緩やかですけど海流はその砂浜に集中しているようですからね浮かんでいるゴミが少ないので気付いてないかも知れませんが。自然現象と偶然が重なっただけですよきっと】
投げやりな答えを返すフィアだったが、筋は通っている。海流云々に関しても、辺り一帯の水を支配下に置いたフィアが断じるのだ。間違いはあるまい。
何より本当に異常があったなら、
【納得してもらえましたか? それでは私は遊んでいますので大した用もないのに呼ばないでくださいね。一応死骸に関しては片付けておいてあげますから】
きっぱり連絡を拒むと、フィアはその形を崩して海水へと戻った。
それから海の一部に急速な、それでいて歪な流れが生じ、魚の死骸を遠洋へと運んでいく。フィアが言う『片付け』だろう。一分も経たずに、海から不浄な存在は一欠片も見えなくなった。
「だ、大丈夫、かな……」
「大丈夫、みたいだけど……」
死骸がなくなってすぐは、晴海と加奈子は海に戻るかどうか、迷う素振りを見せる。
しかし彼女達は今、真夏の太陽光をたっぷりと浴びていた。海から上がって五分も経っていないが、肌を湿らせていた海水は気化し、肌バリアはすっかり消失。過酷な紫外線が人間達を焼いていく。
それでいて『水生生物』自身から、水質については問題なしとのお墨付きを貰ってある。
「やっぱり我慢できーん!」
加奈子が堪えきれずに走り出し、晴海が後を追うのも時間の問題だった。
「……もう、私は保護者じゃないのに」
ようやく事態が一段落し、辟易したようにミリオンは独りごちる。それからすぐに先程まで座っていた場所に戻ろうと踵を返した。
が、ふとその足を止める。
しばし無言で、じっと、ミリオンは一点を見つめた。
「この前の台風で海が荒れたせい? どうかしらね……」
そしてぼそりと吐き捨ててから、歩みを再開する。
波打ち際の近く……波が届かず砂の乾いた、フィアの能力が及んでいない場所に一匹の青魚が打ち上げられていた。
売り物に出来そうなぐらい綺麗で、新鮮な魚の死骸が――――
尤も、それから何かが起こった訳でもない。
一時間ほどで海から戻ってきた花中達は、すっかりお腹を空かせていた。遊び始めた頃には十一時を過ぎていたので、一時間も遊べばお昼時である。食べ盛りの高校生達がお昼を我慢出来る筈もなく、遊びを一時中断。人間達は近くのお店でお弁当を買い、魚は浅瀬に棲み着いていたゴカイを乱獲し、ウイルスは周囲の気温が下がるほど大気中の熱を奪って、猫は一メートルはあるサメを捕獲する事で昼食を確保。みんなでお昼を楽しんだ。
そして食べたらすぐに遊びたくなり、加奈子が持ってきたビーチボールを使う事になって――――
「うきゅうぅぅ……」
三十分も経たないうちに、花中はすっかり伸びていた。
「……前々から思っていたけど、はなちゃん、少しは体力付けた方が良いわよ」
「きゅ、ぅぅ……」
砂浜に立てたパラソルの下、倒れ伏す花中の傍で語り掛けるのはミリオン。返事をしようとしたが、疲労困憊の身体は鳴き声しか出せずにいた。
波打ち際でのビーチバレーに、花中は僅か十数分で体力が枯れ果て、こうしてミリオンのところで一休みしている。
砂浜では今もミィと晴海、フィアと加奈子のチームでビーチバレーをしている。尤も人間は専ら逃げ惑うばかりで、ミィとフィアが能力を使って激戦を繰り広げていたが……ビニール製のボールが割れていないので、当たっても晴海達が怪我しないよう手加減はしているようだ。なんやかんや、みんな楽しそうである。
あの楽しさに参加出来ないのは、やはり寂しい。家に帰ったら筋トレをしようと花中は決意した。
ともあれ、それは帰ってからの話。今の花中に出来るのは全力でぐったりとし、一秒でも早く体力を回復させる事だけ。砂の上で手足を伸ばし、仰向けでじっとする。
……そうしていると、花中はうつらうつらとしてきた。
相変わらず気温は高いが、パラソルが作る日陰の下に居るのでそこまで地獄ではない。むしろ潮風が海水で冷やされた空気を運び、火照った身体を優しく撫でてくれる。正直かなり気持ちいい。
このままでは眠ってしまうだろう。それも悪くなさそうだが、しかし折角友達と遊びに来て眠りこけてしまうのは、勿体ないと感じてしまう。出来れば寝たくない。
「ミリオンさんは、泳がないの、ですか?」
そこで花中は、自分の傍に座るミリオンに話し掛ける事にした。
花中の傍に座るミリオンは、言葉を選ぶように沈黙を挟む。しばらくして開いた口から出てきたのは、穏やかな言葉だった。
「泳ぐのは好きじゃないのよね。この人、カナヅチだったから。なのに海が好きだなんて、怖いもの見たさなのかなんなのか……そういうところも可愛いと思うのだけど」
「? ……えっと、ミリオンさんの好きな人が、ですか?」
