母なる者2

 セミの鳴き声が響き、降り注ぐ陽光で草葉が眩い煌めきを放つ夏の日。自宅のリビングにて、花中はシャーペン片手にテーブル席に着いていた。

 テーブルの上にはノートと数学の教科書が開かれており、花中の目線はそれらに向けられている。教科書には五問の章末問題が記載され、全問を十分以内に解きなさいと指示していた。扇風機の風を受け、花中が身に着けている白いワンピースの裾がふわふわと揺れる。外では太陽が輝き、家の中をじっとしていても汗が滲む気温まで温めている。花中は暑さと涼しさを同時に感じながら黙々と問題を解き、五分ほどで全ての答えを導き出した。

 続いて念入りに見直しを行い、間違いや勘違い、飛ばしてしまった問題がない事を確かめる。一周するのにさして時間は掛からないが、それを何度も繰り返し、回答時間を使い切るまでやるのが花中のやり方。

 今回もしっかり時間を使いきってから、いそいそと教科書の巻末を開いて答えを確認する。

 ……全問正解。解説も読んだが、解き方や考え方も合っている。花中はホッと一息吐いた。

 それからチラリと、リビングの壁を見遣る。

 壁に掛けられているカレンダーが示す今日の日付は、八月第三週の水曜日。そして側にある時計が指している時刻は午前十時半。

 その時刻を見て花中が思ったのは、「ああ、一時間くらい勉強してたんだ」という暢気なものだった。

「はなちゃん、今日の予習は終わったのかしら?」

 花中が手を休めていたところ唐突に、ぽふんっ、と誰かが背中から抱き着いてきた。すっかり聞き慣れた声と身体の感触。小心者な花中でも、ちょっぴり驚いた後はふにゃりと頬が緩んでしまう。

 かれこれ二ヶ月以上一緒に暮らした同居人、ミリオンだ。もう一人の同居人であるフィアは今日の『食事』を探して外出中。ミィは今でも野良猫で、普段からこの家で暮らしている訳ではない。今この家には花中とミリオンしか居なかった。

「あ、ミリオンさん。えっと、もうちょっと、続けたい、です。国語が、まだ、なので」

「あらそう。ほんと、はなちゃんは真面目ねぇ……頑張ってね。私は向こうでテレビでも見てるわ」

 花中が説明するとミリオンは素直に離れ、リビングの隣の部屋である和室へと移動。ごろりと畳の上に寝転がり、テレビを点けた。尤も、平日昼間のテレビ番組など、バラエティぐらいしかやっていないが。

 穏やかな日常。友達と過ごす時間。どれもが楽しくて、幸せで、こんな日々が毎日続いてほしいと願ってしまう。

 だけど、もう長くは続かない。

 ……と重苦しく言ってみたが、要は八月と共に夏休みも終わるだけなのだが。残す夏休みは二週間。長いようで、油断していたらあっという間に過ぎ去ってしまう時間だ。とはいえ宿題は全て終え、予習復習も毎日しているので二学期に向けた準備は既に万端。花中は残す二週間を自由に使える状態である。

「そういえば、夏休みなのに何処にも出掛けなかったわねー」

 丁度そんな物思いに耽っていたところ、和室に居るミリオンのぼやきが耳に入ってきた。国語の教科書を開き、視線を手前の教本に向けながら、花中はミリオンのぼやきに答える。

「行きたかったの、ですか?」

「そうねぇ、行きたかったわね。具体的には海なんだけど」

「あー、確かに。今年の夏も、酷暑です、し、泳ぎたいですね」

「それもあるけど……あの人、海が好きだったから年に一回ぐらいは見せてあげたいのよね。ま、今じゃすっかり骨だから、完全に私の自己満足なんだけど」

「……………」

 骨になっている『あの人』となれば、ミリオンの想い人の事だろう。

 ちらりとミリオンの方を見れば、ミリオンの視線 ― と呼べるものがあるかは分からないが ― の先で点いているテレビに海の映像が映されていた。海洋投棄が云々という音声が聞こえるので明るい話題ではないようだが、海の話である事に違いはない。テレビを見ていて連想した、という事なのだろう。

 花中は少し考え込む。

 ミリオンが一番大事にしているのは、好きな人との思い出。その思い出を保つためには花中の生存が不可欠であり、故にミリオンは花中から離れたくない。ミリオンが海に行くには……絶対的な条件ではないものの……花中も同行する必要がある。

