亡き乙女に音色は届かない7

 学校に着いてから、花中はずっと考えていた。

 フィアの「妖精さん打倒宣言」により、やらなければならない事……妖精さんと友達になる……が増えてしまった。とはいえ、起こすべき行動自体は変わっていない。妖精さんに会い、話をする。当初からの目的である「フィアを傷付けたのはあなたなのか」「どうしてフィアを傷付けたのか」を問い質す。その後ろに「友達になる」を付け足すだけだ。

 そして目的のためにすべき事も変わっていない。拗れてしまった妖精さんと二階堂奏哉の仲を直す。奏哉に妖精さんとのパイプ役を頼むために、まずは妖精さんと奏哉のパイプを直すのだ。

 問題は、どうすれば恋人同士の仲を直せるのか、さっぱり分からない事。

 ミリオン曰く、妖精さんは奏哉から何かしらの言葉を引き出したいらしい。けれども友達出来た歴すらようやく二ヶ月、恐怖症に片足を突っ込むぐらい男性が苦手……おまけに初恋未経験。こんな有り様の花中に、恋する乙女の思考など全く読めない。おませな幼稚園児をアドバイザーに据えた方が間違いなくマシだ。

 いっそ晴海や加奈子に相談しようかとも思ったが、奏哉のプライベートな話でもあるので迂闊に言い触らすのも気が引ける。それに妖精さんが元凶と思われる『事故』が多発している以上、深入りさせる訳にもいかない。今の妖精さん陣営には、花中の身を守ろうとするモノは居ても、人間を守ろうとしてくれるモノは居ないのだから。

 やはり、一人で考えるしかない。

 突き付けられた現実に逃避したくなるが、立ち向かわなければ勝てる戦にも勝てない。花中は家を出た後の通学路で、休み時間で、午後の授業で延々と考え……

 結局何も思い浮かばないまま、放課後を迎えてしまったのだった。

「……はぁ」

 出てくるのは、小さくないため息。

 花中は今、閑静な住宅地を俯きながらトボトボと歩いている。夕刻とはいえ夏の日差しが降り注ぐ中なので、花中の顔は汗でしっとりと濡れていた。

 このまま家に帰って扇風機の前で涼みたいところだが、現在花中が向かっているのは家ではなく蛍川。そこで奏哉と待ち合わせの約束をしている。目的は妖精さんと仲直りするための方法を、一緒に考える事だ。

 だけど、花中はなんの案も思い付いていない。一緒に考えようと言いながら意見なしなど、まるっきるの役立たずだ。

 自虐の言葉が脳裏を過ぎる、と花中は頭を力いっぱい横に振った。

 ここで悲観に暮れても得られるものはない。

 川に行けば奏哉が居る。奏哉と妖精さんの接触により、何かが判明するかも知れない。恋を知らぬ身である自分が俯瞰する事で、奏哉が見落とした事実に気付ける可能性だってある。悲観するにはまだ早い。

 顔を上げれば、見慣れた交差点が見えた。右に曲がり、建ち並ぶ住宅に挟まれた一本道を進めば、蛍川とその奥に広がる雑木林を一望出来る土手が見えるようになる。目的地は間近なのだ。うじうじしている暇はもうない。

 意を決し、花中は待ち合わせ場所へと向かう。足は大股開き、腕は振り子のように大きく振る。そうやって歩けばあっという間、すぐに土手の側まで辿り着く。土手は住宅地を走る道路の横にあり、小高く盛られている。精々高さ数十センチだが、どうせなら登って辺りを一望したい。

 念のためスマホから時刻を確認。昨日約束した待ち合わせ時刻の十分前。丁度良い時間だ。

 もしかしたら自分よりも早く来ているかも知れない奏哉の姿を探そうと、花中は土手の上に駆け上がり、

 数メートル先の草地で、顔を地面に擦り付けるほど深々と土下座しているタキシードの姿を目の当たりにした。

「……………え?」

 数メートル先の草地で、顔を地面に擦り付けるほど深々と土下座しているタキシードの姿を目の当たりにした。

 あまりにも『アレ』な光景に思わず凝視したが、どれだけ注意深く観察しても、そうとしか見えなかった。

「妖精さん! この通りだっ! 僕が何かしてしまったなら謝るから!」

 呆気に取られていた花中の耳に、タキシード姿の人物の声が届く。昨日たっぷりと聞いたから、最早間違えようがない。

 奏哉だ。自分が今日、この瞬間、会う事を約束していた。

「(いや、待ち合わせ場所、此処じゃなかったような気がするなぁ。わたしったらうっかり待ち合わせ場所間違えちゃったかなぁ。時間だって十分も早いしなぁ)」

 ……間違えようはなくとも、認められるかどうかは別問題だが。

「なぁ! 聞こえているんだろう!? 姿を見せてくれなくても構わない! どんな形でも構わない!」

 花中が現実逃避をしている中、タキシード姿の若い男――――奏哉は雑木林に向けて呼び掛け続ける。必死に、何度も、心を込めて。

 それでも、雑木林からの『返答』はない。

「だけどそこに居るのなら、せめてそこに居る事を教えてくれ!」

 やがて奏哉は悲痛な叫びを上げた

 その、次の瞬間の出来事だった。

 土下座をしている奏哉の眼前で、小さな爆発が起きたのは。

「わ、うわぁ!?」

 突然の出来事に、奏哉は尻餅を撞く。

 爆発はポンッ! とポップコーンを作っているかのような軽い音しか出さず、起きた事象も土と草が舞い上がった程度。辺りには草が茂っているためどれぐらいの痕跡が地面に刻まれたかは、土手に居る花中からは見えない。ただ雰囲気からして、人命を脅かすほどの威力はなさそうだ。

 尤も直撃を受ければ、指ぐらいは吹き飛ぶだろうが。

「わ、わ、ひっ!」

 目の前で起きた『返答』の意味をようやく察し、奏哉は慌てて立ち上がる。と、まるでその時を待っていたかのように奏哉の足下で爆発が。規模は先程と同程度。

 ただし今度は一回で終わらず、二度、三度と続く。

「ちょ、止め、うわっ! わっ、わぁ!?」

 これには堪らず奏哉も逃げ出す。すると奏哉の後を追うように、ポンッ! ポンッ! と続けざまに地面が爆発した。

 受ければ指が吹き飛ぶかも知れない爆発。奏哉は不安定な草地をよろめきながら走る。お世辞にも速いとは言えない動きだったが、爆発は奏哉に追い付かない。

 いや、追い付かないと言うより……

 抱いたイメージが正しいかどうか。花中としては知りたかったが、その前に奏哉は花中の居る土手の辺りまで逃げてきた。すると爆発の連鎖は途絶え、追い駆けっこは終了。逃げ惑っていた奏哉は崩れ落ちるようにその場で倒れる。息は絶え絶え、ぐったりと倒れ伏す様はお世辞にもカッコいいとは言えない。