「ええ。だから海には入らないの。好きな人の嫌がる事はしたくないでしょ?」
同意を求めるように訊き返されたが、花中は納得するどころか却って戸惑ってしまう。
だって、今の言い方はまるで――――好きな人と、一緒に居るみたいではないか。
「……ミリオンさん、もしかして」
「ご名答。連れてきているわ。そうね、はなちゃんには特別に見せてあげる」
花中が思わず紡いだ言葉に、ミリオンは乙女らしい笑顔で答える。すると構えるように、自らの片腕を花中の前で掲げた。
そしてその腕が裂けて中身を露出した時、花中は言葉を失う。
ミリオンの腕の中には、二本の骨があった。
骨は見た目から、前腕部を構築する二本……
その正体を問い質すのは不粋だろう。ミリオンの事をよく知っているならば。
「……遺骨、ですか?」
「ええ。私の、一番大事なもの。普段はちゃんとした場所で保管しているのだけど、今日は海を見せたかったから、連れてきちゃった」
「……………」
人間の骨を目の当たりにし、花中はそれ以上口を開かない。
人の骨というのは、不気味なものだ。
それを連れ回すというのは、多くの人間からすればあまり気持ちのいい話ではないだろう。だからこそミリオンは今まで黙っていたのかも知れない。今この時、花中以外誰も居ない場所で話してくれたのは、ミリオンなりに花中を『信頼』した結果か。
でも、だったら行く前に話してくれても良かったじゃないか、という気持ちも花中にはある。大切な人の骨と聞いて、それでも気持ち悪がられると思われたのか。もしそうなら心外だ。単純に話し忘れていたとか、話さなくても問題ないと思われていたなら尚更である。
だから、という訳ではないが。
「ちょっと、意地悪な質問、しても良いですか?」
ふと込み上がってきた疑問を、花中はミリオンにぶつけてみる事にした。
「黙秘権があるのなら」
「じゃあ、それで……もしも、ですけど。わたしと、その遺骨のどちらかを、捨てないといけなく、なったら、どっちを、選びますか?」
「……意地悪というか、心外じゃない? はなちゃんなら答えは分かると思うのだけど」
「分かりますけど、わたしだって、答えが分かってるのに、今まで話して、もらえませんでした、し」
「意外と根に持つわね、この子……」
呆れたようなため息を吐きながら、ミリオンは肩を竦める。
「『この人』を選ぶに決まってるでしょ」
それから彼女は、分かりきっていた答えを返した。
今からもう二ヶ月も前。初めて出会ったあの日、花中はミリオンの想いを聞いた。思い出を忘れたくないという強い願い……だけどその言葉に、未来に進もうとする意思はなかった。常に過去を向いていて、過去だけを愛して、未来を拒んでいた。亡き人の願いすらも呪いと化す、強過ぎる愛によって。
彼女は死に囚われ、死を望んでいる。恐らく、この世の誰よりも。
その彼女が生者よりも遺骨を選ぶのは当然の事。だからこそ、生きた人間である花中はやるせなさを感じる。
「……そう、ですよね。あの、でも」
「花中さーんそろそろ元気になりましたかー?」
それでも口を開いたが、海からの声が続きを妨げる。
振り向けば、海辺でフィアが手を振っていた。花中が大好きなフィアの事。花中なしの空間が我慢出来なくなったのか。
十分程度とはいえ、休憩を挟んだので身体は大分楽になった。今ならまた遊べそうだ。
チラリと、花中はミリオンを一瞥。
「……わたし、戻りますね」
一言そう残して、花中はフィア達の下へと向かう事にした。手を振って自分を見送るミリオンから目を背けるように、花中は前を向き続けて小走りする。
言いたい事はあった。だけど、言う必要などない。
言ったところで彼女の答えが変わる訳もないのは、『分かりきっている』のだから。
太陽が海を
夏の高い太陽が沈みかけているのだ。時計を確認せずとも、それなりに遅い時間なのは間違いない。肌寒いというほどではないが気温も下がり、弱まった日差しでは身体が火照る事もない。
夕暮れに見惚れるのも悪くないが、人間達の体調を考えるとそろそろ引き際だろう。
「みんなー、そろそろ帰り支度をした方が良いわよー」
そう考えたミリオンは、海に向けて声を掛けた。
「え? ……うわ、もう陽が沈んでるじゃない」
「まだ遊び足りないのにぃ」
海に居た二人の人間、晴海と加奈子がミリオンの声に反応する。どうやら本当に遊ぶのに夢中で、夕暮れになっていると気付かなかったらしい。加奈子は予想通りだが晴海まで同じ反応とは。なんやかんやあの二人、似た者同士なのかも知れない。
名残惜しそうな仕草を見せつつも、晴海達は浜へと戻ってきた。気温は未だ三十度以上あるが、強烈な日射しはない。対して肌を覆う海水は容赦なく熱を奪い、人間達に、摩る動作を取らせていた。
