第三章 亡き乙女に音色は届かない

亡き乙女に音色は届かない1

 蒸し暑く、じっとりとした湿り気に満ちた夜だった。

 今夜は満月。雲一つない夜空で月は煌々と輝いていたが、それを眺めて楽しもうとする人の姿は何処にもない。何しろ今の時刻は深夜二時。起きているのは夜勤の仕事に励む人々と、昼夜が逆転した堕落人ぐらいなもの。いずれも外に出てくる事は滅多になく、町に人影はない。ましてや此処のような、昼間でも閑静な住宅地となれば尚更である。

 一応人間以外の動物達であれば、起きているものはそれなりに多い。しかし空を飛び交うコウモリ達の叫び声は人間には聞こえず、彼等の食料である虫の羽音は小さ過ぎて届かない。風に揺れて擦れ合う木の葉の音や、虫達の透き通った求愛の歌声は環境に溶け込んで意識を妨げはしないだろう。気に掛かるのは、コンクリートの道路にヒビを入れながら歩く黒猫の足音ぐらいだ。

 ただし今夜はそれらに加え、乾いた靴の慌ただしい音も混ざっていたが。

 靴音を鳴らしているのは一人の若い男だった。男はやや童顔の、二十代前半ぐらいの風体。背丈こそ並だが身体付きは華奢で、よろよろと走る姿に男性的な力強さはない。しかし顔に浮かべている爽やかな笑みには歳相応の若々しさがあり、活力に満ちていた。着込む黒いタキシードは真新しく、息を荒くしながら駆ける姿は青春の盛りを迎えているかのよう。手に持つバイオリンケースを大きく揺らす様も、乱暴と言うより若さを感じさせる。

 そんな彼が向かう先は住宅地の奥の奥……をも通り過ぎた場所。

 住宅地脇の道路を横切った先に、子供でも跳び下りるのに躊躇しない程度の低い土手があった。土手を下りたその先には平地が広がっている。道路脇に立っている街灯と満月に照らされ、一面に膝丈ほどに伸びた草が生い茂っている光景を見渡せる。その平地の数メートル先へと目を向ければ……雑木林の側を流れる、一本の小川を見付けられる事だろう。

 土手を下り、草むらを蹴り分け、青年は小川の下へと進む。小川の幅は一メートル程度か。住宅地から離れ過ぎていて街灯の明かりは届かず、月明かりだけではその正確な深さを測る事は出来ない。せせらぎの静かさから数十センチ程度と想像するのが限界だ。

 そして向こう岸の先は雑木林になっていたが、最早そこは月明かりすらも届かない深淵の世界。完全なる暗闇に閉ざされており、奥を覗き込む事は例え猫の目を持っていようと叶いそうになかった。

「はぁ……はぁ……」

 しかし小川の傍で立ち止まった青年は、息を整えながら林の暗闇を凝視する。ひたすらに、延々と見続け……

 やがて、その眼を大きく見開いた。

 一体、何時からそこに居たのか。木々の輪郭がうっすら見えるギリギリの境界線に、『彼女』は音もなく現れていた。

 彼女は焔を想起させるほどに紅く、長く伸びた髪を携えていた。百四十センチほどの小さな身体を木の陰に隠しながら、青年の方を覗き込んでいる。暗闇の中でも輝くように映える若葉色のワンピースを着ており、襟元にある白いリボンがとてもお洒落だ。服から覗かせている四肢は静脈が透けて見えるほど透き通り、輪郭はぼんやりと光を放って全身を幻想で彩っていた。

 そんなお伽噺のような姿でありながら、表情はなんの夢も感じさせない無感動一色。あどけない顔に、子供らしさは欠片も感じられない。青年を見つめる海よりも透き通った青い瞳は、なんの想いも抱いていないガラス玉のようだった。

「会えた……会いたかったよ、妖精さん!」

 尤も青年は少女の表情など気にも留めず、とても親しげに、情熱的な愛しさを隠さずに呼び掛けた。呼び掛けられた、妖精と言われた少女は音もなく歩き出し、木の陰から、雑木林の中から出てくる。少女もまた、小川のすぐ傍までやってきた。