 当然、人に見られたい姿ではないだろう。

 ……とはいえ『約束』がある手前、そっとしておくという訳にもいかないので。

「あ、あの……」

「……え?」

 恐る恐る花中が声を掛けてみたところ、花中と目が合った奏哉の顔は熟れたリンゴのように赤く染まったのであった。




「い、いやー、恥ずかしいところを見られてしまったね」

 立ち上がれるぐらいには元気になった奏哉は、大きな声で話しながら、自らの頭をポリポリと掻いた。

 照れ隠しのつもりなのだろうが、こういう仕草は却って「恥ずかしい事をしました」と宣言しているようなもの。此処は蛍川近くの土手、の隣を走る住宅地側の道路。人気のあまりない場所ではあるが、時間が時間だけに買い物帰りの主婦ぐらいは通る。

 話し掛けられている花中としては、あまりそんな姿を他人に見せてほしくはない。

「あの……どうして、あのような、事を……?」

 話題を変えるように、花中は先の行動の真意を奏哉に問い質す。と、奏哉は花中から目を逸らした。逃げるように、ではなく、恥ずかしそうに。

「……妖精さんが居る筈だと思ったら、我慢出来なくて」

 それから出てきた答えは、あまりにも感情的なもの。

 彼の妖精さんに対する気持ちの大きさは伝わったが、花中にはそれが微笑ましい行動とは思えなかった。

「……お気持ちは、少しは、分かります。でも、その……もっと、考えた、方が、良いと、思います。いきなり、大声で、詰め寄られ、たら、わたしなら、怖くて、隠れちゃうと、お、思い、ます、し」

「うっ……それは、そうかも知れないが……」

 花中に窘められ、奏哉は唇を噛み締める。彼自身指摘されるまでもなく理解していたのだろう。だが、それでも自分が抑えられなかった、という事か。

 どうやら苦し紛れの言い訳だった、俯瞰の出来る自分が論理的に考察するという役目を果たすしかないらしい。

 そう思った花中は、早速自身の役割を果たすべく思考を巡らせた。

 ……まずは『類似の事例』を探る事から始めよう。過去の事象を解析し、そこから今回の事象で何が起きているのかを予想する。そうすれば、自然と解決の糸口が見えてくる筈だ。

「あの、今までに、今回と似たような、出来事は、ありません、でした、か?」

「……似たような?」

「はい。攻撃された、とか、姿を見せなくなった、とか……部分的に、で、良いんです。何か……」

「うーん、そう言われてもなぁ……」

 腕を組み、空を仰ぎながら奏哉は考え込む。しばらくはうんうんと唸るばかりだったが……不意に、その目を見開いた。それからぶつぶつと、何かを呟き始める。

 どうやら心当たりは浮かんだようだ。

「あの、何かありましたか?」

「……ああ。一つ、という訳じゃないけど、ちょっとね」

 花中が話を促してみたところ、奏哉は思い返すようにゆったりとした口振りで説明してくれた。

 ――――それは奏哉と妖精さんが出会ってから数ヶ月が経った、丁度今日のようなじっとりとした暑さを迎えた夏の日の出来事。

 妖精さんと出会ってから、奏哉は毎日のように妖精さんに自身が奏でる曲を聴かせていた。一流のバイオリニストを目指していたので、師匠でも友人でもない、観客としての意見を聞きたかったのもあるが……何より、好きな人に自分の曲を聴いて喜んでもらいたかったから。そのため奏でる曲は妖精さんのお気に入りばかり。更に妖精さんには特別お気に入りの曲があったので、その曲で演奏会の始まりを告げ、締めとしてまた演奏するのが一つの流れとなっていた。つまり、大体同じ内容の演奏会を何ヶ月もやっていた訳である。

 当然その夏の日も、何時も通り妖精さんの『お気に入り』から演奏を始めた。

 ところが妖精さんの反応は、何時もと異なっていた。

 演奏を聴いても笑顔を見せてくれない。それどころか不愉快そうに眉間に皺を寄せる。挙句苛立たしげに貧乏ゆすり。自分が何か失敗しているのかと不安になったが、理由が分からなくては対処しようがない。止め時も分からず、演奏を続けて――――

「そうしたらもうビックリしたよ。いきなりバイオリンが真っ二つに割れてさ」

「ま、ま、真っ二つ!?」

 事もなげにそう語られた奏哉の言葉に、花中は声をひっくり返してしまうほどに驚いた。

 だって、それは、まるで……妖精さんからの『攻撃』のようではないか。

「いやぁ、あの時は驚いたよ。それに初心者向けの安物とはいえ、思い入れのある一品だったから、結構ショックだったかな。で、まぁ、それからも大体今ぐらいの時期になると、好みがガラッと変わるんだ。毎年って訳じゃないけどね」

 花中を余所に、奏哉は懐かしむように話を続ける。そしてふと、花中の顔を覗き込んできた。

「こんな事だけど、何か、ヒントにはなったかな?」

 それから、期待の籠もった言葉で花中に問い掛けてくる。

 花中はすぐには答えない――――答えられないのではない。外界の情報を遮断し、最速で思考を巡らせていた。

 定期的に好みが変わる、なんて事があり得るのか?

 その問いに対する答えはYesだ。しかもそう珍しい事象ではない。それどころか人間にだってある。

 繁殖期だ。

 今までのライフスタイルが、繁殖期を境に一変する生物は珍しくない。例えばハチドリは普段花の蜜を主食にしているが、子育て中はタンパク質が必要になるため昆虫も捕獲するようになる。逆に繁殖にエネルギーを集中させるためか、カエルなどは獲物が目の前に居ても興味を示さなくなる。また食事に限らず、発情期を迎えた雌イヌが今まで無視していた雄に関心を持つようになったり、雄のゾウはホルモンの影響で非常に凶暴になったりのような、性格的な変化もある。人間の場合繁殖期はないが ― 正確には年がら年中発情しているようなものなのだが ― 生理中は気分が落ち込みやすいなどの不調を覚えやすい。生物は時期によって、自らの性質を大きく変えるものなのだ。

 妖精さんも繁殖期を迎えたのだとすれば、嗜好が一変するのも納得がいく。もしかすると変調した気分に振り回された結果、奏哉に暴力を振るってしまったのかも知れない。そうならば奏哉に過失はないし、妖精さんは奏哉を嫌っていない事になる。朗報と言えよう。