 残り少なくなってきたとはいえ、夏休みはまだある。先程回想していたように、宿題だって残っていない。これといった予定もなく、健康面も良好そのもの。妨げになる要因はない。花中が一言ぽつりと呟けば、海行きは決定するだろう。

 それでも口を噤んでしまうのは、八月頭の出来事――――クラスメートのお葬式が、未だ心に染み付いているからか。

 別に、遊びに出掛ける人を不謹慎だと罵るつもりはない。遺族どころか友人ですらなかったのに、まるで我が事のように苦しむ自分の方が変だと花中自身思っている。なのに心の奥にある言葉に出来ない感情が、楽しもうとする気持ちを邪魔してくる。所謂、性分というやつだ。

 勿論悲しみに囚われるのが良い事とは思えない。遺族の人達も一歩ずつ、ゆっくりとだが着実に立ち直ろうとしている筈だ。『周りの人』がへし折れたままでどうする。

 だから花中は静かに、閉じていた口を開き――――

 ピンポーンという軽快な音に、阻まれた。

 来客を知らせるインターホンの音だ。どうやら誰かが訪ねて来たらしい。

「……あ、す、すみません。えと、お客さん、来たみたいです、ね」

 出掛かっていた言葉を飲み込み、花中は来客の対応を優先。そそくさとリビングから出て玄関へと向かったところ、玄関戸の曇りガラス越しに人の姿が見えた。

 影の大きさや輪郭からして、訪問者はあまり大柄な体躯ではない。しかし一人ではなく、恐らく二人組だ。

 今日は来客の予定がないので、大方訪問販売か宗教関係の人だろう。一言断って退散してくれるなら良いのだが、押し売りや狂信者だったら……以前来た押し売りや宗教家は、フィアがこてんぱんにしたか。

 今日もミリオンが居るので、あまり怖がる必要もないだろう。鼓動する胸をそっと押さえながら、花中は小さな深呼吸を一回。

「今、開けまーすっ」

 出来るだけ大きくハッキリとした発音を意識しながら返事をし、花中は玄関のドアを開けた。

 そして花中は、そこでピタリと固まってしまう。

 尤も、嫌な固まり方ではない。訪ねてきたのが晴海と加奈子友達だとは思ってもいなかったので、嬉しさで一瞬頭が黄色に染まっただけである。

「あっ……立花さんに、小田さん?」

「久しぶり。あのお葬式以来だから、三週間ぶりね」

「やっほー。元気してたー?」

 晴海と加奈子の挨拶に、こくこくと頷きながら花中は友人達との再会を笑顔で喜ぶ。晴海は青いスカートに白いシャツ、そして白いカーディガンを羽織った可愛らしいファッションで身を固めている。加奈子は短パンに半袖と、カジュアルで活発的な服装がよく似合っていた。

 二人とも外行き用のちゃんとしたお洒落のようだ。対して花中は、外出予定がなかったので割とシンプルな部屋着。私生活がそのまま出ていて、見られるとちょっと恥ずかしい。笑われるとまでは思っていないが、花中は咄嗟に扉の影に身を隠してしまう。二人が来ると分かっていれば、もっとちゃんとした服を撰んだのだが……

 そう、来ると分かっていれば。

 記憶を辿ってみるも、今日晴海達が家を訪れるという連絡に心当たりはない。ノリと勢いを最優先する加奈子は兎も角、真面目な性格である晴海が相手の用事も訊かずに突撃訪問してくるのは、なんというか、らしくない。急用だとしても電話の一本ぐらいはありそうなのだが。

「えと……どうしたの、ですか?」

「んー、ちょっと二人で出掛けてて、たまたま近くを通ってね……で、コイツが突撃したから追ってきた。まぁ、用事があったのは確かなんだけど」

「そーです! 用事があるのだ!」

 疑問に思って訊いてみれば、晴海は申し訳なさそうに、加奈子は恥じる様子もなく答える。加奈子の暴走が原因だった訳だ。振り回された晴海が今にも爆発しそうな顔をしていたが……割と何時もの事なので、花中はあまり気にしなかった。