 小川を挟み、少女と青年は向かい合う。どちらかが濡れる事を恐れず片足を前に出せば、それだけで二人の手を固く結ぶ事が出来るだろう。

 青年は間近まで来てくれた妖精さんを見て、うっとりとした微笑を浮かべた。

「妖精さん。約束、覚えてくれているかい?」

 青年は対岸で立ち止まる少女に声を掛けた後バイオリンケースを地面に置き、タキシードの内側に手を突っ込む。そこから取り出したのは、片手に収まるぐらい小さな純白の箱だった。

 箱を前にしても少女は表情一つ変えず、こてんと首を傾げる。動作だけで好奇を表す少女を見て、青年はゆっくりと純白の箱を開けて――――その中に納まっていた指輪を披露した。銀色のリングに、透明且つ強い煌めきを放つ宝石が付けられた、シンプルなデザインの指輪だ。

「覚えてくれているかい? 初めて君と出会った時に奏でた、あの曲の事を。あの曲は、向こうでも大きな評価を付けてもらえた。君と僕との思い出が、みんなの心を響かせる事が出来たんだ。他にも君との初めてのデートで披露した曲も、誕生日を知らなかった君を祝うために作った曲も、日本を旅立つ時君に送った曲も……全てが向こうで認めてもらえた。全ての曲が、君と出会えなければ書けなかった。君と過ごした日々が、僕を一人前の男にしてくれたんだ」

 青年は静かに瞼を閉じ、情熱的に語る。瞼の裏には思い出の景色が浮かんでいるのだろうか、時折懐かしんだ笑いが口から漏れ出ていた。

 対して、青年の言葉に耳を傾けている少女はくすりとも笑わない。

 むしろ感情がなかった筈の口元が、ほんの少し下がっているような……

 けれども幸せそうな青年は、少女のほんの僅かな変化に気付かず。

「一人前の男になったら迎えに行く。二年前に交わした約束を今、果たすよ……僕と、結婚してください!」

 力いっぱいの大声と共に指輪入りの箱を前へと突き出し、頼み込むように深々と頭を下げた。ぎゅっと、祈るように目を瞑りながら。

 故に、彼は見逃した。

 自分が頭を下げた瞬間、足下で流れている小川が煌めきを放った光景を――――尤も、気付いたところで何が変わる訳でもないだろう。

 刹那、川から噴き出すように巨大な火柱が現れるなど、きっと誰にも想像出来ないのだから。

「わ、うわぁ!?」

 突然の炎に驚き、青年は咄嗟に踏ん張る事も出来ずに尻餅を撞いてしまう。大切な指輪は転んだ拍子に川辺一面に生えている草むらの中に飛んでいってしまった。だが青年は指輪に目もくれず、ただただ唖然とした、困惑に染まった表情で焔の向こう側に居る少女を見つめるばかり。

「よ、妖精さん? どうして、そんな……も、もしかして怒って、熱っ!?」

 立ち上がり、慌てて妖精なる少女に近付こうとする青年だったが、奥行きは川幅一杯、横は十メートル以上にも渡って燃え盛る炎に阻まれて先に進めない。炎は青年の身長を易々と超えた高さまで燃え上がっており、熱を待った輝きは辺りを真夏の炎天下にも引けを取らないほど眩く周囲を照らしている。焙られた青年の身体はだらだらと汗を流し、近付けない、これ以上は無理だと悲鳴を上げていた。

「妖精さん……! お願いだ、話を……」

 それでも青年は一歩、燃え盛る炎に触れる事をも恐れず前へと進み、

 けれども少女はそっぽを向いてしまった、瞬間、その姿を消した……まるで、暗闇に溶けてしまったかのように。

「妖精、さん……なんで……」

 少女が消えるのと共に炎もまた一瞬にして消えたが、青年は川を渡らず、その場で崩れ落ちるように膝を付く。虚ろな眼差しで林の奥を見続ける。

 されど暗闇からはもう、何も現れない。

 後に残るのは風に揺られる無力な草の葉音と、青年を嘲笑うような虫の音だけだった――――

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