 ……あなたの恋人は繁殖期を迎えたのかもね、とはちょっと言い辛いが。恥ずかしい事ではないが、生々しいにもほどがある。証拠だってある訳ではない。諸々の理由から、花中は遠回しな表現で説明する事にした。

「そう、ですね。その、いきなり、好み、とか、気分が、変わる、事は、あり得ます。人間、というか、わたしなんか、にも、ありますし」

「な、なんだって!? それで、どうしたら良いんだい!?」

「え? えーっと……」

 ところが奏哉に思いっきり問い詰められてしまい、花中は言葉を詰まらせる。今の考えはあくまで推測だ。しかもなんの証拠もない、妄想レベルの品質である。妄想を元に推測しても、妄想を拗らせるのと変わりない。

 けれども奏哉の顔は、もうそれしか縋るものがないと言わんばかり。

「……こ、好みが、変わっている、かも、知れないので……その、印象を、変えるため、に……み、見た目を、変えてみる、とか……」

 あまりの気迫に押され、花中は割と適当な事を口走ってしまい。

「そうか! 成程、見た目を……良し! ちょっと待っていてくれ!」

 奏哉は嬉しさを滲ませながらそう言うや、何処かに向けて走り出してしまった。

 奏哉の突然の行動に、花中の思考は追いつけない。後を追うべきか、と思った時にはもう奏哉の姿は遠く、足が遅い花中ではどうにもならなくなっていた。

 結局、花中に出来るのは待つ事だけ。

 小川のせせらぎを聞きながら、人気のない住宅地にポツンと立ち尽くす事だけだった。

 そして――――

 ……………

 ………

 …

「こんな感じでどうだろう!?」

 一時間ほど経った頃にそう問われ、花中は何も言えなかった。

 花中の目の前に居る、一人の若い男。

 タキシードの上着を脱ぎ捨て、全てのボタンを外したワイシャツから覘かせるは意外と引き締まった胸板。髪型はボサボサと乱してあり、野生や暴力性を感じさせる。所謂ビジュアル系の風貌で、男の人が苦手な花中からすると、ちょっと粗野な感じがして怖い。

 例えその人物が、先程何処かに行って、今し方帰ってきた二階堂奏哉だとしても、だ。

「あ、あの、その恰好は……」

「昔、若い女性をターゲットにしたコンサートをした事があってね。その時主催者側のスタッフの要望で、こんな感じの格好をさせられたんだ。女性受けしやすいようにってね」

「は、はぁ」

「それでどうだろう? 少しはカッコ良くなれたかな」

 両腕を広げ自らの姿を見せつけるようにしながら、奏哉は改めて尋ねてくる。

 確かに、カッコ良くはなっただろう。元々奏哉は優しい顔立ちをしていて、物腰もバイオリニストらしく上品な……こう言っては難だが、あまり『男らしい』人物ではなかった。女々しいと言っても差し支えない。身形も自身の雰囲気に見合ったものをしていた。それらをごっそり男性的なモノへと変えたのだから、カッコ良くならない筈がない。

 しかし、それが好ましいかどうかは別問題。少なくとも花中的には怖くて近寄り難い存在となってしまっている。妖精さんにとってどうかは分からないが、一見他人に見える今の奏哉を果たして受け入れてくれるものなのか。

 とはいえ自分の一言が事の発端だけに、否定的な感想も言い辛いもので。

「……えと、その、ひ、人によって、は、た、大変、高い、評価を、出すかも……」

「そうか! 良し!」

 なので当たり障りのない、中身のないコメントをしたところ、奏哉は一気にテンションを上げてしまった。直後、バチンッ! と、気合いを入れるためか彼は力強く自らの頬を叩く。

「行ってくる!」

 それから清々しい笑みを浮かべ、言うが早いか奏哉は駆け足で自分達が居る住宅地側の道路から土手へ、土手を駆け下りて蛍川の前に広がる草むらへと向かってしまった。

 頬を叩く音に驚き呆気に取られていた花中だったが、奏哉が目の前から消えてハッとなる。遅れて自分も土手の方へと駆け寄り、ただし奏哉と違って降りはせず、隠れるようにしゃがみ込む。

「妖精さん! お願いだ、せめて姿だけでも見せてくれ!」

 一人蛍川のすぐ近く、雑木林の真っ正面まで突き進んだ奏哉は、堪えきれないとばかりに呼び掛け始めた。

 発する言葉は力強く。こめられた想いは痛々しく。

 ……だけも見た目がチャラチャラしているせいで、いまいち奏哉の言葉に真剣みを感じる事が出来ない。奏哉がふざけていない事は重々承知しているが、それでも尚、花中はそう思ってしまった。

 ましてや妖精さんはこちらの事情なんて知らない訳で。

 ――――蛍川から『青い煙』が沸き立つように現れた時、花中にはそれが好意的な事象とは思えなかった。

 煙と言ったが、オーロラのような光の帯にも見える。どちらかと言えば煙っぽい、というだけだ。いずれにせよ真っ当な自然現象ではない。間違いなく妖精さんからの返答である。ただし攻撃か警告かも分からない、不審さ満点の。

「よ、妖精さん!? これは一体!?」

 尤も、恋する奏哉は不安になるどころか、ワクワクしている様子だったが。彼は逃げるどころか後退りもせず、蛍川からやってきた青い煙に大人しく飲み込まれる。

 恋は盲目とはよく言ったものだと、花中は正直呆れてしまった。散々攻撃されたにも拘らず、未知の事象に奏哉はなんの危機感も抱いていない。いざ『何か』が起きたとしても、彼は咄嗟に動けないだろう。

 なら、その『何か』が起こるかどうかを見極めるのは自分しかいない。

 俯瞰者としての使命を果たそうと、花中は奏哉を包み込んだ青い煙をじっと見つめる。すると、異変はすぐにでも起こった。

 ただし、花中の身に。

「……寒い……?」

 最初は疑問に思う程度。

 やがて確証に変わった時、ぶるりと花中の身体が震えた。

 おかしい。確かに夕刻を迎えていくらか過ごしやすくなったが、それでもまだ空には夏の太陽が輝いている。先程まで日なたに居ると肌が焙られているような痛みを覚え、じわりじわりと汗が滲んでいた。ところが今は暑いどころか、明らかに寒い。それも真冬の屋外すら生温いほどの、身体の芯に氷を埋め込まれたような、内臓から冷やされるえげつない寒さだ。今も花中は日射しの下に居るにも関わらず。

 ひょっとすると、あの青い煙は冷気の類なのか?