 ともあれ、二人が我が家に来てくれた事に変わりはない。幸いにして今は来客を拒む理由がなく、その『用事』とやらを尋ねるのを一時保留にしておく必要もない。

「分かりました。えと、中に、どうぞ」 

「悪いね。おじゃまします」

「おっじゃまんぼー」

 花中が招くと、晴海はそろそろと、加奈子は堂々と大桐家に上がる。案内するほど広くはないが、花中は二人をリビングまで連れて行く。

「あら、晴海ちゃんと小田ちゃんじゃない。どうしたの?」

 当然リビングの隣にある和室でくつろいでいたミリオンは、晴海達の来訪に気付いた。ひょっこりと顔を出して晴海と加奈子を出迎える。

「やっほーミリきちー。遊びに来たよー」

「違うでしょーが。大桐さんやミリオン達と話したい事があったから来たんでしょ」

「あら、私にも?」

 キョトンとするミリオンに、晴海は頷いて肯定した。

 花中とミリオンは互いに顔を見合わせつつ、とりあえずお客さん二人をリビングのテーブル席に座らせる。花中はジュースとお茶菓子を取りにキッチンへと向かい、ミリオンは晴海と加奈子の反対側の席に座った。

 四人分のジュースとお菓子を持ってきた花中は、自分と晴海と加奈子、そしてミリオンの前にそれを置く。ウィルスであるミリオンに味覚と嗅覚はないそうだが、誰かと一緒の食事を楽しむ心は持ち合わせている。彼女にもおもてなしは『必要』だ。

 お茶菓子を出し終え、花中は晴海の正面の席に座る。三人と一体はそれぞれジュースを一口含み、ホッと一息吐いた。

「えと、それで、話というのは?」

 それから花中は、友人二人に話を切り出す。

 花中の疑問に答えてくれたのは加奈子。ニコニコと、心底楽しそうに微笑みながらこう答える。

「ふっふっふー。実はみんなでどっかに行こうって思ってねー」

「どっか? ……って、何処、ですか?」

「どっかはどっか、まだ決まってない。でもさー、夏休みなのに友達同士でお出掛けしてないって寂しくない? 私達、花の女子高生なんだよー」

「はぁ……」

 随分と漠然とした理由だなぁ、と思わなくもない花中だったが、友達と遊ぶのに大した動機付けも必要あるまい。なんとなく遊びたいと思ったなら、なんとなくのまま実行出来てしまう。基本他人から提案されないと中々動けない花中にとって、自発的に行動出来る加奈子は尊敬の対象だ。

「なので大桐さんとミリきち、なんか行きたい場所とかないー?」

 ……本当に候補の一つも考えずに来る辺りも、流石は加奈子と言うべきか。評価の差し引きの結果、花中は加奈子に苦笑いを向ける。

「えっと、つまり、遊びに行く場所の、相談に来た……という事ですか?」

「そゆことー」

「ごめんね、コイツの暴走を止められなくて」

「いえ。その、わたしとしては、誘ってくれて、嬉しいです、から」

 申し訳なさそうな晴海に、花中は本心からの言葉を語る。友達と一緒にお出掛けという楽しそうな事を、どうして迷惑に思うというのか。

 さぁて何処ならみんなで楽しめるだろうかと、花中は天井を仰ぎながら早速考えようとし

「それなら人里離れた自然の中、とかどうかしら?」

 それよりも早く、ミリオンが晴海達に意見を出した。

「自然の中?」

「ええ。遊びに行くだけなら遊園地とか映画館とか銀座とか、いくらでも候補はある。でも折角の夏休みなんだし、季節を楽しめる場所にすべきだと思うのよね。で、そういう場所ってやっぱり自然の多い場所になるじゃない」

「ふむ、成程。確かにそうかも」

「じゃあ、自然がいっぱいなところだとして……山とか?」

 ミリオンの意見を元に、晴海が少し具体的な場所を示す。確かに夏の山の生き生きとした自然を眺めるのは楽しそうである。歩き疲れたらみんなで一休みし、木々や動物の息遣いを感じならみんなでお喋りをすれば良い……想像しただけで花中は胸が弾んだ。加奈子も目を煌めかせながら、良いじゃん良いじゃんと気軽に賛同している。