「早く着替えちゃいなさい。風邪引くわよ」
「うーん、そうは言うけど、更衣室とかないし……海水浴場に戻らないと」
「こんな場所、誰も見ちゃいないわよ。もしくはさかなちゃんを待てば? あの子なら目隠し用の幕、張ってくれるわよ」
「んぇー? ミリきちはやってくれないの?」
加奈子からの問い掛けに、ミリオンは口を噤む。
確かに、ミリオンにもそれぐらいは出来る。微細な個体の集まりであるミリオンにとって、個室を作り上げるぐらい造作もない事だ。
……普段なら。
何分今日は、『好きな人』と一緒なのである。出来るだけ傍に居たいのが乙女心というものだ。そしてミリオンは無数の個体が集まって一つの存在として振る舞っているが、実のところ個々の意思は存在している。伝達脳波による知性の獲得は、個体レベルでの事象だからだ。普段は意識の統合をしているので自我などないも同然であり、『自身』の死すら気にしないのだが……こと恋に関しては割と自己主張する。
『好きな人』と見るための穴場を探すならまだしも、『どうでもいい人間』の更衣室を作るために『好きな人』から離れるなんて、誰が好き好んでやるものか。
「……今日はちょっと、無理ね」
「え? どうして? 体調とか悪いの?」
「うーん、体調が悪い訳じゃない、というか絶好調だから出来ないというか……どいつもこいつも『私』だから、離れたがらないのよねぇ」
「? どゆこと?」
ハッキリとしないミリオンの物言いに、加奈子は更に問い詰める。晴海も視線で関心を示し、答えを求める。
さて。彼女達は花中と同じように、『この人』を受け入れてくれるのか?
『この人』以外の人間に嫌われようが好かれようがどうでも良い事。しかし今後を思えば仲良くして損はない。花中は過去の言動から明かしても問題ないと判断したが、晴海や加奈子がどう反応するかはいまいち分からない。不確定要素に頼るほど切羽詰まった状況ではないのだから、選択は回避するのが得策か。
さて、それならどうやって誤魔化そうかとミリオンは考えを巡らせた
「た、だいま、戻りましたぁ~……」
ところ、疲れ切った声がミリオンの口を遮った。
「あら、はなちゃん。お帰り」
先程までの質問を無視するように、ミリオンは声の方へと振り返る。
そこには徒労感を漂わせる、花中とフィアとミィが居た。何故か、徒労感である。遊び疲れた様子ではない。しかもフィアやミィも、花中ほどではないが似たような状態だ。
楽しそうに疲れた姿を見せると思い込んでいたミリオンは、瞬きなど必要ない目をパチクリさせる。
「……どしたの? 確か、磯の方で生き物を見てくるって言ってたわよね? なんかあったの?」
「ええ、まぁ……カニが……」
「カニ?」
「……いえ、なんでもないです」
花中に誤魔化されたミリオンだったが、見る限り花中に外傷はない。実際なんでもなかったのだろう。あくまで、被害という意味では。
なら、追究する必要もあるまい。
「まぁ、良いわ。それよりさかなちゃん、ちょっと暗幕作ってくれない? みんな水着から着替えたいみたいだから」
「構いませんよ」
さらりと仕事をフィアに押し付け、フィアは特段気にもせず水を操って暗幕を作り出す。暗幕の囲いはかなり広さを取ってあり、三人ぐらいは余裕で入れるだろう。
余程疲れたのか、花中は真っ先に暗幕の中へと入る。続いて晴海と加奈子も暗幕の中へ。ミリオンが三人の荷物を暗幕の中へと届けると、するすると布が擦れる音が聞こえてきた。
人間達が着替え始めるのと共に、動物達も身形を変える。尤も、まともな着替え方など誰もしない。フィアは一瞬で水着姿から真夏に相応しい薄着のワンピースへと変化。ミィはちゃんと水着を脱いで、ちゃんと服を着る……瞬きよりも短い時間で。喪服姿を一切変えないミリオンが、一番まともに見える事だろう。
ほんの数秒で、人外達の着替えは終わり。人間達が出てくるまでガールズトークの時間だ。
「んー、楽しかったね! 海は広いから、あたしも泳ぎを楽しめるし!」
「あなた一秒たりとも泳いでないでしょう……楽しかった事には同意しますが。今日も花中さんは可愛かったですねぇ」
「楽しそうで何より。でも、この後の体力はちゃんと残しているのかしら?」
「この後?」
「なんかありましたっけ?」
「……あなた達、どんだけ海が楽しみだったのよ。普段ならそっちにも跳ねるぐらい喜ぶでしょうに」
首を傾げる二匹に、ミリオンは呆れ返る。
「この後はみんなでお泊まり会じゃない。きっと、海と同じぐらい盛り上がるわよ」
それから経験を感じさせる笑顔と共に、二匹の動物の期待を煽るのだった――――
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