 思えば図書館で調べた『事故』の中に、真夏に低体温症に陥ったというものがあった。成程、どうやら妖精さんに冷気を操る力があるのは間違いないらしい。

 問題は、青い煙は此処まで届いていないのに、花中が凍えるほどの寒さを感じている事。一体あの青い煙はどれほどの低温だというのか。まさかあの青色は、酸素が液化した結果色付いているとでも言うのか。

 そして、その青い煙に包まれた奏哉は……

「さ、ささささ寒い寒い寒いぃ!?」

 花中が思った通り、奏哉は寒さに音を上げていた。震える身体を両腕で抱き締め、雑木林に背を向けるや花中が居る土手の方まで駆けてくる。顔面蒼白で、花中のすぐ側まで来ると、力尽きるように倒れてしまった。

 奏哉が去ると、立ち込めていた青い煙は一瞬で消えた。同時に寒さが和らぐ。夏の日差しの暑さを、再び感じられるようになった。冷気の源は去ったのだ、奏哉の体調も回復に向かう……筈。

「あの……だ、大丈夫、ですか……?」

「あ、ああ……もう大丈夫だ……いやー、でも流石に今のは死ぬかと思ったよ」

 念のため体調を尋ねてみれば、奏哉は力こそ抜けていたが笑顔で受け答えしてくれた。死ぬかと思った、と言ったが、助けを求めるでもないので恐らくは軽いジョーク。真っ青な顔色も、段々と血色を取り戻している。どうやら救急車を呼ぶ必要はなさそうだと、安堵した花中は額の汗を拭い、

 ぐっしょりと、腕が濡れた。

「……………え?」

 何時の間に、こんな汗を? ……意識した途端、花中は自分の身に起きていた異変に気付く。

 全身から汗が噴き出ている。

 あまりにも大量の汗が噴き出て、全身が濡れ鼠のようになっていた。じょろじょろと腕を伝った汗が小さな川のように流れている。これは最早、身体が濡れて気持ち悪い、なんて悠長な事を言っている場合ではない。自覚症状はないが、これほどの汗を掻いたとすれば脱水状態に陥っている筈だ。急ぎ水分を補充する必要がある。

 いや、その前にこの汗を出来るだけ拭き取らねば。水は気化する時、大量の熱を周囲から奪い去る。そのメカニズムを利用して身体を冷ますのが汗なのだが、しかしこんなに濡れていては効果が大き過ぎる。例えるなら、プール上がりに身体を拭かずにいるような状態。最悪必要以上に体温を奪われた結果、に陥ってしまう可能性も――――

「(……何それ)」

 おかしい。筋が通らない。

 妖精さんが原因と思われる症状の一つが低体温症。自分が陥ろうとしているのも低体温症。結果は同じ。けれどもそこに至る過程が、考えていたものと全く異なっている。結果が全て? 何を愚かな。過程が間違っていては、その先を予測出来ない。何か酷い思い違いをしている気がする。根本的に何かを間違えているのではないか。一体何を何処でどうして何と浅く考えるな深く深くより深く疑うべきは一番根本の

「大桐さん?」

「っ!? っえ、あ、はい?」

 思考の海に漕ぎ出した花中の意識だったが、名前を呼ばれた事で現実へと引き戻された。あと少しで何か、真実とはいかずとも大きな足掛かりを見付けられそうな気がしたのだが……我に返った瞬間、集中力諸共霧散してしまった。今からうんうん唸っても、閃きは降りてきてくれそうにない。

 惜しく思うが、執着しても仕方ない。頭をぷるぷると振って気持ちをリセット。改めて奏哉と向き合う。

「えと、失礼、しました。何か?」

「いや、なんか汗が止まらなくて……君もかなり汗を掻いているようだし、飲み物でも買ってこようかと思って」

「あ……」

 そう言えば、と今更のように汗の事を思い出す。低体温症も怖いが、脱水症状だって怖い。見れば奏哉も洪水のように汗を掻いていた。このままでは二人揃ってダウンしてしまうかも知れない。

 汗は拭ってしまえばどうとでもなるが、水分は ― 蛍川の水は、色んな意味で危ないので ― 探しに行かねばなるまい。奏哉の意見に賛同した花中は「そう、ですね」と答え、何処かに自販機はないものかと辺りを見渡した

 途端、ボドン、ボドンと鈍い音が耳に届く。

「なんだ?」

 最初に反応したのは奏哉。物音に驚いて小さく跳び上がった花中も、遅れて音がした方へと振り返る。

 そこにあったのは、二本のペットボトルだった。

 奏哉よりも自分の方が近かったので、花中は恐る恐る近付いてみたところ、どちらも蓋が開けられていない新品だと判明した。中身はラベルを見る限り、スポーツドリンク。ミネラルを豊富に含んでおり、たくさん汗を流した身体に適した飲み物と言えよう。五百ミリリットルサイズなので量も十分だ。

 これ以上ないほど、今の花中達に必要な物である。

「(ちゃんと見張っている、と……)」

 妖精さん側に付いた、微細にして無数なる友人からの気遣い。無下にするものではあるまい。

「飲み物、ですね。丁度、良いですし、これ、飲みましょうか」

「えっ」

 あからさまに怪しい飲み物を勧められ、奏哉は顔を引き攣らせる。引き攣らせるが、花中が「安全は自分が保証する」とばかりに躊躇なく一方のペットボトルに口を付け、こくこくと喉を鳴らせば、すぐに恨めしそうな眼差しを向けてきた。なんやかんや彼の身体も乾いている。水分を欲してしまうのは本能だ。

 当然、独り占めするつもりなど毛頭ないので、花中はもう一本のペットボトルを差し出す。伸ばされた手が躊躇いがちなのは割と短い時間。一度掴んでしまえば我慢するのも馬鹿らしい。奏哉は蓋を開けると、ガブガブとペットボトルの中身を一気に飲み干した。見た目と相まって、実に男らしい飲みっぷりである。

 一先ず、これで脱水は避けられた。後は身体を冷やさないようにしつつ、発汗や寒波で疲労した身体を休めよう。一日休憩するつもりはないが、小休止は挟んだ方が良い。

 奏哉と共に土手に座り込んで、チビチビとスポーツドリンクを飲みながら、花中はしばしの間夏空の輝きと小川のせせらぎを楽しむ事にした。落ち着いて眺めれば、夏の自然のなんと美しい事。胸が弾み、何時までも飽きが来そうにない。

 ……隣に居た奏哉が貧乏ゆすりを始めたので、あまり長い間堪能は出来なかったが。

「……あの、二階堂さん」

「ん? なんだい?」

「いえ、その、足が……」

「足? ……あっ」

 指摘してみれば、奏哉は呆気に取られたような声を出した。それから慌てて、押さえ付けるように胡座を掻く自身の両足に手を置く。

 それでも、そわそわとした仕草は収まらない。

 あれだけ酷い目に遭ったのに、今にも蛍川の方へと飛び出しそう――――そんな奏哉の姿に花中はついため息を漏らしてしまうが、彼が忙しないのも仕方ないかという想いもあった。