 ところがこの意見に異を唱えるように、首を横に振るモノがいた。アドバイスを出した当人であるミリオンだ。

「うーん、山はお勧め出来ないわね。勿論山登りは楽しいものだけど、準備に手間が掛かるわ。任意だけど警察に提出した方が良い書類もあるし」

「え? 書類とかあんの?」

「登山計画書ってやつよ。さっきも言った通り任意提出だから用意しなくても良いけど、出しておけば遭難時の捜索が容易になるわ」

「むむむ……それは、うーん、出した方が良さそうだけど」

「あと夜になるまでに下山しないといけないから、それを見越したスケジュール管理をしないとだし。近場の山に行くとしても、朝五時起きじゃないかしら」

「うっへ。無理無理だぁ」

 加奈子が弱音を吐きながらテーブルに突っ伏す。先程までの賛同ぶりは何処へ行ったのか、すっかり気が滅入ってしまったらしい。

 晴海も、同意の言葉は発しなかったが似たような気持ちなのだろう。

「……なら、海とかは?」

 少しばかり考えた後、ポツリと別の意見を出してきた。

「おぉー、海かぁ。海は、良いんじゃないかな」

「そうね。海なら特別な届け出も必要なかったと思うし、帰りが遅くなっても遭難の心配はないわね。それに、周りに食べ物屋とか宿泊所も多いし」

「あ! じゃあさじゃあさ、泊まりでやらない?」

「泊まり? ああ、それも良いわね」

 晴海の意見に、加奈子もミリオンも賛同する。花中も話を聞くうちに、山よりも海の方が良いものだと思えてきていた。

 それに、ミリオンも行きたがって――――

「……ミリオンさん。ひょっとして……」

「良いじゃない、たまには私のワガママを聞いてくれても」

 尋ねようとしたところ、言い切る前にミリオンは口先を尖らせながらあっさりと白状する。彼女は元々海に行きたがっていたので、話をそういう流れに持ち込みたかったのだろう。事情を知らない晴海と加奈子がキョトンとする前で、花中は肩を竦めた。

 しかし、だからどうという話でもない。海へ行くというのは至極普通の行楽であり、そこに否定する要素はないのだ。ミリオン自身が海に行こうと提案しても、花中は間違いなく賛同した。

 そもそも、花中はである。

「……そうですね。わたしも、海が良いと、思います」

 自分の気持ちを伝え、晴海の意見に賛同。賛成四で反対ゼロ。誰かの意見がひっくり返る訳もなし。

「よーし! それじゃあ海にけってーい!」

 加奈子の一言で、近日中の海行きが決定した。

 友達と一緒に海に行く。

 クラスメートの葬儀以来、曇り空のような気分が続いていた夏休みだったが……終わりが間近になって、ようやく晴れ間が見えた。自分の根暗さと立ち直りの悪さにはほとほと呆れ返るが、友達のお陰でやっと気持ちの切り換えが出来そうである。今では胸の中に、暖かな感情が噴き出していた。

 なんやかんや、花中自身が海に行くのを一番楽しみにしているかも知れない。

「っと、ちょっと長居し過ぎたか。あたしらはそろそろ帰るね。日程とか決まったら連絡するけど、何時ぐらいが良いとかある?」

「あ、えと……わたしは、何時でも。特に用事は、ないです」

「私も構わないわ。でも日程が決まったら早めに教えてほしいわね。身支度に時間が掛かりそうだし」

「もし明日の朝って言ったら?」

「とりあえず誰かさんの足を焼いて、時間を稼ごうかしら。全治一週間もあれば丁度良さそうね」

「だ、そうよ加奈子?」

「おっけー。それなりに余裕を持って決めるね」

 物騒な問答を和気あいあいと交わしながら、晴海と加奈子は荷物を片し、玄関へと向かう。見送りのため、花中とミリオンも二人と一緒に玄関へ。

 あくまで、海行きは予定でしかない。例えば台風とか、誰かが風邪を引いたり……考えたくないが身内の不幸があったりで、中止になるかも知れない。過度な期待をしても成功率は上がらず、万一のダメージが大きくなるだけだ。

 それでも、ワクワクが溢れ出るのが止められない。

「それじゃ、またね」

「はいっ。また、今度」

 玄関で別れを告げ、家路に付く晴海達を花中は最後まで見送る。二人の姿が見えなくなっても、花中はしばらく玄関から動かない。

 友達と作る夏らしい思い出。友達と一緒に行く遠出。

 何時までも暗闇に囚われていてはいけない。自分はまだ生きていて、周りには幸せを願ってくれる友達がたくさんいる。膝を抱えて蹲ってなんていられない。

 今は楽しもう。心から、全力で。

「海、楽しみですね」

「ええ。本当に」

 ミリオンと、正直な気持ちを交わし合う。

 久しぶりに感じる未来への『希望』に頬を緩ませながら、花中はミリオンと共にリビングへと戻っていった。







































【アメリカの首都ニューヨークで、大勢の人々が病院に運び込まれています! 原因は明らかになっていない中、SNSを介して広まったデマにより米軍基地が市民に襲撃されるなど、混迷は収まる気配がなく――――】

 和室で点けっぱなしになっていたテレビの音に、気付く事もなく……

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