 何分、残り時間は少ない。

 奏哉は、休暇をもらって日本に帰国している。話によればその期間は一週間。かれこれ日本に帰ってきてから二日が経ち、飛行機に搭乗する時間を考えれば、残りはあと四日ほどしかない。

 奏哉は全米コンサートを開けるほどのバイオリニストだ。その影響力は計り知れない。無断で帰国を遅らせれば大勢に迷惑が掛かるし、もしかすると大きな損害が生じ、訴訟沙汰になる可能性だってある。

 奏哉はアメリカに戻らねばならない。例え己の恋路が望んだ結果になろうとなるまいと、答えが出ようと出なかろうとも。

 彼が焦りを覚えるのは至極当然だ。

「……あの、焦っても、ダメだと、思います」

 だから花中は、奏哉を宥めようとした。

 花中からの言葉に、奏哉は目を点にする。

「……え?」

「た、確かに、あなたの、休暇は、もう、残り少ない、と、思います。気持ちが、急いてしまう、のも、分かります」

「……………」

「ですが、焦っても、良い、考えは、浮かばないと、思うの、です。だから――――」

 説得するように、奏哉を諭そうとする花中であったが、ふと気付いた。

 奏哉の顔が、キョトンとしている事に。

 まるで自覚がない、惚けた表情。言っている事の意味が分からないとでも言いたげなその顔に、花中の方が戸惑いを覚えてしまう。

 バイオリニストというのは、奏哉が長年追い求め、ようやく叶えた夢である。

 その夢が潰えてしまうかも知れないのに。

 その夢が妖精さんと自分を引き離そうとしているのに。

「そう言えば、そうだったなぁ」

 どうして奏哉は、この瞬間まで考えもしていなかったのか。

「そう、言えば……!?」

「確かに休暇の残りは少ない。でも、妖精さんと話が出来るまで帰るつもりなんてなかったからね」

「……!? ど、どうして!? だって、アメリカに、戻るのが、遅れたら……」

「……休暇のすぐ後に講演会の予定があるから、一日でも遅れたらたくさんの人に迷惑が掛かる。三日も遅れたら演奏会自体が中止になるかも知れない。そうなったら、僕にたくさんの訴訟がくるだろう。当然勝ち目はない。無断での渡米延期、悪いのは全部僕だからね」

「なら……!」

「でも、妖精さんに会えるのなら、全てを失っても構わない。いや、会えないまま終わるぐらいなら、何もかも終わってしまった方が良い」

 真っ直ぐに、躊躇いなく言い切る奏哉。

 強がりなんかではない。

 自棄になっている訳でもない。

「僕は、あの子の居ない楽園よりも、あの子と一緒に地獄を過ごしたいんだ」

 語られる全ての言葉が本心であると、花中は雷撃を浴びたかの如く衝撃によって理解してしまった。力をなくした身体を揺らめかせ、萎れるように花中は項垂れる。

 奏哉は、最初から妖精さんしか求めていない。栄光も、名誉も、必要ならば投げ捨てる覚悟がある……いや、覚悟すら必要ない。欲しいのはただ一つ。その一つを手に入れるためなのだから、迷うなんてあり得ない。

 そんな人の気持ちを、自分はどう考えていた?

 休暇が残り少ない? 訴訟があるかも?

 なんて即物的で、浅ましい考えなのだ。そしてこれは自分の中にある『恋』への価値観。きっとこうだろうと、知りもしないのに値踏みし、見下していたのだ。

 そんな人間に、恋の悩みなど解決出来る訳がない。全てを投げ捨てられるぐらい本気になった者が頭を抱える難問を、まともに向き合おうとすらしていない輩にどうして解けるのか。自分は俯瞰に徹すれば、何かが分かるかも? なんと傲慢な物言いか。

 『本気』にならなければ、この謎は決して解けない。

 奏哉の『本気』の言葉により、花中はそれを思い知らされた。

「……ごめんなさい。わたし、二階堂さんの、気持ちを……あなたが、どれだけ、真剣、なのか、何も、分かって、いませんでした……」

「大桐さん……?」

 謝る花中に、奏哉は戸惑いの言葉を投げ掛ける。当然だ。彼には花中の考えなど、分かりようもないのだから。

 それで良い。元より償いの気持ちなんてない。

 これは花中の、意地である。

 今まで本気になっていなかった自分への鬱憤を晴らすための!

「でも、今は違います! 完璧に、分かったとは、言えなくても……今までとは、違います、から!」

 そう宣言するや、花中は思考の海へと飛び込んだ。

 論理的ではダメだ。

 策というものは、相手の行動を先読みした上で仕掛ける。勿論特定の行動を取るよう仕向ける事はあるが、それとて結局は「きっと相手はこうするだろう」という前提……つまり、相手もまた想像可能な程度には論理的であるとものだ。故にまるで理解不能な思考の持ち主や、極端に感情的な人物は策をあっさりと破ってしまう事がある。

 奏哉が妖精さんに抱く想いは、花中には推し量る事さえ出来なかった。ならば、奏哉と恋をしていた妖精さんの気持ちもまた、予測不可能であろう。常識や論理に縛られてはいけない。もっと自由に、もっと感情的に、もっと不条理に考えるのだ。

 自分ならどうだ? 何をしてくれたら話を聞こうと思うようになる? どんなに怒っていても、話をついつい聞いてしまうようになるには――――

「そうだっ!」

「ど、どうしたんだい?」

 不審な行動の意図を尋ねてくる奏哉を花中は無視。それだけでなく自らの視線を、奏哉ではなく蛍川の方へと向ける。

 ただし無為に眺めている訳ではない。『記憶』を手繰り寄せ、少しずつ視線を動かしながら、頭の中に浮かんだ絵面と現実を重ね合わせている。

 やがて一つの、記憶と現実が等しい場所を見付けた。

 居るとすれば、あそこだ――――これで話が出来ると、ようやく花中は奏哉と向き合った。

「……二階堂さん、一つ、作戦を、思い付きました」

「なんだって!? それは一体!?」

「まず、妖精さんの、居場所、ですが……移動して、いなけれ、ば、あそこです」

 興奮する奏哉の前で花中が指差したのは、何もない場所。

 正確には、何もないように見える蛍川……の雑木林側に広がる、川岸の草むらだ。

「妖精さん、は、姿を、消せます。瞬間移動、と、考えるより……何らかの、『理由』で、わたし達から、見えなくなった……そう、考えるのが、自然だと、思います」

 妖精さんの正体がミュータントであるならば、その姿は原種のものこそが正しい。奏哉が見惚れた人間体は、フィアやミリオンと同じく能力によって用意したものだろう。つまり妖精さんの本来のサイズは不明であり、草むらに隠れられる程度である可能性は十分に ― むしろ生物種の大半が人間より小さい事を思えばまず間違いなく ― ある。

 そして奏哉を爆発で追い払ったり、蛍川から青い煙を出したり……妖精さんの攻撃は実に正確なものだった。見えていない相手にあそこまで正確な攻撃は出来ない筈である。かなり近くで、こちらの様子を窺っていたに違いない。

 組み立てた二つの推理。ここから妖精さんの居場所を予想したところ――――青い煙が出てきたように見えた、蛍川の周辺が怪しいと考えた。強烈な冷気を、遠距離で発生させられるとは思えない。煙の発生源であるあの一帯に『本体』が潜んでいる可能性が、最も高いという訳だ。

「な、成程……しかし、居場所は分かったけど、これからどうしたら……話をしようにも、妖精さんは答えてくれないし」

 説明を聞き、そわそわしながらも不安を滲ませる奏哉。

「それも、大丈夫、です!」

 そんな奏哉を、花中は胸を張りながら励ます。

「大好きな、人、に、ぎゅって、抱き締められたら、それだけで、怒ってた事、なんて、忘れちゃいます!」

 そして物怖じせず、断言してみせた。

 一瞬、奏哉はポカンとした表情を浮かべる。

 だけどすぐに、笑顔に変わった。

「ふ、ははっ! そっか、抱き締めたら忘れちゃうか」

「はいっ! えと、その、わたしの場合は、ですけど……それに、相手も、恋人じゃ、なくて、友達、だし……」

 言い切ってから、段々と花中の声から力が抜けていく。感情に身を任せた結果、抱き締めれば万事解決という結論に達したが、考えてみればそれは友達耐性が皆無な自分だからこその話。他の友人達は抱き着いてもみんな平然としていたし、友達と恋人は違うものだろうし……

 今更脳裏を過ぎる、数々の否定要素。自信をなくして俯く花中だったが、ふと、頭をくしゃくしゃと触られる感覚が。

 顔を上げれば、奏哉が自分の頭を撫でている姿が目に映った。

「うん、そうだね。好きな人に抱き締められたら、嫌な事なんて忘れてしまう。僕は妖精さんに抱き着かれた事はないけど、きっとそうなってしまうのは間違いない」

「二階堂さん……」

「大桐さん。抱き締めるには、どうしたら良いと思う?」

 奏哉に問われ、「と、とりあえず、雑木林側、の、草むらと、土を、抱き締める、感じに」と花中は答える。妖精さんが微細な生物……昆虫やキノコの類だった場合、土の中に隠れている可能性がある。そのため『大体その辺り』をごっそりと抱き寄せる必要があった。

 花中の意見を聞くや、力強く自らの頬を叩く奏哉。赤らんだ頬は自らの行為によるダメージの大きさを物語るが、しかし奏哉は、心底楽しげな笑みを浮かべる。

「偶には積極的になってみるか!」

 それから彼はなんの迷いもない、頼もしい足取りで駆け出した!

 行ってしまった奏哉を、花中は土手に留まったまま見守る。とはいえ、花中が居る土手から蛍川までたかが数メートル。歩いて一分も掛からない道のりなんて、大人が走ればすぐに終わってしまう。

 花中が教えた場所に跳び込むためだろう。川の側に辿り着くや奏哉は屈伸するかのように深々と膝を曲げて――――













 直後に起きた大爆発で吹っ飛ばされ、錐揉み回転しながら花中と正面衝突したのであった。













「はぁ……」

 綺麗な茜色の夕陽に照らされた住宅地を、花中は一人トボトボと歩く。

 結局、妖精さんは姿を見せてはくれなかった。

 何度奏哉がチャレンジしても、返ってくるのは熱烈な攻撃ばかり。余程怒っているのか、はたまた自分達の行いが神経を逆撫でしてしまったのか。爆発、寒波、大爆発……巻き込まれただけの花中ですら、結構痛い目に遭った。奏哉が致死的な怪我をしなかったのが不思議なぐらいだ。尤も体力と精神には多大な損耗があり、これ以上のチャレンジは困難と判断。先程解散という運びとなった。明日もまた蛍川に集合し、妖精さんに呼び掛ける予定である。

 つまり、なんの手立ても思い付かなかったけどなんかやらなきゃいけないという状況である。

 ハッキリ言って最悪だ。今日の活動で妖精さんとの関係が改善したようには思えない。なのに策がないからと、同じ事をして体力と気力と時間を無駄に消耗しようとしている。確かに感情を重視しようとは思ったが、思い付きで行動するのは違う。しかし代案を出そうにも、そのために必要な新しい情報が何もない。

 いや、情報自体はたくさん手に入ったのだが、それが花中の頭を余計に惑わすのだ。

「うぅ……なんなの、妖精さんってぇ……」

 ボソリと愚痴る花中の脳裏に浮かぶのは――――奏哉が妖精さんから受けた、数々の、そして圧倒的に多様な『攻撃』。

 妖精さんがミュータントであるとして、その正体を探るヒントになると思っていた『能力』。その『能力』があまりにも多彩過ぎる。その事自体は前日図書館で調べた時から分かっていたが、それらは言うならば伝聞であり、極論全て嘘だという可能性もゼロではなかった。更に言えばミュータントについて知らない『素人』の意見であり、誤認や思い込みによって元の事象から変性している事もあり得る。

 だから直に妖精さんの力を見れば、何か共通の事象を見付けられるのではと期待していたのだが……寒気を操り、爆発も起こす。そんな現象を起こせる『共通の方法』なんて、見当も付かなかった。その上奏哉曰く『その身に触れる事は出来ず』『炎を操り』『姿を自由に消せる』事も出来るという話。別にミュータントの能力に一個体につき一つだけなんてルールはないだろうが、いくらなんでも無節操過ぎやしないか?

「(そりゃ、フィアちゃんとかも結構めちゃくちゃな能力だけど……)」

 無二の友人であるフィアの場合、能力は『水を操る』事。彼女はそのシンプルな能力で、人の『身体』を作り、あたかも不死であるかのように振る舞い、途轍もない怪力を発揮し、弾丸のような攻撃を放ち、不可視の『糸』を繰り出すだけでなく、湿っている土地ならばマッピングも出来てしまう。おまけに魚だから匂いにも敏感。能力以外の得意技と合わさる事で、一見して『水を操る』だけでは説明が付かない振る舞いをする。

 ならば妖精さんも単に応用力に富むだけで、実際にはシンプルかつ、そこから種族を予想出来るような能力なのだろうか?

 ……何故か、そう思えない。

 蛍川で一瞬脳裏を過ぎった、あの『違和感』が残っているのだろうか。図書館で感じたものよりずっと強い、インチキに嵌められたようなムカムカとした感覚がさっきから胸中に渦巻いて――――

「……………あれ?」

 はたと気付いた時、花中は周りの景色に疑念を覚えた。尤もそう大した疑念ではない。答えもすぐに導き出せた。

 ただ、蛍川から家に帰る道のりでは、此処まで来る事はないというだけで。

 慌てて振り返った先で我が家を見付けた花中は、茹でダコのように顔を赤くした。いくら考え事をしていたとはいえ、自分の家を通り過ぎてしまうなんてあまりにも恥ずかしい。誰かに見られていたら、このまま町を一周しなければ家に戻れなかったかも知れない。

 顔を俯かせながら、花中は来た道をそそくさと戻る。逃げるように家の敷地に入ると、我を忘れて玄関のドアノブを掴む。

 そしてノブを回して扉を開け、

「……んん?」

 そこで、我に返った。

 玄関に鍵が掛かっていなかったのだ。

 自覚するほどに臆病な花中は、普段しつこいぐらいに戸締まりを確認する癖がある。今朝も学校に行く前に戸締まりの確認をした、筈だ。

 普通なら大いに慌てるべき状況。花中も一瞬血の気が引く……が、すぐに落ち着きを取り戻す。現在大桐家には、武装した強盗団すら瞬殺可能な魔物友達が留守番しているのだ。慌てる必要などない。

 記憶違いに、おかしいなぁ、と首を傾げながら花中は家に入る。と、今度はリビングの方から賑やかな音が聞こえるではないか。ピコピコとした、楽しげな音だ。

「(フィアちゃん、ゲームしてる……?)」

 朝、約束したのに……なんだか自分が軽んじられているような気がして、花中はむくれる。これは現場をしっかり抑え、叱らねばなるまい。静かに、ゆっくりとリビングの扉まで行き……

「こらぁー! ゲームしちゃダメって、言ったでしょーっ!」

 勢いよく扉を開けて、花中なりに大きな声でリビングの中を叱りつけた。

「ふにゃああっ!?」

 結果は思惑通りに進んだようで、リビングから驚き混じりの悲鳴が上がる。

 ただし、その悲鳴は魚のものではなく――――猫のものだったが。

「え!?」

 悲鳴に続き、花中もまた驚く。引き寄せられるように声がした方へと振り向けば、そこには『少女』の姿をした猫が。

 リビングに居たのは、野良ミュータントであるミィだった。庭に通じる窓から上半身だけを乗り出し、どういう訳か花中のノートパソコンを前にしている。

「え、かな、にゃ、にゃ、にゃにゃ、にゃ、あっ」

 そんなミィが花中の姿を見て慌てふためいていると、パソコンから物悲しい音楽が奏でられた。「ハイスコアがぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」と叫びを上げる辺り、どうやら玄関で聞こえていたゲーム音はパソコンのものだったようだ。

 いや、それよりも。

「み、ミィさん……? あの、なんで、うちに……?」

「え? あ、や、えと」

 わたわたと狼狽えるミィの口から出てきたのは、「あくまで息抜きで」とか、「これも人間を知るためで」とか、「一日一時間だし」とかとかとか。要するに、パソコンでゲームをやっていたらしい。恐らく無料のオンラインゲームやフラッシュゲームの類だろう。考えるに昨日図書館でインターネットを使ったところこの手のゲームに辿り着き、しかしセキュリティの問題でゲームがプレイ出来なかったので知り合いである花中の家のパソコンを使う事にした……と言ったところか。フィアやミリオンと違ってミィは案外人間的な体裁を気にする性質なので、家主不在の家に上がり込んでゲームをしていた事に罪悪感を覚えているのかも知れない。

 家に上がるのはこの際良しとしても、いくらなんでも人のパソコンを勝手に使うのは如何なものか。見られて恥ずかしいものは入っていないが、それでもやはりプライベートの塊を覗かれるのは気持ちの良い話ではない……ミリオンさんも使うしと、パスワードの書かれた紙をパソコン画面に張っておいた自分の過失もあるだろうが。

 それでも一応注意ぐらいはしておくべきかと花中は口を開き、

「あれ? フィアちゃん、は?」

 フィアの姿が何処にもないと、今頃になって気付いた。今朝の時点でそれなりに元気だったので、動ける程度には回復して家の中を闊歩しているのだろうか。

「……用があるって言って、ついさっき出掛けたよ」

 そう考えていた花中に、ミィは未だバツが悪そうな口振りでさらりと答えた。

 その一言で、花中の顔は一気に青ざめる。

 出掛けた? 一体何処に? 何をしに?

 考えるまでもない。フィアは怪我が治り次第、自分を傷付けた相手に『仕返し』をしにいくと言っていた。自分に何処までも正直で、自分の正しさを疑わない彼女が強がりや嘘を言ったとは思えない。出掛けるとしたら場所は蛍川、目的は妖精さんへの『仕返し』以外にない。

 だが、しかし、そんなのは

 いくらなんでも、生死を彷徨うほどの大怪我から一日かそこらで復帰出来る訳がないのだから。

「な、なんで!? だって、フィアちゃん、怪我をしていて……」

「怪我? ああ、それね。治った」

「治ったぁ!?」

 どう考えても一番あり得ない答えに、さしもの花中も声を荒らげる。普段らしからぬ花中の様子に、ミィは目を丸くしていた。

「えと、いや、治ったと言うより、治した、かな?」

 そして気圧されたかのように、ミィはオロオロしながら事の成り行きを話し始めた。

 曰く、パソコンを借りる条件としてフィアが提示したのは、『ある内容』をインターネットで検索する事。

 パソコンを使えるミィはその頼みを快諾し、早速フィアが指示した内容を検索。良さそうなサイトをフィアに見せ、フィアの次の指示を受けてまた検索をし……という流れを何度か繰り返した。そして最終的に、フィアはなんらかの『答え』を見付けたらしい。

 その時のフィアの顔ときたら、表情筋すらない魚顔のくせに邪悪そのものだったとか。しかしその顔はすぐに、これまた表情筋なんてないくせに苦々しいものへと変えた。どうしたんだと理由を尋ねると、今は怪我をしているので安静にしていないといけない、行きたい場所があるのに我慢しないといけないとの答えが返ってきた。

 なので、ミィは方法を教えた。ちょっとした、親切心で。

 ――――肉体には本来、大きな『制限』が掛かっている。

 その制限は肉体が自壊するのを防ぐためだったり、費用対効果を重視した結果である。制限を取り除けば、自身の筋肉の力で骨は折れ、平時よりも作業が進まないうちにバテてしまうだろう。しかし些か危険かつ非効率ではあるが、肉体が持つスペックを最大限に活用し、『不可能』を可能とする事も難しくない。花中ほどの虚弱でも、自家用車ぐらいならば持ち上げられるようになる。所謂火事場の馬鹿力というやつだ。

 怪我の回復にも同様の事が言える。エネルギー効率や体力消耗の観点から言えば、安静にしているのが一番だ。しかし制限を解けば、超常的なまでの回復力を手に入れられる。実際ミィはこの制限解除により、切り傷程度なら目視可能な速さで回復する事が出来るという。

 そして回復速度の制限は、血流量によって解除可能らしい。細胞に供給される酸素と栄養分の量を変える事で、生物の身体は、超常的な勢いで再生するようになると。

「いやー、でもまさかフィアに出来るとは思わなかったけどねー。いくら『能力』が水を操るでもさぁ」

 自分にとっても予想外だった。そう言わんとしてか、付け足されたミィの言葉に、花中は身体が芯から冷める想いをした。

 確かに花中は、フィアの能力が自身の血液にも及ぶ可能性を考慮した事がある。戦闘機のパイロットでも耐えられそうにない超加速の中でも平然としている事から、血液を操作し、細胞レベルで体組織全体を補強しているのではないかと。

 だが、それでミィの能力が再現可能だとは予期していなかった。完治までに数日は掛かるだろうと『期待』し、万一にも今日復帰する可能性など露ほどにも考えていなかった。ミュータントフィアは何時だって人間じぶんの想像を超えてきたというのに。

 今回の失敗は次の教訓とはなる。だけど今、この瞬間の役には立たない。

 もう手遅れだ。フィアと妖精さんの『喧嘩』を止める術はない――――

「(……いや、まだ諦めるには、早い!)」

 花中の意識は、まだ折れない。

 そうだ。まだフィアが『出発』したのが判明しただけ。まだ何も終わっていない。ここで諦めたら傍観しているようなものだ。一%の可能性が、本当に〇%になってしまう。

 それに、気になる点がある。

 フィアにとって妖精さんは、自分を殺しかけた相手である。フィアは花中と違ってどんな時でも自信に満ち溢れ、他人を見下しがちだが、それでいて一度見た相手の実力は過小評価しない。初対面ならいざ知らず、リベンジをする時は何時も彼女なりの秘策を引っ提げていた。今回も対策を一つぐらいは考えてある筈だ。それもミィに何かを調べさせた上で。

 恐らく、フィアは妖精さんの『能力』に何かしらの目星を付けている。

 その目星が正しいかは分からない。だが、違う目線からの考察は大きなヒントとなる。フィアが何を考えたのか、何を見てそう思ったのかが分かれば……!

「あ、あの、ミィさん! フィアちゃんが何を調べたか、その、まだ、覚えて、いますか!?」

「え? そりゃ、覚えてるけど。難なら履歴とか見てみる? まだ多分残ってるし」

 そう言うとミィは手慣れた様子でマウスを操作。それから花中に見せたパソコンの画面にはインターネットのブラウザ、そして検索履歴の一覧が表示されていた。

 花中はパソコンの画面を両手で掴むや、食い入るように凝視し――――

 そして、その瞳を動揺で揺らめかせた。

「花中?」

 花中の心のざわめきを察したのか、ミィが名前を呼んでくる。しかし花中は喘ぐように口を空回りさせるだけ。否、その空回りすらもミィには向いていない。意識は既に、思考の海に漕ぎ出していた。

 フィアがミィに頼んだと思われる検索履歴は、ほんの五つ程度。そこに真実を求めて迷走した様子はない。フィアの事だ、迷うぐらいなら直進あるのみと言わんばかりに、見えた光明を素直に信じていったのだろう。自身の思い込みや、勘違いの可能性などまるで考えずに。

 そうして進んだ道のりは、此度に限れば恐らく間違っていない。

「(嘘、そんな……でも、それならあの時のフィアちゃんがああ言ったのも納得出来る。あの時言おうとした事も。妖精さんの能力がめちゃくちゃなのだって説明出来るし、なんでわたし達が攻撃されたのかも……)」

 頭の中でピースが次々と嵌まっていく。不定形だったイメージが具現化し、立体的になっていく。頭の中でその立体をぐるんと回せば、その時何が起きていたのか、その全てが見えるようになった。さながら自ら舞台を組み立てた、劇作家が如く。

 それは奏哉と妖精さんの間で起きた事についても例外ではない。裏切ったミリオンから与えられたヒントである、妖精さんが求めている言葉の正体も今ならハッキリと分かる。

 これが、どれだけ悲しい話なのかも。

「……………」

 全てを伝えたなら、奏哉は何を思うのだろう。赤の他人である自分が伝えて良いのだろうか……悩もうとする頭を、花中は力いっぱい振りかぶる。

 悩むのは後だ。悩むのは未来があるからこそ出来る。しかしこのままでは、その未来が潰えてしまう。

 何しろ自分とフィアの予想が正しかった場合、妖精さんはフィアに勝てない。生物学的に、致命的なほど相性が悪過ぎる。妖精さんにはミリオンが付いているが、果たして守りきれるかどうか……

「み、ミィさん! その、わ、わたし、これから出掛けるので、留守番、お願いします!」

 花中は通学鞄を投げ捨てるや踵を返す。リビングを出ると玄関へと通じる短い廊下を駆け、辿り着いた玄関で履き慣れた靴の踵を踏み潰す。

 そして玄関の戸を体当たりするような勢いで開け――――

 目の前でミィが立っていたので、花中はそのまま駆け出す事が出来なかった。慌てて足を止め、つんのめりながらもどうにかぶつかるのは避ける。ホッと一息、吐けたのは僅かな時だけ。何時までも前から退かないミィに、花中は怪訝さと、困惑を覚える。

「え……あ、あの、ミィさん……?」

「あのさぁ、ふつーそこで留守番お願いしますって言う?」

 動揺を隠せない花中に、ミィは目を瞑り、呆れたように肩を竦めながら首を横に振る。

 だけど、ややあって目を開けたのと共に浮かべたのは優しい微笑みで。

「そーいう時は、どこそこまで連れてってって言うべきなんじゃない? ……急いでるんでしょ。乗せてってあげようか?」

 ミィからの質問に、花中は向日葵のような笑みを咲かせながら何度も頷くのだった――――

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